瀬里奈と沖縄の夏
1
「ホラ、あいつだよ。白いセル・フレームのメガネ掛けて・・・そう、ポニーテールの子。あの子が高井瀬里奈だよ。」
フランス語の講義中、隣の席の中野が右斜め後ろの席の子を指しておれにささやいた。
「ふーん、あいつか、みんながカワイイとか言ってるの。そんなにいいか? カルそうじゃん。」
「バッカ、ウチのクラスの大半の男はあいつに目つけてんだぜ。竹本は理想が高すぎるんだよ。」
それが正直、瀬里奈の第一印象だった。
大学に入って、2ヶ月が過ぎようとしていた。
横浜で迎える初めての夏も間近だ。
去年は東京の予備校で1年間を過ごした。
それ以前は18年間、沖縄にいた。
現在も両親と姉はそこにいる。
姉はもうすぐ結婚するけどね。
とにかく家を出たかった。
東京で浪人をした影響もあるが、沖縄の大学には行きたくなかった。
地元に残った友達は、ほとんどが今年大学2年生だ。
沖縄の狭い世界の中で、同級生の後輩にはなりたくなかった。
結局、東京ではなく横浜(といっても都会からはなれた田舎の山の上)のキャンパスに通っているが、2年生までの教養課程が終われば東京に移ることになる。
大学はミッション系で割と女のコも多い。
特に横浜キャンパスには1、2年生しかいないので、自由な雰囲気に溢れている。
結構気に入ってるんだ。
下宿は片瀬江の島だ。
ちょっとキャンパスからは遠いけど、海の近くでなかなか環境はいい。
入学と同時に入部した水上スキー部の活動や、その諸費用(競技用具やボート免許取得など)のためのバイトが忙しくてなかなか思うようにキャンパスに顔を出せず、それで瀬里奈を知ったのも他の奴らにだいぶ遅れたわけ。
しかし、カルイ子っていうのはどうもね。
自分が沖縄育ちだから、時代の最先端(!?)を行くような女子大生には、どうも気後れしちゃうな。
「ウチの法学部は卒業が大変なんだぜ。大丈夫か、竹本。」
長い講義も終わり、キャンパス・カフェでコーヒー飲んでいると、中野がそう言った。
「うん・・・今度教習所に通おうと思ってな、それでバイトしてるし・・・」
船舶免許取得が優先され、おれはまだ車の免許を持っていなかった。
中野は戸塚駅近くのアパート暮らしだ。
やっぱり浪人しているが、運転免許はすでに持っている。
代返や泊まらせてもらうなど、入学式で知り合って以来かなり世話になっている。
「ま、なるべく出席はした方がいいぜ。浪人に留年じゃさまにならないからな。」
全くその通りだ。
でも、水上スキー部はボートも運搬しなければならないので、自動車運転免許取得は必須だと先輩方からも急かされているんだ。
あと1ヶ月でおれは20歳になる。
キャンパスをチャラチャラ我が物顔で歩いている奴らを見ると頭にくることあるんだよな。
(てめーら、勉強しろ!)
なんて、もっともおれも人のこと言える立場ではないが・・・
でも、意気込みが違うんだ、奴らとは。
法学部に体育会、それに来年は教職をとろうかななんて考えている。
体育会っていっても、水上スキー部はマリンスポーツ系でもマイナー競技だし、活動もやや特殊で、そんなに大それたものではない。
毎日学ランを着ることもなければ、髪形も自由。
正式行事や試合の時は、エンブレム付きの指定ブレザーを着なきゃならないけど、それも別に苦になるものではない。
週末の利根川河畔でのミニ合宿も多少はキツイが、もう慣れたしね。
高校時代からウインド・サーフィンとかボディ・ボードをやっていたので、水上でのバランス感覚は悪くないと思う。
十分大学生しているのかな。
担任がいて、教室に自分の机とイスとロッカーがあって・・・というわけではないから、あまり実感はわかない。
コーヒー飲み終えて紙コップをゴミ箱に捨てに行くと、瀬里奈が1人でケーキをつついているのを見つけた。
(ふーん、1人で食べることってあるのか、女の子でも)
サークルなどの集団で固まって行動する学生が多いこのキャンパスでは、その姿は異彩を放っていた。
目が合った。
しかし、臆病なおれはすぐ視線を外してしまった。
あ、あ・・・この癖は東京に出てきても、ついに直らなかった。
何のサークルに入っているのかな・・・
少し興味がわいてきた。
「じゃ、おれ部室に顔を出すから。」
中野そうに言い残し、カフェをあとにした。
昼休みも半ばを過ぎ、丘の下のチャペルでは礼拝の時間を告げるパイプオルガンが鳴り響いていた。
2
6月ともなるとさすがに日は長い。
正門までのダウンスロープをクラブの連中と一緒にダラダラ下っていくとき、つくづくそう感じた。
土日に合宿などが入ると、月曜日が休みになるはずだが、実際には何だかんだで夜に下校する日々が続いていた。
「久しぶりだな、こんなに早く帰るのは。」
夕陽をもろ顔面に受け、川田が言った。
「でも、野郎ばかりじゃさえないな。」
今度は桧山がつぶやく。
1年生女子部員の2人、工藤みゆきと山﨑香子は、貴重な休みを満喫すべく、昼休みが終わると元町に行くと言って帰ってしまったのだ。
「それより、合コンの話はどうなったんだ。」
中村が思い出したように突然切り出した。
そう言えば、川田の女友達がいるT女子大と合コンをやるっていう話があったっけ。
みんな、もちろんおれを含めてだけど、ミーハー大学といわれるこの大学で体育会に入るくらいだから、よっぽど女の子には縁がないのかも。
特に中村と桧山はどうみても女っ気があるようには見えない。
奴らはおれと川田のこと、女たらしだとかチャライとかよく言うけど、おれとて高校時代にそんなにロマンスしていたわけじゃない。
高校2年の秋、学園祭の頃に同じクラスの上原理沙とつきあったことあるけど、高3の今頃だったかな、クラスも変わりダメになっちまった。
理沙の方がおれより上のクラスになって、そのクラスでサッカー部の彼氏(大城祐次)を見つけたんだ。
おれはそんな理沙を忘れられず、卒業式の日まで遠くから眺めてるばかりだった。
カッコ悪いけどね、そういうのって。
大学生になれば、何とか彼女もできて、バラ色のキャンパスライフが・・・なんて想像していたけど、その兆しさえないな、今は。
チャラチャラしたバカ女嫌いだしね。
そんなこと言ってるおれこそバカ男なのだが。
でも、今思うと理沙もカルイ女だったのかな。
結局おれは理沙の本当を知らないままつきあい、別れてしまったのだ。
でも理沙もよく
「浩一クンってよくわからない」
って言ってたっけ。
おれたちのつきあいって一体何だったんだろう・・・
理沙は現在、地元の国立大学の2年生だ。
一緒に入学した大城とまだつきあっているのだろうか。
それとも新しい彼氏ができて、おれとよく行った波の上ビーチや国際通りのスタバでデートしたり、おしゃれなBARとかでカクテルを飲んでいるのだろうか・・・
懐かしくなってきたな、何か急に。
夕陽は見る者の思考を素直にするって何かの本で読んだことあるけど、おれはまだ理沙に未練があるのだろうか。
卒業式の日から一度も会っていない理沙を忘れられないのだろうか・・・
そんなセンチメンタルな体質じゃないのにな。
正門のはるか向こうに大山が映えている。
駅までの足取りはなぜか重かった。
「おい、あれ高井さんじゃないか?」
駅前の交差点で信号待ちのとき、疾走していくヤマハ・ビーノを指して桧山が叫んだ。
桧山も法学部で同じクラスだから、瀬里奈を知っている。
確かにあの後姿は瀬里奈だ。
今日知ったばかりなのに、なぜか確信が持てた。
バイクと同じワインレッドのヘルメットからなびいているロング・ヘアーが印象的だった。
「ああいうの、竹本の好みじゃない?」
「バーカ、おれがカルイ子嫌いだって知ってるだろ。」
そう否定しても、桧山は意味深に笑っている。
何か今日は女の子のことばかり考えている。
おれらしくもない。
そう思っても、目はしっかり鎌倉方面に走り去る瀬里奈の後姿を追っていた。
そして、なぜかそんな瀬里奈に理沙がダブって見えた。
駅でみんなと別れた。
下り電車に乗るのはおれだけだからさ。
藤沢まで出て、江ノ電に乗り換える。
入学が決まった3月、藤沢駅近くの不動産屋に紹介されて江ノ島の下宿をすぐ決めてしまったのも、この江ノ電の雰囲気が気に入ったからかもしれない。
海沿いをガタゴト走った先に見える街の景色は、軽便鉄道の跡地、故郷の与那原に似ている。
沖縄本島の東海岸に位置し、近くの知念岬は初日の出スポットで有名だ。
故郷から離れたいと思いつつ、どこかで海の見える景色を求めていたのかもしれない。
江ノ島駅で降り、線路内を少し逆戻りすると下宿の入口がある。
格子戸をくぐり、大家の住む母屋の前を通り、木造2階建ての家の扉を開ける。
2階建てといっても1階は風呂とトイレだけで、あとは壁で仕切られて母屋につながっている。
階段を上がると6畳と4畳半の和室と小さなキッチン。
琉球畳というわけにはいかないが、和風の造りがなかなか気に入っている。
窓の下には江ノ電が走る。
本当は鎌倉もいいなと思っていた。
本土の教科書で学ぶ日本史が苦手だったので、古都の知識があるわけではないが、若宮大路にある教会には浪人中に何度か行ったことがある。
別にクリスチャンではないけどね。
洗礼を受けようと思ったこともない。
でも、キリスト教自体には少し興味がある。
高校の頃、倫理の授業で『神の国』について聞いたことがきっかけだ。
担当の先生が余話として、「個人的な解釈だが・・・」と言いながら説明した内容に、なぜか引き込まれたことを時折思い出す。
「『神の国』はイエス・キリストが神として地上の人間を選んで導くことができるのだが、神が選ぶ人間は必ずしも善い人ではなく罪人なのだそうだ。なぜ神が罪人を導くのかというと、罪人は自分の罪を知っているからだ。また、善い人とは自分の罪を知らない人のことだ。人間は多かれ少なかれ、罪を犯しているはずで、完璧な人間などいやしない。だから、神は自分の罪を知っている罪人を導くのだ。そして、罪人は神に許される以外、その罪から逃れることはできない。」
こんな感じの話だったような気がする。
クソ真面目に聞いていたわけではなかったが、中途半端に生活態度の悪かったおれにとって、この話はかなりインパクトがあった。
悪ぶっても本当の悪になれないかったおれには、まだ救われる余地があるんじゃないかと思えたんだ。
もちろん、それからの行動が一変したわけではないが、しばらくの間、頭の中から離れなかったな、この話は。
それが何の因果か、今こうしてキリスト教系の大学に通っている。
入学式の日、チャペルでパイプオルガンの音を聴いたとき、この話を思い出したっけ。
だから、一般教養の中では『キリスト教概説』だけは1回も欠席せずに参加している。
時の流れなんて早いもの、江ノ島に来て2ヶ月が過ぎようとしている。
高校を卒業して1年、そして1ヶ月後には20歳になり、その半年後には成人式を迎える。
変わらなくちゃな、と思うことが最近多い。
特に江ノ島に来てから、よくそういうことを考えるようになった。
3
1限の英語に遅刻しないようにするのは至難の技だ。
今朝もそれはいつもと変わることなく、門から最も遠い6号館までダッシュした。
隅っこの席に座れたときはもう汗だくで、ノートやテキストでペタペタあおいでも汗が引くのに10分ほど要した。
しかし、上には上がいる。
その頃になってようやく瀬里奈がやってきた。
それも悠然と。
ライトブルーのヨットパーカーの下には白いTシャツ、ブルージーンズの足元には白いスニーカーだ。
走った様子など全くない。
大幅な遅刻とあいまって、その姿はかなり目立った。
学費がやや高いからか、それとも派手でミーハーなイメージのあるせいか、お嬢様、お坊ちゃん系やらグラビア・モデルまがいの勘違い学生が多いこの大学では、特に女の子のスタイルはあでやかだ。
それこそ、TVやファッション雑誌から飛び出てきたかのような女の子がいっぱいいる(ホントにそういう子かもしれない)。
だから余計に瀬里奈がシンプルに見えた。
そういえば、昨日もジーンズだったような気がする。
ポニーテールに白いセル・フレームのメガネは確かにミーハーに見えたが、思えばそれ以外は特に着飾っていない。
化粧もしていないようだし、マニキュアやピアスもしていない。
全然「カルイ女」じゃないのかもしれない。
講義が終わり、出席カードのない遅刻者は学籍番号と名前を伝えにくるよう講師に言われた。
いつもは数人いるのだが、今日はおれと瀬里奈の2人だけだ。
何となく、照れくさい。
もちろん、瀬里奈にそんなそぶりは見えないが。
「学籍番号と名前は?」
「J―205 竹本浩一」
「J-201の高井瀬里奈です。」
若い講師の先生は赤ペンでチェックしながら視線をおれたちに移した。
「君たちはどこに住んでいるの?」
「江ノ島です。」
「私は鎌倉です。」
「2人ともそんなに遠くないじゃないか。竹本くんは3回遅刻、欠席1回。高井さんは4回遅刻に欠席2回か。2人ともかなり危ないので十分気をつけないと。」
「ハイ」
やっぱりこの子もそこら辺で遊び歩いているのだろうか。
そうでなきゃ、鎌倉からこんなに遅れないだろ。
江ノ島は近いようで結構遠いんだぜ。
もっとも、東京や埼玉から来てる奴らはもっと時間がかかっているから、そんなこと理由にはならないと思うが。
で、今日もタイミングを逸してしまった。
何のタイミングかって?
