第20話 勝利の女神にアイアンクロー
体力には自信があるフーヴィスも、昨夜から寝ずに乱闘や街を走り回ったりするのは辛いらしい。
そもそも腹に入れたのは朝方のパンだけである。加えて昨夜は酒しか口に入れていないのだから、疲れて当然だろう。
なぜか妹から逃げるように走り出したフーヴィスと、それに引っ張られたクロス・ベルガーは、どこかも分からない路地裏で這いつくばる様にしゃがみこんでいた。
「うごっ……おおお……」
変な呻き声を上げながら、フーヴィスは胃から込み上げてくる不快感を喉元で必死に抑え込む。
「おーい、大丈夫か?」
クロスはまるで疲れを感じさせない様子だ。カウンターストップの値999の内、全ステータス800の男は並の体力ではない。
そもそも何故逃げる必要があったのだろうとクロスは首を傾げるが、フーヴィスの先ほどの妹を見た反応と会話から察することはできる。「そうだ、きっと久しぶりに会ったせいで緊張したのだろう」と。
「フーヴィス」
「なん……なんだぜ?」
まだ息も上がらないフーヴィスの肩に、クロスはそっと手を置く。
「次があるさ」
「何がだ? ……まあいい、さっきの件は悪かった。『あっちの』妹とはちょっといざこざがあってな……」
「大丈夫、分かってる」
「……? そうか」
本気で照れ隠しと考え、それ以上は何も言うなと背中で語るクロスと、どこか釈然としないフーヴィス。
うんうんと数回ほど一人で頷いていたクロスは、最初の会話、つまり逃げ出す前の内容へと話を戻した。
「ところで、なんで借金の返済をそんなに急ぐんだ?あのマスター優しそうじゃないか」
クロスの血液代わりにアルコールが回っていた頭でも鮮明に思い出せる。
黒髪を肩口で切りそろえた美しい女性だ。一人称の「僕」というのも、あの女性の魅力を引き出す要素になっていた。きっとそこらの女が「僕」などと言っていたらクロスも首を傾げていたに違いないが、あの店のマスターに限っては例外であった。
そんな美しい女性からの借金だ。額も額ではあるが、あまり急がなくてもいいのではないだろうか。きっと見た目通りの慈愛に溢れた人物に違いないだろう。
そんな考えから来た疑問を、フーヴィスはばっさりと切り捨てる。
「甘い! ミルク入れ過ぎのコーヒーより甘いぞ兄弟! あのマスターが借金の期限を伝えなかった理由がわかるか? 返済する気無しと判断したやつを、借金返済の大義名分の下に膨大な利子で骨の髄まで搾り取るためだ! 俺はなんとしてでも返す! もうあんな思いをするのはゴメンだ!」
指をこちらに向け、力説するフーヴィスの言葉の裏には、なんとも壮絶な過去があったに違いない。でなければ、大の男が涙声で叫ぶものか。
感動したようにクロスは、「おお……」などと呟いて拍手を送っていた。
二度も借金するなよなんて、無粋なことは言わない。
「なるほど……よく分かった」
「おお! 分かってくれたか!」
「なら借金の返済を急がないとな! ……俺も」
「話は決まりだ! この手は使いたくなかったが……身近な店じゃなくて、大きな店に行くぞ!」
「おお! それでこそ男だ!」
小規模な店より大規模な店の方がレートが高く、当たれば大きい。金を全部失くす可能性は必然と高くなるが、覚悟を決めたフーヴィスには恐れなど何もない。その覚悟を肌で感じたクロスは感心し、その覚悟に自分も負けられないといった気持ちで意気込みを決める。
しかしながら、普通の人間ならば高額の日雇いで寝る間も惜しむといった発想が普通だ。金を増やす方法を考えて勤労ではなくギャンブル。そしてそれ以外の発想を思いつかないあたり、この二人の人間性が垣間見える。
即ち、こいつらは典型的な駄目人間ということである。教育者が彼らを見れば、眉を顰めて子供に彼らと正反対の人間になりなさいと教えるだろう。
「まてよフーヴィス。この額なら、他の所から更に借金してゲームに勝てば、1度で全部返済できるんじゃないか?」
「おお、その発想は無かったぜ! もしかして兄弟は天才じゃないか!?」
「はは、褒めろ褒めろ」
「じゃあ早速、身分証明いらずの金を借りてくるか!」
「よし、決まりだな!」
常人ならば破産ルートは確実であろう発想で、2人は朝焼けの街を歩き始める。
*
「あ、あれ……私はいったい…………?」
クロス・エルニクトが目覚めた時、そこは彼の執務室ではなく、臨時パーティーで組むことになったメンバーの1人が所属していたギルド拠点であった。
