第十一話 公団住宅の少年 其の十一
第十一話 公団住宅の少年 其の十一
「どうしてあなたは、すぐ感情的になってしまうのですか……」
再度、意識を失くしたクレマチスをベッドに横たえたあと、『キュアノス=ファセリア』は『ペルマム=アルジャン』からそう叱られた。
――だって、あんな言い方されたら……誰だって……。
そう言いたかった。
しかし、立場上、口にする訳にも行くまいと押し黙っている内に、ペルマムが先に口を開いてしまった。
「あなたが懸命なのは分かりますが『呪い』の影響下で無理をさせれば、こうなる事くらい分かっていたでしょうに」
「……」
『忘却の呪い』が『催眠』と区別される理由がここにある。
影響の残る状況下で無理に思い出させようとすると、脳に負担が掛かり、最悪の場合、全ての記憶を失う恐れがあるのだ。これが『呪い』の『呪い』たる所以であり、その為にも少しずつ探りながら、思い出させる必要があったのだが……。
「……あぁ、そうだったね」
キュアノスはワザと思い出したように言葉を吐くと、憤った息も吐く。自己嫌悪+苛立ち……そして、拗ねたように踵を返し――
「――ちょっと出てくる……」
引き留めるペルマムを無視するように部屋を出た。
まるで子供のようだと自らで思う。情けない――。
キュアノスが苛立つのには理由があった。
その理由を諸兄らに知って貰うには、一週間ほど時を戻さねばならない。
その日、キュアノスは【人界】での調査任務を終え、自室に戻ったばかりであった。
数多ある部署からの報告により挙げられた【悪意】絡みの事象を正しく『調査』し『編纂』する事が『監察官』たるキュアノスの主な任務であった。
近いイメージで例えるならば、発生した事故に対し、原因と防止策を考察する、いわゆる『事故調査委員会』と言った感じではあるが、現状は、調査のみに集中出来るという単純なモノではなく、【人界】の者たち――特に『警察』や『消防』『自衛隊』と言った国家組織への諜報活動も行う任務である為、思いの外、繊細さを要求される任務であった。
まぁ気苦労の多い任務であると知って貰えれば、今の所は良いだろう。
特に急かされる訳ではないが、かと言って、溜め込む訳にも行かない――そんな内容の任務に対し、すぐさま手を付けるか、はたまた、休息を取ってから手を付けるか――悩みながらキュアノスが自室に入ると、ルームメイトの『アリッサ=セラス』が任務支度に追われ、着替えている最中であった。
ちなみにアリッサは、キュアノスが『一級監察官』となって異動して来た頃からのルームメイトであり、同部署の同僚である。
「ただいま――って、あれ? アリッサ、今から【人界】に降りるの?」
姿見の前で調査用のスーツに着替えていたアリッサに対し声を掛けると、アリッサは手を止めずに答えた。
「あぁ、お帰りキュアノス――うん、そう。『執行部』から優先依頼が来ちゃってね。今からでも出向くしかなくなっちゃったのよ」
姿見越しのアリッサと目が合う。アリッサは胸元のリボンタイを整えながら嘆息した。
「へぇ、優先依頼なんて珍しいね。――もしかして、どこかの部署の嫌がらせかい?」
脱いだ上着をベッドの上に放り投げ、冗談半分に軽口を叩く。と、アリッサが改まって向き直り言った。
「――でしょう。やっぱりそう思うわよね!」
何だか必死である。
「だから私も、これは『新人への教育か何かで、優先依頼なんて特別な手配をさせたんだろう』なんて、後回しにしちゃったのよ――」
アリッサはそこで言葉を止めると、眉間にしわを寄せてから、
「そしたらついさっき『預言部』のペルマム大、大、大、先輩から――『執行部』のアドニスと言う新人から、優先依頼が届いていたと思うのだけれど、どうなっているのかしら?――って、催促が来ちゃったのよ」
ペルマムの口調を真似てアリッサは嘆いた。そっくりではなかったが、特徴は捉えていた。
「……『ペル』から?」
キュアノスは訝しんで聞き返す。と、「うん、そう、たっぷり嫌味も言われたわよ……」と、げんなりしてアリッサは言う。
