第七話 公団住宅の少年 其の七
公団住宅の少年 其の七
刀となった白風丸を握りしめたクレマチスは、飛び出した勢いのまま二人の間に割って入ると、すぐさま少年の持っていたカッターナイフを蹴り飛ばし、更に、神通力による突風を練成して、少年本体をも吹き飛ばした。
これは【悪意】の影響を、篠垣咲子が受けぬようにとクレマチスが配慮した結果である。
その為、十数メートル先にまで吹き飛ばされた少年は、何が起こったのか分からぬままに、地面を転がる事となった。
無理矢理に二人の間を引き離したクレマチスは、次いで邪魔をされぬようにと「パチン」指を鳴らして篠垣咲子に催眠を掛ける。
と、倒れ行く篠垣咲子には目もくれず、即座に、呻いていた少年との間合いを詰め直したかと思うと、今度は十字を描くように素早く刀を振り抜いて見せた。
その瞬間、少年に纏わりついていた繭が切り裂かれ風に流れて消えていく。
刃を受けた少年に痕はない。
さすがは――と言うべきであろう。クレマチスは紙一重で繭のみを切り裂いたのであった。
しかし、これほどまでにクレマチスが強引に事を進めているのは、残された神通力が心許ない所為であった。はっきりとした数値では言い表せないが、それでも、一気に仕留めなければいつ限界が来てもおかしくはないと、クレマチスは感じ取っていたのである。
最後まで神通力が保ってくれるかどうか?
その事が、クレマチスにとっての気掛かりであり、勝負の分かれ目であった。
少年の繭を切り裂いたクレマチスは、すかさず後方に飛び退くと、刀を水平に構え、気合を入れた。
「はぁっ!!」
それと同時に、眼前に構えられた刀身から、眩い光が溢れ出す。
その光を浴びた少年は、もがき苦しみ地面をのた打つ。
目から、耳から、口から、靄を吐き出して、苦しみの内にのた打ち回る。
靄をすべて吐き出すと、少年は、そのまま意識を失った。
吐き出された靄は人の形へと集まっていく。
クレマチスは、その場で腰溜めに刀を構え直すと、細く長く息を吐きながら、身を低くして靄を見据えた。まるで居合の達人が技を繰り出す前に見せる、そんな張り詰めた構えをクレマチスは取ってみせると、一瞬、息を止めてから、
「――光刃疾風斬」
静かに技名を口にした後、人型と成った靄に切り込んでいった――。
――かに思えた。
ここで限界が来た。
踏み込んだはずの足が力を失い、勢いに耐え切れず体勢を崩した。
靄へと向かうはずだった鋭い太刀筋が方向を変えてズレて行く。
――くっ!!
クレマチスは、焦りを表わす様に声を漏らすと、体勢を崩した状態でありながらも刃を振り抜いてみせた。
届け! と願わんばかりに、腕と身体が無理矢理に引き伸ばされる。
が、やはり、無理な体勢で振り抜かれた刃は僅かに靄には届かず、クレマチスは、雪崩れるように地面に突っ込む事となった。
その隙に乗じて、靄は頭上へと逃れていく。
受け身の取れなかった身体がすぐさま痛みを訴え、呼吸を阻害する。
それでも尚、逃れた靄を目で追い睨むクレマチス。と、顔を持たないはずの靄に顔が表れ、表情を象っているように見えた。
シミュラクル現象、或いは、パレイドリア現象である事には違い無いのだが、この時のクレマチスには「ニタリ」靄が笑ったように見えたのであった。
――まさか、もう成長しているの?
そう思った瞬間、クレマチスの脳裏に最悪の結果が思い浮かんだ。
ここまで成長が早いとなると、おそらくこいつは『広範囲型』の【悪意】に違いない。少年に纏わりついた『繭』の速さから考えてみても、やはりアカデミーで教わった特徴と合致している。成長速度に特化した『広範囲型』の【悪意】は、個の能力こそ拙いものの、その増殖力は極めて驚異的だ。今ここで対処しなければ、緊急警戒配備を申請した所で潰しきれないかもしれない。こんなヤツを逃してしまったら、半世紀ほど前の時代と同じく、この区域を争いの元凶に変えた後、混沌へと引きずり込んでしまうだろう。
その中で【特主体】なんて発現してしまったら、それこそ最悪の歴史が繰り返される事に――。
――これはマズい!
