第五話 公団住宅の少年 其の五
公団住宅の少年 其の五
カーミィがミルクプリン購入に四苦八苦していたその頃、監視対象たる篠垣良太少年の居る蓮木野中学校は、昼休みの真っただ中にあった。
篠垣少年は早々に給食を食べ終えると、南校舎三階奥にある図書室へと向かう。
その手にはもちろん『逆さ十字の本』を携えていた。
駆け足で階段を上り、長い廊下の先にある図書室へ入ると、少年は、蔵書棚に隠れて見えなくなっている奥の机を目指して進んだ。と、そこには、一人の女子生徒が座って本を読んでいて、長い髪が、開いたページに流れぬようにと、片方の手を耳元辺りに添える事で留めていた。
少年は、その女子生徒に声を掛けようとして思い留まる。
窓からの日差しに照らされた女子生徒の髪が、濃い赤色にも似た黒色に見える。
まるで博物館に飾られた漆細工を思わせるような、そんな芸術品とも取れる艶やかな髪に、少年が見惚れて声を掛けられずにいると、その眼差しに気が付いたのか、女子生徒はゆっくりと顔を上げてから言った。
「あら、どうしたの? そんなところで立ち尽くして。――もしかして、私の髪に何かついてるのかしら?」
そう言った女子生徒の声は弾んでいた。くすくすと弾むその声は、元より、少年をからかう事を主としているようであった。その証拠に女子生徒は、全く髪を気にする様子がない。
そんな女子生徒の声に、少年は「ドキリ」心臓を高鳴らせると、視線を逸らしながら言葉を濁した。
「いや、その……読書の邪魔しちゃ、悪いかな、と思って……」
取り繕ってはいるが、少年の心内は既に見透かされている。
女子生徒はその反応をさも楽し気に眺めると、
「あらそう、そんなこと気にしなくて良いのに。――でも、それが君の良い所だものね。素直にありがとうと言っておくわ」
と、無粋な言葉は一切口にせず、また、くすくすと笑うのであった。
もちろん少年が見惚れて声を掛けられずにいた事は、承知の上での言葉である。この女子生徒、中々の自信家である。
照れる少年を尻目に、女子生徒は数秒ほど、そのはにかむ姿を楽しむと、今度は押さえていた髪を耳に掛け直してから言った。
「でも、どうしたの? 今日は随分早いじゃない。その様子だと、何か良い事でもあったのかしら?」
パタリ。と、読みかけの本が閉じられる。
と、少年は、思い出したかのように嬉々とした表情を浮かべると言った。
「あ、そうなんです、聞いてくださいアヤ先輩。先輩に教えて貰った通り、この本に書いてある『まじない』を試してみたら、今朝までおばさんは帰って来なかったんです。おかげで妹も泣かずにぐっすりと寝てくれました。ホントありがとうございます」
「そう、それは良かったわね――」
アヤ先輩と呼ばれた女子生徒は、優しい笑顔を浮かべながら言葉を流した。次いで、
「――で?」
と、一言だけ声に出すと、用件はそれだけじゃないでしょ? と、言いたげに少年を見つめた。
その意味を含んだ眼差しに、少年は礑と気が付くと、今度は申し訳なさそうな表情を作り言った。
「あの……実は、もうひとつ試したい事があって、本の続きを読んでるんですけど、どうしても意味の分からないところが出てきてしまって……」
「あらそう? どこの部分かしら?」
アヤが尋ねると、少年は、慌てて『逆さ十字の本』を開きながら、
「えーと……あ、ここだ。こ、こありそる、ろう……のりふぁ、れくと――し、りら――」
詰まりながらも読み進める少年。しかし、アヤはじれったさを感じたのか、
「コアリソル、ロウノリファレクト、シリラソウニ、テッラ、ヤトラルカ、ルトス――」
少年の声に被せながらその全文を暗唱で読み伏せると、