瀬里奈に話しかけるタイミングさ。
一度話をしてみたくてね。
汗でぐっしょり濡れたままのポロシャツが気持ち悪くて、部室で着替えた。
間もなく川田たちも部室に来たので、いつものようにくだらない話をしていたが、ふと気がつくと、頭では常に瀬里奈のことを考えていた。
無表情の顔にセル・フレームのメガネ。
ポニーテールにワインレッドのヘルメット。
かなり強烈だったな、その印象は。
その夜、なぜか川田の家に桧山と2人で泊まりに行くことになり、せっかく東京に行くのだから飲もうってことになった。
渋谷の109脇のビルのエレベーターに乗り、8Fのボタンを押し、扉が閉まりそうになったときにあわてて女の子5人組が駆け込んできた。
「わーよかった。」
「ヤダー押さないでよ。」
「何階だっけ? ボタン押しなよ。」
やたらうるさかったが、扉が閉まると一瞬にして静かになった。
何か緊張したというか、急にシーンとなったからその女の子たちは突然笑い出した。
で、その子たちは6Fで降りていった。
「何かマイるよな、ああいうの。」
桧山が顔をしかめた。
「3人だったらチャンスだったのにな。背の一番高い子がよかったよな。」
川田がそう言ってニヤリと笑った。
奴はやっぱり筋金入りの軟派だ。
真面目な桧山なんかとは考え方が根本的に違うのかもな。
おれはおれで、
(早く飲みたいな)
なんて別のこと考えていたりして・・・
厳密に言えば、おれも桧山もまだ19歳なので、クラブでも飲酒は禁止されている(5月生まれの川田は20歳なのでOK。今日来ていない中村だけが現役入学で18歳だ)。
けど、高校時代も含めて結構飲んでしまっている。
法学部の学生なので、ダメだとは思いつつ・・・
そうこうしているうちに8Fの『M’s BAR』に到着。
この店に川田のボトルが入っているとかで、おれと桧山はタダ酒にありつこうと思ったわけ。
20歳でボトルキープって・・・東京生まれ東京育ちの川田は、オシャレなのかオヤジなのかわからない。
将来的に“ちょい悪オヤジ”になるのは確実だろうけど。
案内された席に着き、川田がピンク色のボトルカードをパンチパーマのウエイターに渡し、シーバスリーガルと告げた。
「じゃ、ひとまず乾杯!」
てな感じで飲み始めた。
最初のうちはクラブのことを中心にランダムに色々な話をしていたが、4分の3以上あったボトルが空になってニューボトルを入れた頃、いつものごとく女の話になってきた。
川田の女遍歴をさんざん聞いた後、矛先が桧山に向けられた。
「おれ彼女いないし・・・背が低いじゃん。だから女の子も背が低い子がいいな。ウチのクラスだったら・・・高井さんなんていいかな。竹本には悪いけど。」
桧山の言葉におれは今日のことを思い出していた。
教壇の前で並んだとき、瀬里奈は意外と小さくて、おれの方あたりに額があったっけ。
おれが175センチあるから、155センチ弱くらいかな。
「やっぱ竹本、高井さんに気があるのか。」
川田が推し量るように行った。
桧山もニヤニヤ笑っている。
「べ、別に・・・そういうわけじゃないよ。」
何、意識しているんだろう、おれ。
ピッチを上げて飲んだせいだろうか。
段々酔いが回ってきた。
翌朝、目が覚めると等々力にある川田の家だった。
恐ろしいことに、おれと桧山は店を出てからのことを全く覚えていない。
1人生きていた川田の話によると、ニューボトルも開けてしまった(!)後店を出たが、東横線に乗ったあたりから桧山が真っ青になり、自由が丘のトイレでさんざん吐いたらしい。
等々力の駅を降りると今度はおれがおかしくなり、吐きこそはしなかったが玉川消防署の前でわめき散らしたそうだ。
別に冗談を言っている様子もないので、どうやら本当らしい。
こんなこと、今までなかったぞ。
高校時代から泡盛を飲んでいるおれは、うちなんちゅーらしく酒には強いはずだ。
しかし、頭がガンガン痛い。
桧山は意外としっかりしている。
「で、おれどんなことわめいてた?」
川田にたずねると、
「瀬里奈がどうのこうの言ってたぞ。瀬里奈って誰だ?」
「高井さんのことじゃないか。」
桧山がムクッと起き上がる。
(ま、まずいな・・・)
それにしても、おれ自身、多少興味があったとしても、瀬里奈に対してそれ以上の気持ちではないと思う。
一過性のものなのだろうか。
だって、瀬里奈を知ったのは一昨日のことだぜ。
惚れたとしたら、あまりにも早すぎるじゃないか。
それよりも、まだ理沙に未練があるかもしれないと思っていた。
けど、聞けないだろ、川田に。
「昨夜、理沙のこと言ってなかったか?」
なんて・・・
過去を話すのキライだしね、おれ。
で、その日は疲れて何もする気になれず、トレーニングがオフなので真っ直ぐ江ノ島に帰った。
桧山と川田は講義を受けに大学に行った。
まる1日つぶしてしまったな。
下宿でまたしばらく寝て起きると、外はもう真っ暗だった。
部屋の灯りをつけると、窓の下で江ノ電が走った。
結構助かるんだ、これが。
誰もいない部屋でシーンとしてるの寂しいしさ。
これは男も女も変わらないと思う。
だから、例えTVの映りが悪くなろうとも、電話の声が聞き取りにくくなろうとも江ノ電には感謝している。
夏が来れば、もっとにぎやかになるんだろうな。
それと、夏休み前に姉の結婚式に出るため、沖縄に帰らなくちゃならない。
4歳上の姉は短大卒業後、地元の銀行に勤め、そこで知り合った人と職場結婚ってやつさ。
おれはその人、まだ知らないんだけど。
乱雑した部屋を片付ける気にもなれず、駅前の店で缶ビールを2本買って、飲みながら深夜までTV映画を観ていた。
何しろ、沖縄では民放が少ないから、去年からTVを観る時間がぐっと増えた。
特に土曜日は明け方近くまで観ている。
完全に夜型生活だ。
だから、遅刻が多いのかな。
言い訳だろうな、これ。
大学に入ってから、いまいち不完全燃焼だ。
勉強も遊びも何か中途半端な気がする。
理沙のことも含めてさ。
もうすぐ20歳になる。
一刻も早く充実した生活にしなければならないと思う。
20歳の瞬間は沖縄で迎えることになりそうだが、大学生として、20歳の夏はこっちでプロローグされる。
変にプレッシャーを感じるんだ。
その瞬間に何が変わるってもんじゃないのだろうけど、10代のときのような甘えは許されない気がする。
とりあえず・・・もうすぐ夏が来る!
4
うだるような暑さだ。
梅雨の合間を縫って帰省しようと思い、久しぶりに晴れた日の早朝、羽田から飛行機に乗ったのだが、那覇空港に降り立つと信じられない熱気に包まれた。
雨に見舞われても困るが、こう暑いとは思ってもいなかった。
5日後におれは20歳になる。
大学は1週間休むことにした。
たった1人の姉の結婚式だしな。
わずか3ヶ月ぶりの那覇なのに、何だかひどく昔のような気がする。
しかし、空港からゆいレールとバスを乗り継いでウチに向かう中、だんだんとテンションが上がってきた。
両親にしても、突然家の中から姉がいなくなるわけだから寂しいだろうし、おれがいることで多少の気休めにでもなればね。
どうせ友達は2年目の大学生活を満喫しているだろうし、今回はなるべく家にいようと思っていた。
去年は勉強を理由にろくに帰省しなかったし、これからも帰る機会は減るだろう。
それに、一家水入らずなんてあとわずかだしな。
そう考えると、18年間過ごした沖縄はやっぱりおれの故郷だ。
車窓から海が見えたとき、また理沙のことを思い出した。
彼女ももう大学2年生。
まだあいつと一緒かな・・・
バスはやがて最寄の停留所に着いた。
「ただいま。」
実家の扉を開け、3ヶ月ぶりに一歩足を入れた。
しかし誰も返事をしない。
「誰もいないの?」
全く無用心だな、鍵を開けっ放しで家を留守にするなんて。
結局、久しぶりの我が家にこういう形でおれは迎えられたわけだ。
ところが、庭(猫の額ほどだが)の方で何か物音がした。
「浩一か?」
父親が庭から居間の方に身を乗り出していた。
「ただいま。」
「ずいぶん早く着いたじゃないか。」
Tシャツにハーフパンツなんて若々しい格好しているが、父親はもう還暦間近だ。
東京で教師をしていた父親が修学旅行の引率で初めて沖縄を訪れ、その雰囲気に惹かれて移住を決意したのは30年位前だそうだ。
一念発起して沖縄の教員採用試験を受けて採用され、最初の赴任先で母親と知り合い結婚した。
母親も北海道から移ってきたばかりだった。
移住者としてそれなりの苦労はしたらしいが、現在はすっかり馴染んでいる。
父親は現在も地元で高校教師をしているのだが、それも今年度限りで定年退職となる。
「朝イチの飛行機にした。向こうはちょうど梅雨時でね。それより母さんと美穂は?」
話題を変えた。
「買い物行ってるさー。今夜はごちそうやっさ。」
「だからよ。父さん、学校は?」
「特別休暇さー。式の次の日から出勤するけど。」
「ふーん」
「ま、さんぴん茶でも飲め。暑かったろう。」
「うん、サンキュー。」
で、父親が冷蔵庫から持ってきてくれたさんぴん茶を一気にあおった。
本土ではジャスミンティーと呼ばれるさんぴん茶(うっちん茶という人もいる)は、沖縄では最もポピュラーな飲み物だ。
沖縄はもう完全に夏なんだな。
心なしか、もともと黒い父親の顔がうっすら日焼けしているように見えた。
「海、行ったば?」
「ん、ああ。先週の日曜日、お母さんと美穂の3人で浜比嘉島まで行ってきた。」
嬉しそうに微笑んだ。
浜比嘉島は本島から海中道路を経由して、車で行ける島だ。
シルミチューへのお参り含めて、何度か家族で行ったことがある。
「へえー。珍しいじゃん、3人で行くなんて。」
「浩一がもうちょっと早く帰ってくれば4人で行けたさー。」
「うん・・・おれも大学あるし。」
今度は寂しげな表情をしたので、ちょっと困惑した。
「大学は行かなくて大丈夫なのか?」
「うん、1週間休めそうさー。」
「ジョートー(上等)。」
再び嬉しい表情になった・・・みたい。
結局、結婚式の当日まで家を空けることが多かった。
何となく、照れというか、おれ自身寂しさもあるのかもしれない。
あの姉貴が三つ指ついて
「長い間お世話になりました。」
なんて言うの、想像もできないしな。
何となくフラフラ出歩いていた。
東浜の本屋で立ち読みしたり、A&Wでルートビア(薬くさくてマズイっていう人もいるが、おれは結構好き)飲みながらYou Tube見たり、馬天の海辺でボーっとしたり・・・
式は割と地味に那覇市内のホテルで挙げた。
始まるまでは、姉の高校時代の友達のかおるさんや由梨さんとバカ話してたんだけど、新郎、新婦の登場で両親の涙を見てからはおとなしくしていた。
どうも、こういう雰囲気苦手でね。
そういうことキッチリするのが大人だと思うんだけど。
姉のこと、かおるさんも由梨さんもキレイだって言ってくれたが、おれには姉をもらってくれる比嘉さんがカッコよく見えた。
185センチの長身だから、隣にいる166センチの姉が小さく見えた。
比嘉さんとは昨日初めて会った。
姉に紹介され、長身にいかにも銀行員らしいカチッとした紺色のスーツ姿を見たとき、優しそうな顔立ちも含め、
(あ、この人なら大丈夫だな)
って直感的に思った。
割と真面目そうな人だなって。
平凡な人生を歩んできたんじゃないかな。
地元の国立大出て、地元の銀行に就職して・・・
ま、多少ドラマチックなこともあっただろうけど。
フツウっぽい人でよかったなと何故かそう思った。
式と披露宴は無事に終わった。
姉たちは式を挙げたホテルで1泊し、翌日ハワイへ飛び立つ。
残されたおれたち家族は、タクシーで家へ向かった。
「美穂が結婚できるなんてね。」
居間の電気をつけた母親が、お茶を入れながらつぶやいた。
「比嘉さんなら大丈夫さー。」
父親が自分に言い聞かせるように答えた。
姉は中学のときにバスケットボールを始め、高3の夏には県大会で準優勝している。
レギュラー、ポイントゲッター、そしてキャプテンまでこなし、地元の新聞でも大きく取り上げられたことがある。
でも、あの時優勝してインターハイにでも行っていたら、今頃は実業団かプロの選手かもな。
負けた後引退して地元の短大に進み、今の銀行に就職した。
もうバスケはやっていない。
5歳上の比嘉さんも、高校までバスケをしていたそうだ。
昨日、姉がそんな話をしていた。
で、その夜は親子3人でボソボソと深夜まで昔話を楽しんだ。
翌朝、父親は学校へ行き、母親も英会話教室へ行った。
元々は英語の高校教師で、現在はカルチャー教室みたいなところの講師をやってるんだ。
で、10時ごろ目覚めたときには誰もおらず、キッチンのテーブルにハムエッグとサラダ、それに食パンとトースターが置いてあった。
それらで朝食を済ませ、ボケーっと色々なことを考えていた。
しばらくは、縁側や自分の部屋でゴロゴロしていたが、飽きたので街へ出ることにした。
バスで那覇へ向かう。
まだ昼前なのでさすがに乗客は少なかったが、それでも数人はいたかな。
国際通りをしばらくブラブラ歩いた。
「お土産安いよー。国際通りで一番安いよー。」
アルバイトのにーにー(兄ちゃん)から声をかけられた。
おれは沖縄特有の“濃い顔”でないので、観光客と間違えられるのはよくあるパターンだ。
その後、ジュンク堂で立ち読みをして、店を出たときだ。
「おっ、浩一やないか!」
聞き覚えのある声に振り向くと、高校時代の悪友の島袋光義だった。
奴は苗字からわかる通り、先祖代々からのうちなんちゅーだ。
「おーおー光義! でーじ(とても)、久しぶりやっさ。」
光義と話すと、自然とこっちの言葉が混ざる。
「久しぶりやっさじゃねーよ。おまえ、大学行かへんのか?」
一方、大阪の大学へ進学した光義は、変な関西弁を覚えていた。
「ん、有給休暇さ、なんて。ネーネー(姉)が昨日、結婚したさー。それで戻っとったば。」
「だからよ、何でかね(相槌)。ネーネー結婚しよったか。」
奴は感慨深そうに腕を組んだ。
「光義こそ、大学どうしたば? フラー(怠け者)やっさ、退学させられたば?」
軽口を叩く。
「あほ。ちょっとした用で帰ってきただけさー!」
「じゃあ、今夜あたり飲みに行く?」
「そうしたいとこやけど・・・今夜の飛行機で戻らなきゃならん。夏休みは帰ってこんのか?」
小さい体を揺さぶって、腕を組んだ。
「うん・・・わからないな、クラブとかバイトとかあるし。」
おれもマネして腕を組んでみた。
「そうか。せっかく東京から戻ったのにタイミング悪いさー・・・じゃあ、おれが誰か他の奴に連絡しとくさー。どうせ2、3日はいるば?」
「まあ、な。」
「ジョートー。今度機会があったらゆっくり会おうさー。」
「おう、またな。」
光義はゆいレールの美栄橋駅方面に歩いていった。
奴とは高校時代にずっと同じクラスで、よく一緒に悪ふざけしていた。
で、おれが1年東京で浪人したように、奴は地元で浪人し、今年関西国際空港から割と近い私立大学へ入った。
実を言うと、おれと理沙の仲立ちをしたのも奴だ。
だから、別れたときは奴までもが深刻な顔をして一緒に悩んでくれたっけ。
久しぶりの地元の懐かしさとあいまって、高校時代にタイムスリップしたような気がした。
数日後にはまた江ノ島に逆戻りしなきゃならないってこと、すっかり忘れるくらいだった。
夜、部屋にいると非通知の着信音がなった。
水上スキー部の活動中に携帯を川に落としてしまい、保険で新しくしたものの、ちゃんと登録し直していないため、部員以外はほとんど非通知になってしまうのだが・・・
「ハイ?」
「エハラですけど。」
女性の声だったが、雑音が入る上にモゴモゴしていて聞き取りにくい。
(エハラって、誰だ? そんな女の知り合いいないぞ・・・)
「すみませんが、誰ですか?」
「エッ?・・・聞こえますか? ウエハラですが・・・竹本さんのケイタイですよね?」
エハラではなくウエハラと聞こえたが、向こうも聞き取りにくいらしい。
「ハイ・・・」
光義同様、高校時代によく遊んでいた上原慶行を思い出した。
(慶行の姉? 母? 光義が連絡したのかな?)
