scene
「おお、はよーッス」
「あー…。朝練?」
「そ」
会話も短く、ソイツはグラウンドへと歩いていった。
今ここで行われた会話などまともに頭に入れることなく、いつも通りの動作を行い、いつも通りのスピードで歩き、いつも通りの力加減でドアを開けた。
「?」
しかし、今日は教室がいつも通りではなかった。
「…」
自分に反応されたことに対し、ふと一瞬は悩んだものの、特に返事を返さないことを選んだ。元々彼女と会話を交わしたことなどないし、彼女の方も突然ドアが開いたから振り返っただけだ。
自分の席に腰を下ろし荷物を手早く纏めると、いつも通りに睡眠の体勢をとった。違う部分は人がいるということだけで、その他はいつも通りのままだ。
始業のチャイムが鳴るのは午前八時半。しかし、現在の時刻は七時を過ぎた頃。毎日必ず同じ時間に登校し、同じ時間睡眠をとる。これが習慣になっていた。
人間誰しも、自分だけの決まりというものがある筈だ。入浴の際に身体のどこから洗うだとか、靴は左右どちらから履くだとか。毎日電車に乗るが、その中でも座る…もしくは立つ位置、吊り革を掴む方の手はどちらか、など。
つまり、端的に言うと…無駄な時間だ。俺自身無駄だと知りつつも、不思議な魔力というか、魅力というか、そんなものだ。やめなきゃと思うが、やめられないもの。
人間、無意識で行なっていることは当然ある。しかし、意識して行なっていることもある。自分にとって、この睡眠という行為は、無意識に近いと自分自身では思い込んでいる。それほどまでに邪魔されたくない、神聖な時間なのだ。
しかし、今日は違った。
「毎日寝てない?」
「…」
自分と同じ縦列に座る(列が同じだけで席は密着していない)この少女は、明らかに眠らせるつもりがなかった。ドアの開閉に反応して振り向き、その後も一度も元の体勢に戻ることなく眺め続けていた。まるで話しかけられるのを待っているかのように。
「…そうだけど」
「何?家じゃ寝られない系の人?」
家で寝られないとなるともはやそれは家ではなく下宿先なのではないかと思ったが、会話を交わすことすらしたくないので反応を返さない。
「…なんで今日こんな早いの」
その代わりに、別の言葉を返した。こういう人間は、人の事を聞くよりも自分について語る方が好きな場合がある。話したい事をひたすら話して、他人の話は携帯をいじりながら聞く。そういう種類の人間もいる。
「昨日家帰ってないからね」
迷いなくそう言われ、顔をしかめる。
「あ、シャワーは浴びてるかんね。さすがにそこまで落ちてないから」
落ちてる自覚はあるのか、と内心思った。そもそもシャワーの有無なんて気にしてすらいないのだが。
「携帯充電すんの忘れて寝てさー。ホテルだから言えば貸してもらえるのに」
この少女、生活といえばいいのか、恋愛といえばいいのか…上手く説明できる気はしないが、とにかくそういった方向に関しては悪い噂しかない。噂どころか事実だということが既に広まっているのが現状だが。
「ま、大抵疲れて寝ちゃうしね。寝るためにスる子もいるらしいし」
…隠す気もないらしい。
「で、起きたら朝だったってワケ。家行ってると学校遅れるから、そのまま来たって感じ」
反応しなくても勝手に話を進めてくれる。このまま自分が寝ていても喋り続けそうだ。机とでも会話してればいいのに。
「って、聞いてるー?」
「聞いてない」
素直に答えてしまった。彼女に対する嫌悪感がそうさせたのだろうか。
そもそも…いかにも遊んでる、貞操観念のない女性を好む人間はいるのだろうか。友人は多いようだが、何を目的でつるんでるのかを考えると、彼女の周りは歪みきっている気がする。
「冷たいねー」
彼女は気にも留めない様子で、ケラケラと笑いながら言った。こちらに喋る意思が無いことを察して黙ってくれればいいのだが。
「正直、私のこと嫌いっしょ?」
「…」
変わらずニコニコしたまま聞かれた質問に、僅かな驚きと、僅かな罪悪感を感じた。
「ま、私も若いけど、高校まで来ると色んな人間見てるワケ。私の噂を聞いて毛嫌いする人間と、私の事を利用できると思って近付いてくる人間」
「…」
彼女は綺麗に整えられた爪を見ながら言った。悲しい顔もせず、ヘラヘラと笑いながら。
「まあ私も、私自身にクズい所はあるなーって思ってるよ。でも…他に無いんだよね」
「…何が?」
