第六話 公団住宅の少年 其の六
公団住宅の少年 其の六
「――お嬢。ここ、どこですのん?」
眠りから覚めた白水丸は、ダッフルコートのポケットから顔だけを出すと、見覚えのない光景に、戸惑いつつもそう尋ねた。
この時、白水丸の見た光景は、ショッピングモールでも、公団住宅でも、ましてや中学校の校門でもなく、端的に言うと知らない駅のホームであった。
カーミィは白水丸の戸惑った声を耳にすると、壁に掛かった沿線案内板を凝視したまま言葉を返す。
「え? えっとねぇ……か、加奈平橋って駅だよ」
「かなひらばしぃ?」
聞き覚えの無い名称に、白水丸は素っ頓狂な声を出した。次いで急ぎ、ポケットから抜け出ると、カーミィの肩口まで上り、現況を把握するべく周囲を見渡した。
そこからは、男女問わず大人や子供はもちろん、年寄りや学生、サラリーマンと言った、多種多様な利用客が、電車の到着を待つ姿が見えた。張り出した屋根の梁からぶら下がる「八」という数字から、複数の乗り場がある大きな駅だと推測できた。とりわけ学生の比率が多く感じられたのだが、それでも、特に代わり映えの無い、平和でのんびりとした通勤通学の光景だと白水丸は認識した。――いや、訂正。帰宅の光景と言った方が良さそうだ。
そのまったりとしつつも、ざわついた雰囲気に、ものすご――く嫌な予感が込み上げてきた白水丸は、まだ沿線案内板から目を離さないでいるカーミィに対し、再度、尋ねるのであった。
「――なぁ、お嬢。ここが、どこですって?」
「だ……だからぁ、加奈平橋って駅の中だよ」
同じ質問を繰り返した所為か、カーミィは面倒くさそうに反応した。それを聞いた白水丸は、多少のイラつきを覚えたものの、更に質問を重ねる。
「――で、それは、今回の任務と何か関係あるんでっしゃろか?」
その質問にカーミィは、
「な、ないよ。――ある訳ないじゃない」
そっけない言葉を返す。
その言い草が、白水丸の癇に障った。
「――じゃぁ、なんでお嬢はこんなところに居てはりますんや!?」
当然の言葉である。
白水丸は声を張り、尚且つ、トゲのある口調で言い返した。と、とたんカーミィは、何故か気まずそうに口ごもり、
「う……――――――……」
「――何ですって?」
「……――――――……」
殆ど聞こえない。でも何か言っている。
「どないしはりましたんやお嬢? 聞こえまへんがな」
白水丸が問い掛けると、カーミィはか細い声で、
「……乗り過ごした……」
「は?」
「……乗り過ごしたって言ったの」
「はぁ!?」
全く意味が繋がらなかった。事の経緯が見えて来なかった。しかし、嫌な予感だけはビンビンと増していくばかりであった。
白水丸は思い返す。
ミルクプリン購入に赴いた時には『韋駄天』を使って赴いたので、戻るにしても、何の乗り物にも乗る必要は無かったはずだ。と。
「の、乗り過ごしたて……一体何を乗り過ごしましたんや?」
困惑しながらも、現況を探るべく、質問を続ける。
しかし、その困惑が、つい、言葉に表れてしまっていた。
何に乗ったかなど聞かずとも、周囲の状況から『電車』だと分かるはずなのに、聞いてしまったのは白水丸に焦りが出ていた証拠でもあったりする。