「――供となるものを捧げよ。さらば、戒めとなる楔とならん――そう言った意味になるわね」
と、言葉の意味まで伝えてから、ニコリと微笑んでみせたのであった。
少年は、空で読み上げたアヤに「さすが先輩」と感嘆したかと思うと、今度は言い難そうに、頭を掻いてから、
「――えっと……それで今のは……どういった意味になるんでしょうか?」
アヤは、一瞬目を丸くした後、突然「くすっ」と反応して微笑むと、今度は少年にも分かるように言葉を選んでから告げた。
「そうねぇ。分かりやすく言うと『生け贄を用意すれば、願いを叶えてあげる』――と、言ったところかしらね」
そう言って、また、くすくすと少年を見る。と、少年は、
「え!? 生け贄……ですか!?」
と、耳慣れない言葉に、先程とは違う驚きを示した。
「そう、生け贄よ――」
アヤは、優し気な表情のまま、言葉を続ける。
「黒魔術を行使する際には、しばしば必要となる触媒の事ね。命を以って対価となす。生け贄は、願いの大きさに対しての覚悟を計る大切なモノなのよ。だから、何でも良いって訳じゃなくて――そうねぇ……もし今、あなたが用意するとしたら『鳩』なんかが良いかも知れないわね」
「鳩……ですか?」
「うん、そう。鳩ならこの辺にはいっぱいいるし、案外捕まえやすいと思うわよ。それにね――」
アヤはそこで悪戯っぽく笑うと、
「――上手くすれば、朝の騒ぎに便乗する事だって出来るじゃない」
悪びれずに言い切った。
「えぇっ――」
少年は少しばかり驚くと、戸惑いを表す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。便乗はともかく、それって……」
するとアヤは、とたん、大真面目な表情に切り替わって言った。
「――そうね。生き物の命を奪う訳だから、あまり良い気はしないわよね。でも、叶えたい願いが大きくなればなるほど、対価としての生け贄は重要になって来るモノなのよ。あなたの願いが、その命に見合うモノかどうか、もう一度、考え直しててみるのも良いかも知れないわね」
最後に漏れた吐息が、どこか「興が醒めちゃったわね」と言っているように聞こえた。
少年は、この変貌したアヤの表情に、焦りと戸惑いを感じていた。
アヤは、時折、冗談ぽく本心を言う場合がある。今見せた表情が、まさにその時のモノで、きっと本人は『鳩の事件に便乗して騒ぎが大きくなれば、面白いじゃない』くらいに思っていたのだろう。
それは良く分かった。
しかし、少年が戸惑いを口にしたことで、それを否定されたと勘違いし、取り繕った台詞のあと興醒めしたような表情を作ったのだ。
少年からしてみれば、否定したつもりなど毛頭なく、確かに、生け贄と言う命を奪う行為に対して嫌悪感を抱いたのは事実であったが、大半は、そんな事をしでかしたら、今、学校中の噂になっている『鳩の生け贄事件』の犯人にされてしまいかねないと懸念したからであった。
それでも少年は、嫌われたくない一心からか、アヤに言われた通りにその場で命の意味を思い返すと、自身の願いに準えて考え始めた。
そして、しばらく黙り込んだ後、顔を上げると、
「やっぱり、今までみたいに爪とか髪では無理なんでしょうかね?」
尋ねてみた。
アヤは、もう一度細く息を吐くと、
「そうね。願いの大きさにもよるでしょうから、絶対とは言い切れないけど、たぶん無理なんじゃないかしら? でないとそう言った事は書き記したりはしないでしょうしね……」
やはりと言った言葉を返して来た。
再び、読みかけの本を開くアヤ。少年への興味は薄れてしまったようである。
「……ですよねぇ」
少年は諦めにも似た言葉を吐くしかなかった。
と、その時、
――ボバァァァァァンッッ!!
