touch
「シッ」
一区切り終え、また足を運び始める。
ポケットに入れてあるスマートフォンを確認すると、消えていないディスプレイはタイマーの画面になっていた。表示を確認し、普段と変わらないかを確認する。
12…25…悪くない。
しばらくは無心で走り続ける。昔は走っている時に何かを考えたものだが、今はもう、時間と走るペースのことしか考えていない。
無心で走っている間に、一つの目的地である公園にたどり着いた。着ていたパーカーのフードを取る。掻いていた汗が急激に冷えていくのを感じる間もなく、流れるようにトレーニングを開始する―――
「あ、今日もいるんですね」
ことができなかった。というか、あまりに突然のことだったので飛び上がって驚いてしまった。なんとか声はあげずにすんだが。
「あはは~。驚かせちゃいました?」
振り返ると、公園のベンチに後ろ向きに座っている人物がいた。背もたれに肘をついて、こちらを興味ありげに眺めている。
俺は視力が良い。今までの学生生活の中でも、視力検査では一度も眼鏡を勧められたことはない。夜、空に浮かぶ小さな星も見える。だがしかし、俺は分からなかった。
そこにいる人間が、男性なのか女性なのかが。
髪型も長くはない。男性でもあの髪型はありうるし、女性でも当然おかしくはない。中性的な顔立ちと、男性にしては高く、女性にしては低い声。おそらく化粧をしている訳ではなさそうだが…女性でもおかしくない肌の綺麗さ。胸から下がベンチの背もたれで隠れている上にその胸も腕で隠れているため、全く性別の識別ができなかった。
「…どうも」
その人物の正体がわからず、俺は会釈だけを返した。それを見て満面の笑みを作るその人物を見て、改めて綺麗な顔立ちだと再確認した。
「おにーさん、ボクサー?」
「…まあ、一応」
俺はプロボクサーである。とはいえ、知名度もなければランキングも良い位置にいる訳ではない。それもそのはず、最近プロボクサーになったばかりの選手だからである。階級はバンタム級。ボクサーといえばガッシリした巨漢のイメージがあるのかもしれないが、俺はそれとは真逆の、ひょろひょろとした見た目に見えるだろう。
そもそも、重量級が人気なのは海外だけだ。日本ではフライ級、バンタム級、フェザー級辺りはまだ人気があるが、そもそもテレビ中継されることがないことすらある。世界に挑戦するならば話は別だが、国内での試合なんて、大衆の前では関係ない存在も同然だ。
「三日くらい続けて見てるけど、いつもここで練習してるの?」
「…試合前後以外なら、ここが一番近いんで」
確かに三日続けてここで練習をしているが、誰かに見られていることなんて考えもしなかった。視線なら簡単に気付きそうだが…集中しすぎて気付かなかったのか?
そもそも、時間も午前四時半。こんな時間に人がいるなんて思ってもみなかったからかもしれない。
「そっかそっか。…よいしょっと」
その人物は立ち上がり、缶を持っていた右腕を迷うことなく振り下ろした。まるで洗練された動作かのように、ごみ箱の中心に感が吸い込まれ、静かな公園に甲高い音が響く。
一瞬ではあったが、その人物が投げた缶が酒だったことを確認した。面倒ごとにまきこまれないか心配になる。さっさとトレーニングを再開したい。
「あ、大丈夫だよ。成人してるから」
心を読まれたかのように、その人物は俺に対して的確な言葉を放った。見た目の幼さから不安だったのだが、問題はないようだ。警察に巻き込まれるという面倒ごとの心配は、とりあえず消えた。
「ボクサーってさあ、一般人の拳は避けられるの?」
ふざけたような、ふわふわとした感じでパンチの真似をしていた。女性なら可愛いで済むのかもしれないが、まだ性別がわからない。ジーンズに黒いパーカー、胸も…無いので逆にわからない。
「まあ、避けられると思いますよ」
自信を持って答えた。パンチの真似を見てもいかにも素人、それに酔っ払いの拳なんて当たるものか。それに、俺は足を動かして相手の攻撃を避け、然るべきチャンスを狙って一撃を狙う、いわばアウトボクサーだ。ボクサーの拳も、全てとは言わないが避けられるのに、一般人の拳が避けられなければ話にならない。