なのでカーミィからは、やはり、そのままの答えが返って来る。
「――電車」
「い、いやだから、何で『電車』なんかに乗らはったんでっか?」
慌てて言い直す白水丸。
今、一つだけ、白水丸には思い出した事があった。
確か、ショッピングモールに付随していた駅の名が『轟南駅』という名称であったと。だからどうだと言われればそれまでであるが、少なくとも、今、この駅の名称と違う事から、カーミィは既にミルクプリンを購入済みだと認識できたのである。
白水丸が言い直すと、カーミィは言葉を詰まらせてから、
「い、いやぁそれはさぁ……思ったより資金に余裕が出来ちゃったからさぁ――」
もったいぶるように前置いて、
「――せっかく人界に来たんだし、電車で戻るのも良いかなぁって、乗る事にしたのよ。そしたら、ついうとうとしちゃってさ、気が付いたら、こんな大きな駅に辿り着いちゃってたって訳。ホントうっかりだったわ。あんな長い列に二回も並んだから疲れちゃったのね、きっと」
「は? 二回?」
「い、いやいやいやいや、――に、にかん、にじかん。そう二時間よ」
白水丸は耳を疑った。苦し過ぎるカーミィの言い訳など関係なく耳を疑った。――いや、その表現は正確ではない。この言葉が間違いであってほしいと感情が拒否を示したのだ。
今、カーミィの口は、決定的な言葉を滑らせていた。先ほどから感じていた嫌な予感の正体は、これだったのか! と断言できるほどの言葉であった。それだけで十分だ、知らない方が幸せだ、勘弁してくれ。感情はそう拒否をしたのだ。
しかし立場と言う理性が思いの外踏みとどまった所為で、白水丸は嫌々ながらも頭の中で情報の整理を始めた。
今、ホンマにお嬢は『二時間』言うたんか? 確かに行列の待ち時間はそんくらいやったとバイトの姉ちゃんも言うとった――い、いやいやいや、そうやない。惑わされたらあかん。お嬢はやはり『二回』と言うとった。それはつまり、あのえげつない行列に『二回』も並んだ言うこっちゃ。――ちょう待ちぃや。ほいたら単純に倍の時間掛かっとる言うこっちゃないかい。ほいでさらに乗り過ごした時間も+αされるんやさかい――。
一応、カンサイ弁になじみのない諸兄らの為に翻訳しておくと以下のようになる。分かる方々は(~)の部分を読み飛ばして貰って構わない。
(今、本当にカーミィは『二時間』と言ったのか? 確かに行列の待ち時間はそのくらいだったとバイトのお姉さんも言っていた――い、いやいやいや、そうじゃない。惑わされるな。今、カーミィはやはり『二回』と言ったのだ。それはつまり、あの、大それた列に二回も並んだと言う事だ。――ちょっと待て。と、なると最低でも、眠り始めたあの時から、二時間とプラスの二時間が経っていて、さらに乗り過ごしの時間が+αで合わさって――。)
その推察に白水丸は冷ややかな汗を背中に流した。それと同時に今の推察を否定したい思いが止めどもなく溢れて来ていた。信じたくない。信じたくはないが、自身が眠っている間にかなりの時間が経ったと考えられる。その証拠に、今、視界の端に垣間見えている空の色は、見事なまでに茜色を見せているではないか。
ならば一体、今は一体――。
――何時何分なんや!!!!