その想像にクレマチスは恐れも感じると、自らを鼓舞せんが為に叱咤した。
ダメだ、倒れてる場合じゃない! 動け、動け、動け、動け、私は『色付き』なんだ! 『茶翼』のクレマチスなんだ! 『茶翼』の称号は、単なる見栄えの為なんかじゃない! 強き能力を持つ者の、証たる称号だ! これしきの事で挫ける訳には行かない。今ここで私がやらなければ、せっかく育ったこの文明が、また、消える事になってしまうんだ。そんな事、決して許してなるものか!!
クレマチスは、なけなしの神通力を絞りに絞って絞り切ると、刀である白風丸を支えとし、ゆっくりとではあるが、立ち上がった。
息は絶え絶え、意識も朦朧となり始めていた。
睨んでいた【悪意】でさえも、霞んで焦点が合わなくなってきていた。
今、クレマチスを立たせたのは、『色付き』としての意地と根性が見せた、残りカスのようなモノでしかなかった。
現況、本能だけで逃げようとする【悪意】は、アカデミーで教わった通り、トンボや蝶と同じく上へと逃げる習性を見せていた。その能力の拙さから、未だ公団住宅の屋上くらいの高さではあるが、立ち上がるのがやっとなクレマチスには、安易に届く高さでは無くなっていた。
――かくなる上は。
クレマチスは意を決すると、その背中に、鷹の如き翼を広げた。
雄々しく広がったその翼は『茶翼』の称号に相応しく、夕闇に沈むこの景色の中にあっても、はっきりと色濃く見える程であった。
【悪意】は、まだ上へと昇って行く。
空に出来た闇へと紛れるように、どんどんと昇って行く。
――早く仕留めなければ。
この時、クレマチスは無意識に息を呑んだ。
何故ならば、神通力を絞り切ったこの身体で飛び上がる事が、どれほど危険な行為であるか考えずとも分かっていたからだ。
神通力が尽きたとたん、クレマチスは、その高さから落ちる事となる。
いくら【天使】と雖も、高所から落ちれば無事では済まない。命を失う事だってある。
それでも「飛ぶしかない」と、クレマチスは覚悟を決めた。
【悪意】を取り逃がすくらいなら、この身を犠牲にしてでも刺し違えるべき。それこそが【神】から与えられた【天使】としての役割だ。
今、無意識に息を呑んだのは、その覚悟の表れからであった。
しかし、一方の白風丸は、そんなクレマチスの息を呑む行為に敏感に反応すると、即座にネズミの姿に戻り、
「姐さん、これ以上はアカン、ストップや! マジで死んでまいまっせ!」
と、クレマチスの思いとは裏腹に、引き留めに掛かったのであった。
支えを失ったクレマチスは崩れるように膝を着く。
が、尚、手を着いて身体を支えると、白風丸に訴える。
「そ……それが何よ。今、ここで【悪意】を取り逃がすくらいなら、それこそ死んだ方が、マシじゃない」
まだ気丈に振舞おうとしている。
とは言え、クレマチスの吐いた言葉からは、明らかに生気の薄れが感じられた。きっと本人は話すのさえやっとな状態であるはずだ。
その事を再認識した白風丸は、頑として説得を試みる。
「死ぬ必要なんてありまへん。ちゃんと緊急警戒配備を申請して、統括本部から応援を貰たら、いくらでも対処可能ですって。姐さん、一人で頑張りすぎや。もしかして【天界】舐めてんのとちゃいまっか?」
事のほか、白風丸は優しく言ったつもりであったが、焦りが出た所為か、最後の言葉が、つい、いつもの調子になってしまっていた。
しかし、その言葉に関係なく、クレマチスは、
「――気休めは止めてよ」
きっぱりと言い切ると、白風丸の説得を跳ね返すのであった。
「私は知ってるのよ。どうして近年になって『二度』も世界中を巻き込んだ戦争が起こったのかって――。それは、たった一つの【悪意】を取り逃してしまった事が原因だったんでしょ。その所為で【特主体】と呼ばれる『知恵』をもった【悪意】が生まれてしまって、人界の者たちを扇動したからなんでしょ。あなたはその悲惨な時代を見て来たはずよ。それなのに、また、そんな時代へと貶めようとする元凶を、このまま見逃すって言うの?」
「そ、それは……」