鉄骨や木による補強がされているが、その場に似合わない大きなシャンデリアが眩い光を放ち、鉄骨の隙間から見え隠れする岩肌を照らしていた。
(確か、私は王女の部屋を出た後、自室で報告を受けて……)
シーラとの会議の後、薄くなり始めた白髪の頭皮を撫でながらクロスは自宅へと足を運んだ。そこで自分の秘書から、新たに報告を受けていたはずだったのだが……。
「拠点……確か洞窟だったか……?」
ゲーム時代の微かな記憶を呼び起こし、クロスは内装からその拠点が洞窟内のものと一致するところまでを思い出す。
もっとも、鉄骨の隙間などを見るより、クロスの背中側にある景色を見れば、そこには彼が座っている椅子と赤い絨毯などではなく、ただのゴツゴツとした冷たい岩肌しか広がっていないのだから、洞窟だとすぐに判断がつくのだが。
「とにかく、動かないと……」
立ち上がろうとし、そこで体が持ち上がらないことに、クロスはようやく気付く。
「んなっ……?」
彼の身体は、椅子に巻きつけられるように縛られていた。腕と上半身は後ろ手に背もたれに、足も一部の隙間が無いほど、ガッチリと鎖で固められている。
更に驚いたことに、クロスの服装が執務室で着ていた物ではなく、かつての愛用物……それも仮面入手前に使っていたオリハルコンの糸で織られた民族衣装に変わっていた。あまりの展開の早さに、さすがのクロスも体中から汗が流れ始めるのを止めることが出来ない。
「これは一体……」
何が何だか分からない。この展開の早さは何なのだ。焦りに焦りが募るクロスが唯一動く首だけを頼りに部屋を見回す。
そして自分の右側、真横に掛けられた全身鏡を見て、クロスの心臓がドクンと跳ねた。
「若返ってる……?」
紛れも無く、その姿は老人ではなく少年。この異世界に来てからもう何十、何百年前だったかも忘れていた、クロスがかつてゲームをプレイしていた頃のキャラのアバターだった。
皺だらけの枯れ木のような肌にはかつての張りが戻り、髪は白ではなく輝く金色、髭など論外と言わんばかりに、ツルツルの顎が鏡に映る。
「なんなんだ一体……」
クロス……もとい「ひろいち」は、人生経験ならば誰にも負けないと自負している方である。それはこれまでの壮絶な人生を語って見せれば、誰でもその通りだと答えるほどに。
そのため大抵の事象には冷静に対処することもできるが、いくらなんでも枯れた爺からツヤツヤの美少年に変化することには冷静な対処は望めないだろう。
現にマジマジと鏡を見続けるひろいちは、この状況の分析に当たることができていなかった。
「うーん、いい男」
鏡の前でいくつかキメ顔を作るひろいち。ちなみに彼はナルシストというわけではない。普段であれば客観的な判断を下せる男だ。若い肉体を手に入れて多少はしゃいでしまうのは仕方ないと言えるだろう。
そして今度はポーズを決めようと体を動かそうとして……自らの状況を思い出す。
「そうだ……縛られてるんだった……」
がっかりしたようにひろいちは落ち込む。決してポーズを決めることができなくてという理由ではなく、年甲斐もなくはしゃいで分析を怠った自分の情けなさに対してである。
ポーズを決められなかったことは1割程度の理由でしかないはずだ。
「しかし、いったい誰が……」
ひろいちの呟きに答えるように、男はやってきた。
「おいおいおいおいなんだなんだよSMプレイですかぁ? 流石の俺様も男にゃ興味ねぇが……頑張っちゃいますぜ!!」
「え、ラプターさん……?」
どうやら答えと言うには非常に微妙な人物のようだ。
黒い獅子の兜を被り、全身を黒い鎧に包んだ赤マントの男が、いつの間にかひろいちの正面に現れていた。
彼の手に握られた剣がこれからどういった用途で使われるのか……あまり想像したくない。
「ふむ、余もそういった趣向の経験は乏しいが……天上天下の王たる余の前には成功しか有り得ぬ。安ずるがいい、最上の快楽をそなたに約束しよう」
「こ、これはタロンさん……お久しぶりです」
続いて顔を右に向ければ、そこには白金の狼の兜。
その色に合わせるように着用された白金の鎧と黄金のマントが、洞窟の証明に照らされ眩いばかりの光に輝く。
「おいいいいいい! 俺のプリン食ったのはてめえかひろいち!」
「げっ! ぶた鍋さんだ!」
空のプリンの容器と、わずかな食べかすの付いたスプーンを手に、顔を真っ赤にした男が近づいてくる。
「おら!正直に言え!ぶっ殺してやる!」
「しし知らないですよ!離してぇ!」