何となく、そんなことを考えていたら、
「やだあ。私よ。」
急に音声がクリアになって、聞き覚えのある女の子の声が飛び込んできた。
「えっ!」
「浩一クンでしょ。私よ、理沙よ。」
戸惑っていると、クスッと笑い声がかすかに聞こえた。
「何! 理沙って・・・上原か?」
「そうよ、私のこと忘れたば?」
だって、上原理沙だぜ。時折思い出してはセンチメンタルしてた・・・
「忘れちゃいないけど・・・突然どうした?」
「今さっき光義君から電話あって、浩一クンが帰ってきてるって言うから、でーじ懐かしくなって。」
「うん。」
「で、私が『じゃあ久しぶりに3人で高2のときのクラス会でもやるば?』って言ったら、『わん(おれ)、今すぐ大阪に帰る』なんて言うから・・・浩一クンもすぐ東京に戻っちゃうのかなって思って、慌てて電話したさー。」
久しぶりの理沙の声が心地よかった。
「おれはあと2、3日はいるけど。」
「上等さー。でも本当にでーじ、久しぶりやっさ。何ヶ月ぶりさー・・・」
「1年ぶりくらいになるかな。」
とぼけてみたものの、おれはハッキリ覚えている。
卒業式の日、帰り際校門でバッタリ会って、
「じゃあね。」
ってお互いそう言ったきりだった。
もちろん、理沙は隣にサッカー部の大城を連れて。
その彼氏のこと、遠まわしに聞こうと思って、
「で、大学の方は・・・」
って言いかけたとき、
「明日会える?」
理沙の方から誘ってきた。
「あ、いいけど。でも明日、大学は?」
「4限まであるさー。それからじゃダメ?」
ダメな理由はひとつもない。
「別におれは構わんけど。」
「じゃあ4時半頃、正門の前あたりに来てくれる?」
「正門て・・・琉大のか? おれを落とした。」
「うん。そこなら絶対に迷わないさー。」
高校時代に何度も待ち合わせで迷子になった方向音痴の理沙に笑いながらそう言われると、拒否できなかった。
「ま、いいか。4時半だな。」
久しぶりにおれも理沙を見てみたい気がする。
会うというよりは見るって感覚かな。
だって、自分が想像でずっと思い描いてきたから、何か実感がわかないんだ。
昔、つきあっていたとか、そういうこと一切忘れてさ。
どんなふうに変わってるかも楽しみだし。
おれの方はほとんど変わっていないと思うけど。
まさか光義が理沙に連絡するなんて思いもしなかった。
あいつも何を考えているのやら・・・
でも、ちょっと甘ったるくて、ドキドキする感触に包まれた。
5
バスに乗って、琉大前に着いたのは4時20分頃だった。
正門前で待ち合わせしたこと、すごく後悔した。
理沙と一緒に琉大に進学した大城と鉢合わせしてもバツが悪いし。
あと、私服をあまりこちらに持ってきていなかった!
で、結局今日は白いポロシャツにフツウのジーンズ。
一応、これでも横浜の大学生なのだ。
次々と門を出て行く琉大生に値踏みされているような気がして・・・考えすぎか。
知っている顔に出くわさなかったのが救いだった。
(早く来すぎたな。10分くらい遅れてもよかったな。そう言えば、高校時代も理沙との待ち合わせで、おれが遅れたことって1回もなかったよな・・・)
そんなこと考えていたら、
「ゴメーン。待った?」
理沙が叫ぶように走ってきた。
白と黒のタンクトップを日焼けした肌に重ね着して、ショートパンツから細めの足を出しているその姿は、まさにキャンパスギャルっぽかった。
「ホント、でーじ、久しぶりさー。浩一クンやせたば?」
ハアハア粋を切らして、『教育原理』のテキストをトートバッグにしまいながら、やや茶色いセミロングの髪をはらった。
「そう? 1人暮らしが長いからな。」
「ホント、ごめんなさい。でーじ、待ったば? 『教育原理』が長引いて・・・」
腕時計を見ると、4時40分を指していた。
20分も待っていたのか。
「そんなに待ってないさ。ま、気にすんなよ。」
「ね、私変わった?」
「そう・・・ね、少し大人っぽくなったかな。」
「ホント? キャー嬉しい!」
相変わらずキャピキャピだ。
実際は全然変わってないな。
ウソの塊だ、おれ。
「とりあえず、どっか行こうぜ。」
大城が来るんじゃないかと気が気でなかった。
「ね、浩一クン。飲みに行こうよ。」
「は?」
意外だった、この言葉は。
2人で飲みに行くなんて思ってもみなかった。
おれは光義や慶行らと高校時代から飲んでいたのだが、理沙はさすがに女の子なので、そんなワルではなかった。
ただ、おれの話を半信半疑で聞いていたっけ。
もっとも、おれもあの頃は酒の味などわかるはずもなく、雰囲気で酔っていただけだったけど。
一度だけ、『MOON GLOW』に連れて行ったことがある。
『MOON GLOW』は国際通りから細い道に入ったところにある小さなBARで、光義の叔父さんがやっていて、高校時代によく慶行を含めた3人で行っていた。
結構オシャレで口コミの評判が高く、値段もそれなりだが、おれたちは身内料金で格安だった。
まさか、そのときに別れ話切り出されるとは想像もしていなかったが・・・
目の前のソルティ・ドッグに口をつけずに、「ごめんなさい」を繰り返しながらボロボロ泣いていたっけ。
(ま、あれから2年近く経つしな)
そう思い、
「ウン、いいよ。どこ行く?」
って答えていた。
「いーっぱい飲んで、いろんなこと話したいな。」
「『ラジャ・スターン』あたりにする?」
割とおしゃれな店名を挙げた。
「ウン、それもいいけど・・・『MOON GLOW』に行きたいな。」
「え。」
「ね、いいでしょ。行こっ!」
そう言うと、おれの手を引っ張ってバス乗り場へ歩き出してしまった。
「ま、いいか。」
納得はしてみたものの、2年前の理沙の涙が鮮明に甦った。
国際通りから一本路地に入ったビルの階段を上ると、あの頃と同じように『MOON GLOW』の看板に明かりが点いていた。
開店直後だったので客もまばらで、カウンターに座ることができた。
そりゃ、外はまだ明るいしな。
店内のDVDはビリージョエルを映していた。
おれはマティーニ、理沙はカシス・オレンジをオーダーした。
本当はオリオンか泡盛でもいいのだが、横浜の大学生っぽくちょっと背伸びしてみたかった。
「じゃ、再会を祝ってカリー(乾杯)!」
理沙がそう言い、カチンとグラスを合わせた。
「で、理沙、少しは飲めるようになった?」
「少しはね。大学のサークルのコンパとかで飲んでるうちにね。浩一クンは?」
「おれはもう、大学に入る以前から飲み歩くようになっちゃったし・・・」
「あ、そう言えばそうね。光義くんとかとね。」
「だからよ。それもあるけど、去年も予備校の寮の友達とよく飲んでいた。浪人生だったのにな。」
「あ、そうね。東京に行っていたのよね。」
長い睫毛でまばたきすると、薄くアイシャドーを塗っているのが見えた。
「そう、みんなが大学1年生で青春している頃、おれは男ばっかの寮で勉強していたから、飲むことくらいしか楽しみがなくて、テストが終わるたびに吉祥寺とか下北沢に繰り出してたさー。」
「おしゃれな街で飲んでたのね。東京はやっぱりいい?」
「別に、どってことないかな。今住んでいるのは江ノ島だし。」
「江ノ島ってあの、湘南の?」
「うん、そう。理沙は? どうなの、大学は。」
「楽しいさー。でも高校の頃の方がよかったな。2年生の時とか、でーじ楽しかった。」
しばらくはこんな感じで、お互いの近況を話していた。
時折話が途切れても、なかなかイイ雰囲気だった。
理沙はおれのペースに合わせてオーダーしてた。
で、2人で4杯目のカクテルを飲み始めた頃には、顔やむき出しの方や足まで桜色に染まってきた。
おれはもともとあまり顔には出ないが、理沙のペースがピタッと止まり、あとはレーズン・バターをほおばっていた。
おれはグラス・ホッパーを半分くらい飲むと、遠まわしに大城のこと聞いてみようかと思った。
さっきからずっと気になっていたし、理沙も何かそのことを話したいようなそぶりを見せているような気もする。
「で、さあ。理沙、ひとつ聞いていい?」
「ウン、いいよ。」
「あのさ、今彼氏は?」
変なニュアンスが出ないようにした。
「エー、やだあ。いないさー、そんなの。」
明るく振舞うようにおれの背中をパシッと叩いた。
少し舌がもつれてた。
「あの高校のときにつきあっていた人は?」
「ああ、あの人。何でもないの。卒業してからは全然会っていないし、大学ではたまに見かけるけど・・・あの人はあの人で他のサークル入って、そこの女の子とうまくやっているみたい。」
酔って舌がもつれてきた割には、スラスラと言った。
まるで、現代文の教科書を読むようにさ。
「浩一クンこそ湘南ギャルと青春してるんじゃない? 違う?」
たどたどしく視線をおれに向けた。
「別に、それほどロマンチックなことないよ。」
「嘘。沖縄なんかよりいっぱい可愛い子いるでしょ、そっちは。」
一瞬、瀬里奈が頭に浮かんだ。
「ホラ、いるって顔に出たさー。誰? ねえ、何ていう子さー?」
首が折れるんじゃないかと思うほど、カクンて上目遣いに意地悪な表情で攻めてきた。
「そんなのおらんて。酔ってんだろ、理沙。」
半ばおれは呆れ顔になっていた。
「ゴメン、私どうかしてる。ゴメン、本当に・・・」
今にも泣き出しそうになった。
3年前のあの日がダブって見えた。
「ま、気にすんなよ。せっかく、でーじ久しぶりに会ったんだから、楽しく飲もうさー。」
なだめるように、うつむいた理沙の肩に手をかけた。
熱かった。
キュンとすくんだ小さい肩は燃えるように、熱かった。
おれも酔っているのかもしれない。
すると理沙は肩に置かれたおれの手に自分の手を重ねて、
「ねえ、私たちやり直せないよね。」
涙声でそう言った。
しばらく沈黙が続いた。
返す言葉がなかったのだ。
どう答えていいかわからなかった。
あまりに突然過ぎるんだ。
「出ようか、そろそろ。」
「ウン。」
おれが立ち上がると、理沙は黙ってついてきた。
酔いを醒ますためにしばらく歩いた。
デジタルな会話を時おりしたりして、波の上ビーチに着いたときには11時半を少し回っていた。
ネオン街から離れたビーチでは、今にも星が降りそうだった。
「関西とか東京の大学へ行っている人って、そっちに戻る前に必ずここに来るって本当?」
涙でいくらか腫れぼったい瞳が夜景の明かりにぼんやり浮かぶ。
「いや、光義が勝手に作った都市伝説さー。」
「浩一クンも?」
「だからよ、何でかね。春にも来たかな。」
地べたに座り、客船の方を指差した。
「で、客船が停泊していないと、向こうに帰ってもろくなことないぞ、なんて言ったりしてな。」
「でも、今夜はあるね。キレイ・・・」
大きな瞳を輝かせた。
そして、おれの肩に頬を乗せて寄り添ってきた。
「でもな・・・」
「あの頃がよかった。高校の時と一緒がいい。」
おれは何を話していいかわからず、空を仰いだ。
本当に、今にも降り出しそうな星空だ。
「あ、星キレイね。」
おれの行動に気付き、理沙も空を見上げた。
「うん。やっぱこれだけは勝てないな。」
「何が?」
「この星さ。東京にはないからな、こういうの。」
理沙はニコッと微笑み、無言でうなづいた。
「東京は空気が汚れているから、星はプラネタリウムでしか見たことないな。」
「やだあ。東京だって星くらい見えるでしょ。」
そのまま2人して星をずっと眺めてた。
砂浜のひんやりとした感触と夜の冷気が暑さと酔いで火照った体に気持ちよくて、仰向けに寝転がった。
理沙も同じようにした。
やがて
「目を閉じてみて。」
と言われた。
「ん? どうして?」
「いいから。」
言われるままに閉じた。
すると、瞬いていた星が一瞬消えたかと思うと、すぐその残像がまぶたの裏でクリアに輝き始めた。
「素敵でしょ、こういうの。」
「わかるのか?」
目を閉じたまま聞いた。
「うん。私ずっとうちなんちゅーだもん。」
残像が途切れそうになった時、まぶたの向こう側にうっすら黒い影が動いた。
「ハッピーバースデイ。」
理沙はそうつぶやくと、小さな唇を重ねてきた。
驚いて目を開けて身を離したが、この時おれは20歳を迎えたことを思い出した。
時計の針は12時を過ぎていた。
「覚えててくれたのか?」
「ウン」
起き上がって理沙を見つめた。
どうしようもない愛おしさが走った。
そして、小柄な肩を抱き寄せた。
「理沙」
「ウン・・・?」
今度はおれの方から顔を傾けた。
手をつないでしばらく歩いた。
街に出たときは、もうすっかり明かりが消えていた。
おれも理沙も酔いは醒めていたが、多少足はフラついていた。
「送っていくよ。」