突如として大きな爆発音がした。
同時に窓ガラスがビリリと震え、僅かな振動を足元に運んだ。
次いで一瞬の静寂が訪れる。
そのすぐ後に外からの喧騒が聞こえ始め、程なくして非常ベルのつんざく音が響き始めた。
少年は、爆発音に驚いて身体を強張らせていたが、非常ベルの音に我を取り戻すと、今の爆発音が外からのモノだと気付き、確かめるべく窓辺へと駆け寄る。
ガラス越しに外の様子を確認すると、向かいにある中央校舎の二階から、黒々とした煙が上がっているのが見えた。割れた窓ガラスの穴からは揺らめく炎もチラと見えている。階下では既に多数の生徒が集まって来て、野次馬と化してざわついていた。
――すげぇ、火事だ。
少年が驚くと、
「あの位置だと理科室ね」
いつの間にか、アヤが傍に立って並んでいた。無防備に接近したアヤの胸元が少年の肘に触れそうなまでに近付いている。少年は『ドキリ』また胸を高鳴らせると、触れそうな腕を無理な体制で固めた。内心はどうするべきかと葛藤中である。避けるべきか避けざるべきか、それともいっその事――。
すると、外の様子から目を放さずに、アヤが問い掛けて来る。
「ガスが漏れて引火でもしたのかしら。どう思う?」
「ど、どう思うって!?」
少年は僅かに慌てると、頭の中で『触れてません。触れてませんよ』と、何故か言い訳を浮かべながら言葉を返す。
「こ、ここ、こんな昼休みに誰がいるって言うんです? だ、誰か潜り込んだって事ですか?」
ものの見事に声が上擦る。それに対しアヤは、気にも止めずに少年の顔を見ると、
「あら? 潜り込んだとは限らないわよ。今の時間なら、化学の長谷川先生が、午後からの授業の準備をしてたって、おかしくはない時間だもの。その最中に何かやらかしたって可能性は十分にあるわ」
「う、う……ん、でも……」
少年は言い澱みながらも、ようやく気持ちが落ち着いて来る。
「あの神経質な長谷川先生が、そんな失敗するでしょうかね? なんかしっくりこないんですけど」
少年が訝しむと、アヤは『あ、閃いた』と言った感じで顔に出し、
「じゃぁこう言うのはどう? 誰かが黒魔術を使った――とか」
「黒魔術――ですか!?」
その言葉を切っ掛けにアヤは笑顔に戻る。少年は「驚き」を「呆れ」に変えて続けた。
「先輩……。この学校で、ボクとアヤ先輩の他に、誰が黒魔術を使うって言うんです? オカルト研はボクたち二人だけじゃないですか」
言い返すと、アヤはさも楽し気に、
「そんなの知らないわよ――」
無責任に言い切った。
「でしょうね……」少年がこぼすと、アヤはさらに言葉を続け、
「――でも、昨日から噂になってたじゃない。『鳩』の死骸が一昨日の朝にも校門に置いてあったって。あなたも聞いたでしょ?」
「えぇ、まぁ……」
「今朝も含めると三日連続よ。わざわざ置いてあったって事は、それこそ『鳩』が生け贄として使われたって事じゃないかしら。長谷川先生にも色々と暗い噂があったようだし、誰かに恨まれていて、黒魔術を使われたんだとしても全然おかしい話じゃなくなるわ。むしろしっくりするくらいね。――それに、あの規模の爆発だと、死なないまでも『大怪我』はしてるでしょうし、対価としてもちょうど良いくらいのバランスだと思うわよ」
「ちょ、ちょうど良い……ですか」
少年は再び言い澱んだ。
『大怪我』と言う、現実味を帯びたその言葉に、少年は、自身の現況と置き換えて考え始めた。今、この胸の内にある『願い』を叶えるとしたら、いったいどれほどの対価が必要となるのだろうか? 一昨日の朝から『鳩』は校門に置かれていたらしい。これがもし、アヤ先輩の言う通り『生け贄』だったとしたのなら、三羽もの『鳩』を使って、ようやく、怪我を負わせる程度だったと言う事になる。それ以上となると――。
少年が現実ともなりうる数字に頭を悩ませていると、
「ねぇ、こういう言葉を知ってるかしら?」
アヤが、何の抑揚もなく問いかけて来る。
少年は思考を止め「はい?」と返してアヤを見た。と、アヤは薄い笑みを浮かべてから、艶やかな髪を掻き上げて言った。
「根の無いところに花は咲かない――って」
そう言ったアヤの表情は、酷く冷たいものに感じられた。
アヤの整った顔立ちとも相まって、少年には、何か別の生き物が話したようにも感じられた。
掻き上げられたアヤの赤黒い髪が、指の隙間から零れ落ち、まるで手の平から滴り落ちる血のように輝いて見えた。