容器を投げ捨て、ひろいちの胸倉を掴むぶた鍋の顔は、これでもかと言うほどに赤く染まっていた。身動きができない上にブンブンと首が振られるひろいちの顔が、ぶた鍋とは対象に青く染まっていく。
オイコラと今にも殴りかかってきそうなぶた鍋の声を遮る様に、新たな人物がひろいちとぶた鍋の間に割り込んだ。
「まあまあ落ち着いてください」
「え、先輩? よく分かりませんが助けて下さい!」
「黙ってろ紳士! こいつは俺がぶっ殺す!」
思いがけず、ひろいちは彼のHNでもなく、自分が一番呼びなれていた名で、彼に助けを求める。
しかし、ぶた鍋に紳士と呼ばれた彼は、ぶた鍋の言葉を無視するとひろいちの前に立ちはだかった。
「えと……あの、先輩?」
雰囲気から察するに、どうやら助けに入ったわけでは無さそうだ。
なにやら今にもひろいちの首を刎ね飛ばしそうな勢いで、彼の顔が迫っていたからだ。
「さて、ひろいち君。私の20ギガバイトにも及ぶエルセフォルダとラウナフォルダが見つからないのですが、あなたご存知では?」
「いえいえいえ知らないです本当です!」
「嘘はいけませんねぇ……zipの紳士だけに君を物理的に圧縮しますよ?」
「本当ですってば!」
上手いこと言えてないですね、なんて冗談を考えている場合ではなかった。ひろいちは必死に否定するも、紳士は何やら自分の指をパキポキと鳴らし、その場で何度も握り拳を作り直す。
「退くがいい紳士、ぶた鍋。こやつは道を誤り畜生に成り果てた。故に私がせめてもの情けとしてその脳天をかち割り、神への許しを請うとしよう」
「いやいやいいです僕は無神論者ですから! だからそのでっかい十字架を下ろしてくださいダストさん! お願いします!」
次々と懐かしい面々が現れる。だが感傷に浸る暇など無かった。新たに現れたダストと言う人物は、身の丈を超えた鉄製の十字架を既に振りかぶっていたからだ。
「さらばだ、ひろいちよ!」
「いやああああああああああああ!!」
脳天に振り下ろされた十字架と、卵の殻が割れたような音を最後に、世界が暗転する。
*
「はっ!」
クロス・エルニクトは、そこで目覚めた。
「わ、私は一体……?」
恐る恐る、自らの頭を撫でる。手に伝わるぬるりとした感触に、一瞬だけ心臓が跳ねるが、それが自分の汗によるものだと認識すると、心の底から安堵したようなため息を吐いた。
「大丈夫ですか、クロス様? 報告は聞いていましたか?」
横に控えていた秘書が、心配したようにクロスに声を掛けた。道を歩けば十人中十人の男が振り返るであろう秘書の美しい容貌には、僅かながら翳りが見える。おそらく報告を無視して夢の世界に浸っていたせいだろうと、寝惚けた頭でクロスは推測を立てた。
だが、今はそんな場合ではない。クロスは自らの身体を触り、服装を確認し、続いて部屋の様子を確認する。
間違いなく彼が数十年慣れ親しんだ部屋であり、窓からは朝日が差し込んでいる。間違っても洞窟ということはない。
服装も民族衣装ではなく、彼が愛用している普段着であるし、なにより先ほどまでのような若若しい少年の姿ではなくなっていた。
どこをどう見ても老人の姿である。
「夢か……」
ほっとしたような、ガッカリしたような。
例え夢の中であろうと、自分の百年以上も前の若若しい姿をこれでもかと鮮明に思い出してしまっては、複雑な心境になって当然だ。
なにより、あの懐かしい人たちに、「先輩」まで加われば、どんな楽しい冒険ができたのだろうか。
ありえないことであるが、妄想せずには得られなかった。
「本当に大丈夫ですかクロス様? もうお休みになられた方が……」
「いや、もう大丈夫だ。して、どこまで聞いたか……」
本人が大丈夫と言い仕事を続けると言う以上、秘書もそれに従うしかない。感情を押し殺し、秘書は先ほどまでの話の続きの報告始める。それの声色はまるで、機械が喋っているのではないかと間違えそうになるくらいに、淡々としたものだ。
「――――ですから監視対象は変化も見受けられず、精神は極めて安定。問題なしとのことです」
「やはりか、あとはあの坊主をどこで引かせるか……」
「……そのことなんですが、実は続きがありまして」
「ん、どんなことだ?」
「俺はもうちょっと遊ぶんだぜー、こいつおもしろい。だそうです」
まるっきり似ていないが、秘書は似せようと努力しているのだろう。これをボケと捉えて笑うべきかと考え、続いて秘書の性格を思い出す。あの堅物が服を着て歩いているを体現するような人間である。これはなるべく正確に報告しようとした結果なのだ。
(いや、やっぱり笑うべきなのか……?)