ちょうどその時、白水丸の思いを汲んだかのように、構内アナウンスが流れた。
――間もなく、八番線に参ります電車は、十七時、十五分発、特急アサツキ。特急券をお持ちでないお客様は、ご乗車できませんのでご注意ください――。
そのアナウンスに、白水丸は、音の流れた方へと振り返る。
ちょうど音源たるアナウンスが流れたスピーカーの隣では、反転フラップ式案内表示機(通称ソラリ―ボード)がパタパタパタパタと軽快な音を鳴らしつつ『特急アサツキ』の表示に切り替わっているところであった。更にその表示機の隣には、アナログ式の電波時計が備わっていて、無情にも、針の示した現在時刻は、『十七時〇八分』となっていた。
この瞬間、白水丸の背中に、大量の汗が流れ出す。
まるで滝のように、
まるで土石流のように、
激しさを増して流れていく。
感情が言った。ほれ見た事か、知らない方が幸せだったろうと。
「ちょ――――っ!! お嬢! もう一時間切ってますやん! こ、これ、間に合いますんやろな! 遅刻だけは勘弁してくれって、ワイ、言うてましたよなぁ!」
白水丸は、全ての思いを叫びに乗せると、カーミィの肩口でぶちまけた。
と、カーミィはいかにも耳が痛いと、表情を顰めつつ
「だ、大丈夫だよ。きっと間に合うから――」
白水丸は既に半泣きになっている。
「き、きっとって――ほ、ホンマでっしゃろな! 今回も遅刻とかなったら、ホンマ洒落にならんのでっせ」
「――飛んでけば」
「と……」
白水丸は絶句した。あまりにも無遠慮に告げられた重要な言葉に、意識の大部分を持っていかれた。それはかつてのヘリオト女史を彷彿とさせるような放心であり、今ここにベッドがあったならば、間違いなくぶっ倒れて寝込んでしまう程の無情さであった。出来れば誰かに「夢だよ」と囁いて貰いたい。若しくは「ドッキリ大成功~」でも構わない。
ちなみに、ヘリオト女史の場合では、意識を取り戻したそのあとに「カーマイン=ローズ!」と、大声でカーミィのフルネームを叫んだのである。第一話のシーンがそれである。
それとは対称に、カーミィは落ち着き払って嘆息すると、
「だからね、今、それを検討してたのよ。本当に翼を使わないと間に合わないのかなぁって。だって、翼を使っちゃうと、また追加の報告書を出さないといけなくなるでしょ。できれば書きたくないなぁって」
「な、ななな、何を悠長なこと言うてますんや、そんなもんなんぼでも書きなはれや!」
白水丸は我を取り戻すと続けた。
「戻ったところで、すぐに少年が見つかるか分かりまへんのやで! でないと結局、前回の二の舞どころか、下手打つと緊急配備になってまうかも知れまへんのやで!」
その必死な物言いに、カーミィは苦笑いを浮かべると、
「だよねぇ――じゃ、やっぱり飛んでくしかないか」
まるで他人事のように軽い口調で言い切った。
白水丸は困惑の度を越して怒りを覚えると、遮二無二大きな声で訴える。
「か、考えるまでもおまへんがな! そんなん間に合わせるんが最優先でんがな! たまたま前回は上手くいっただけで、そうそううまくいく訳は無いんでっせ!」
「ちょっと、白水丸。さっきから声が大きいって」
カーミィはついに耳を押さえると、慌てふためく白水丸を窘めるべく声を掛けた。しかし白水丸は、既にパニックを起こしており、もう周囲なんか気にしてられるかと、声を張り上げ訴え続けた。
「この際やから言わせてもらいますけど! 大体お嬢はいっっっっつも時間ギリギリで、ワイに心配ばっかり掛けさして、ワイがいつもどんな思いで任務に就いてるか分かろうともせんと――」
もう止まらない。白水丸はここぞとばかりに溜まったモノをぶちまけ始めた。
その内容は説教と言うよりは明らかに愚痴であった。
その内容をよくよく聞いてみると、つい先日、ヘリオト女史がロビーでカーミィを説教した内容とほぼ一緒の内容であったのだが、どうしてか、カーミィが堪える様子は、全く以って皆無であった。例えるならば、『カエルの面に水』と言った所である。いったい何が違うのだろうか?