なるほど。とキュアノスは納得した。アリッサが必死だったのは、怖い大先輩から嫌味を言われたが為に言い訳をしたかったからだと。
――しかし。
「何で『預言部』が『執行部』の催促なんか……?」
腑に落ちない。
他部署の依頼を催促するなど、これと言った前例も浮かばない。
そんな思いからキュアノスが尋ねてみると、アリッサは真剣な面持ちで答えた。
「さぁ、分かんない。依頼自体もつまんない内容でね、ここ一週間での『監視鳩』の損失届が多いから環境確認して来て欲しい――って、内容なのよ。そんなの出向いてまで調べる必要ある? 野良猫やカラスに襲われるなんてよくある話だし、それに【人界】に車が走るようになってからは、それこそ、そこら中で轢かれたりしてるじゃない」
ここぞとばかりに愚痴るアリッサ、きっと言い訳の延長なのだろう。気の毒だが相当にへこまされたようである。
ちなみに『監視鳩』とは、言葉の通り、【天使】たちが【人界】の監視用にと配備した『鳩型人形』の事である。生体部品で出来ている為、本物との区別は殆どつかない。時折、群れの中に白い鳩が混じっているのを諸兄らも見掛けた事があると思うが、それこそがまさに『監視鳩』そのものである。
ただ、全てがそうとは限らないので、むやみに捕まえたりしないでやって欲しい。動物愛護は大切である。
「そうだよねぇ……」キュアノスも同調の言葉を吐くと、続けて言った。
「――でも、あの『ペル』が気にするくらいだから、やっぱり何かあるんじゃないのかな?」
憶測じみた言葉を口にすると、アリッサも渋々と頷いてから、
「そうなのよねぇ――。あぁっもう! なんで『監視鳩』なんかの為にわざわざ出向かないといけないのかしら。そんなに知りたいのなら自分たちで見に行けば良いのに!」
アリッサは、そう憤慨したかと思うと、また、姿見に向き直り、リボンタイを整え始めた。
しかし、憤った思いが収まらないのか、続けて口を開く。
「でも、キュアノス――」
「何?」
「――あなた、あの大先輩を捕まえて、良く『ペル』なんて気楽に呼べるわね。ホント、つくづく良い性格してると思うわよ」
何気にとばっちり。キュアノスも言い返す。
「だって、こっちに配属されるまでのルームメイトだったんだよ。プライベートまで敬語なんて、ゾッとしないよ」
それを聞いてアリッサは、軽く口元を綻ばせると「それもそうね――」そして続けて、
「――けど、それを実行できるのが、あなたの凄い所だと思うわよ。ホント、あやかりたいものだわ」
と、嫌味かどうか分からないような言葉で締め括り、ようやくリボンタイが整ったのか、姿見に映った自身を見て「よし」と、ひと言、上着を叩いた。
アリッサは、満足して振り返ると、
「それじゃぁ、とっとと行ってきますか。また催促されたらそれこそゾッとしないしね。まぁ、損失した場所を探って回るだけだから、明日の夕方には帰る予定だけど――ごめんキュアノス。鉢植えに水だけやっといて貰えないかしら?」
アリッサのベッドの傍らには、小さな赤い花の鉢植えが二つある。
何でも、初めて【人界】に降りた際に「身近に植物を置くと運気が上がる」と『風水師』から言われ、買ってしまったのがこの鉢植えである。いくらで買ったのかは知らないが、以降アリッサは毎朝の水やりを欠かさないでいる。
「おーけー、分かった。任せといて」
その程度ならと、キュアノスは軽く返事をする。
アリッサも小さく微笑んでから「うん、ありがと。じゃ、行ってくるわね」と、用意していたトートバッグに手を掛ける。と、
「あぁ、アリッサちょい待ち」
キュアノスは慌ててアリッサを引き留め、言った。
「――忘れ物は無いかい」
最早、儀式に近い言葉である。
それを聞いたアリッサは、指を折りつつ確認すると、
「うん、大丈夫。いつもありがとね。じゃ、行ってきま――す」
と、元気に手を振り出掛けて行くのであった。
「うん。気を付けて――」
扉の向こうに消えゆく姿を眺めながら、キュアノスは見送りの言葉を口にする。