タクシーに乗りたくないと言うので、歩いて送っていくことにした。
「いいの、帰んなくてもいいの。」
うつむいてそう言った。
声が少し枯れていた。
「でもな・・・」
「ねえ、『MOON GLOW』で言ったこと、もう1回言っていい?」
シャッターの閉まった商店街は、静寂に包まれていた。
おれの返事を待つまでもなく、理沙は再び切り出した。
「私たち・・・やり直せないの?」
語尾だけがさっきと違っていた。
「おまえ、まだ酔ってるよ。」
バカなことを言ったものさ。
そんな言い方しかできないなんて、素直じゃないな。
何十分歩いただろうか。
小録にある理沙のウチに着いた。
鍵が閉まっているどころか、家中の電気が消えていた。
「上がって。誰もいないから。」
家族を起こしてはいけないと思って声を潜めていたおれの心配をよそに、理沙はかすれた声でそう言うと、キーをバッグに無造作に突っ込んだ。
仕方なくついていって、後ろ手で鍵を閉めた。
階段を上がり、理沙の部屋に入った。
理沙は電気をつけようとしない。
おれは手探りでスイッチを探したが、何せ3年ぶりに入ったので手間取ってしまった。
すると、理沙がいきなり後ろからしがみついてきた。
「ねえ・・・お願い。」
あとは何も言わなかった。
おれは無言でうなづくと、向き直って理沙の肩に手をかけた。
背伸びしながら、理沙が震えているのがわかる。
軽く唇に触れると、2人してベッドに入った。
ぎこちなく服を脱ぎ、生まれたままの姿で抱きしめた。
理沙の肌はまた燃えるように熱くなっていた。
「いいのか、本当に?」
「ウン」
不器用におれは理沙の体を求めた。
逆に理沙は器用におれを愛した。
時おり、理沙の抜けるような声が、夏の夜の空気を裂いた・・・
おれの左腕を枕に、理沙が横たわる。
開け放たれた窓から月の明かりが差し込んでいる。
しばらくそのままいろんな話をした。
「ねえ、学園祭のときのこと覚えてる?」
布団の上に細い腕を投げ出し、理沙がつぶやいた。
「学園祭って、2年生のときのか?」
「そう、楽しかったよね・・・」
もとはといえば、あの時が始まりだったな。
打ち上げの2次会のカラオケでデュエットしたり、やたら理沙と話す機会が多かった。
第一印象はギャーギャー騒々しい子って感じだったが、その時は、
(あ、割と感じのいい子だな)
なんて思ったりしてた。
「あの頃からかな。一緒に帰ったりしたの。」
「ウン、そうよ。よく『A&W』にハンバーガー食べに行ったりしてたね。」
段々と思い出してきた。
映画やショッピングなど、誰かに見つかるんじゃないかとびくびくしてたっけ。
別に誰に見られても困るってわけじゃないんだけど。
そういう感じが頼りなく、理沙が去っていった原因のひとつなのかもしれない。
「いつ頃からだろうな。その・・・気まずくなったていうか、あまり話さなくなったの。」
「ウン・・・ごめんね。」
一瞬崩れそうになった理沙の表情を見て、ハッと我に返った。
色々思い出しすぎたな。
過去を振り返るのキライなはずなのに。
「あ、別にそういうつもりじゃないから。気にすんなよ。もう全部過ぎたことさー。」
「でも、私本当に何でもないの、大城クンとは。本当よ。『MOON GLOW』だって1回も行かなかったし、ハンバーガー食べようって言われても、『A&W』ではなく『Jef』とかにしてたの。大城クン、今同じサークルの子とつきあってるし・・・」
理沙の額にはまだかすかに汗が光っていて、そこに髪が何本か貼りついていた。
「うん、わかった。わかっているさー。」
「ありがとう・・・」
そう言うと、顔をおれに向けたまま沈黙した。
また、唇がおれを求めてた。
目を閉じる理沙。
スローモーションに時が止まってく。
再びおれたちは愛し合った。
理沙の髪や汗の匂いがおれをくすぐる。
気持ちのまま、行動にうつしてく。
今にも星が降りそうな夜、これは夢だ、夢なんだと自分に言い聞かせていた。
6
県庁前で何かしらのデモが行われていて、バスが渋滞に巻き込まれて冷や汗をかいた。
何とか間に合い、関西国際空港行きの飛行機は10分ほど遅れたが、無事に離陸した。
20時を過ぎれば、さすがに外はもう真っ暗で、展望台から手を振ると言っていた理沙の姿はまったく見えない。
自分でもわからないが、飛行機でひとっ飛びに羽田に戻ってしまうには、何となくわだかまりがあった。
罪悪感みたいなものが、心にしこりを残していた。
で、急遽フライトを変更して大阪に向かった。
光義に会いたくなって、連絡を取って泊めてもらうことにしたんだ。
姉の結婚式の記憶が薄れ、理沙に会っただけの帰省になってしまった感じがする。
「私たち、やり直せないの?」
二度の問いに、答えを返すことはできなかった。
ただひとつ感じたのは、素直になれば気持ちは伝わるものだということだ。
理沙の気持ちは痛いほどよくわかる。
だけど、それに応えられなかったのは、自分自身まだふっきれていない部分があるのと、確実におれに素直さが欠如しているからなのだろう。
元カノの理沙と再びくっつくのは、後ろ向き過ぎるとも思うし・・・
そして、瀬里奈のこともあるのかもしれない。
今回のことで、今まで以上に瀬里奈のことを考えるようになった。
もちろん、理沙と瀬里奈を比べてどっちが好きとかそういう問題ではなく、もしかしたら漠然とだけど、瀬里奈は道の定まらないおれをどこかで変えるんじゃないかと、そんな気さえしてるんだ。
まだしゃべったことすらないのに・・・
スマホには理沙と撮った写真が何枚か残されている。
理沙に傾いたり、瀬里奈を思い出したり、いろいろ自分自身に対してわりきれないことあるけど、気持ちのままに行動するしかないんだ。
感情を意志で止めることはできない。
デッキの夜風に吹かれて、理沙が泣いている姿を想像した。
今度会えるのはいつだろう。
夏休みは帰らないと伝えてある。
おれは1人遠ざかる那覇の灯りを眺めながら、いろんなことを考えていた。
ほんの1週間の帰省は、懐かしくもありいろいろあったが、何となく落ち着けなかった。
姉の結婚式に参加し、理沙と久しぶりに会えたことはよかったんだろうけど、何となく何かをやり残したような気がして、モヤモヤしていた。
それにしても、故郷が落ち着けないなんて寂しいことだ。
いつものように、キャンパスで桧山や川田、みゆきらとバカ話したり、瀬里奈を遠くから眺めたり、ただそれだけの日々がいいような気もする。
しばらく、目を閉じてみた。
眠いわけではなかったが、静寂に包まれたかった。
1週間ぶりの江ノ島は、沖縄と変わらない猛暑だった。
昨夜、深夜まで光義と飲んだ後、昼過ぎの飛行機で羽田へ戻った。
7月の夕方だというのにこの暑さは何なんだ。
おまけに江ノ電は満員で、大きなバッグを持って乗り込むには一苦労だった。
電車の中のポスターで、今日が花火大会だということに気付く。
午後の強い西日を浴びながら、ようやく江ノ島に着いた。
皮肉なことに、というか当たり前だけどほとんどの乗客はここで降りた。
汗でぐっしょりのポロシャツとジーンズを脱ぎ捨て、窓を開けると、遠く向こうから潮の香りを乗せた風が入ってきた。
古いコンポにサザンのCDを入れ、ヘタクソなまねで歌いながらたまった洗濯物を洗濯機にぶち込んだ。
沖縄にいると、そこかしこから沖縄民謡が流れてくる。
慣れ親しんだ音楽なので別にキライではないが、結婚式もあったせいか、やや飽きているかも・・・
だから、こっちではあまり聴かない。
で、そのあとは風呂に入り、長旅の疲れを癒した。
ちょい早めの夕食を摂るためにTシャツにスウェットパンツ、ビーチサンダルをひっかけて、サーファー気取りで時たま行く近所の食堂まで歩いた。
あまりに地味なその外観からか、観光客は1人もいないお気に入りの食堂だ。
あじのたたき定食を食べたが、やっぱり魚は沖縄の方が美味いかな。
グルクンとかイラブチャーも、こっちでは食べることができないし。
夕日が沈む頃、江ノ島駅は海帰りの客で一杯だった。
そして、線路を歩くおれをプラットホームの誰もが不思議そうに眺めていた。
何気ない、こうした日々がおれにとって非常に大切なものなのだろう。
そして、後々よい思い出になるのだろう。
おれは20歳になった。
すぐに変わることはないと思うが、長い目で見て人間的にも成長しなければならないのだろう。
天気予報では、本格的な夏になったと言っている。
おれがいない間に梅雨も去ってしまった。
明日から本当に、何かが変わるような気がする。
一体それが何なのかはわからないけど・・・
7
翌日、めずらしく駅からバスに乗らずに歩いた。
暑さと上り坂で参って、正門からグラウンドに出た頃にはくたくただった。
「よう竹本。久しぶり。どうだった、実家は?」
声を掛けてきたのは川田だった。
奴はいつもバスかタクシーなので、北門の方から歩いてきた。
「何かお土産あるんだろうな。」
「まかせなさい。塩ちんすこうに紅いもタルト買ってきたから。」
おれは左肩にかけていたリュックをポンと叩いた。
「何だ、その塩ちんすこうっていうのは?」
不思議そうな顔してリュックを凝視した。
「ちんすこうって沖縄の有名なお菓子だぞ。知らんの?」
「もしかして、甘いのか?」
イヤそうな顔をした。
「もしかしなくても甘いの。どうして?」
「おれ、甘いのダメなの。何か他の物ないの? 安室奈美恵のCDとか?」
そう言いながらリュックを奪おうとしてきた。
「バーカ。CDなんてこっちでも売ってるだろ!」
部室に行くと、桧山と中村、それに女子部員2人、工藤みゆきと山﨑香子がいた。
2年生は誰もいなかったが、1年生勢ぞろいだ。
2限に遅刻しないように家を出て、十分間に合ったのだが、結局部室で盛り上がってしまい、サボってしまった。
桧山と川田も同じ。他の3人は空き時間だった。
桧山と中村はちんすこうをパクつき、女子2人は紅いもタルトをほおばっていた。
「それ、全部は食べないだろ?」
タルトで口が一杯の2人に聞いた。
「えー、まさか。」
「じゃあちょこっともらっていくから。」
いつも世話になっている中野に持ってってやろうと思った。
本当は1箱買ってくるべきだったが、すっかり忘れていた。
「誰にあげるのかなあ。」
みゆきが意味シンに微笑んだ。
「誰って・・・中野っていうクラスの奴だけど。」
戸惑うおれを見て、
「高井さんでしょ。」
今度は香子がニヤニヤしながら言った。
「えー、何だそれ。誰が言った、そんなこと?」
その瞬間、桧山がちんすこうを吹き出した。
「あー、桧山、てめえ!」
ふざけてエリ首つかむと、
「おれじゃないよ。川田だよ、川田!」
川田が逃げようとしたので捕まえ、一瞬にして部室はプロレス会場と化した。
桧山と中村も加わって大騒ぎだ。
みゆきと香子は相変わらずタルトを頬ばり、キャーキャー騒ぎながら気持ちよい声援を送ってた。
やっと静まった後、息を切らしながら、
「高井さんとはしゃべったこともないんだぜ。」
って言った。
するとみゆきが
「でも好きなんでしょ。」
としつこい。
で、つい、
「工藤こそ、本多先輩とどうなんだよ。」
って口を滑らせてしまった。
本当はみゆきとおれしか知らない話だったんだ。
もちろん、香子は知っていると思うけど。
「えー、何だそれ。本当か?」
野郎3人が身を乗り出してきた。
「ヤダー、もう。私お昼食べてくる。香子、行こう。」
みゆきはそう言うと、香子の手を引っ張って部室から出て行った。
当然、おれは全てをしゃべらざるを得なかったが、
「おれたちも飯、食いに行こう。」
って話をはぐらかした。
でも、結局みゆきたちと一緒に食べることになり、みゆきは自らすべてを話した。
仲いいからね、ウチのクラブは。
みゆきが4年の本多先輩に憧れ、本多先輩の方もまんざらではないのを知ったのは、5月の半ば頃だったかな。
何となく気付いた。
ニブイおれでも察しがつくことあるんだ。
香子は今のところフリーだけど、クラブ内では2人ともマスコットガール的な存在だ。
2人がいるだけで、むさくるしい部分がかなりなくなり、助かっている。
で、2人ともルックスもまあまあだから、他の体育会からは結構羨ましがられている。
もっとも、テニスサークルとかにすりゃ、どうってことないんだろうけどね。
横のみゆきがおれをつついて、
「あそこにいるの、高井さんじゃない?」
他の連中にわからないように気を遣って囁いた。
窓際のテーブルに視線を移してみると、瀬里奈が1人でピラフらしきものをつついていた。
しかし、なぜみゆきが瀬里奈を知っているのだ?