「今、あの【悪意】を逃してしまったら、また、混沌の歴史が繰り返されるかも知れないのよ! アカデミーではお茶を濁すくらいにしか教えてくれなかったけど、私はちゃんと調べたから知ってるの! それともあなたまで【特主体】なんていなかった――そう言って誤魔化すつもりなの!」
「……」
「答えなさい、白風丸! どうなのよ!」
その問い掛けに、白風丸は答えなかった。
確かに、白風丸は、クレマチスの言う混沌の時代を見て来た。クレマチス以前の主と共に、その時代を戦い抜いて来た。
【悪意】に扇動され、感情を統制された者たちは、皆、狂信的となり、同種である者たちと延々殺し合った。
その行為は、元凶たる【特主体】を倒すまで続き、その為、多くの【天使】が犠牲となって倒れる事となった。
その悲惨な光景は、今でも白風丸の目にしっかりと焼き付いている――。
白風丸は思う。
きっと、クレマチスは、真面目に、アカデミーでの修練に励んで来たのだろう。『色付き』として期待され、それに応えるべく努力を積んだのだ。その中で育まれた矜持はきっと生半可なものではない。ならばその気持ちに応えてやるのが、従者としての在り方ではないのか? 奇しくも、この、妥協を許さぬ姿勢こそが、新たな主と見初めた理由であったのだから――。
今、白風丸は以前の主の面影を、クレマチスに重ねていた。
――しかし。
その気持ちに応えたが為に、以前の主を失ったのも、また、事実である。
白風丸はその事を思い出すと、静かに目を閉じ、代わりに、別の言葉を吐くのであった。
「申請。コード、ヒト、フタ、マル、マル、サン。白風丸。能力解除の許可を乞う」
その口調は、今までの白風丸からは考えられないほどの、単調で冷たい口調であった。
クレマチスは、その口調の冷たさを瞬時に理解すると、必死の形相を作り、
「や、やめなさい白水丸!」
と、即座に、白風丸を止めに掛かったと思いきや、ガクリ。唐突に支える力を失うと、
「す……ぐ、取り、消し……な、さ……い――」
と、中途半端な言葉を残し、その場に倒れ込むのであった。
ほんのわずかの出来事であった。頽れるように、倒れたクレマチスは、もう動かない。倒れたままの状態で力なく横たわる。
そんなクレマチスを見つめながら、白風丸は寂し気に呟く。
「姐さん、堪忍したってや。【天使】の命を守るんも、ワイらの大事な務めなんや――」
そう呟いて、深く深く頭を垂れるのであった。
今、倒れたクレマチスの身体には、薄らと、光の膜が覆っていた。
これは、白風丸が、強制帰還を行う為に、クレマチスの意識に干渉し、生命維持を施した為である。その為にクレマチスは意識を失い、光の膜で覆われたのである。
お目付け役である【白刃鼡】には、対を組む【天使】に対し、いくつかの特殊な能力を行使する権限と手段が与えられていた。
この意識に干渉する能力もその中のひとつであり、あくまでも緊急時における【天使】の延命を目的とした能力ではあるのだが、過去には、暴走した【天使】を止める為に使用された事もあった。
それ故、諸刃の剣であると見做されたこの能力は、普段は使用できないよう封印が施されており、緊急時にのみ、統括本部の許諾による解除を以って使用可能となるのであった。
そして、その能力が解放されたと一目で分かるように、【白刃鼡】の見た目にも変化が起きるようになっていた。
今、白風丸の姿は、小さなネズミのモノではなく、体躯も立派な狼のモノへと変貌していた。白い毛並みが艶やかに流れ、威風堂々と佇んでいる。一見すると普通の白い狼に見えるのだが、少し違うのは、四つの足先に小さな翼が生えていて、神通力の影響によりぼんやりと光を帯びている事であった。
外側に張り出す様に一翼ずつ生えた足の翼は、小さいながらも空を駆ける為のモノである。
【悪意】は更に上へと逃げていた。もう豆粒くらいの大きさにしか見えない程であった。
クレマチスと揉めた分、【悪意】は、更に上へと逃げてしまったのだ。
残念な事に、白風丸だけでは【悪意】を浄化する事は出来ない。【悪意】を浄化するには【天使】の神通力と対になる必要があるからだ。
疑問に思われる方も居ると思うので説明しておくと、これにはれっきとした理由がある。