この言葉がアリッサと交わす最後の言葉になるとは――思いもしないキュアノスであった。
その翌日、帰還時間を過ぎても帰らないアリッサに対し、小規模ながらも捜索隊が組まれた。
更にその三日後、ようやく発見されたアリッサの姿は、既に、変わり果てたものとなっていた。
この日より以降、キュアノスは調査を続けている。
ルームメイトの死という現実を目の当たりにして、感情的になるなと言う方が土台無理な話だったのである。
――くそっ……。
逃げるように部屋を出たキュアノスは、通路の壁に額を突き当てながら、一人、唇を噛むのであった。
◇◇◇
ところ替わって――。
カーミィが一連の報告書を書き終えたのは、正子を大きく回った午前零時二十五分の事であった。
体力はもちろん精神力はとっくに限界を迎えており、頬はやつれ、目の下には隈が出来ていた。
ホラー映画の如く、ゆっくりと扉を開けて出てきたカーミィの姿は、まるで半分溶けた雪だるまか、はたまたエクトプラズムのはみ出た幽体離脱者と言ったところだ。
そんな、憔悴しきった状態でよろぼい通路に出てみれば、
「あぁ――やっと出て来た。もう、いつまで掛かってるのよ」
声が掛かる。
力なく顔を上げ、声のした方を見てみると、ルームメイトの『シアニー=ウェスタリア』がそこに居た。
通路の壁にもたれ、ストローのささったドリンクカップを持ちながら腕を組むその姿は、苛立ち半分呆れ半分と言った感じである。
カーミィは、その姿を視界に捉えると途端に涙ぐみ「シ、シアニーぃ……」と、弱々しく呟いたかと思うと、
「うわ―――ん、嵌められたー謀られたー騙されたー仇とってー」
と、まるでいじめっ子に負かされた子供のように、抱き付いて訴えた。
いきなり抱き付かれたシアニーは、ドリンクカップを落としそうになり、ギリギリで持ち直すとバランスを取りながら、
「ちょっと、ナニ、なに、何!?――」
と、慌てた様子で声を上げ、やっとこカーミィを引きはがすと、
「――何よいきなり……穏やかじゃないわね」
と、仕方なく口にした。
「すん」と鼻を啜ってからカーミィは言う。
「青い髪のデカ乳女に嵌められた。だから仇とって」
「いや、仇ってあなた……いったい何があったのよ」
呆れるシアニーの言葉に、カーミィは素直に続きを口にする。
「『一級』の任務を手伝えって言われてハンバーガー奢って貰ったら連絡が届いてなくて報告書を今日中に全部出せってヘリオトさんが――」
何のこっちゃか分からん――と、首を捻った諸兄らも随分居るのではないかと思うが、そこはさすがに付き合いの長いシアニーである。経験則から足りない言葉を見事に補完すると、カーミィの言いたかった内容を十全に把握した。
つまりは、長年連れ添った夫婦のように「あれ」と言われれば「あぁ、あれの事ね」と分かるくらいにツーカーだった訳である。
ただし――理解できたからと言って、必ずしも寛容であるとは限らない。
「あなたねぇ……それって、自業自得じゃないの」
シアニーはそう駄目出すと続けた。
「私には、『ハンバーガー奢って貰ってのんびりしてたら、報告書を書く時間が無くなって、ヘリオトさんにカンヅメにされた』としか聞こえないんだけど」
ニュアンスは違えど正解である。
その言い草に、カーミィは口を尖らせるとすぐさま反論した。
「でもでも、そいつ、連絡しとくって言ったくせに、ヘリオトさんには全く伝わってなかったんだよ。『半日遅れても大丈夫』ってケラケラ笑ってたくせに、めちゃくちゃ怒られたし」
『一級』相手に『そいつ呼ばわりかよ』と思いつつもシアニーは言葉を返す。
「それって、言い方の問題じゃないの?」
「言い方?」
「そうよ――例えば『ハンバーガーを食べ終えたら帰って来るよ』なんて伝わってたとしたら、大抵は『あぁ、もうすぐ帰って来るんだな』って思うじゃない。どうせあなたの事だから、時間なんて気にせずのんびり構えて帰って来たんじゃないの? だとしたら、『遅い!』って怒られても当然なんじゃないかしら」
「ぐ……」