しかし、マズい事に、その白水丸の大声に、周囲の者たちが注目し始める。美少女の肩に乗っている小さなネズミが、まさか本当に説教をしているのかと、好奇心さながら集まり始める。
図らずも、今、カーミィの周りには、電車待ちに退屈していた利用客が集まって、壁となって囲んでいた。中にはスマホで撮影する者まで出てくる始末だ。
さすがのカーミィも、痛痒を感じると、いかにも仕方ないと言った感じに呟くのであった。
「もぅ。ホント、白水丸はすぐ騒ぐんだから――」
いや『あんたが原因ですがな!』と言うツッコミは、今の所は遠慮しておこう。本人はのほほんとしているが、一応、緊急事態であるのは違いないのである。
溢れ続ける白水丸の愚痴を流しながら、カーミィは嘆息すると、
「はぁい、注目ぅ――」
そう周囲に呼びかけてから『パシン』と大きく手を叩いた。と、とたん周囲の者たちはマネキン人形のように固まって動かなくなる。これはカーミィが神通力で催眠を掛けた為である。その効果の範囲を見てカーミィは「まぁ、こんくらいで良いか」と、呟くと、まるで幼児向け番組のお姉さんの如く呼び掛けた。
「はぁい、皆。今のは腹話術ね。パフォーマンスはお終いだよ。あぁそうそう、そことそこのお姉さん。今撮った動画はちゃんと消しといてね。勝手に投稿したら、肖像権で訴えちゃうからね。それと皆にお願いね。今起こった事と、これから起こる事は、良い子だからすぐに忘れるように。きっとだよ。はい、以上。おしまい」
カーミィは口早に伝えると、また『パシン』と手を叩いた。
すると、マネキン人形と化していた者達は一斉に頷き、上映の終わった観客のようにわらわらと散らばって行った。ようやくひと段落である。
――やれやれ。
カーミィは未だ文句の止まらない白水丸を見据えて嘆息すると、むんずと掴んだあと、無造作にポケットに押し込んだ。
次いで、大きく伸びをすると、ホームから線路に向かい「ピョン」と飛び降りて見せたのであった。
特急アサツキは、既に、八番線ホームに入って来ていた。
◇◇◇
この日。特急アサツキ下り十七号を運転していたのは、三崎周五郎、五十七歳、(ベテラン)であった。またの名を『神懸りの周五郎』誰が呼んだか知らないが、痛々しいまでの厨二的二つ名であった。
もちろんその呼称は社内のみの呼称であり、妻や子――特に妻には絶対知られたくないと願っていたりした。
しかしこの二つ名、むやみやたらと付けられた名ではない。本人は嫌がってはいるが、その内容は、三崎周五郎、五十七歳、(ベテラン)が、長い運転士生活の中で、築き上げた功績によって付けられた名であった。
その功績は三つある。
一つ、停止位置から一センチとして越えた事がない。である。
これは読んで字のごとく、列車を停止位置でピタリと停める事である。誤差十センチ以内であれば神業と呼ばれるこの業界において、一センチとして超えない彼の腕前は、驚異的な数字であると言えた。もちろんシステムなどのアシストが一切ない時代からの事である。
天候や乗車人数など、尽く変わっていく運行状況の中で、彼はまるで呼吸をするかのように列車をピタリと停め続けた。『越えた事がない』と言う表現は、あくまで控えめな表現で、どうしても停止位置の手前で停めなければならない事態があったが為に、こう言った表現になっているのである。例えるならば、野球の完全試合とノーヒットノーランの違いのようなものである。味方のエラーは責められないのである。
二つ、二秒として運行ダイヤを乱した事が無い。である。
こちらも読んで字のごとく、運行ダイヤの指定時間通りに列車を動かす事である。正確無比と呼ばれ世界中にも知られる新〇線の運行ダイヤでさえ、十五秒以内であれば良し、十秒以内なら達人と呼ばれる誤差範囲の中で、彼の誤差はたったの二秒であった。ただ残念な事に、これはあくまでも通常運行のみの数字である。どの業界でもトラブルというモノがあり、前が詰まれば後ろも詰まるしかなくなるのである。
