前編
王立公園の噴水広場は、十九世紀のイングラス王国の社交場として、広く開かれている。今日も、どこぞの令嬢が季節の花々で飾られた噴水を優雅に散歩したり、売店で買ってもらった子供がアイスクリームを落として泣きわめいたりしている。
そんな日常を、モーリス伯爵令嬢イブリンは散歩がてら、目を細めて見ていた。
「聞いているのか!?」
「え? 何の話でございましたっけ?」
地団駄を踏まんばかりに怒っているのは、イブリンの婚約者のキース・クラン侯爵令息である。何を思ったのか、散歩途中のイブリンの後を追いかけてきてまでして、意味不明に怒鳴りつけている。
その後ろには、クラン侯爵家のメイドであるリリーが控えている。
「だ・か・ら! 最近のリリーへの嫌がらせは目に余る!! 嫉妬からそのような行動に出るとは……。自分が情けないとは思わないのか!?」
イブリンは、冷静な顔でキースを見返した。
「『嫉妬』とは何のことでございますか?」
「いやだから、お前の気持ちは分かるが、僕にはお前よりも大事な人が……」
なぜだかキースは自分がイブリンに愛されていると、強く勘違いをしているのだ。
イブリンは心の中で「クソ面倒くさい」と思いながら、言い直した。
「私の認識では、嫉妬とは愛情が他に向くことにたいする妬みのことですが、私がキース様にそんな気持ちを持っているとでも? それともキース様の認識は違うのですか?」
ニコリと笑みを返せば、一瞬にして怒りで顔を赤らめるキース。
そんなキースを目の前にしても、イブリンの余裕は崩れない。
イブリンには前世の記憶がある。数年前に転んで頭を打ったときに思い出したのだ。そしてここは前世で読んだ恋愛小説の世界。意外とすんなりと受け入れられたのは、読んでいた小説の大半が異世界転生ものだったからだろう。
とはいっても、ここは勇者が無双する世界でも、魔王が侵略する世界でも、魔法が使える世界でもない。十九世紀のヨーロッパに比較的似た世界だ。
ストーリーは侯爵家の三男であるキースと、モーリス伯爵家に身を寄せる遠縁の娘リリーが身分の差や、イブリンの邪魔にもめげずに愛を育む恋愛小説である。
……そこは別にいい。
イブリンは、原作とは違いキースを愛してはいなかったからだ。
それも当然だろう。何が悲しくて、婚約者がいながら別の女を愛する男に惚れる必要があるのか。
イブリンがキースを愛さないため、それから先の内容が変わってしまった。
原作の中で、イブリンは嫉妬のあまり、リリーに毒を盛ったり、ならず者に誘拐を指示したりしていた。前世で普通の女性だった今のイブリンには、虫唾が走るほど嫌な行為だ。もちろん、そんな事をするつもりもない。原作ではいつもキースに助けられて間一髪で助かるのだが、危機がないのだから当然間一髪もない。二人は付き合っているようだが、極めて平穏な日々にいるはずだ。
(でも見せ場がないせいか、どうもキースったらアホの子に育っちゃったような気がするのよね……)
苦難は人を成長させる。キースにとっては、悪役令嬢イブリンは必要悪だったのだ。それがない今、キースは成長を止めてしまったようだ。
(でも油断は禁物。何がきっかけで原作通りに断罪されるか分からないんだから)
イブリンが警戒しているのは、原作の強制力、もしくは原作の補正力である。ここが原作のある世界である以上、原作の存在により、元のストーリー通りに進行させられる可能性があるからだ。
ちなみに原作通りだと、イブリンはキースによって罪が暴かれ、断罪される。そして直接的な描写はなかったが、罰を与えられ、自分が指示したならず者にさらわれて、どこかへ売られ、屈辱的な死を迎えるというような結末を迎えるのだ。
もちろん、そんな最期はごめんである。
イブリンは、念には念を入れて、この断罪を回避すべく行動していた。
記憶を取り戻したとき、すでに婚約はされていたから、どうしようもなかったが、キースとの接触は最低限に保った。そして何があってもリリーとは関わらないように細心の注意を払ってきた。
それなのにばらまかれる、不穏な噂。
社交界でのイブリンの評判は散々である。
「それで、どんな『嫌がらせ』があると?」
イブリンは本気で聞いていた。
あれだけ細心の注意を払って避けてきたのに、なんで私が何かしたと思っているのですか? と。
「はっ! なんと白々しい!! 自分でしたことが分からないのか!?」
「私は何もしておりませんので」
あまり表情の変わらないイブリンに、思うような揺さぶりをかけられなかったせいか、キースは舌打ちをした。するとキースの後ろから、少女が飛び出してきた。
「お願いです、イブリン様!! あの懐中時計は父の形見なんです! 他の嫌がらせは何でも耐えられます。でも、懐中時計だけは返していただけませんか」