おれが松山に帰っている間に桧山らにいろいろ吹き込まれたのだろうか。
集団ギャルが数組いる中で、やはり瀬里奈は異彩を放っていた。
誰かを待っている様子でもないし。
今度は何か心配になってきた。
横のみゆきは、「行けば、行けば」って感じでさかんにおれをつついてくる。
それに気付いた正面の香子がクスッと笑みをこぼした。
3限の英語はしっちゃかめっちゃかだった。
指されても訳せるどころか読めもせず、まったく大恥かいた。
いつもは英文科のみゆきに予習してもらってるからな。
今日は何だかんだですっかり忘れていた。
中野はもちろん、瀬里奈も笑っているようだった。
瀬里奈は遅刻ばかりする割には流暢な英語を話す。
1つ年下(瀬里奈は現役で入学した)の女の子にここまで差をつけられるなんて、だらしないな。
とても、元英語教師(母親)の息子とは思えない。
こんなことなら、自分でも予習してくるんだった。
そういえば、第二外国語のフランス語も仏文科の香子にいつも頼っている。
いつまでも他力本願じゃあな。
前期試験も近い。
そろそろ勉強しないと・・・
みゆきも香子も1つ年下だし、いつまでも頼っていられないが、それでも直前になったらやっぱり頼ってしまうんだろうな。
4限まで出たのはおれとみゆきだけだったらしく、部室には他に誰も残っていなかった。
「みんなは?」
「帰っちゃったみたいね。荷物もないし。」
みゆきはロッカーから自分の荷物を出しながらそう言った。
クラブも前期試験前でオフになので、最近はそれぞれ講義が終わり次第、別々に帰っているとのことだった。
で、その日はめずらしくみゆきと2人で帰った。
久しぶりの講義で疲れたおれはバスで帰ろうとしたんだけど、みゆきが歩いて帰ろうって言うので、チャペルの脇を通り、正門のダウンスロープを下っていった。
何か話があるとか・・・
「で、話って何? 本多先輩のこと?」
正門を抜けた頃、聞いてみた。
「やーね、違うわよ。竹本くんのことよ。」
少し日焼けしている顔をこちらに向けた。
すれ違ったスーツ姿のサラリーマン(多分営業)がおれたち2人を交互に眺めた。
こうして肩を並べて歩いていると、カップルに見えるのかな?
白とライトグリーンのサマーセーターの胸が適度に膨らんでいて、結構キュートだ。
「おれのことって・・・?」
何を言っているのか全然わからなかった。
みゆきは少し間を置き、ニコッと笑って切り出した。
「高井さんとは本当に何もないの?」
「またそれか。しつこいなあ。何もないって言ったろ。」
ちょっとイラついた。
「でもね、高井さんは竹本クンと話したがっているわよ。」
「ハ・・・??」
何が何だかわからなかった。
「私の友達で高井さんの知り合いがいるんだけど、竹本クンと話が出来るようにして欲しいって頼まれたのよ。」
「だって・・・エッ・・・何で?」
半ばおれはしどろもどろになっていた。
8
江ノ電を和田塚で降り、10分ほど歩くと材木座海岸に面した『シーサイド・アベニュー』の看板が見えてきた。
マリン・スポーツのスクールとカフェ・バーが隣り合わせの、この辺ではよく見るタイプのショップだ。
「あ、どうも」
テラス席に座ってトロピカル・ドリンクを飲んでいた瀬里奈に気付き、声をかけた。
白いTシャツとダメージ・ジーンズのシンプルな格好が、センスの良さを醸し出している。
「こんにちは、竹本クン。ゴメンナサイね、わざわざ呼び出すことになっちゃって」
左手をちょこっと上げて、微笑んだ。
あの日、みゆきがおれのケイタイ番号を瀬里奈に教えたら、すぐにラインが来たんだ。
学校で待ち合わせるのが一番手っ取り早いのだが、授業やサークルの関係でうまく都合がつかなかったため、テスト期間でミニ合宿がない日曜の午後にここで会うことにした。
瀬里奈は鎌倉在住なので、この辺界隈で遊んでいるようだ。
パパイヤ・ジュースをオーダーし、斜め向かいに腰を下ろす。
他の野菜や肉などと炒める「パパイヤチャンプル」が有名な沖縄では、パパイヤは野菜だ。
だから、本土ではパパイヤが果物だと知ったのは、恥ずかしながら大学に入ってから。
しかも、野菜よりも熟れた状態で甘くて美味い。
逆に、野菜としてのパパイヤがないのでさびしい気もするが。
本土と沖縄の文化の違いは結構多い。
瀬里奈とちゃんと話をするのは今日が初めてだったが、前からの知り合いのような錯覚を覚えた。
何の話があるのか図りかねていながら特に尋ねることもなく、とりとめのない話がしばらく続いた。
「湘南の人ってやっぱりサザンオールスターズとか聴くの?」
サザンは湘南の夏の代名詞だと父親が言っていたのを思い出す。
水上スキー部でもちょっとしたレトロ・ブームだ。
歴史は繰り返すっていうけど、ファッションとかも結構80年代に流行ったものが今年は多いらしい。
自分たちの世代としては、ただよい物を求めているだけだから、別に懐古主義的な思いは特にないんだけど。
「そうね。高校の時の文化祭で『Kamakura』っていうアルバムの曲を中心に、サザンの音楽だけでミュージカルとかやったわ。見にきた母親の方が興奮してたけど。竹本クンも聴くの?」
「“希望の轍”とか好きかな。イントロのメロディー聴くと、何か懐かしいっていうか、不思議な気持ちになるんだ。」
「わかる。私も好き。」
何か、ドキッとした。「私も好き」なんて。
別におれのこと言ってるわけじゃないけど、おれの目を見て言ったから。
「高井さんは?」
「“ミス・ブランニュー・デイ”。知ってる?」
トロピカル・ドリンクのストローから口を離して、いたずらっぽく微笑んだ。
「“ブランドとかで固めているチャラチャラした女キライ”みたいな歌だよね?」
かなり偏見が入っているが、父親が持っていた“海のYeah”に入っている曲で、おれも結構好きかも。
間奏のギターのフレーズが好きでよく聴いているものの、あまり歌詞には集中していなかったからうろ覚えだが、“見てくれよりも、中身が大事”みたいな感じだったような気がする。
「でもね、ホントはもっと深いの。“一生懸命自分を飾って、グラビアに出ているファッションをそのままマネするような子でも、僕は君のことが好きなんだよ”っていう意味なんだって。ホンモノの愛って感じかな。好きな歌なんだけど、私は“ミス・ブランニュ―・レディー”にはなれないなあ。」
何か、よくわからないけど瀬里奈ってスゴイなって思ってしまった。
それにしても・・・なぜおれたちは“サザン論”を語り合っているのだろう。
「沖縄へ行ってたんだって?」
瀬里奈が話題を変えてきた。
「まあね。桧山に聞いた?」
「ううん、みゆき。」
「あれ、みゆきと知り合い?」
「うん。友達を通して最近知り合ったの。彼女、可愛いね。」
何て返していいかわからなかったが、同じクラブの女の子をほめられるのって、悪くないかも。
「でね、竹本クンに沖縄のこと色々教えて欲しくて頼んだの。」
「は?」
沖縄にはトロピカルなリゾートのイメージと、沖縄戦から現在の基地問題につながる負の歴史の両面がある。
どちらの沖縄なのか判断しかねていたら、
「私、普天間基地の移設問題に興味があって勉強しているの。そしたら、沖縄から来ている人が同じクラスにいるって聞いて、それがいつもの遅刻仲間の竹本クンだったなんてホントびっくり。でも、ちゃんと話したことなかったからどうしようかなって思っていたら、みゆきを知っている友達がいたので頼んだの。迷惑だった?」
「いや、全然いいさー。」
思わず、向こうの言葉が出てしまった。
あまりに意外だったんで。
「それより、何で沖縄に興味持ったの?」
那覇の高校に通っていたおれは、正直、基地に囲まれていた実感はなかったので、宜野湾や嘉手納などの人たちに比べて基地問題への意識が薄かったと思う。
逆に、そういうことにあまり関わらないことの方がカッコイイという思いすらあった。
ただ、何かが引っかかっていたのは確かだ。
その答えを見つけるために、法学部を選んだのかもしれない。
「高校3年生のとき、政治・経済の授業で少し触れたんだけど、全然深く教えてくれないのよね。先生に質問しても、ちゃんと答えられないの。教科書に書いてあることなら読めば誰でもわかるのに、それ以上のことは授業ではやらなかったんだ。あとでまわりから聞いたのは、校長先生がガチガチの国粋主義者で、それに反するようなことは教えられなかったみたい。民主主義とか平和主義とか口では言っていても、本当のところから逃げちゃダメなのにね。」
真剣な眼差しでそう言われ、ドキッとした。
逃げているのはその先生だけじゃなく、おれも一緒だ。
大学に入学すると、沖縄出身ということで話しかけれらることが多い。
「沖縄はモメてるけど、実際は基地がないと困るでしょ」
「沖縄は基地負担の代わりに、多くのお金をもらっているんでしょ」
「中国の脅威に対する抑止力として、やはり沖縄の基地が必要だよね」
どれもこれも、ウソだ。
しかし、そこで真実を説明しようとしても「ウザイ」と言われて終わってしまうのだ。
だから、いつの間にか自ら議論を避けるようになってしまっていた。
沖縄から離れている今、基地問題に関心を持たなくても生きていけるのが現実だ。
瀬里奈が沖縄の本質を知ろうとしていることにびっくりする反面、ホッとする自分の中に何かが湧き上がっていく感じがした。
9
1ヶ月も経たないうちに、おれは故郷沖縄に舞い戻った。
今年の夏は帰らないつもりでいたのに、瀬里奈の言葉がおれを動かした。
瀬里奈が現地を見て研究したいというので、それよりもちょっと前に沖縄に戻り、多少の準備をした。
水上スキー部の活動もあるので、滞在リミットは1週間。
その中盤に差し掛かる頃に瀬里奈はやってきた。
那覇空港のLCC専用ターミナルから連絡バスに乗ってきたジーンズと白のポロシャツに身をまとった瀬里奈は、おれをみつけるとニコッと微笑んでポニーテールを揺らして駆け寄ってくれた。
「竹本クン! 暑いねやっぱり。」
今日の最高気温は35℃だとTVの天気予報で言っていた。
「あれ、荷物それだけ?」
巨大なスーツケースを転がしている観光客に囲まれている瀬里奈は、普通サイズのリュックを背負っていた。
「ウン、割と旅慣れているんだ。」
そう言った瞬間に、瀬里奈のお腹がグーっと鳴った。
「お腹空いてる?」
左腕のダイバーズ・ウオッチを見たら、ランチ・タイムも終わる頃だった。
「ちょっとね。」
恥ずかしそうに舌を出した。
こんな仕草は、年下の女の子だ。
「じゃあ、ゴハンにしようか。」
「ウン。」
2人並んで歩き出した。
空港駐車場からレンタカーを10分ほど走らせ、『たからそば』へ到着すると、ちょうど店先の駐車スペースが1台分空いた。
ここは人気の店なので、ランチ・タイムが終わっても結構混んでいることが多い。
沖縄そばはどこでも食べられるが、ここは生姜の千切り、そぼろなどが自由にトッピングできる。
「これは・・・?」
緑色の葉っぱが入った瓶を、不思議そうに眺めて聞いてきた。
「フーチバー(よもぎ)。入れてみる?」
かなりクセがあるから、苦手な人も多い。
「あ、好きかも。この苦味。これは?」
「コーレグース。とうがらしを泡盛につけたやつ。辛いよ。大丈夫?」
おそるおそる何滴か垂らして、蓮華でかき回してすすって、
「美味しい! いいね、これも!!」
立ち込める湯気で曇ったメガネを外した。
初めて見る裸眼の素顔。
はじけるような笑顔が眩しい。
レンタカー屋がすぐ隣にあるので、情報誌などを持った観光客も多い。
驚きながら沖縄そばを食べている姿だけなら瀬里奈も観光客だが、夏なのにリュックの中にはおそらく水着など入っていないのだろう。
もともと、うちなんちゅーもそんなに海には入らない。
ていうか、海はビーチパーティ(バーベキューなど)か夕日を眺めるためのものって感じかな。
ただ、おれ自身は海入るの結構好きなんだけど。
暑い午後に熱い沖縄そばなんて食べたものだから、外に止めてある車に乗り込んだだけでも汗が噴き出す。
実家の車は父親が使うので、1週間レンタカーで動くことにした。
スカイブルーのミニ・クーパーは、うちなんちゅー価格で格安だった。
今回のミッションを実行すべく、まず向かったのは海軍壕。
沖縄戦が、まさに苦難の歴史のスタートとなる証だ。
