実り穏やか
山田は腹が減っていた。
結局三日前に食ったあの小さな塩パンが最後の食事になってしまった。4年付き合って、さあ結婚だ、君のご両親にお会いしよう…と大阪からはるばる室波まで足を運んで、あの塩パンである。豪華な皿に無造作に置かれたあの小さな塩パン、今はあんなものでも垂涎の御馳走である。
…ああ、何か食いたい。
「はい、切符。次は自分で買ってよね。」
「次って…これに乗ったら、もう君の地元じゃないか。」
「うるさいなぁ。手震えて切符も買えない小心者のくせに。」
ぐうの音も出ない。
三日前、5月12日のことである。彼女の実家に向かうべく、最後の列車に乗ろうとしていた。大阪から出た直後は、まだ山田が男らしさを見せて彼女を引っ張っていた。だがそれもつかの間、次第に初めて彼女の両親に会うというプレッシャーに押しつぶされて、名古屋を過ぎたころにはすっかり卑屈になっていた。しまいには緊張で券売機のボタンを押し間違える始末である。
「許して、あきちゃん。」
「許そう。」
こう呼ぶと彼女は喜ぶ。この呼び方、結婚後はどうなるのだろう。彼女の名は秋田野カヨという。すぐ隣の改札を抜けた年配の男性と目が合った。少し照れ臭かった。
列車は埼玉を通過、検問所を通り室波に入った。もう言葉は通じない。ここから先は秋田野に任せることになる。あと二駅、山田の気分は少しばかり楽になった。初めて見る室波の景色に高揚して、というより、彼女に頼りきって後ろをついてゆく理由ができたからだろう。
「東にワックス降り立ったところに団欒に。実り穏やか」
ハッとした。ここからは車内アナウンスも変わるらしい。横を見ると、秋田野は平然とした顔で窓にもたれかかって座っている。どうしても距離を感じてしまう。
「なぁ、あきちゃん、確認なんだけど。」
うん。と、彼女は気だるげに返事する。
「ご両親はちゃんと言葉が通じるんだよね。」
「当たり前でしょ。父さんも母さんも、もともと広島出身よ。でもいつかは山ちゃんも室波の言葉を覚えないとね。」
「難しいな。」
お前も山ちゃんになるんだよ。ということは置いといて、室波の言葉は英語や中国語といった外国語と違って、習得できる気を全く起こさせない何かがある。単語とか文法とか、物の概念さえも再構築させなければならない感覚。正直な話、言葉を覚えようとしただけで脳がおかしくなりそうなのだ。言葉を使い分けられる秋田野家の人間は本当に頭がいい。いや…
「妹さんは?」
「ああ、あれね。」
秋田野は首を振った。
「そもそも室波から出たがらないのよ。あれはもうすっかり室波の子ね。」
そうか…、と山田は伸びをした。少し腹が減ったな。
「なんとか妹さんともコミュニケーションをとってみせるさ。」
「余裕出てきたじゃん」
秋田野が軽口を叩くところで列車が止まる。「実り穏やか」とかいう駅に着いたのだろう。山田が秋田野の向こうにある窓の外を覗き込む。秋田野はピクッとこちらを見て目をそらす。駅名を示すホームの看板には「酉野原」と書かれていた。
「全然違うじゃないか…」
山田の内に、恋人の実家を訪問する緊張とは全く別の、全身の感覚に膜が張られたような不安が膨らんでいた。