異界へ!
『人間』として、ごく普通に過ごして来た綾乃。
実父の毛皮(+精神体)と思いがけず邂逅してしまった事によって彼女の運命は流転を始めた!
帰宅した綾乃は、おそらくは伝令で事情を聞いたのだろう、騒ぎ立てるメイド達を潜り抜けて購入した毛皮を抱えて自室に避難した。
白木の木目ドアが、後ろ手で音もなく閉められる。
世話だの何だのと騒ぎ立てるメイド達。
まあそれが仕事なので仕方ないとは思っているのだが、本心を言ってしまえばこれ程疲労を覚えるものはない。
別に世話を焼かれずとも、基本的なことはできる。疲れているときは放って置いて欲しいのが綾乃の本心だった。
だが、そんなことはいえるはずもない。
綾乃は、胸一杯に溜まった悪態を溜息と一緒に吐き出したのだった。
(ああもう、やめろ……余計に疲れるでしょうが!)
「これだからメイドって苦手……秘書だかメイドだか、もうんざり」
【――‐鏡をごらん、お前の姿が映っているぞ】
直接頭の中に響く声は不思議と恐ろしくはなく、寧ろ訴えかけるような響きを持っている。
甘く響く声は綾乃を大きく揺さぶり、蜜のように絡みつく。
「貴男、貴男は誰なの…?」
彼方からの声に、綾乃は震える声で小さく問いかけた。
【やっと見つけた。こんな場所にいたのか‐――……我が娘よ……】
「ええ!?」
綾乃はその身を凍らせる。
自分が養女だとは知っていたが、これは一体どうしたことだろう。
【毛皮を、鏡に映してみなさい】
困惑し、強張っている綾乃の様子を察したのか、柔らかな声が促した。
「これを、映せばいいのね……?」
綾乃はおずおずと、窓際に据えた姿見に毛皮のコートを映してみる。
【そうだ。見なさい……これがお前の本当の父の姿だ】
暗い部屋の中、月明かりに照らされた姿見がぼんやりと光を帯びていく。
夢のように美しい光景だが、綾乃にはまだ、この現実が俄に信じることができなかった。
「貴男が……お父様?」
鏡の中には、漆黒の髪をした青年が映っている。
滑らかな漆黒の髪に、そして青い――アイスブルーの瞳。
【情けないことに、お前を捜しているうちにこんな姿になってしまった】
「つまり、殺された…と」
【そのようだな。だが肉体を棄てた分、いくらか自由なのだ】
と、鏡の中の若い実父は楽しげに語る。
【それにしても、人間の中で育った割に驚かんな。流石は俺の娘だ】
「なに喜んでるのよ。殺されちゃったんでしょ? それってやっぱり…幽霊なのよね?」
【まあ、そういう部類にはなるがな。大したことじゃあない】
「もう……」
(十分大したことだってば! でも、確か幽霊って鏡に映んないんじゃなかったかしら)
「…お父様、鏡に姿を映せるなら、実際に形を取ることも可能なんじゃないの?」
しばしの空白の後、考え至った綾乃はそっと鏡面に触れて呟く。
(す、すごい美形……なんて素敵なのかしら)
「それに……とっても素敵」
恋愛経験の全くない綾乃にとって、それは些か刺激が強すぎたようだった。
なのでぼそぼそと呟いた綾乃の頬は、トマトのように真っ赤になっていた。
【ん、なんか言った? そうか、その手があったな】
いま知ったように言う彼に、綾乃は小さく肩をすくめる。
【では早速】
鏡面が水盤に張られた水のように揺らぎ始めると、ぬらりと地黒な片腕が突き出される。
次に双肩の出現と共に、頭もが露わになった。
そして凡てが抜け出した後、姿見は音もなく光を撒いて崩れ去ったのだった。
【ま、実体が在ろうとなかろうと……不自由することはない。現にこうして触れたりもできるし】
暖かい大きな手が、綾乃の頭に触れる。
実体がないのに、どうして温もりを感じるのが不思議だ。
【今まで、済まなかったな。『あの時』はこうするほか方法がなかったんだ】
(あの時?……ってなんだろう)
「一つ、聞いてもいい?」
【何だ? 一つといわず、いくらでも聞いていいぞ?】
綾乃に会えたのが余程嬉しいのか、彼の尻尾がフル回転している。
……ように見えるのは、気のせいだろうか?
綾乃は居住まいを正すと、目の前の実父にそっと問うた。
「その、耳と尻尾はなに? どこの民族?」
どこか異国の民族で、そういった扮装をする一族がいるのを聞いたことがある。
きっと、その衣装に違いない。
(でも……どうなってるの、これ。全然作り物とかじゃなくて…違和感がない!)
そう思ったのも束の間、彼はにこやかに綾乃の希望を叩き割った。
【何かと思えば、自前に決まってるだろう? それに、造作はお前も同じなんだからな。ほら、窓にも映ってるだろ】
「へ!?」
昏く沈んだ外景に、窓ガラスが鏡のように二人の姿を映しだしている。
緩くパーマのかかったロングヘアから、それと同色の毛玉‐――いや、耳が覗いている。
あまつさえ、それは触れるとぴくんと揺れてしっかりした反応を返し、神経の通った本物であることを綾乃に思い知らせた。
(耳っ…耳動いたッ)
綾乃は眩暈を隠しきれず、些か過剰なくらいにきりきり舞をした。
「やだ…やだやだ、あたしって人間じゃないのー!?」
【正確には人狼だな、人間じゃあない】
「人狼って、狼男のこと?」
人狼と聞いて、咄嗟に思いつくのはそれしか見あたらない。
何ともお粗末な知識だが、綾乃は怖々と聞いてみた。
【フン。昔の人間の偏見の一つだな……人狼は男女ともいるぞ】
「ということは、あたしの本当のお母さんがいるってことにならない?」
【勿論だ、泣く泣く手放したんだから……会えば必ず喜ぶだろうな】
まじめ顔でうなずいた若い父に、綾乃は無意識に一歩ずつ後じさっていた。
先刻の言葉を思い出したのである。
《――――‐人としては生きられない。そして、人界は在るべき場所ではない》と。
「あたしに、どうしろと?」
【そうだなぁ、このままではお前の存在自体が歪んでしまう。元々暮らすべき場所に連れ帰るしかあるまい。――来なさい】
ぐい、と腕を牽かれる。
厳重に鍵をかけたはずのドアが、錠を解きもせずに容易く開いた。
それだけではない。
通り過ぎる空間には音はなく、いくらか色褪せて見える。