思い出して欲しいのはクレマチスが神通力を使った時、その消耗の程度に差があった事である。つまりは技を繰り出した時、『韋駄天』を使った時よりも、『光刃疾風斬』を使った時の方が、短い時間でクレマチスが消耗していた事である。
【悪意】を浄化する際には、大きなエネルギーが必要となる。
例えるならば、物を燃やす行為と似ており、燃えにくい【悪意】は無理矢理に火力を上げて燃やすようなモノである。
それ程のエネルギーを生み出すとなると、もちろん消費も激しく、常に発動している状態――いわゆる、燃えている状態では、無駄に多くのエネルギーを消費し続けてしまい、僅かの時間で尽きてしまうのである。
そう言った理由からも分かる通り【悪意】を浄化するほどのエネルギーは【天使】をも傷つける程の危険なエネルギーであると言える。
その為にも、わざと二つに分けており、必要な時にのみ使う効率性と、傷つかぬ為の安全性を担っているのである。
言うなれば、ガスバーナーの仕組みと似たようなモノである。酸素と可燃ガスを合わせる事で初めて燃やすためのエネルギーを、より安全に、生み出す仕組みと成っているのである。
ちなみに、対を成す【白刃鼡】が武器の姿となるのは、神通力を合わせやすくする為である。ついでに、彼らが従者と呼ばれるのは、戦闘時における命令系統を明瞭化する為の呼称である。
それはともかく――。
やらねばならない事は、白風丸にはまだたくさんあった。
差し当って緊急性のある事は二つ。「緊急警戒配備の申請」と「クレマチスの治療」である。
特にクレマチスの件は重要で、先の混沌で、大きく数を減らしてしまった【天使】を、こんなところで、みすみす失う訳にはいかないのである。
白風丸個人からすれば、二度と目の前で主を失いたくないと言う大きな理由もある。
今回のクレマチスは確かにおかしかった。いくら神通力を多用したとは言え、クレマチスの自力からすれば、ここまで衰弱するほどの事では無かった。
ならばきっと、別の要因があるに違いない。ひと先ず、生命維持を施せた事で、これ以上の悪化は防げたと言ったところであるが、要因が分かるまでは油断できない。急ぎ【天界】へ連れ帰って入念に調べてもらわなければ――。
白風丸はそんな思いを抱きつつ、逃げる【悪意】を睨みつける。そして、復讐を誓うかのように、再度呟くのであった。
「次は絶対逃がさへんで。姐さんが復活したら、きっちりと落とし前付けたるからな」
その呟きは、無理をしてでも任務を果たそうとした主への敬意も含まれていたのであった。
夜の帳が、すぐそこにまで迫っていた――。
――と、その時である。
「光刃降雷斬!」
睨む【悪意】の、更に上から声がした。
白風丸が慌てて目を凝らすと、声の主は突如として急降下を始め、すれ違う瞬間、【悪意】となった靄を真っ二つに切り裂いていた。
その光を帯びた刃の軌跡は、まさに雷そのもの。ひと筋の閃光を象ったかと思うと、帳となった空に鮮やかに映えていた。
唐突な展開に、唖然と見つめる白風丸。思わず、
「――あ。」
と、声を漏らしてしまったほどであった。
しかし、【悪意】を切り裂いた声の主は、急降下を止めるでも無く、そのままの勢いで落ちて来る。
見る間に迫るその距離に対し、完全に逃げるタイミングを失っていた白風丸は、咄嗟にクレマチスを庇うと、身を固くして壁となった。
と、ぶつかる寸前、急遽黒い翼を広げた声の主は、強烈な風圧と共に砂塵を生み出し、捲き上げるのであった。
捲き上がった砂塵に顔を顰め、風圧に耐える白風丸。
しばらくして風圧が治まると、
「よ、よし、セーフ。なんとか無事だった」
「な……なんとかちゃいまんがな! 死ぬか思いましたわ!!」
立ち込める砂塵の中から会話が聞こえた。
ゆっくりと白風丸が目を開けると、徐々に治まって行く砂塵の中から、良く知る二つの姿が現れた。
カーミィと白水丸である。
カーミィは、無事、地面に降り立てた事に安堵したのか、片方の手を胸に宛がい「ふぅ――」と、大きなため息を吐いていた。
薙刀から姿を戻していた白水丸は、二本の足で地面に立つと、即座に声を荒げ、カーミィに不満をぶつけていた。
「何をよそ見してましたんや! そのまま地面にぶつかるか思いましたわ! 生きた心地しませんでしたわ!」