悩みに悩み、クロスは一言だけ返答することにした。
「…………そうか」
「それと、これは先ほど来た情報なのですが……」
言いにくそうに、顔を顰める秘書。
その姿に、クロスは生まれてこの方、初めて見る珍獣を発見したような驚きの表情を秘書に向けてしまう。
というのも、この秘書は自分の感情を職務中に表に出すことは滅多に無い。今日はいつものように尻を撫でることもしていないし、スカートの下に手を掛けるような真似もしていない。
クロスに非が無いのに顔を歪ませているということは、相当深刻な内容であるのだろうと簡単に予想がついたからである。
「今夜、英知収奪の出発式が行われるそうです」
「馬鹿な!」
クロスの怒号に、部屋中の窓がビリビリと震える。脇に控えていたままの秘書も、表情には出さなかったものの肩をビクリと震わせた。
「……すまん、続けてくれ」
己の失態を悟り、椅子に座り直したクロスは、コホンと咳払いをすると秘書の言葉を待った。
「……それで先ほど、クルト様よりこちらに荷物が届けられたようで、クロス様には彼の見送りをお願いしていただく形になります」
「まて、今日だと? 何か話がおかしくないか?」
挨拶も手紙も無しに勝手に人に物を届けておいて、それで今日引き取りに来る。そんなバカな話は無い。貴族云々ではなく、人としての礼儀がなっていないことになる。確かに彼は礼儀がなっていない部分があるが、そこまで酷くはなかったとクロスも記憶している。
「一応は民間の経由ですが、恐らくどこかで妨害が入ったものかと。郵便物と一緒に手紙が添えられていましたが、インクと紙の汚れから見るに、どこかで2週間ほど止められていた可能性があります。ギルドに繋がりがありましたので、なんとか今日までに回収することに成功しました」
「一体誰が……まあ英知収奪について反対派の私を嫌った連中には違いないだろうが」
預かっていた荷物が無くなり、出発式が延期になるのを喜ぶのは、普通に考えれば英知収奪について反対派の人間であると考えられる。ましてや荷物の中身が旅に向けた装備であれば、延期どころか中止も視野に入る。
だが、クロスはそもそも英知収奪を行うと言うこと自体を知らなかった。王女と何度も会っているが、シーラの口からもそんなことは一言だって聞かされていなかった。
「面倒な……」
シーラは英知収奪についてはどちらでも、という立場である。知らなかったという可能性はもあるが、それは限りなく低いだろう。シーラはクロスとの協力関係にあるが、考え全てが同じというわけではない。忠告する義理もないのだから。
「加えますと、今夜の出発式について我が諜報部が察知したのは、決定より1か月後になります」
予測していた言葉ながらも、クロスは頭が痛くなるのを感じた。英知収奪について反対派のクロスは、この動きについて充分に気を付けるようにと諜報部の人間には強く念を押していた。しかし蓋を開けてみればもう終わっていたでは、頭を抱えずにはいられないだろう。
「うちを出し抜く連中……」
「噂のファントムでしょうか?」
「頭の固い連中が素性も分からない人間に頼みごとか? 考えにくいが……おそらくそのくらいのレベルの人間なのは間違いない」
ファントムとは、一言でいえばフリーで活動する何でも屋だ。最近聞くようになった名で、実力は確かなものらしい。
そして何でも屋と言う割にはやたらと受ける依頼が暗殺や諜報に関わったものばかりで、依頼を受けて活動する人間の姿を見た者は未だにいない。単独で活動する凄腕とも、実は組織だって活動する集団とも言われている。
その秘匿性から個人の情報が漏れることは無く、依頼するならばうってつけと言うべき相手だ。
さすがに王国の諜報部に遅れは取らないクロスのお抱えの情報屋の実力を考えるならば、外部からの協力者か、新たな人材が舞い込んだと考える方が自然だろう。
クロス個人の懸念としては、もう一つ無いことは無いが。
「あの糞餓鬼の単独ではないだろう。あれは有能だが、こと身内に関しては無能もいいとこだ」
「国王陛下の前では謹んでくださいね。不敬罪で物理的に首が飛びますよ」
「分かってるとも。こちらの貴族内には帝国のスパイだって居るのだ。まだ死ぬわけにはいかん。……さて、孫の顔でも見るとするか。そうでもしないとやってられん」
頭を抱えたまま退出する上司の姿を、秘書官は本当に同情した様子で見送った。