入場料を払い、受付のおばさんに促されるまま資料館に入る。
すぐ目に入るのは、沖縄戦の末期、当時の現状を東京の大本営に打電して自決した海軍大田少尉の言葉だ。
「・・・沖縄県民ハ欺ク戦ヘリ。願ワクバ戦後特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」
無言で瀬里奈は見つめていた。
写真とともに掲示されている沖縄戦の歴史を1つずつ読む。
「教科書には書いていないことがいっぱいあるんだね。」
時系列で進んでいく戦況の様子を噛み締めるように読みながらも、うまく感想が言えないようだ。
それは、おれも同じことだった。
一通り見終えると、長い階段を下りて壕に入る。
順路に沿って、迷路のように張り巡らされた壕をゆっくり歩いた。
「こんなところで息をひそめていたなんて・・・」
瀬里奈は言葉を失い、ひんやりと冷たい壁に触れたりしていた。
資料館と同じように、それぞれに掲示してある解説も目を凝らして一生懸命読んでいた。
沖縄戦は何のための戦いだったのだろうか。
おれも初めてここを訪れた時には自問自答した。
「最後の1人まで決して投降することなく戦え」と大本営からの命令に逆らうことなく、沖縄県民は必死に戦った。
その戦いは、いつしか米軍だけでなく、友軍(日本軍)との間にもくりひろげざるを得なかったのは、紛れもない真実だ。
「戦争は人を狂わせるさー。」
高校2年生のときに亡くなったおばあ(祖母)がよく言っていた。
幕僚室には自決のために用いた手榴弾のあとが残っている。
医療室はただの薄暗いスペースにすぎない。
こんな劣悪な環境で、刻々と迫り来る死に怯えていたのだ。
細長い通路に、資料館の入り口に掲示されていた大田少尉の現代語訳が掲げられている。
沖縄県民はこのように戦いました
大田司令官の電文
昭和二十年六月六日二十時一六分発
次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう、取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、三二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のために戦闘にあけくれ、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家やざいさんを焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
「何なの、一体・・・」
読み終えた瀬里奈が、涙を流しながらつぶやいた。
大田少尉のことは知っていたらしいが、打電された文章の意味を壕の中で理解し、タイム・トリップしつつ何かが溢れてきたのだろう。
かなりゆっくり見てまわったので、地上に出たときにはまわりの景色が真っ赤な夕日に染まっていた。
「大丈夫?」
戦争を学ぶのは、とても重いのだ。
「うん、ありがとう。連れてきてくれて。」
瀬里奈は真っ赤な目をこちらに向けて、少し微笑んだ。
「今日はこのくらいにしておこう。宿まで送っていこうね。」
旭橋近くのウイークリーマンションは、高校時代の友人の上原慶行の祖母が経営者だ。
事前に慶行に連絡して安くしてもらえるよう交渉したら、1泊2千円という破格の友達料金にしてくれた。
5年位前にコンクリート打ちっぱなしのしゃれた造りに建て替えたが、管理人室にいるおばあは、昔と変わらず面白い。
「おばあ、久しぶりさー。」
駐車場に車を停めてると、管理人室のドアを開けておばあが出てきた。
「浩一! ねーねーが嫁行ったって慶行にさっき電話で聞いたば。よかったサー。」
後ろでちょこんと立っている瀬里奈に気付くと。
「あれー。このちゅらかーぎー(美人)は浩一のうむやー(恋人)だば?」
「おばあ! 慶行から聞いとらんと?」
慌てて瀬里奈をどう紹介したらいいかバタついていたら、
「高井瀬里奈です。おばあ、よろしくね。」
とニコッと笑って頭を下げた。
その言葉と姿は、すっかり沖縄に溶け込んでいるようだった。
10
翌日、昼前に迎えに行ったら、明らか今起きたっていう顔で瀬里奈が部屋に招き入れてくれた。
女性の部屋に入るなんて・・・多少ドキドキして戸惑ったが、そもそもすっぴんの瀬里奈には何のためらいもないらしい。
普段とは異なり、結っていないロング・ヘアーの髪もチャーミングだ。
「あれからどうした?」
「おばあと気が合って、ずっと話し込んじゃった。ゴハン作ってくれたのはいいけれど、お酒が永遠に続いてね。“私未成年です”って一応言ってはみたんだけど、“ここはヤマトじゃないから大丈夫さー。浩一は15,6歳の頃から飲んでたさー”って・・・」
ここまで言うと大あくびをした。
「大丈夫?」
おばあのペースで飲んだとしたら、相当なものなのでちょっと心配した。
「ああ、大丈夫よ。私、実はお酒強いの。お父さんの遺伝でね。」
ちょっと安心した。
おれが慶行と遊ぶようになった高1の夏、初めておばあと酒飲んだときには完全につぶれたっけ。
瀬里奈はミニ・キッチンで何やらガチャガチャやっていて、化粧かと思っていたら、いい香りとともにフレンチ・トーストを焼いて持ってきた。
「どうぞ。」
紅茶もいつの間にか入れている。
ちょっとしたブランチだ。
「あ、どうも。」
何か戸惑った。
「ホテルと違ってウイークリーマンションっていいね、キッチンとか付いていて。昨日、おばあに教えてもらったスーパー『かねひで』で色々買っておいたの。何か本当にここで生活してるって感じ、たまらないわー。」
うちなんちゅーは一般的にはシャイで、人見知りの人が多い。
特にヤマト(本土)から来た人には警戒感タップリだ。
そして、ヤマトんちゅー(本土の人)も「リゾート沖縄への憧れ」が強いので、地域になじもうとはしない。
そう考えると、おばあとの付き合い方といい、瀬里奈の適応力はハンパじゃない。
「竹本クンって沖縄っぽくないよね。」
フレンチ・トーストをほおばりながら、唐突に言ってきた。
「どうして?」
「だって、おばあと話していると全然わからない言葉が一杯出てくるのよね。例えば、ゴハンごちそうになったあと、“片付けましょーねー”って言うから一緒に洗いものでもするのかと思っていたら、さっさとやっちゃうのよ。不思議に思って聞いてみたら、“○○しましょーねー”って自分がやりましょうみたいな意味なんだってね。こっち(本土)とは全然ちがうのに、竹本クンってあまりそういう言い方しないなーって思って。」
確かにおれは、両親世代が移住してきたゆえの“シマ・ナイチャー”だし、沖縄を離れてから1年以上経つので、言葉もほぼ標準語だ。
それに、レッテルを貼られるのが昔から好きじゃないので、知らず知らずにうちなんちゅーに見えないようにしているのかもしれない。
さっきも言ったが、沖縄を偏向的に見ている人たちとの議論を避けたいという気持ちが自然とそうさせているような気もする。
ヒージャー(山羊)汁も苦手だし・・・(苦笑)
昨日に続き、今日も快晴で、猛暑の予感に溢れている。
今日は2人揃ってTシャツに短パンだ。
おれの足元は島ぞうり。
瀬里奈はおばあの漁サン(サンダル)を借りてきた。
南部に向かって車を走らせ、平和祈念堂に着いたのは最も暑い2時過ぎだった。
「ひめゆりの塔は高校の時に来たんだけど、そこだけよ、平和学習っぽいことをしたのは。あとは、ずっとマリン・スポーツとシーサーの絵付けかガラス工芸。楽しかったけど、今にして思えば全然修学旅行っぽくなかったな・・・」
「自分たちなんか、ディズニーランドと浅草。どういうコンセプトなのかいまだにわからないぜ」
駐車場から平和の礎へ直行した。
ここには戦没者全員の名前が石碑に刻まれている。
慰霊の日には遠くからも遺族がお参りにやってくるんだ。
「スゴイ数・・・」
瀬里奈も圧倒されている。
「全部戦死者さー。日本軍だけでなく、民間人や米兵まで全員の名前が刻まれているんだ。」
「米兵も!?」
「そう、こっちきて見てごらん。」
米兵の名が刻まれているところへ連れて行った。
瀬里奈はそこにある米兵の名前をつぶやいたり、手でなぞったりしていた。
「こんなに多くの人が亡くなる戦争って・・・」
あとは言葉にならなかった。
目を離して遠くを見ると、魔文仁の海がきらめいている。
大本営の「最後の1人まで戦え」という命令に従ったから、戦争の終わりが伸び、無駄な死が増えた。
それは、爆撃に遭った者だけでなく、火炎放射器で壕ごと焼かれた者、集団自決を強要された者、投降して捕虜になろうとしたが、それを許さなかった日本軍に殺された者なども含まれる。
また、ポツダム宣言受諾(8月14日)以降に「掃討戦」と称して米軍に撃たれた者もいる。
教科書には載っていなくても、うちなんちゅーならみんな知っていることだ。
そもそも、そのポツダム宣言だって、連合国が日本に提示したのは7月26日だ。
そこで受諾していれば、広島や長崎に原爆は落ちなかったし、沖縄での死者もこんなに多くはなかった。
国体の護持にこだわって受諾を拒否した責任は、一体誰が負ったのか。
「一億総責任」と言った政治家もいたが、唯一の地上戦で多くの人と物を失った上に、本土から見捨てられた沖縄も、その責任を負わなければならないのか。
もし負わなくてよいというならば、沖縄は日本ではないのか。
戦後70年間以上経っても、その答えは示されていない。
考えれば考えるほど、やるせなくなる。
「首里で降伏しなかったために、軍も県民も南部に逃げてきて、ここの海で多くの人が亡くなったんだってね・・・」
瀬里奈はまた涙ぐみながらつぶやいた。
「知ってるの?」
「おばあに少し聞いたの。深く話してくれなかったけどね。おばあも死体を踏み越えながら、逃げたって言っていた。」
慶行のおばあは戦争を体験しているが、そのことについてはあまり話したがらない。
高校の時の自由研究で光義らと話を聞きに行ったことがあったのだが、普段にこやかなおばあが口を閉ざしてしまったのを思い出した。
それから何度も慶行の家に遊びに行ったが、戦争の話になるとおばあは機嫌が悪くなる。
70年前に一体何があったのか。
そして、70年経ってもその傷が癒えないのはどうしてなのか。
ずっと考えても、答えは未だにわからない。
だから、昨日会ったばかりの瀬里奈にそこまで話したことに驚いた。
おそらく、純粋に真実を知ろうとしている瀬里奈の姿勢が、何かおばあに訴えるものがあったのだろう。
11
「何か、私知らないことばかりで日本人として恥ずかしいな。」
ちょっと暗めの照明の中、瀬里奈はカシス・オレンジのグラスを傾けた。
58号沿いのエスティネートホテルの1階ラウンジは、ちょっとオシャレなレストランだ。
といっても都内のシティ・ホテルのレストランとは違い、メニューは居酒屋っぽいものもあったりして、値段もリーズナブルだ。
そもそも、おれたちはTシャツに短パン、サンダルなのだ。
こっちにきてから食事も酒もどっぷり沖縄に浸かっているので、少しは気分転換した方がいいと思って連れてきた。
「自分もうちなんちゅーでありながらわかってないから、高井さんから逆に教わってる気がするよ。」
帰省してからオリオンビール浸りのおれも、ブルドックを飲んでいる。
「それにしても・・・朝も言ったけど竹本クンって沖縄っぽくないんだよなあ。」
アルコールに強いといいながらも、頬を少し赤く染めた瀬里奈がつぶやいた。
「そう? たまにうちなんちゅーの言葉も出ちゃうし、食べ物とかもこっちのが合うんだよね。」
山羊汁以外は大体食べられる。
「泡盛とかも好き?」
「まあね。昨日はおばあと何飲んだの?」
酒豪のおばあの部屋には何でも揃っているはずだ。
「『まさひろ』とかいうやつだったかなあ。緑色のラベルの。あと、縄みたいので巻かれているボトルもあったけど、あれは一口飲んだけど強かったわ。」
『まさひろ』は、今は糸満に酒造所があるが、もともとは地元・与那原の泡盛だから、ちょっと嬉しかった。
「『どなん』じゃない?」
与那国島の『どなん』はアルコール度数60度の花酒だ。
米国統治時代から造られていたが、日本に復帰した際に製造が禁止になった。
日本の法律ではそんな強い酒は認められていないからだ。