その言葉にカーミィは反論を示す。
「何よ。ちょっとミルクプリンの紙袋を気にしただけじゃない。別にぶつかった訳でもないんだし、文句を言うならせめてぶつかってからにしてよね」
「何言うてまんねん。ぶつかっとったら、死んでまんがな! 文句も言えまへんがな! だから今、文句言うてまんのや!!」
「はいはい、悪かったわよ。これでいいでしょ。――ホント、すぐ喚くんだから」
ひたすら文句を言う白水丸に対し、無碍にあしらって済ませようとするカーミィ。
その態度に腹を立てた白水丸は、尚も言葉を荒げ、文句を続けた。
「喚かせてんのはお嬢の所為でんがな! ホンマいつもいつも無茶ばっかりしはってからに、もうちょっと考えて行動しなはれや! 毎回付き合わされるワイの身にもなってみなはれ――」
突然現れたかと思うと、漫才のような会話を始める二人。
そのやり取りを耳にした白風丸は、なんだか拍子抜けしたような、何とも言えない気分に陥っていた。
予想外の事とは言え、急転直下、根源たる問題が解決した訳である。
それを仕留める事が出来なかったが為に、つい先ほどまで、クレマチスとは言い争っていたのだ。その上で、自身は特殊能力の解除にまで至り、生命維持の為とは言え、クレマチスの意識まで奪い取ってしまったのだ――。
よくよく考えてみれば、今回の【悪意】は、カーミィたちの担当領分で確定していた。無理に手を出さずとも、カーミィたちも【天使】の端くれ、このようにきちんと任務をこなすのである。あと少しの時間でも、クレマチスを引き留める事が出来ていれば、こんな事にならなかったのではないか? その原因はともかくとしても、最悪の事態はちゃんと免れているではないか。
白風丸がそんな思いに囚われていると、ふと、目の合ったカーミィが
「わ、びっくりした、白風丸か。どうしたの? 狼モードに切り替えちゃって」
喚き続ける白水丸を完全に無視し、今、気が付いたと言わんばかりに驚いて見せた。
と、そのすぐあと、白風丸の後ろに倒れるクレマチスに気が付くと、
「うわっ、クレミィ倒れてるじゃない。どうしたの!? 何か大変な事でもあった訳?」
と、意外だと言うように、更に驚いて見せたのであった。
その緊迫感の無い物言いが、白風丸の琴線に触れた。
「な……なんでや!!!」
白風丸は突如として声を張り上げると、
「なんで遅れて来はったんや! お嬢が遅れさえせなんだら、姐さんはこんな姿にならんで済んだんや!!」
いったい誰の所為で、クレマチスがこんな姿になったと思っているんだ! そんな思いから、白風丸は叫ばずにはいられなかったのである。
その叫びを聞いたカーミィは、
「ちょ、ちょっと、どうしちゃったのよ、白風丸。いきなり大声なんか出して」
と、意味が分からず三度驚いて見せる。
半ば無視されたままの白水丸も、さすがに状況に気付き、白風丸に目を向けた。
白風丸は、叫びを続ける。
「姐さんはな、朝からずっと体調が悪かったんや。そやけど、自身は『色付き』やから言うて、我慢したまま任務を続けとった。ワイも担当はサブ候補やし、確認するだけで大丈夫やろ思て気ぃ許しとったけど、まさかお嬢が遅れるやなんて――」
白風丸は、そこで一旦言葉を区切ると、一度だけ、大きく肩で息をした。と、続けて諭すような表情を作り、
「――なぁ、お嬢。【悪意】の出現時間はちゃんと『預言書』に載ってましたんやろ? だったら何で遅れはったんや。お嬢がちゃんと、遅れんと来とったら――来とったら……」
と、そこまで言ったかと思うと、何故か妙なところで言葉を切り、黙り込んでしまった。
あまりにも中途半端なところで言葉が切れたので、心配した白水丸が探るように、
「――ど、どないしたんや、白風丸? いったい何があったんや」
と、恐る恐ると言った感じに声を掛けると、とたん白風丸は顔を上げ、左右に振ってから言葉を繋げた。
「――いいや、そうやないわ。勝手にそちらさんの任務に手ぇ出してわやくちゃしたのはこちらですわ。その為の担当制でもありましたのに……申し訳ない。生意気言うてすみませんでした」
出て来たのは謝罪の言葉であった。