「お〜。じゃあ、試して試して〜」
酔っ払いの相手は面倒だが、これも練習だと思えば問題ないか。怪我だけはさせないように気を付けなければならない。
「準備運動はした方がいいですよ」
「え〜?いいよそんなの」
まあ、酔っ払い程度なら本気で打ち込んでくることもないか。
「じゃあ、俺は打ち返さないんで」
「うん。いくよ〜」
その人物は、ゆっくりと―――
「っ!?」
掠った。恐ろしい勢いでワンツーが飛んできた。今のは当たっていたら完全にダウンものだ。避けた自分を褒めたくなるくらい、今まで見てきたどのパンチよりも速かった。
「おにーさん、インファイター?」
「…」
足を使うアウトボクサーに対して、足を止めて相手と打ち合うタイプをインファイターと呼ぶ。相手のパンチを受けて、自分のパンチを返す。単純にどちらが強いかをくらべるかのような戦い方だ。
しかし、俺はアウトボクサー。足を使う、相手のパンチを避けるタイプのボクサーだ。
つまり今の発言は、「インファイターなら掠ってもしょうかないか」という意味になる。
「まあ当たってないし、今のナシね」
気持ちを切り替える。認識を改めなければならない。この人物は酔っ払いでもなければ、一般人でもない。プロの…プロの、
「はい、いくよ〜」
殺し屋だ…!
◆
「う〜ん、いいね。ずっと気になってたんだよね〜」
「…」
一ラウンド分…約三分後、俺は大の字で仰向けに転がっていた。お気に入りのグレーのパーカーが汚れることも気にせず、大の字で。
結論から言えば、当たってはいない。プロの試合も含めた、今までの人生の中で一番集中力を使い、一番神経を研ぎ澄ませ、また、一番怖かった。
肩で息をしながら、全く息を切らせることもなく立っている人物を見て、俺は恐怖心と共に自分の弱さを思い知る。
「おにーさん、プロボクサー?」
頷く。というか、言葉が発せられる状態じゃない。
「そっかあ。プロボクサー相手だとこんな感じかあ」
この人物が本気で打ち込んできていないのはわかっていた。わざと俺がかわせるように打ち込んでいるようにすら思えた。それがまた俺の恐怖心を募らせ、そして、体力を奪う。
それよりも、問題はそこじゃない。
一発も打ち返せるチャンスが見当たらなかった。俺が打たないのは当然なのだが、仮にこの人物が試合相手だとしたら、俺は一発もパンチを出すことができずにかわし続けていることしかできなかった。それでいて、この体力の差。
何よりも、パンチを打つ時の殺気が無い。普通のボクサーならば、殺気が存在する。それによりパンチを予測し、また、フェイントの際に使用される。それが、全く無い。全てのパンチに殺気がなく、予備動作が短すぎる。手加減されてたとはいえ、当たらなかった自分を褒めたいくらいだ。
「明日も来る?」
「…」
正直、怖すぎてもう打ち合いたくない。
「ねーえ」
仰向けに転がる俺を、やけに笑顔で覗き込んでいる。
鬼か。
「…」
仕方ないので頷いた。途端に満面の笑みになる。
俺は起き上がり、服についた葉を手で払う。目の前にいるこの人物も手伝ってくれるようで、時間もかかることなく綺麗になった。帰って洗濯はするが。
「どうも」
「いーえー。明日も楽しみにしてるね」
ニコニコしながら、着ていた黒のパーカーのポケットからビールの缶を取り出した。重い缶をポケットに入れながらもあれほどまでに俊敏な動きをしていたのか。化け物め。
「ところで…」
「ん?」
「…女、なのか?」
失礼を承知で聞いた。これで女性なら、さらに俺は精進しなければならない。
その人物はきょとんとした顔で俺を見ると、服の試着をしたかのように動きながら自分の姿を確認し始めた。
ひと通り確認したかと思うと、やけにニコニコしながら俺を見、俺の肩に手を置いて、
「―――どっちだと思う?」
「ッ!?」
耳元で囁いた。妙に妖艶で、仰け反ると同時に、顔が異常に熱くなる。
「またね〜」
そんな俺の気持ちも知らず、その人物は後ろを向いて手を振りながら歩いていった。時折手に持っているビールを飲みながら。
明日は来たくないと思った。