しかし、製造者が猛烈に抗議した結果認められたという逸話も、うちなんちゅーなら誰もが知っている。
「あ、そんな感じの名前だったかも・・・竹本クンが好きなのって何?」
瀬里奈は3杯目のカクテルをオーダーした。
「『泡波』かな。」
江ノ島の自宅の部屋にあるボトルを思い起こした。
「あわなみ?」
「うん、波照間島の泡盛。別に高級じゃないんだけど、飲み口がスッキリしていて好きなんだ。ただ、小さなところで造っているからなかなか市場に出回らなくてね。本土で買うと、とんでもない値段になっている。ネットでも360mlで数千円位かな。」
受験が終わった春休みに石垣島へ遊びに行ったとき、波照間島に高速フェリーで渡ってみたのだが、港の売店で500円で売っていたんだ。
ビックリして、売店のおばあに「ホントに500円?」て聞いて買ってきた。
業者や口コミって、恐ろしい。
「エーッ!! スゴーイ。飲んでみたいわ。」
興味津々の瀬里奈に、
「じゃあ、今度向こう(湘南)に帰ったらね。」
自分でそう言って、ドキドキした。
だって、それっておれの家で飲むってことだからな。
ちょっと、夢見がち・・・
「そもそも、何で沖縄は戦後も占領されたのかしら。」
ボソッと瀬里奈が口にした。
「そりゃ、天皇さー。」
おれも少し酔い始め、反射的に言葉が出た。
「天皇・・・って?」
「戦後間もない頃、昭和天皇が米国に進言したんだよ。“25年から50年、もしくはそれ以上の占領を望む”ってね。」
「本当に?」
口をポカンと開けた瀬里奈は半信半疑だった。
「米国の公文書館でその文書は公開されているし、天皇の顧問だった人も証言しているから、おそらく本当だろうね。」
「こんな大切なこと、何故私たちは知らないの?」
逆に、うちなんちゅーはみんな知っていることだ。
でも、沖縄の本屋で売られている「沖縄史」には書いてあっても、文科省の検定を通った教科書には載っていないことだ。
ある意味、うちなんちゅーはそんなことには慣れてしまっている。
例えば、小学校で使う教科書には「桜前線が3月下旬から日本列島を北上し・・・」なんて書いてあるけど、沖縄本島では1月下旬に咲き始める桜は、段々南下してくる。
つまり、本土で考えるスタンダードに沖縄は含まれていないのだ。
教科書から学べることは、たかが知れている。
瀬里奈にいろいろ説明することで、自分自身忘れかけていた沖縄の真実を思い出してきた。
そういう意味では、今回瀬里奈が沖縄に来てくれて本当によかったと思う。
深酒をせず、混んできた9時過ぎに店を出た。
車はそのままコイン・パーキングに置いていくことにした。
こっち(沖縄)では、上限数百円程度のところが結構あるんだ。
瀬里奈を乗せて、酒気帯び運転なんて絶対にできない。
宿までは、歩いて20分くらいはかかる。
本来、沖縄の人間はあまり歩かない。
これくらいの距離なら、タクシーを使ってしまうことも多い。
本土に比べるとタクシー料金が安いこともあるが、自転車にもほとんど乗らないし、冷房やジャンク・フードが大好きな不健康な一面はあまり知られてはいない。
湘南暮らしの瀬里奈はタクシーを望まないだろうし、おれにも一緒に歩きたい気持ちがあったので、何も言わず当然のように歩き出した。
それにしても、真夏の沖縄は夜風が涼しいこともなく、蒸し暑い。
汗をかかないように、ゆっくり歩いた。
いわゆる“夜の大人の社交場”が集まっている地域を通らないように気をつけたりしながらさ。
ほんの1ヶ月前に理沙と歩いたあの夜を思い出す。
あの直後はラインでのやり取りが続いたが、最近ご無沙汰だ。
おれから送っても、返ってくるのが翌日だったりする。
今回こっちに帰ることは伝えていない。
正直、会う時間はないと思っていたから。
ラインの会話もかみ合っていないので、会ったとしてもどんな顔したらいいかもわからないし。
おれと理紗との関係って一体何なのだろう。
一般的には、元カレと元カノってことになるのだろうけど・・・
瀬里奈と一緒にいると、余計にわからなくなる。
かと言って、瀬里奈とつきあいたいとかそういうのではなく、恋愛感情でもないと思う。
でも、沖縄のことちゃんと考えなきゃなと思えたのは確実に瀬里奈のおかげだ。
だから、この後も今回のようなつきあい方になるのだと考えている。
そう思わないと、壊れてしまうような気がするんだ。
「どうしたの、ボーッとして?」
ポニーテールの髪を揺らして、瀬里奈がこっちを見て微笑んだ。
「いや、別に・・・」
急に振られて、なんて返していいのかわからなくて戸惑った。
何だかんだで、30~40分かけて歩いただろうか。
宿に着いたときは11時近かった。
「でも竹本クン、ホントにありがとね。沖縄に来なかったら、わからなかったことが一杯あったわ。今回とってもいい経験になった。あとは、自分でもっと勉強しなきゃね。」
明日の最終便でおれは帰ることになっている。
「明後日から合宿に入るんで、申し訳ない。ただ明日、もう1箇所連れて行きたい場所があるんだ。」
「ウン。じゃあまた明日よろしくね。」
瀬里奈は胸元で小さくバイバイして、そのまま部屋の前で別れた。
今日はおれも部屋を取ってもらっていた。
おばあが気を遣ってくれたのかどうなのかは微妙だが、瀬里奈の隣の部屋だった。
12
翌日向かったのは、嘉数高台公園。
今日も雲ひとつない晴天だ。
朝から気温は30℃を超えている。
20~30分ほど車を走らせると、標識が頻繁に現れるようになった。
おれ自身ここに行くのは久しぶりなので、意外と細い道を入っていくルートは、ナビや標識を見ないと不安だ。
くねくねした道を抜けてやっと辿り着いて駐車場に車を停めると、そこには作業着を纏った中年の男の人が数人で休んでいた。
長袖、長ズボンで暑そうにしている彼らが一瞬こちらを見たのは、今日もTシャツ、短パン姿の瀬里奈が目を引くからなのだろう。
「ここは、沖縄戦で最大の攻防が繰り広げられた激戦地だったんだ。」
親子連れが遊んでいる現在の公園には、その面影はない。
解説の看板の目の前には、100段もあろう階段がそびえたっている。
「暑いけど、頑張って上ろうねー。」
2人してハアハア言いながら登った先には、ちゃちな展望台が見える。
「やっと日陰だー。」
瀬里奈が子供のようにはしゃいだ。
しかし、展望台の階段を上りきると、その表情が一変した。
「これが・・・普天間基地なのね。」
眼下に広がる住宅街の向こうには、広大な米軍基地が姿を見せている。
頭の中で、暗いクラシック音楽が流れているようだ。
しばらく無言で眺めていたが、やがて遠くに飛来する物体が、段々こちらに近づいてきて着陸したかと思うとすぐさま離陸して、おれたちの上空を轟音と共に飛び去っていった。
「空中給油機のタッチ・アンド・ゴーだな。」
ようやく会話が出来るようになってから、説明した。
「あり得ない・・・だって、住宅とかマンションとか一杯あって危ないじゃない。」
「そうだよね。あそこ見てごらん。」
おれは右方向を指差した。
「あれが沖縄国際大学さ。2004年に実際に米軍ヘリが墜落したんだ。ちょうど、今くらいの夏休みだったかな。小学生の頃だから、リアルタイムでは覚えてはいないけど。もっと昔には小学校に墜落して死者まで出てる。本当に、あり得ない話なんだよね。」
沖縄では、50数年前の宮の森小学校と、そこに見える沖縄国際大学での墜落事故の話は有名だ。
米兵の犯罪にしても、このような事故にしても、「米軍がいなければ起こらないこと」と知事が言うのは当たっていると思う。
「沖縄以外ではこんな住宅地の中に基地なんて存在しないんだ。米国本土なら、“野生のこうもりに影響が出るから”という理由でも訓練が中止になるくらいだからね。そもそも、滑走路の延長上900mくらいまではクリア・ゾーンっていって、一切の建物があってはならないはずなのにね。普天間基地が“世界一危険な基地”っていうのは、決して嘘でも誇張でもないんだ。」
瀬里奈は視線を外さずに、ジッとおれの目を見ている。
「何もなかったところに基地ができ、利権を求めて人が住み始めたって言った作家がいたけど、それもデタラメさ。人が住んでいたところを強制的に立ち退かせて基地を造り、家や畑などを失った人たちが仕方なくその周辺に住まざるを得なかったのが本当の話。政府や本土の人たちが言っているのは、根も葉もないことだらけなんだ。」
自分でも信じられないくらい、鬱積していたかのような言葉が次から次へと出てきた。
今まで、なるべく見まいとしていた部分がおれの中にあったのかもしれない。
もちろん瀬里奈には何の責任もないのだが、うちなんちゅーの苦しさをジッと聞いてくれていた瀬里奈に愚痴ってしまったかのようで、心苦しくなった。
「そうだったんだ・・・」
やっと視線を外したと思うと、再び基地の方を見つめた。
「今までの私って浅いなあ。浅過ぎだよ。」
「いや、それは自分も一緒さ。うちなんちゅーとして、もっと考えなきゃいけないって思うよ。」
「この景色を、辺野古に移す意味なんてないと思うわ・・・」
晴れ渡った青空の下には、暗い風景が広がっていた。
「海見てみない?」
嘉数公園を後にして車を走らせると、ふいに思いついた言葉を口にした。
本当は『道の駅かでな』から、今度は嘉手納基地を見るつもりだったが、いい風景を見せたくなったんだ。
「ウン、連れてって。」
実家のある与那原の海も好きだが、西海岸の海は晴れの日にはエメラルドグリーンに輝き、一層美しく輝く。
58号線に出る頃には、その向こうに絵葉書のような海が見えてきた。
「わあー。」
本来の目的とはいえ、沖縄に来て以来、重い歴史を学び続けてきた瀬里奈にとって、初めての心の解放といえるかもしれない。
北谷や残波岬などの有名な観光地から見る海も悪くはないが、あまり人のいない自然のビーチを見て欲しかった。
沖縄には地元の人しか知らないような「隠れビーチ」が無数にある。
少し足を伸ばして、恩納へ向かった。
絶好の観光日和のため、万座毛は駐車場待ちの大渋滞だったが、そこを一本わき道にそれると、一気に畑やビニルハウスが立ち並ぶ田舎の風景に出会える。
その一画に車を停め、獣道のようなところを数十秒歩くと、誰もいないビーチに出た。
「スゴーイ。何ていう海岸?」
おれも、知らない。
そういうものだ。
ここは、シュノーケリングで何回か来ていた。
「こっちに魚が一杯いるよ。」
潮が引いているため、浅瀬のイノーには色鮮やかな青い小魚が戯れていた。
「水族館みたい。素敵・・・湘南の海も好きだけど、別世界だわ。」
初めて瀬里奈の素の笑顔を見た気がした。
しばらく、イノーを見て回った。
「スゴイね、沖縄って。でも、辺野古ではこういう海を埋め立てて、新しい基地を造ろうとしているんだよね。」
まだよくはわからないが、突き詰めて考えてしまうのは、瀬里奈の性格なのかもしれないとこの時思った。
「あ、サンゴとか貝もキレイね。ね、これって持って帰れるの?」
大き目の巻貝を手にして、期待するような瞳で聞いてきた。
「大丈夫だよ。土産物屋でよく売ってるけど、あんなのいくらでもこういう海岸で取れるさー。」
「じゃあ、少し拾っていこう。」
2人して、ビーチ・コミングを楽しんだ。
帰り道、北谷のアメリカン・ビレッジ近くのレストランで、ハンバーグを食べた。
大衆食堂もいいけど、アメリカの食文化が早くから根付いているのも沖縄の姿だ。
「沖縄にはA&Wというファースト・フードが昔からあって、日本上陸はマックよりも早かったんだ。」
ハンバーグをフォークで突き刺しながら、そう切り出した。
「その他にも色々なアメリカ文化を取り入れてきたと思うんだ。民主主義なんか本来そうだよね。うまく言えないけど、『親米反基地』っていうのかな、そんな考えもあるかも。」
おれの話を聞きながら、フォークを止めてじーっとこっちを見つめていた瀬里奈も、
「そうよね。憲法なんかもそうだと思うわ。『押し付け憲法』なんていわれるけど、アメリカ人じゃなければ書けない民主主義思想が盛り込まれているんじゃないかなあ。そのあとにアメリカの事情が変わったから、アメリカ自身もこの憲法を苦々しく思っているかもしれないけど・・・」
と話し始めた。
「確かに、ベトナム戦争や湾岸戦争に派兵しなかったのもこの憲法があったからだよな。でも、安保法制によってどうなってしまうのかな・・・」