唐突に謝られてしまったが為に、意味が分からず白水丸たちは戸惑いを覚える。問い質す言葉を掛けることも出来ずに、カーミィと二人、顔を見合わせて首を捻る。
謝罪の言葉を口にした白風丸は、また深く項垂れると、大きなため息も吐いた――。
と、思いきや、また、いきなり顔を上げたかと思うと、続きの言葉を口にした。
「――とりあえず、姐さんの容体が悪いんはホンマでっさかい、ワイは姐さんを連れ帰る事を優先させてもらいます。元々、そちらさんの領分やったんですし、事後の処理はお任せしても文句はおまへんでっしゃろ」
白風丸は言うや否や、手早くクレマチスを背中に乗せると、とっとと空へと駆け上がって行った。
唐突にその場に残されるカーミィたち。
まるでF1マシンが目の前を通り過ぎて行ったような、そんな感覚に陥っていた。
その突拍子もない展開に、しばらくは呆然としていたカーミィたちであったが、突如として我を取り戻すと、カーミィは、
「ちょっと――――――――っ!? 何なのよ、今のは!」
と、思わず悪態を吐くのであった。
なんとも慌ただしい、それでいて、一方的な展開であった。
こちらがひと言の声を掛ける暇も与えず、白風丸は空へと飛び去ってしまった。
さすがはクレマチスの従者と言ったところか。主と同じく勝手に喚いたかと思うと、勝手に謝罪して、勝手に飛び去って行った。
最後にさらりと嫌味を置いて行ったのは、実に白風丸らしくて小憎らしかったが、それを言われたカーミィにとっては、素直に納得のできない展開であった。
先ほどから押さえていた言葉が堰を切ったように吐き出される。
「クレミィの体調が悪かったからって何!? それってわたしの所為? それに遅れたって何よ! クレミィが急に始めちゃったから邪魔しちゃ怒るだろうなと思って任せておいたけど、担当そっちのけで手を出したのはそっちじゃないの! わたしは遅れてなんかないわよ!」
そう。カーミィは、クレマチスが事を起こしたその瞬間に、この場に到着していたのである。しかし、また、顔を突き合わせて何か言われるのも嫌だなと、上空で悩んで伺っている内に、目の前に【悪意】が飛んできてしまったので、無視する訳にも行くまいかと、仕方なく、叩き切ったのである。
それは丁度、クレマチスが覚悟を決めて上空の【悪意】を睨んでいたその時である。カーミィはその行為を「あんた、そんなところに居るんなら、見てないで叩き切りなさいよ」と自身が睨まれたと思い込み、勘違いしたからこそ叩き切ったのである。
この時の映像を、望遠機能で拡大再生してみると、確かにカーミィは、クレマチスに向かって手を上げ、サインを送っている。その事にクレマチスが気付けなかったのは、意識が朦朧としてきており、焦点が霞んでいたからである。
蓋を開ければそれだけの事。事実とは、実にすれ違いの連続である。
カーミィはひとしきり悪態を吐いたあと、憤った唸りをあげて言葉を吐く。
「むうぅぅ――白水丸。わたし、遅れてなんかないよね。中学校に立ち寄った時には、まだ十分時間もあったよね」
その問い掛けに、白水丸は「まぁ――」と前置くと、
「校舎の時計やと、まだ余裕のある時間でしたさかい、ちゃんと間に合うたと思てましたけど、あんなけ白風丸が怒ってたところからしますと、もしかしたらあの時計、ズレとったんかも知れまへんな」
「え!? そんな事無いわよ。ちゃんと合ってたはずよ」
カーミィが訝しむと、白水丸は続ける。
「でも、それくらいしか理由が思い浮かびまへんやん。姐さんが、担当無視していきなり浄化をやり始めとったんも、お嬢がまた遅刻した思て、しびれを切らしたからやったとしたら、辻褄も合うてくるんとちゃいますやろか? そう言う事でしたら白風丸が遅れた言うて怒ったとしても――」
「え――。納得いかな――い」
カーミィは不満を口にすると、
「だってクレミィってば『預言書』を受け取る時に、担当替えろ――とか、文句言ってたのよ。勝手に始めたに決まってるじゃない。わたしは遅れてないわよ」
すると白水丸も訝しんで、
「なら、そこまで言うんでしたら、とっとと時間を確認すれば良えだけですがな。まだそんなに時間も経っとらんと思いますし――ほら、懐中時計はどないしましたんや」