思わず聞き返した。彼女も俺が真面目に聞いていないと思っていたからか、少し驚いた顔で俺を見る。多少後悔したが、彼女から視線は逸らさない。
「…シュミっていうか…好きなもの?」
「…」
何も言わない俺に、彼女は肩をすくめて軽く笑った。まるで俺が発言したことを気のせいだった、というように。
「よくわかんないんだよねー、人生ってヤツが。私達は結局死んで消えるじゃん?それで、今やってる勉強とか、お金とかってなんの意味があんの?化粧とか、遊びとか、ゲームとか、一時の出来事が…それも大して面白くもない事が、時間の無駄になんないのかなーって」
「…」
「まあ、それが面白いとか楽しいって思える人もいるのはわかるけど、私はそうじゃないんだよね」
俺は何も言わなかった。何より、彼女が自分の予想以上に何かを考えていて、悩んでいることに驚いた。何も考えずに行動しているのかと思えば、どうやらそうではないようだ。
「まあ…シてる時は忘れられんじゃん、そういうの。それに…求められてる感じがするから、私っていう存在価値がなんとなくわかるっていうか」
「…」
「ぼんやりしてんだよねー、その辺も。ぼんやりしたまま、ズルズル続けてる感じ?まあ欲求ってヤツかもねー」
彼女は伸びをしながら大きな欠伸をした。彼女の瞳から涙が溢れ、寝不足だからか赤くなっている瞳を擦り、笑った。
「って、寝てるか。誰かに話してるって感じがするから、ついつい話しちゃったよ」
「寝てねーよ」
俺がハッキリとそう言うと、彼女は正真正銘驚いた顔で俺を見た。
「…」
「そんな話聞かされて、眠れって言われてるこっちの身にもなれよ」
「…あは、ごめん。関係ない人だから、逆に話せるのかな」
彼女は困ったように笑った。本当に困ってるのはこっちだ。
「事情なんて知らねーけど、悩んでるなら誰かに相談するべきじゃねーの?」
「…したよ。相談したけど、結局同情されるだけか、適当に流して相手してくれないかのどっちか」
「なら、解決するまで目に入る人間全員に聞け。一億人の人間に相談して、たった一人でも求める答えが見つかるくらいが妥当だと思え」
「…」
彼女はポカンとした顔で俺を見ていた。もう既に俺の睡眠予定時間は二十分ほど減少している。そんな悲しい感じで気を引かれるとこっちとしても困る。
「…じゃあ、早速相談したいんだけど。今の話、どう思ってる?」
「知らねえ」
「え」
「状況も、情報も、立場も、心情も、何もかもわからないのに答えられる訳ないだろ。お前の興味がそそられるモンがないっていうのも、たった五、六個何かに手を出して、全部興味が湧きませんでした、じゃ話にならねえ。お前の事を知らない奴にお前自身のアドバイスを求めるんじゃねえ」
若干、というかかなりキレ気味で言った。聞いてる時から思っていたが、何故何の関係も無い俺にそんな話をするんだ。そんなもの聞いただけなら適当な何かしらの感情が生まれて、それだけで終わりだ。
「…さっきと言ってること矛盾してない?」
「してない。一億人にお前っていう人間を知ってもらった上で相談をしろ。それだけで人生に終わりがくるくらいの時間を費やすことになる。今日からそれを趣味にしてそれに時間を費やして、できるようなら幸せに死ね」
「…」
もう少しで睡眠予定時間が三十分も減少してしまう。俺のこのルーティンワークが崩れていくことで、俺の…何が悪くなるのかは説明できないが、俺の機嫌とごく僅かに体調が悪くなることは間違いがない。
「…ふふ、ふふふ…」
彼女が気色の悪い笑いを始めた。
「うん、わかった。新しい趣味が二つもできた」
「それはよかった」
…二つ?
「じゃあ、記念すべき一億人の一人目になってくれるんだよね?」
「やだよ。無駄に時間使いたくねーんだ」
「言い出した人が手伝ってくれないのは、さすがに男らしくないなあ」
『男らしくない』という言葉は男にとってあまり効果はない。しかし、この言葉は『女性(見た目が良いと効果増)に言われる』ことと『若干思い当たる』ことで絶大な効果を発揮する。
「…」
「決まりね。早速明日から、私も早い時間に来よーっと」
「マジでやめろ」
俺のルーティンワークを潰す気か?
「じゃあ、放課後私に付き合ってくれる?」
「…」
苦渋の選択。
どうやらお互いに、夜遊びという名のルーティンワークと、睡眠という名のルーティンワークを失うようだ。