そして三つ。事故を起こした事が無い。である。
言葉だけを見ると「当たり前じゃん」と、思えるかも知れないが、これこそがまさに、彼の神懸りと呼ばれる真骨頂なのであった。
彼は今までに、二度の踏切立ち往生と、三度のホーム転落の場に遭遇した。しかし、その事如くは、彼によって大事に至らず防がれていたのだ。それはつまり、対象の相手と接触する前に列車を停めたと言う事であり、彼曰く「何となく、そんな予感がしたんで、いつでも停まれる様に準備していたんだ」と笑って言ったのだと言う。
当てない、ズレない、遅れない。
この三拍子が揃ったが故に、彼は『神懸りの周五郎』と呼ばれたのである。
そしてこの時、彼はまた、その「なんとなく」を感じ取り、備えて運転していた。いつもより早めの制動を心掛け、八番線ホームに列車を侵入させる。と、黒いダッフルコートを着た少女が線路上に飛び降りる様子が見えた。
神懸りの周五郎は、「なんとなく」の正体はこれだったか! と、ばかりに「ニヤリ」ほくそ笑むと、手慣れた動きでアクセルレバーをゼロに戻し、制動レバーの位置を、緊急停止の位置にまで動かした。彼の経験からなる正確無比な目測によれば、少女の着地した十センチ手前で列車は停止する手筈であった。
『自殺なんて、世を儚むには、まだまだ若すぎるぜお嬢ちゃん』
少女の飛び降りた理由が、自殺願望からだと思った神懸りの周五郎は、そんな台詞を吐きながら急制動を掛けていた。
――と、その時。
目の前の光景に異変が起こる。
飛び降りたと思った少女が、着地寸前、急激なスピードで上空へと舞い上がり、見る間に姿を消したのである。これがもし、神懸りの周五郎以外の人物であったならば、上空へ舞い上がった事にさえ気付けずに「きっと幽霊が飛び降りたんだ! 幽霊を轢いてしまったんだ!」と慌てふためき、大きくダイヤを乱す騒ぎとなっていただろう。
ホームの中ほどで停止した列車の窓越しから、空を見上げた周五郎は、「――何だったんだ今のは、翼が生えとったぞ?」と、独りごちたあと、念の為にと運転席から離れ、列車の前面を確認した。
特に変わりの無い、アサツキの鼻先が夕日に照らされ輝いているだけであった。
それを見て、周五郎は思う。
『まさか――引退しろって神のお告げなんだろうか……』
その後、周五郎は、記録上で初となる、構内再加速を経験すると、正規の停止位置で「ピタリ」とアカツキを停めて見せた。
この時のアカツキの到着は三十二秒の遅れで済んでいた。さすがは神懸りの周五郎である。その程度で済むところに脱帽である。
それでも、少しの騒ぎにもならず済んだのは、カーミィが催眠を掛けていた所為であったかも知れない。まさしくこれから起こった事を、このホームに居た全ての者が、すぐに忘れてしまったからである。
翌日、周五郎は転属願を出した。
兼ねてより望まれていた後任育成の指導教官となる為である。
◇◇◇
その頃――。
クレマチスは、パチンコ店から移動を始めた篠垣咲子を『韋駄天』を使い追い掛けていた。
言うになく、身体は重く虚脱感が酷かったが、それでも、あと少しの時間、耐え凌げば良いと思えば、気力で身体を動かす事が出来た。
移動を始めたばかりの篠垣咲子は荒れていた。入店する前と比べると、別人かと思えるくらいの変貌であった。白風丸に言わせると、
「あれは、財布の中身、全部いかれた口ですわ。改装開店やったのに、朝一の煽り掴まされてお気の毒ってやつですわ」
それがどういう意味なのか、クレマチスには今一つ分からなかったが、それでも、篠垣咲子がパチンコで負けて荒れているのだと言う事は大いに理解できた。
来た道順を辿るように、篠垣咲子は原チャリを飛ばした。どうやら真っすぐ自宅へと帰るつもりのようである。
まぁ財布の中身を空にされたのだから、帰るかATMに直行するしかないのだが、後者を選ばなかったのは通い慣れている証拠であろう。引き際を弁えていたようである。