その光景は悪魔か死神が囁いたようでもあり、或いは、幽霊かバンパイアが呟いたようでもあり、少年は背筋に冷たいものを感じながらも、その笑みから目が離せないでいた。
すると――
「な――んてね」
間を置かずしてアヤはおどけ出す。と、その表情はいつものアヤのモノに戻っていた。
少年は戸惑う。今のアヤ先輩の表情は何だったのか? 幻覚か? と。
少年が未だ信じられないといったように、アヤの顔を見つめ続けていると、アヤは、口を尖らせてから、
「何よその顔。――また私が『変な事言い始めた』とでも思ってるんでしょ」
文句を言った。
少年は我に返り、慌てて首を振ると、
「い、いや、誰もそんな事思ってませんって」
と、取り繕って言葉にする。
それを聞いてアヤは、また、細く溜息を吐くと、
「ほんとかなぁ――まぁ、良いけど」
と、疑りの眼で少年を見据え、拗ねた声を出すのであった。
同時に、鳴り続いていた非常ベルの音が掻き消えた。
『全校生徒に次ぐ――』
非常ベルの音が消えたかと思うと、程なくして校内放送が入り、避難を指示する教頭先生の声が流れた。全校生徒は速やかに校庭に避難し、クラスごとに点呼を取って整列する事。そんな事を言って繰り返される。
アヤは、その放送を聞き終えると、
「仕方ないわね。とりあえず私たちも校庭に行きましょうか。ずっとここに居ても叱られるだけだし、この分だと午後からの授業は無くなっちゃいそうだしね」
そう言って嘆息したかと思うと、次いで少年に向けて「はい」と無造作に片方の手を差し出して見せた。
少年が不思議に思い、アヤの顔を見ると、アヤは何も言わず口元をほころばせる。
少年は戸惑う。――これってそういう意味なのかな?……。と。
少年がもう一度、アヤの手に視線を戻すと、アヤの奇麗な白い手が「さぁ、早く」と催促するように僅かに動く。
少年は気恥ずかしい感情を喉の奥に抑えて意を決すると、
「そ、そうですね」
と、戸惑いながらも、その白い手に触れ、握った。
ニコリと握り返すアヤ。
柔らかく華奢な感覚が、少年の手を伝い、甘酸っぱくも心に沁み込んでいくのであった。
窓の外からは、消防車のサイレンの音が、小さく流れて聞こえて来ていた。
◇◇◇
一方。
昼過ぎになって、篠垣咲子は突如として跳ね起きると、着の身着のまま即座に原チャリに飛び乗って、北西へと向かい走り出した。
年季の入ったエンジンが乾いた音を立てて遠ざかっていく。
不意を突かれたクレマチスは、篠垣咲子がヘルメットを被るその段階で事態に気付き、慌てて階段を駆け下りると、準備の整わないまま『韋駄天の術』を使い、後を追った。
どうしてか、クラウチングスタートのポーズだけは忘れないクレマチスであった。
何とか追いつき、見失わずに済んだと安堵する。
しかし、篠垣咲子は思いの外スピードを出しており、いくら信号の無い生活道路であるとは言え、一瞬としてそのスピードを緩めることなく、狭い道幅を目いっぱいに使い走っていた。
公道レーサーも真っ青なライディングである。
ちなみに、もしここで、スピード違反の取り締まりをしていたならば、間違いなく免停を喰らうほどのスピードであったと言える。
こんなスピードのままだと、誤魔化しが効かなくなるな――などとクレマチスは思いつつ、姿を見えなくする事も考慮に含め後を追っていると、篠垣咲子は急遽「なるほど」と思う所で原チャリを止めた。
パチンコ屋である。
国道沿いの大型店舗である。
立体駐車場も完備された、ご立派なグループ店舗である。
思わず「――はぁ」と、ため息を吐いたほどである。
今日はイベントか何かで時間をずらしての営業なのか、まだ開店には至っておらず、現在、二百名ほどが列を作って並んでいた。篠垣咲子はその中の数人に手を上げて近寄ると、気楽な挨拶を交わし笑っていた。どうやら、入店順を決める抽選が今から始まるらしい。ギリギリ間に合ったと篠垣咲子は喜んでいたのだ。
その様子を、離れた電柱の陰から伺うクレマチス。
荒くなった息を整えつつ伺っていると、「ひょこん」ポケットから白風丸が顔を出し、声を掛けて来た。
「姐さん姐さん。今のはち――っと、危なかったみたいですけど、もしかして、寝落ちでもしてはったんとちゃいますやろか?」
白風丸が心配そうな面持ちで尋ねると、クレマチスは、
「そ、そんな事ある訳ないじゃない。あの子と一緒にしないでくれる」