嫌味を言うかのように促すと、カーミィは、
「う……」
何故か、そのまま、言葉を詰まらせ黙り込んだ。
唐突に黙り込んでしまったカーミィに、白水丸は当然の如く聞き返す。
「――どないしましたんや、お嬢」
「……――――……」
殆ど聞こえない。でもまた何か言っている。
しかし、この時の白水丸は、【悪意】の浄化を済ませていた分、冷静であった。同じ轍を踏まぬようちゃんと対応できたのである。
なので、カーミィが言うべき台詞を、白水丸は察する事が出来た。
「もしかしてお嬢、懐中時計を――」
そう。諸兄らもお察しの通り、今回の任務に当たり、カーミィは、持っているはずの懐中時計を全く見る事が無かった。
ミルクプリンの列に並んだ時も、大きな駅で迷った時も、時間を気にする素振りは何度も見せていたのに、一度として懐中時計を取り出す事は無かった。
つまりそれは『持ってない』と言う事の証明であり、『忘れた』と言う結論である。
もし、その事に気付いていれば、白水丸はもっと早くに、カーミィを追及できたであろう。しかし、残念ながら白水丸が気付いたのはたった今であった。
まぁ、気付いたところでどうともならないようには思えるが、少なくとも心の準備をする猶予は出来たかも知れない。
それ故、心の準備が伴わなかった白水丸は、やはり慌てる事になる。
もしかして――の白水丸の問い掛けのあと、カーミィは、やはり予想通りの答えを返してくる。
「……うん、そう。忘れた」
「わすれたぁ!?」
やはり、素っ頓狂な声を出す白水丸。と、白水丸は、
「わ、忘れたて、いったいどこに忘れましたんや!?」
と、焦りからか、やはりまた、聞かなくても良い事を口にする。
これまでで一度も時計を取り出したことが無いとすれば、それは自室に他ならない。
すると、カーミィは、やはり、それほど悪びれた様子も見せずにはにかんで、
「部屋――」
思った通りの返答をした。
白水丸は、
「い、いやいやいや、そうやなくて、部屋のどこに――って、それもちゃうわ! どうやって【天界】に帰るつもり――」
「――ついでに言うと、ベッドの上だと思うのよ」
カーミィが被せて用意した言葉は僅かに噛み合わなかった。
なので白水丸は、
「だから、それはどうでもええっ言うてんねん!! どうやって【天界】へ帰るつもりや聞き直しとりますねん!」
やはり、思った以上に余裕が無くなっていた。
その原因は、【天使】の持つ懐中時計が【天界】へと通じる扉の鍵となっているからである。
それを持ってないと言う事は、つまりは【天界】への扉が開けられないと言う事であり、締め出しを喰らった酔っ払いの親父と同じという訳である。
酒に酔っていない分こちらの方が、尚、深刻に思える。
その事を瞬時に理解した白水丸は、やはり、文句を垂れ流す結果となっていた。
「なにをやったらそんなに次から次へとトラブル起こせまんのや! ええ加減なことばっかりやってますからこんな事になりまんのや!」
その勢いに、カーミィが口をはさむ。
「ちょっと、白水丸。さっきから声が大きいって」
すると、白水丸は、大きく首を横に振り、
「いいや、この際やから言わせてもらいます! お嬢はいっつも適当で、行き当たりばったりで、ワイの苦労も知らんと勝手な事ばかりして――」
もう止まらない。
やはり、白水丸は涙目となっていた。
止めても聞かない白水丸の大声に、この場には、いつの間にか、そこかしこから覗き見る者が現れていた。
ある者は玄関を開け、ある者は上階の通路から、ある者は通りすがりで立ち止まって、この騒ぎを奇異な目で見つめていた。
ざっと見まわしただけでも数十人はこの騒ぎを覗いている。
気が付けば、妹ちゃんまでもが、倒れる少年に取りすがって泣いていた。
「う――ん。参ったなぁ……」
さすがのカーミィも不満を零す。
倒れる女と、少年と、それにすがって泣く幼女――。
誰がどう見ても怪しい事件の現場である。未だ通報された様子の無い事が唯一の救いであった。
「しゃーない。面倒だけど、全部、白昼夢にするっきゃないか」
カーミィはそう呟くと、一旦胸の前で手を合わせてから、
パシ――――――――――――ンっっ!!