法学部の学生として、もっと積極的に学ばなければいけないのだろう。
憲法の講義で使用している教科書は、著名な芦部信喜氏の本だが、今の首相は法学部出身でありながら芦部氏を「知らない」と国会で答弁した。
その首相が音頭を取って成立させた安保法制とは、一体何の意味があるのだろうか・・・
瀬里奈といると、自分が聞きたかったこと、言いたかったことが次々とクリアになる心地よさがある。
この3日間、本当に飽きなかった。
というか、知識欲が芽生えたのか、もっと勉強したくなった。
そして、おそらく瀬里奈も同じように思ってくれているんじゃないかな。そう共感できる瞬間が、確かに何度かあったんだ。
自分勝手な直感かもしれないけど・・・
食事の後、宿で瀬里奈を降ろし、レンタカーを返して空港に向かった。
金曜日だからか、出発ロビーや土産物屋、そしてチェックイン後の待合コーナーも多くの人で溢れていた。
ソファに座って搭乗を待っていると、隣のゲートから多くの人が吐き出されてきた。
どうやら、宮古島からのJTAが到着したらしい。
宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋が完成して以来、宮古島への観光客は増加していた。
土産物の袋を抱えたファミリーや若者のグループが楽しそうに歩いてくる様子を何気なく眺めていたが、白いサマードレスの女の子を見て瞬間的に身をかがめてしまった。
理沙だ。
そして、イヤな予感がした。
数秒後にそれが的中し、後を追うようについてきたのは元カレの大城だ。
いや、もう元カレの「元」が取れているのだろう。
ゲートをくぐった2人はすぐ横に並び直し、仲良さ気に手をつないで、笑顔で通り過ぎていった。
別に理沙に対する独占欲があったわけではなかったが、
「私たちやり直せないの?」
って言われて、一晩にせよそれに応えた自分に腹が立った。
何だろう、このモヤモヤした不完全燃焼感は。
敗北感っていってもいいかもしれない。
冷静に考えると、あの時は大城と喧嘩でもした寂しさの埋め合わせだったのかなと思える。
だから、ヨリが戻ってからはこちらから連絡しても反応が薄かったのだろう。
それにしても、おれが後ろ向きに元カノにセンチメンタルしているとき、理沙は元カレをステップに、前向きに今の恋愛を成就しようとしていたんだな。
そんな理沙をズルイと責める気持ちにはまったくなれなかった。
だって、結果としてフラれたような今の寂しさを埋めるために、気がつけばおれも瀬里奈との3日間を思い出そうとしているのだから。
もともと、こっちに帰ってきても理沙には連絡すらしなかったおれも、やはりズルイのだ。
理沙との間にあると思い込んでいた2人だけの関係を壊したくなかったから、敢えて連絡を避けていたと言ってもいいかもしれない。
さらに、瀬里奈との関係も壊したくないおれは、何もできずにもがいている。
すべては、おれの優柔不断さからきているのだ。
明日からの水上スキー部の合宿に没頭するしか、今のおれに残された道はない。
そう思うしかなかった。
13
7泊8日の合宿を終えたおれは、久しぶりにスマホの電源をONにした。
合宿中は原則、そういうことになっている。
ただ、就職活動などで緊急の連絡があるかもしれない4年生のみが、所持を許されている。
タブレットやPCのインターネットもシャットアウトしている3年生以下は、宿泊所の公衆電話が唯一の外部との連絡手段だ。
ウイークデイは自主練に任されている分、週末のミニ合宿や春夏の休業期間中の長期合宿は、かなり厳しい体制で取り組んでいる。
そのせいかどうかはわからないが、例年先輩たちは全日本大会で上位進出を果たしていた。
まあ、古いOBに言わせれば、ケイタイがない時代はそんなの当たり前だということだが。
スマホ依存症の川田なんかは、最初のGW合宿のときは発狂寸前だった。
マネージャーから返されたスマホには、約1週間分のラインが入っていた。
業者からの無駄な捨てメールもその中には含まれるが、今回は瀬里奈からの報告を確認するのが待ち遠しかった。
1件入っていたので読んでみると、詳しいことは会って話すと書いてあったが、どうやら辺野古の座り込みに参加したらしい。
おれ自身、今の沖縄の最大のテーマが辺野古だと知りつつ、そこに足を運ぶことはなかった。
やはり、いろいろなことからおれは逃げていたのだと思い知らされた。
だから、瀬里奈の行動力には驚くとともに、感服せざるを得ない。
沖縄のことを瀬里奈に教えたつもりでいたが、あっという間に逆の立場になってしまうのかも。
「何か、負けたなあ・・・」
思わず、つぶやいてしまった。
「えっ、何?」
同じく隣でラインをチェックしていた桧山が反応した。
「いや、何でもない。」
桧山も自分のことで忙しいらしく、それ以上は何も言ってこなかった。
もちろん、理沙からの連絡は一切なかった。
海水浴客が少し減り始めるお盆明けのとある日の午後、材木座の『シーサイド・アベニュー』で再び瀬里奈と待ち合わせた。
今度はおれの方が早く着いたので、外のテラス席であの時と同じパパイヤジュースを飲みながら文庫本に目を落とした。
「ゴメーン。待ったあ?」
声を掛けられて目を上げると、ボーダーのTシャツと白いショートパンツを着た瀬里奈が目の前に立っていた。
めずらしくポニー・テールではなく、ロング・ヘアーのままだ。
さらに、メガネをかけてない!
「どうしたの?」
思わず口に出た。
「あ、メガネね。バイクじゃないときはコンタクトすることもあるのよ。」
結構な美形だ。
髪のことも尋ねると、
「これは単にゴムが切れただけ。」
って笑った。
「それに、真っ黒じゃん。随分焼けたね。」
沖縄の強い日差しの中で過ごしていたせいか、懐かしいくらい久しぶりに感じたその笑顔は、まるでうちなんちゅーのようだった。
「そう? 一応日焼け止め塗っていたんだけど・・・竹本クンも人のこと言えないわよ。川でも焼けるのね。」
まあ言われてみれば、確かに水上スキー部は全員真っ黒だ。
一日中水面にいるのだから当たり前といえばそうなんだけど。
瀬里奈はマンゴージュースをオーダーし、あの時と同じ斜め向かいの席に座った。
近所のベーカリー・ショップで短期のバイトをしているという話を聞きつつ、こちらは多少盛りながら、合宿の様子を面白おかしく話すなど、最初は互いの近況報告的な会話が続いた。
ふと足元を見ると、漁サンを履いている。
「あれ、それって・・・」
おれの視線に気付くと、
「ああ、これね。あれから毎日借りていたら、結局もらっちゃった。」
ペロッと舌を出しておどけてみせた。
「おばあ、元気だった?」
それを機に話題が沖縄にワープした。
「竹本クンが帰った次の日は、何となく体に力が入らなくて、昼過ぎまで部屋でボーっとしてたのよね。そしたらおばあが、『波布食堂でお昼食べておいで』って言うので、ビックリして『ハブ!?』って聞き返したの。蛇のハブを食べさせられるんじゃないかと思って・・・。行ってみたらフツウの食堂っぽかったので安心したんだけど・・・」
先は読めてきた。
波布食堂は、県内有数の『メガ盛り食堂』だ。
おばあにかつがれたのだろう。
「『肉そばがおいしい』っておばあが言っていたから、それ頼んだら、『エッ!』ていう、信じられないくらいの盛り方よ。ボーゼンとしていたら、中のおばちゃんたちが大笑いしているの。『何、何!?』って思っていたら、そのうちの1人が、『何も知らない若いネーネーが1人で行くからよろしく』っておばあから連絡入っているサーって言うのよ。まわりよく見たら、がっしりした男の人ばかりで、女1人で来てるの私だけよ。完全におばあにやられたわ。残しちゃいけないと思って頑張って食べたけど、『もう限界・・・』って思ったら、『これで持ち帰りな』ってパックをくれたの。持ち帰って、おばあに大笑いされて・・・でも、完全に元気出た。沖縄のパワーね、これも。」
瀬里奈は瞳を輝かせていた。
「で、おばあとお茶飲んでいたら、今度は『近くに“不屈館”があるから行ってくるといいさー』っていうので、行ってみたんだ。うん、そう、瀬長亀次郎の資料館。私以外に見物客が1人しかいなかったから、そこの職員? 受付? のおばちゃんに2人して細かく説明してもらったり、さんぴん茶何杯もごちそうになったりして、何かスゴく気に入られたみたい。」
(ああ、館長で亀次郎の娘さんのことか・・・)
顔が浮かんだ。
「瀬長亀次郎って全然知らなかったけど、凄い人だね。特に、米軍や日本政府から圧力をかけられてもめげずに頑張ったことや、市民が納税で助けたことなんて、感動的だよね。戦後の沖縄に民主主義がなかったことが、彼を通してよくわかったわ。」
投獄されても信念を曲げずに貫いたって、確かに凄いことだ。
アメリカに隷従している歴代の政権とは比べ物にならない。
「でね、『辺野古反対』っていうステッカーがあったんで、ずっと眺めていたら、もう1人のお客さん・・・私より少し年上っぽい女性なんだけど『一緒に一度辺野古に行ってみませんか?』って誘われたの。那覇からバスが出てるっていうので、朝5時で早いんだけど、翌日行ったんだ・・・」
辺野古の抗議活動は、単にシュプレヒコールをあげるだけのものではなく、大学教授が講義をしたり、歌や踊りを披露するなど盛り沢山だと話には聞いている。
最近は和解の関係で工事も進んでおらず、抗議活動も比較的穏やかなので、瀬里奈が行った時には特に大きな動きはなかったとのことだ。
しかし、地元のうちなんちゅー以外にも、マスコミや沖縄の大学生などもいて、人脈を築いたようだ。
彼らの話をいっぱいしてくれた後、
「デイビットっていう元海兵隊員がいて、一緒に座り込んでいるのよ。アメリカ人で、しかも元兵士までもが反対する辺野古基地って、一体何のために造ろうとしているのかしらね。」
とつぶやいた。
目の前には、湘南の海が光っている。
瀬里奈はその先にあるアメリカまでも見つめているのだろうか・・・
「今回いろんな経験をしてよかった。竹本クンにはとっても感謝してるわ。実際に行ってみて、単に反対を叫ぶだけじゃなく、法的根拠をきちんと考えなければいけないと思ったの。そういう意味で私、法学部を選んでホントによかった。沖縄の人たちの人権を守り、勇気を与えるということを、4年間の研究テーマにするって決めたの。」
そんな瀬里奈が目の前の海のように、何かキラキラ輝いて見えた。
1つ年下の女の子に打ちのめされた。
でも、それは屈辱のダメージではなく、逆に戦う勇気を奮い立たせてくれるものだった。
瀬里奈が沖縄を研究するためには、これからも何度も現地に足を運び、沖縄の本当の歴史や現実と触れ合うのだろう。
その架け橋になることで、自分なりの道が見えるのではないかとも思い始めた。
20歳になったら変わらなきゃな・・・なんて思ってた割には、他力本願で地味な結論かもしれないが。
「今度さ・・・」
途中まで言いかけて、口をつぐんだ。
「エッ、何?」
海を見ていた瀬里奈は急に言葉をかけられたせいか、一瞬ビクッとしてこちらに振り向いた。
「あ、いや・・・何でもない。」
「変なの・・・」
ちょっと、口を尖らせた。
(「今度、江ノ島においでよ・・・」)
その言葉を飲み込んだのだった。
瞬間的に瀬里奈と江ノ島でデートしてみたいって思ったんだけど、やっぱり今を壊したくなかった。
というより、これから先を見つめたかったのかもしれない。
きっと、いい意味で長いつきあいになると思うからこそ、大切にしたいんだ。
理沙のこととか色々引っかかるけど、自分の気持ちに素直に従うべきなのだろう。
それだけでもいいかなって思う。
そもそも、今この状態が瀬里奈とのデートなんじゃないかな。
だって、こんな素敵なロケーションで語り合っているんだから。
戦後70年も続く重い歴史と「魂の飢餓」ともいわれる現実を学び続けるには、適度な息抜きも必要だ。
沖縄にも景色に溶け込んだ、素晴らしい“海カフェ”がいっぱいある。
今度語り合う場所は、もしかしたらそういうところかもしれない。
でも、瀬里奈と張り合うためには、うちなんちゅーのプライドにかけてもっと勉強しなきゃな。
「また、色々連れてってね。」
そういう瀬里奈の髪を、爽やかな海風が一瞬揺らした。