と、いつもの調子で否定しながらも、その表情はとても辛そうであった。まだ整わない息の音がハァハァと白風丸の耳に入ってくる。
白風丸は、今のクレマチスの様子が明らかにおかしいと、ならばとばかりに鎌をかけた言葉を吐いてみる。
「姐さん姐さん」
「な、何、よ」
「口元――涎の痕がついてまっせ」
とたんクレマチスは、慌てて口元に手をやった。が、すぐに動きを止めて固まったかと思うと、今の言葉が白風丸の鎌かけだったと気付き、わなわなと肩を振るわせながら、
「べ、別に見失ってないんだから、文句を言われる筋合いなんてないわよ!」
完全に開き直っての言葉を吐いた。
――やっぱりか。
白風丸は、疑念を確信に変えると、
「だから『交代で見張りまひょか?』言いましたんや。それやのに姐さん一人で監視する言うて聞かんもんやから――」
「うるさいわねぇ。ちゃんと起きてたわよ。少し頭がボーっとして、意識が飛んだだけよ」
「それを寝落ち言いまんのや」
白風丸がツッコミを入れると、クレマチスはギロリ白風丸を睨みつけ、
「だって、あなたってば、私が見てない所だと、すぐにサボって遊んでしまうじゃない。その所為でこの間なんか、犬が近付いたのにも気付けなくて、泥棒騒ぎになったんでしょ! 何とか誤魔化せたから良かったものの、もう少しで始末書を書かなきゃいけないところだったのよ。分かってんの!」
「そ、そやかてなぁ姐さん――」
白風丸は、バツの悪さから気圧されるも、何とか食い下がり、
「――今日はなんか、いつもと様子がちゃいますやん。妙に疲れてる言うか、たったこれだけの距離の『韋駄天』で、もう息が上がってますやん。それに、今朝かて捨て台詞吐いた場所に、うっかり戻ったりしてはるし、気ぃ抜けてる言うか、調子悪いんやったら交代申請でもした方が――」
「バカ言わないで!」
白風丸の言葉を遮るように、クレマチスは声を荒げると、
「私はね、『色付き』なのよ! 茶翼のクレマチスなのよ! その私が、たった一日にも及ばない、しかもサブの任務如きで交代申請なんか出したりしたら、良い笑いものになるじゃない! 私は皆の手本とならなきゃいけない存在なのよ! そんな甘えた事、許される訳ないの!」
「そ、それは分かりますけど……姐さん」
「もういいっ! この話は終わり!」
クレマチスは無理に話をブツ切ると、荒い息のまま篠垣咲子の監視を続けた。こうなってしまうとクレマチスは頑として言う事を聞いてくれなくなってしまう。非常に厄介なのである。
「――――――はぁぁ」
白風丸は、わざと聞こえる様に嘆息すると、「心配やから言うてますのに……」そんな胸の内を呟いてから、妥協の言葉を吐いた。
「分かりました。そこまで言うんでしたら、ワイももう何も言いまへん。でもせめて、食事だけはちゃんと取って下さいや。幸い、真ん前にファミレスもありますし。監視対象のおばはんも、あの様子やったら二、三時間はパチンコ屋から出て来まへんやろうし――」
その言葉に、クレマチスは、
「分かったわよ。篠垣咲子が店内に入ったら、食事を取りにファミレスに行く。それで良いわね」
と、渋々ながらも了承の言葉を返したのであった。
実のところクレマチスも、今回は何かおかしい――と感じていた。いくら、最終奥義を多用したからとは言え、これ程までに疲労が溜まる事は、今までに無かった事なのだ。アカデミーの頃の方が余程キツイ修練をしていた。
先程までは、カーミィと一緒の任務だったが為に変に力が入ってしまい、疲労が増したのだと思っていたが、どうやら本当に体調が悪くなっているらしい。
クレマチスは、まだ整わない息のまま、ポケットから懐中時計を取り出すと、現在の時刻を確認する。この懐中時計はアカデミーを卒業した証として贈られる常備の品で、自身の身分を表わす証明品である他、帰還の際に【天界】への扉を開ける鍵でもあったりする。
針の示す時刻は十二時四十分。あと数時間もすれば今回の任務は終了となる。
――どうせ担当はサブなんだし、時間が来て監視対象を確認すれば、今回の任務はお終いよ。特に何もする必要は無いわ。それまで我慢すれば良いだけの話よ。
クレマチスは、そう高を括ると、篠垣咲子に視線を戻す。この後、何が起こるかも知らず、ただ真面目に、任務に勤しむのであった。
荒くなっていた息が、未だ整わないクレマチスであった。