とたんカーミィは言葉を失くした。
と、タイミングを見計らったように、ポケットから白水丸が飛び出して来て補足した。
「シアニーはん、それ正解ですわ。食べ終わってから二時間もぶらぶらしてましたんや、このお嬢は」
言うと同時にシアニーの肩口に避難する白水丸。
「ほら、やっぱり」
シアニーが言い置くと、カーミィは一旦、白水丸にジト目を送ってから、
「だって『半日遅れても大丈夫』って言ってたんだもん。わたし絶対悪くないもん――」
と、いじいじと、いじけ出す。
都合が悪くなるといじけるのはカーミィの悪い癖である。
その態度を見据えたシアニーは、呆れるように嘆息したあと、当初の目的である言葉を口にした。ようやく自身の番である。
「それよりもあなた、ちゃんと買えたんでしょうね。皆待ってるわよ」
「待ってる――って何を?」
唐突なシアニーの物言いに、カーミィは『何のこと?』とあからさまに首を捻る。
と、大きく眉根を寄せてシアニーは言った。
「ミルクプリンよミルクプリン!」
「――あぁ」
「『あぁ』じゃないわよ。皆ずっと待ってたんだから。例の二人組なんて『カーミィはまだかまだか』ってホントうるさかったんだから――」
正直な話、シアニーはこの二人組を巻き込んだことに後悔していた。
二人組はカーミィの帰還時間が近付くにつれ、落ち着きが無くなり「まだかな、まだかな」と、うるさかったのである。作業中、気を削がれたくないシアニーにとっては、うざったい以外の何ものでも無かった。カーミィがヘリオト女史に捕まったと情報が入ると二人組の態度は更にエスカレートし、それこそ『餌待ちのオットセイかよ!』と思うくらいに纏わりついて来たのである。後悔もしようと言うものである。
「あんまりしつこいからアドニスに押し付けてやろうと思ったのに、呼び出されてどっか行っちゃうし。おかげで自室にまで押し掛けられて、こーんな所で隠れなきゃいけなくなるし――まさか、あなた『買えなかった』とは言わないわよね」
念を押してシアニーが尋ねると、カーミィは得意げに鼻を鳴らしてから、
「ふっふっふー。何をおっしゃいますかなお嬢さん。このわたくしめが、事、食べ物に関して手を抜くとでもお思いですかな?」
威張るような事ではないのに実に偉そうだ。
「おぉ――」それでもシアニーが感嘆を漏らすと、カーミィは厨二病患者が取る『決め』のようなポーズまで作り、尚、調子に乗って胸も張る。
「――で、現物はどこ?」
当然のようにシアニーが催促すると、
「どこって、ちーゃんと、ここに…………」
「――どこよ?」
「……」
そこでカーミィは動かなくなった。
得意げであったそれまでの態度は一変、切り取られたスクラップ写真のように静止した。
ピクリとも動かなくなったカーミィに、
「――どうしたのよ」
シアニーが怪訝な表情で尋ねると、カーミィは一筋の汗を流し、ゆっくりと向き直ってから口をパクパクさせた。
両目には、既に涙が溜まっている。
「あなた、まさか――」
その様子から、最悪の想像を浮かべたシアニーは、
「――【人界】に『置き忘れて来た』んじゃないでしょうね!」
ぎこちなくも「こくり」カーミィは頷いた。
すぐさまシアニーは頭を抱え、
「もうっ! 何やってんのよ!」
思わず、憤った言葉を口にした。
食欲にだけは正直なカーミィ、品切れや時間切れによる『断念』は想定していたが、よもや『置き忘れ』という選択肢が発生しようとは、さすがのシアニーにも想定外の事態であった。
ちなみに、カーミィがどこに置き忘れたかというと、公団住宅の植え込み付近である。
篠垣少年から二度目の兆候が発生し、妹ちゃんを引き離したその時、一緒に置いてそのままとなったのである。
妹ちゃんの傍にあるのだから、事後処理の際にでも気付きそうだと思えるが、てへぺろにより処理件数が増えていた事もあり、気を取られ、置き忘れたままとなったのである。
つまりは、電車の中に傘を置き忘れるのと同様の理屈であり、普段持ちなれない物を手放すと、こういう結果になると言う見本のような悲劇であった。