「懐中時計……? あの?」
イブリンは呟いた。
確か原作でも、落ち込んだときにリリーはいつもあの懐中時計を眺めては死んだ父親を思い出して勇気を出していたものだ。
「やっぱりお前が盗ったのだな!?」
イブリンの様子を見ていたキースは、ここぞとばかりに責め立てた。
「だから! どうやって、クラン侯爵家を訪ねてもいない私が、クラン侯爵家在住のリリーさんの持ち物を盗むことができるというんですか?」
「……あれは、三日前の王宮でひらかれたパーティでのことです」
唐突に近い形で、リリーは語り始めた。
「私は、奥様の付き添いで何度かパーティに参加したことはあったものの、王宮のパーティは初めてでした。緊張していた私は、少しでも落ち着くために父の形見を身に着けてパーティに参加し、時折、その形見の懐中時計をぎゅっと握り締めては、侯爵家の評判を落とさぬように気持ちを落ち着かせていたのです」
確かに三日前、キースは王宮のパーティに参加していた。もちろんイブリンもである。普通は婚約者は連れ立って入場するものだが、イブリンとキースはバラバラに入場した。そんなことは、いつものことである。
ちなみにその時のキースの付き添いメイドはリリーだった。普通は同性の使用人を連れてくるものだから、キースの行動は噂好きの令嬢たちの目を引いてしまったようだ。その後対応でイブリンは、非常に迷惑した。
「そんな時でした。懐中時計を握り締めている時に、ある令嬢がぶつかってきたんです。令嬢のドレスも、私のメイド服もお酒でびしょ濡れになりました。おかげで、王宮の衣裳部屋で着替えたのですが……」
その話も覚えている。少し酔った令嬢が千鳥足でリリーにぶつかったのを。そしてリリーの言う通り、王宮の衣裳部屋に連れていかれたリリーはメイド服ではなく、ドレスを着ていた。まるで令嬢のように。王宮の衣装係が令嬢とリリーを間違えたのだというけれど……それが本当かどうかは分からない。
「ドレスに着替えた私は、キース様と踊って、夢のような時間を過ごしました」
思い出してうっとりとした顔をするリリーとキース。イブリンとしては、もうこうなったら婚約破棄でいいんじゃね? 迷惑が一周回って、むしろ清々しい気分にさえなっていた。
「けれど、クラン侯爵家に戻ってから、気が付いたんです」
「懐中時計がなくなったのね?」
リリーはコクリと頷いた。
「王宮に忘れただけなんじゃないの?」
「それはない。王宮ではもう捜索したが、見つからなかった」
「だからといって、私を疑うのはなんでなのかしら?」
「そ、それは……」
リリーはキースをチラリと見上げる。すると、ここぞとばかりにキースが前に出た。
「僕が見たからだ!」
「見た? 何を?」
「お前はドレスを着たリリーを恐ろしい顔で睨んでいたのに、僕が見た瞬間に自分のバッグに何かをしまって嬉しそうにニタリと笑った!」
(はて? いったいなんの話かしら?)
よくよく思い出してみると、もう二人の事は考えるのをやめたと、気が緩んだイブリンは王宮のパーティで一度だけ自分のバッグを触った。パーティでは食事は出るが、女性はコルセットでぎゅうぎゅうに締め付けられているため、食べ物が胃に収まることはない。それで、空腹を紛らわせるために、キャンディーをバッグに入れている事がよくあるのだ。多分キースが見たのは、そのキャンディーを食べるところなのだろう。
「……他には?」
「それだけだ」
(なにそれ。たったそれだけのことで、私を疑うの?)
イブリンは頭を押さえた。
「あれはバッグにあるキャンディーを食べていただけよ。お腹が減っていたの。だから、甘い物を食べれば笑いもするでしょうよ」
「そんな馬鹿な話が通用するか! パーティには山ほど食べ物があったではないか! それなのに、わざわざバッグのキャンディーを食べるだと!! 嘘も大概にした方がいい。みな、呆れているぞ!!」
そう言って、キースは腕を広げて集まりだした野次馬は自分の味方だと言わんばかりに、人々にニッと笑った。
でも、ここは公園とはいえ、集まるのは貴族ばかり。何人かの男性は首を傾げているが、多くの女性はキッとキースを睨み付けている。中には自分の子供の目を覆い、「見るんじゃありません!」と、まるでキースを汚物扱いだ。それだけパーティのごちそうを前にして、コルセットのせいで食べられない恨みは強いのだ。
(落ち着くのよ、落ち着いて、私。キースには、どんなに正しいことを言っても無駄だわ)
笑っていたから疑ったなどという、とんでも理論で疑いを持つ男に何を言っても無駄なのだ。
「私ではお役に立てないわ」
きっぱりと言ったイブリンは、話はもうたくさんだとばかりにキースに背を向けた。
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