仮面
仮面
私は趣味で新劇に参加している。
きょうは舞台稽古の日。Tシャツ、ジーパン姿でスタジオに行く。そして、控室でメイクを落として役者の仮面を付ける。
私が演じる舞台は薄暗く、中央に一脚の椅子とテーブルが置いてあるだけ。テーブルの上には一輪のバラがコップに差してあり、スポットライトが当てられている。観客席にはメガホンを握った怪しげな監督が一人、舞台の上を鋭く見据えている。照明が明るくなり、合図と共に私は左の袖から中央に出て行く。
「あ――、何ということでしょう。こんなに尽くしているというのに、彼には『ありがとう』の一言も無いなんて」
私は大げさな身振りで叫んだ。
「真ん中に出過ぎだ、もう少し手前で止まって、そうそういいですよ。それから正面を向く時はパリッとやってね。両手は斜め下に突き刺すように。胸を張って腹はへこませるんだよ――。空気をいっぱい吸って腹から声を出して。ヒステリックなセリフは、みっともないですよ――。ハイ、もう一度やり直し」
監督の容赦ないメガホンが飛んだ。
私は同じ様なことを三度やらされた。
〈どうすればお気に召しますの。もうどうでもいいや〉と、ふてくされそうになると次に進む。この監督はいつもそうだ。決して納得していない、しかし妥協しなければと思っているに違いない。苦み走ったその顔が雄弁にこの状況を物語っている。
みすぼらしい衣装を身に付けた男が、右の袖から出てくる。タッチャンこと竜也だ。彼はスルスルと前に出てきて、途中ちょっと立ち止まり観客席を見回す。中央に進み、手にしたロウソクをテーブルの上に置く。
「悩める乙女よ、汝の気持ちはよく分る。しかし、見返りを求めてはならぬ」
タッチャンは牧師の役だ。監督は一回でOKのサインを出した。どこに差があるのだろう、気まぐれな監督だ。
「それでは私の気がすみません」
タッチャンは帽子を取りながら静かに言った。
「これだけしてあげたのだから、ということに対して、同じだけ返しますという契約が成立していますか?」
私は大げさにうろたえて、観客に背中を向け、そしてまた正面に向きを変えた。少し困惑したように……
「これだけ尽くしたのですから、当然感謝すべきです。違いますか? 彼が図々しいのです」
「そうでしょうか? 私にはあなたの態度が傲慢に見えます。恩着せがましいとは思いませんか?」
タッチャンは両手を水平に広げ、貫録いっぱいに喋った。意外と声は少し高めで、伸びがあった。
「では、どうすれば?」
「神を愛しなさい」
今度は低い声で重々しく喋った。舞台を丸く回って……
「隣人を愛すのです。隣人は愛を返さないかもしれません。しかし、神があなたを愛します。あなたは神に愛されるのです。幸せなこと、と思いませんか?」
「私に犠牲を強いるのですか?」
「いいえ、神を信じるのです。神はあなたを救うでしょう。これは契約です」
「愛も契約ですか?」
「当然です。愛すことは、愛されることが条件です」
「神を信じなければ?」
「神はあなたを救わないでしょう」
「なぜ? なぜ私は救われないのですか」
「神との契約が、不成立だからです」
監督がメガホンを膝に二、三度打ち付けて「いいね、サチ子ちゃんいいよ。もう少しリアルにいこう。セリフをしゃべりながら、テーブルに近づいて。そうそう、いいね。タイミングを見て又元の場所に戻ってちょうだい。そ―です、そ―です、ハイもう一度いってみよう」と、注文を出した。
段々調子が出てくるのがわかる。私のこころは、舞台の中にまろやかに溶け込んでいく。タッチャンも完全にノッテきて、荒々しい息遣いが伝わってくる。クライマックスの直前「ハイ、そこまで。よかったよ、きょうはおしまい。この次は間の取り方を研究しよう」と、監督のしわがれた声が響く。
〈あ――、もう少しやりたかったのに〉
私はドレスの裾を引きずってそのまま舞台を降りてくる。体も綿のように疲れている。お疲れさんと、タッチャンがアイスカップを差し出す。グットタイミング、なんて気の効くことでしょう。つめたいアイスが解けていくように、私の心はゆるやかに仮想空間から現実の世界に戻っていく。
三か月前、この仮面で一度舞台に立った。突き刺さるような観客の視線に戸惑ったが、次第に大胆になった。アドレナリンがドバっと、でてきて、頭の中が真っ白になってしまう。この快感を味わったら、もう仮面は手離せない。