この事態を皮切りに、カーミィは、慌てふためき助けを求める。
「ど、どどど、どうしようシアニー、すぐ拾いに行きたいけど、外出申請通るかな?」
「外出申請――ってあなた、今何時だと思ってるのよ。緊急の任務じゃあるまいし、こんな時間から申請何て通る訳ないじゃない」
「でもでも、なんとかして拾ってこないと、わたし皆に殺されちゃうよ。お金だって全部使っちゃったし」
「全部――って、もう……どこの江戸っ子よ。諦めて殺されなさい。潔く散って来なさい」
「やだやだ! 諦めきれないよ! だって、二回も並んだんだよ、二回合わせて五時間も! ねぇ何か良い手は無いの? いつもみたく悪知恵でも何でもいいからさぁ!」
「悪知恵――って失礼ね! 無理なモノは無理よ! ――あぁ、そうだ」
「何! 何か思いついた?」
「――私の預けた分は、次の支給日まで待ってあげるから、感謝なさい」
「そんなの拾ってくれば、しなくていい感謝じゃないの! ねぇ、ちゃんと考えてってば――」
と、その時である。
「何を騒いでいるのですか! あなたたちはっ!!」
突然、通路一杯に怒鳴り声が響いた。
二人して肩を竦め、声のした方を見てみると、角をはやしたヘリオト女史が仁王立ちしてそこに居た。
ヘリオト女史は言う。
「ここはあなた達の遊び場ではありませんよ! 何度言えば分かるのですか!」
「「す、すみません!」」
二人揃って謝ると、ヘリオト女史は「まったく――」憤った言葉を吐いてから、
「ところで、カーマイン=ローズ」
「は、はいっ!」
「――今『五時間』と聞こえましたが、いったい何の話ですか?」
「――っ!!」
無言の呻きを漏らしたあと、カーミィは再び静止した。
その表情は『顔面蒼白』という言葉が最も似合う程に強張っていた。
返って来ない返事に対し、ヘリオト女史は改まって言葉を掛ける。
「聞き方が悪かったようですね。では、言い方を変えましょう。――その『五時間』の内容は、この報告書の中に書いてあるのですか?」
ぱたぱたと、紙束になった報告書を揺らしながら、顔を寄せて来るヘリオト女史。
口元は穏やかであったが、目の奥は死んだ魚のようにどんよりしていた。
今、下手な事を言えば絶対に怒鳴りちらされる。その事だけは確信していたカーミィは、疲れた脳みそをフル回転させ、下手じゃない言葉を探った。
三秒。
十秒。
二十秒――。
――出て来ない。
長くなった沈黙の後、カーミィは、まるで、観念するかのようにか細い声で言った。
「………………ぃ……ぃぇ……」
すると、ヘリオト女史は大きく溜息を漏らしてから、
「――こっちへいらっしゃい」
怒鳴りこそしなかったものの、その言葉には怒気が籠っていた。
結局、観念した素直な言葉こそが、一番、下手な言葉でなかった――と言う事である。
ヘリオト女史は、すぐさまカーミィの腕をむんずと掴むと問答無用に引っ張った。
引き摺られるように、元居た個室へと戻されるカーミィ。その際、必死になって抵抗を口にする。
「あ、あのね、ヘリオトさん、これには、その、訳が、あの訳があって――って、あのちょっと待って、ちょっと待ってって、いやぁ――――っ!!! もう書き直しはいやぁ――――!!!」
「騒ぐんじゃありません! いったい誰の所為でこんな事になっていると思うのですか!」
「いやぁ――――!! もう指痛いのぉ! 持てないのぉ! 書き直しは勘弁してぇヘリオトさん――!!」
「勘弁して欲しいのはこっちの方です! まったく、あなたと来たら、毎回毎回、何かやらかさないと気が済まないのですか――」
間もなく「パタン」と扉が閉じると、悲痛な叫びはくぐもった音に切り替わり、尚、通路に届いた。どうやらカーミィは、まだ、無駄な抵抗を続けているようである。
事の顛末を傍で見ていたシアニーは、
「こういうのを『身から出た錆』って言うのかしらね……」
疲れた様子で、肩口の白水丸に同意を求めた。
と、白水丸も「そうでんなぁ」恭順の言葉を置くと、