その所為か来た時よりも更にスピードが出ているような、そんな気がした。決して体調が悪い所為なんかではない。と、クレマチスは無理にそう思い込んでいた。
公団住宅の駐輪場へと戻った篠垣咲子は、出て行った時と同じ位置に原チャリを止めた。半キャップのヘルメットをメットインの中に無造作に放り込んで、叩きつけるようにシートを閉める。と、今度は、屋根の支柱を悔し紛れに蹴飛ばして、お約束のようにつま先を押さえて、飛び跳ねていた。
その様子を、植樹の陰から身を屈めて見ていたクレマチスは、『あのバカ以上のバカが居るわ』と呆れて苦笑したあと、ポケットから懐中時計を取り出して現在時刻を確認した。
――十七時四十八分
あと、ほんの少しで【悪意】出現の予定時刻となる。
「もうちょいで終わりでんなぁ、姐さん」
ダッフルコートのポケットから顔だけを出して白風丸が言う。
白風丸の言う通り、その時刻になって篠垣咲子に異変が無ければクレマチスの任務は終わったも同然、あとは【天界】へと戻ってから報告書を提出すれば良いだけである。
クレマチスはその事を意識すると、ほんの少しだけ気を緩めた。
と、その時。
「こんな時間から、どこ行くんだよ」
「お、おばさん!?……どうしてこんな早く……」
不意に聞こえたその会話に、クレマチスは時計の文字盤から目を切って視線を戻す。と、そこには、カーミィの監視対象である少年が現れていて、篠垣咲子と鉢合わせていた。
少年は、見るからに狼狽えていた。
篠垣咲子は少年を睨んで言う。
「今日はピザでも注文して食っとけって、あらかじめ金渡してあったろ」
「い、いや、それはその……ちょっと用事があって……」
「あぁん、用事だぁ? ――さてはまた、あの気色の悪い女に会いに行く気だなてめぇ。ガキのくせに、いっちょ前に色気付きやがって、良いからさっさと戻れ、ほら」
「で、でも……」
「でももくそもねぇ! 早苗ほったらかしにして、どこ行くってんだ? てめぇが離れたくねぇっ言ったから、一緒に引き取ってやったんじゃねぇか。ちゃんと面倒見るっ言ったのはてめぇだろ。男が一旦決めたならしっかり面倒見やがれってんだ」
少年を叱りつけ、引き戻そうとする篠垣咲子。
少年は、只々委縮して怯えるだけであった。
それでも、素直に言う事を聞こうとしない少年は、全身に力を込め、固くなることで反抗を示していた。
と、ここで、少年に異変が起こり始める。
その異変は人界の者たちには決して見えない現象なのだが、【天使】であるクレマチスにははっきりと見えていた。
少年のところどころから黒い靄が漏れ出ている。目や口、耳はもちろん肘や膝と言った部分からも何度となく靄が見え隠れしていた。
これは、【悪意】が発現する初期の兆候であり、【天使】たちは、この現象の確認を以って監視から浄化へと切り替えるのである。
そして今、この現象を確認したクレマチスは、やっと予定の時刻が来たのだと認識した。自身の担当である篠垣咲子には、特に異変は見られない。と、なれば、あとは全て、カーミィの担当領分である。手出しは無用、自身はただ【天界】に帰れば良いだけである。
――やっと終わった。
一日にも満たない任務であったのに、ものすごく長く感じた。と、クレマチスは気を緩めた。
その気持ちを察したかのように白風丸が代弁する。
「ようやっと【天界】に帰れまんなぁ。ワイ、姐さんがいつ倒れるか思てひやひやしてましたわ」
その通りである。クレマチス自身も、ここまで体調が悪くなるとは思っていなかったのだ。ともかく、無事に終了して何より。そう思うと、一気に力が抜けていった。
白風丸も気を許したのか、尚、饒舌に語った。
「正直なところ、今回、サブの任務やなかったら、強制帰還しようか思うてましたんでっせ。ホンマ、無事に済んで何よりですわ」