と、大きく手の平を打ち鳴らした。
その瞬間、この騒ぎを見ていた者たちが、次から次へと倒れていく。
玄関を開けていた者も、上階の通路に居た者も、通りすがりで立ち止まっていた者も、全て、その場で意識を失くして倒れたのである。
見えていない所――例えば部屋の中に居た者まで含めると、その影響を及ぼした範囲は計り知れない。
妹ちゃんに至っては、兄である少年に覆い被さるように倒れていた。
――あ、あれ? ……ちょっと、やりすぎちゃった?
カーミィがそんなことを呟いて、てへぺろ。苦笑いをした矢先――
――その異変は起こった。
再び、少年から靄が発生していた。
その靄は、先程クレマチスが追いたてた時以上に勢いを増し、少年の至る所から溢れ出ていた。
その様子に気付いたカーミィは、咄嗟に妹ちゃんを拾い上げると、瞬時に離れた位置まで飛び退いてから、ミルクプリンの入った紙袋と一緒に地面に置いて――。
「――白水丸!!」
まだ文句を垂れ流していた白水丸に向かい、大声で呼びつけた。
カーミィの緊迫した声に正気を取り戻した白水丸は、少年から溢れ出る靄に気付き、驚きの声を上げる。
「なななな、なんですのん!? また【悪意】が発生してますやん。じゃぁ、さっきお嬢が浄化した【悪意】っていったい――」
「そんなのなんだっていいわよ!」
カーミィはそう言葉を被せると続けた。
「こいつをやっつけちゃえば、わたしが遅れてなかったって事の証明になるんだから、とりあえずやっちゃえばいいのよ!!」
その言い様はいかにもカーミィらしい大雑把なモノであった。
ついでに言っておくと、何故か不敵に笑ってもいた。
不謹慎ではあるが、どうやら白風丸に言われた事を、かなり、気にしていたようである。
カーミィは、薙刀となった白水丸を再び手に取ると、柄を地面に突き立てて、いつかのように気合を入れた。
「はぁっ!!」
その瞬間、刃が眩い光を放つ。
少年もまた光を浴びると、同じくもがき苦しんで、靄を吐きつつ地面をのた打った。
しかし、以前と違うのは、いつまでたっても少年が靄を吐き切らない事である。吐き出された靄が紐状になって、まだ、口の中へとつながっている。
その事に不満を感じたカーミィは、
「生意気にしぶといじゃない! だったらこっちも本気出してやろうじゃないの!」
と、有言実行、光る刃の出力を上げ、更に輝きの度を増した。
そのあまりにも強烈な輝きに周りの景色がハレーションを起こして溶けていく。
するとようやく少年の口から靄の塊が吐き出される。「ゴポリ」と擬音が付いて吐き出されたその塊は、丸みを帯びていて「勾玉」と呼ぶ方がしっくりする形状となっていた。
カーミィは勾玉となった【悪意】を見据えると、
「喰らえ! 光刃極光斬!!!!」
全ての鬱憤をぶつけるように、一太刀にするのであった。
刃の光に呑まれるように、勾玉は彼方へと消えていった。