「まぁ、少しは良い薬になると思いたいもんでんなぁ――」
と、溜め息交じりに締め括った。
――災難とは、得てして対岸のものと思いがちである。by偉い人。
今、――うん? と思った諸兄方、正解である。続きをどうぞ。
さて、これからどうしたものか……。
取り残されたシアニーは、残りのドリンクを啜りながら考える。
現物が無いと分かった以上、皆と接触するのは避けたいところだ。
特にあの二人組。
あれほどうるさかったのだから、下手にカーミィより先に遭遇しようものなら、全ての責任を押し付けられて、吊し上げを喰らうのは目に見えている。
ここは一旦、誰かの部屋に匿ってもらうのが最善であるが――果たして、こんな時間から匿ってくれる者が居るかどうか……。
そんな事を考えていると、突然背後から、
「――シアニー……見ぃつけたぁ」
瞬間、背筋に悪寒が走り「――ぃ」僅かながらの悲鳴を漏らす。
恐る恐ると振り向くと、その場には二人組の片方が居た。そろそろややこしいので『左モブ子』と呼んでおこう。
左モブ子は血走った目でこちらをねめつけると言った。
「ねぇシアニーぃ、何ぁんで自室に帰って来ないのかなぁ? もしかして、私たちを避けて、こぉんなところにいるのかなぁ?」
何故だか語尾が伸びている。もはやB級ホラーの展開である。
「べ、べべ、別に避けてなんかいないわよ。そこの個室にカーミィが閉じ込められてるから、まだかな――って、様子を見に来ただけよ」
思わず声が上擦る。と、今度は反対の方向から、
「……ねぇシアニー。今、カーミィの声が聞こえたのだけど、あなた、どこかに逃がしたのかしら?」
もう片方が現れた。
こちらの語尾は伸びてはいなかったが、何故だか抑揚が無くなっていた。まるで読経のようである。
ちなみに、こちらの事は『右モブ子』とでも呼んでおこう。
「に、逃がしてないって。そ、そこの個室よ、そこでまだ、報告書を書いてるのよ!」
恐怖心を誤魔化しながらに訴える。しかし、先程まで響いていたはずの『叫び』は鳴りを潜め、全く聞こえなくなっていた。どうやらカーミィが観念してしまったようである。これはタイミングが悪すぎる。
焦っていると右モブ子はこちらを無機質に見つめながらに言った。
「あら。嘘はダメよシアニー。騙そうったってそうは行かないんだから」
「う、嘘じゃないわよ。本当だって。そこの個室にヘリオトさんと一緒に居るんだってば、疑うなら確認すれば良いじゃない」
シアニーが必死になって訴えると、右モブ子は、
「ふーん。まぁ良いわ。でも、一つ聞いて良い?」
「な、何よ――」
「じゃぁ、何であなたの肩に――」
――カーミィの【白刃鼡】が乗って居るのかしら?
咄嗟に、白水丸の乗っている肩を探った。白水丸は恐れからか、隠れるように背中に回り込んだ。そのタイミングが白水丸を隠すように見えたのか、右モブ子の雰囲気がマズい方向へと変わった気がした。
右モブ子は禍々しいオーラを纏うと、尚、言葉を続けた。
「私ね、さっき教えて貰ったの。あのミルクプリン、実は購入制限があるんですって。とても全員の分は買えないんですって」
それを聞いて、左モブ子も会話に加わる。
「それは初耳だわぁ。もしかしてぇ、知ってて隠してたのかしらぁシアニーぃ」
「か、隠してなんかいないって。私も今聞くまで知らなかったって――」
じわじわと迫って来る右と左。もはやB級ホラー改め、サイコホラーの展開である。
「嘘。きっと数が足りなかったから、二人だけで食べようとしてたんでしょ? ねぇそうなんでしょ?」
「そう言えばぁ、アドニスも見ないわねぇ……」
「じゃぁ三人だ。三人だけで食べようとしてたんだ」
「そうなのぉ、だとしたら、酷いわよぉシアニーぃ」
「ち、違うって、そんなんじゃ、そんなんじゃないってば――――!!」
新たな叫びが、深夜の通路に響くのであった。
このあと、この二人を落ち着かせるために、とっておきの高級チョコレートを提供する羽目になったシアニーであった。
『策士、策に溺れる』とは、まさにこの事である。