白風丸の言う強制帰還とは、任務継続不可能と【白刃鼡】が判断した際に【天使】たちを強制的に【天界】へと連れ帰る権限と帰還手段の事である。ここで詳細を述べるのは長くなるので省かせてもらうが、分かりやすく言うなれば、某狩りゲームの猫さんのようなシステムである。まぁ、権限を持っている分似て非なるものでもあるのだが。
しかし、クレマチスは、気を緩めてしまったが為に、すぐに動く事が出来なかった。『韋駄天』を使い、後を追わされた事がやはり堪えているのである。白風丸の言葉に対し「バカ言わないでよ。冗談じゃないわ」と気丈に返しつつも、現状は立ち上がる事さえ辛かった。クレマチスは、萎えた気力を取り戻す為に、誤魔化しながらでも、少し休んでから戻る事にした。
その片手間で篠垣咲子たちの成り行きを眺め続ける。
少年は、尚、反抗的な態度を取っていた。
「で……でも……」
「いいから、戻りな」
篠垣咲子も同じく威圧を続けている。
すると少年は、徐にポケットからカッターナイフを取り出すと、その震える手で刃先を剥き出しにして篠垣咲子に向けた。
刃先の伸びていく音が、カチカチカチと冷たく響いて聞こえて来た。
篠垣咲子は、少し驚くように目を見開いたが、すぐに目を座らせると、少年を睨みつけて威嚇した。
少年はカッターナイフを構えたまま口を開く。
「行かせてください、おばさん。ボクもう、限界なんです。宿題だってほとんど出来ないし、夜だってまともに眠れないし……」
「はぁ? だからって、妹ほったらかして良い理由にはなんねぇだろうがよ」
篠垣咲子は意外にも冷静に振舞っていた。しかし、少年のカッターナイフを警戒しているのか、少年が一歩近寄るたびに、同じく一歩後ずさっていた。
その様子を見ていたクレマチスは、思わず、
「カーミィのヤツ、いったい何をやってるのよ!」
叱責した。
ここまで明らかな兆候が出ているのに、カーミィはまだ動かない。それどころか気配すら感じられない。
クレマチスはよほど気を揉んでいたのか、自身がカーミィと愛称で呼んだことに気付いていなかった。と、代わりに、嫌な予感がよぎってしまった。
『まさかあのバカ。またハンバーガー食べてて、遅れてるんじゃないでしょうね!』
今も尚、少年からは靄が漏れ続けていた。だんだんと大きく、そしてはっきりと、少年の身体を覆うかのように纏わりついていった。まるで芋虫が蝶になる為に繭を形成するような、そんな形を作りながら纏わりついていった。ただ、漏れ出る速度がいつもより早かった、早過ぎるくらいだ。もう薄っすらと繭が出来上がっている。
――ちっ。
クレマチスは、しびれを切らして舌打ちすると、白風丸に告げた。
「――やるわよ、白風丸」
「え!? や、やるって姐さん。あの少年は姐さんの担当とちゃいまんがな。別に姐さんが無理せんでも――」
その言葉に対し、クレマチスは否定で以って返答する。
「でも、あのバカ全然出て来ないじゃない。このままだと取り返しのつかない事になるのよ。放っておく訳にはいかないわ。見なさいよ、もう繭が出来上がってきてるじゃない!」
「で、でもでも、姐さん、体調が――」
「このくらい平気よ!」
クレマチスは、気力を振り絞って言い切ると続けた。
「私はね、『色付き』なのよ。茶翼のクレマチスなのよ――」
そして、すっくと立ち上がると、
「――その従者たるモノが、ガタガタ言ってんじゃないわよっっ!!」
そう啖呵を切ると、勢いに任せ飛び出したのであった。
身体は重く、虚脱感が一層酷くなっていた。それでもクレマチスを動かしたのは己が矜持の他ならない。この気丈さが、白風丸に『姐さん』と呼ばせる所以でもある。
「もう――どうなっても知りまへんで!!」
白風丸も諦めてそう叫ぶと、ダッフルコートのポケットから飛び出して、その身を一本の刀へと変貌させた。
クレマチスは刀となった白風丸の白い柄を握りしめると、飛び出した勢いのまま、少年たちの間に割って入るのであった。
次回クレマチスの見せ場です。