湯河原に行きたい
1998年1月15日。
美雪は部屋の外を眺め、自分の名前を恨んだ。
「真っ白じゃない。今日は、今日だけは降らないでほしかったのに」
東京は深夜からの雨が雪へと変り、もう、とてもじゃないが、家の前の急坂を登りきることさえできないだろう。多分、ニュースをつければ、JRも私鉄も電車もバスもみんな遅れが出て、満足に動いていない、と言うだろう。つける気すらしなかった。それくらいものすごい雪だった。
きっと、あいつなら
「今日は中止」
と、言うに決まっている。花岡はなんと言うだろう。
深雪はベット脇に置いてある受話器を握った。覚悟を決めて電話したのだ。
2、3回のコールの後、花岡は電話に出た。眠そうに、迷惑そうな声に感じた。
「今日は無理だろ。でも、俺は
そう言うと、電話を切った。
予想通りの反応だったけど、結構ショックだった。いつから私の電話にあんなに迷惑そうな反応を示すようになったのだろう。
あいつとは去年の夏に知り合って、正直私のほうが熱をあげていた。そう、誰が見てもそうなのだ。愛されていないことは、はっきりしているのに、離れようとすると、男の弱々しい頼りなげな声にすっかり騙されてしまう。
深雪は、リビングに行ってコーヒーを入れた。まだ、エアコンにスイッチを入れたばかりで、フローリングの床がやけに冷たい。
音を立てないように気を使っていたのだが、リビングの隣に寝ている母が起きてきた。
「今朝はずいぶん早いのね。でも、こんなに雪が降ってるのに、出勤するの?」
えっ、ええっと。少し、慌てた。そうだった。私は母に嘘をついたのだ。
「やめとく。帰ってこれなくなると、困るから」
「そうよね。電車が止まるはね。これじゃ」
母がテレビをつけた。どこも未明からの雪の事しか放送していない。ほんとうに恨めしい雪だ。
「東海道線、横須賀線、京浜東北線は運転見合わせだって。帰るどころか、行くのも無理ね」
母がテレビを見ながら言った。
「止んでくれさえすれば電車だって動くはずなのに」
私の叶わぬ願いに、
「あら、まだ会社に行くつもりなの?」
と、言った。その一言にびくり、とする。会社になんて行きたいわけがない。私はあいつと湯河原に行きたいのだ。あいつと一緒の時間を過ごしたい。同じ時を過ごした思い出が欲しいだけだ。本当なら、去年の秋、一泊で湯河原に行くはずだった。それをドタキャンされた。そして、ものすごい仕打ちを受けたのだった。
あいつが同じ時間を過ごしたいのは私じゃないのだ、と、あの時、分かったはずだ。ずっとずっとわかっていたはずなのに、私ときたら、今年になってすぐ、あいつからの、
「成人式の休みに行ってこようか」
そんな言葉にころりと騙された。向こうから気のある素ぶりで誘った割には、今朝の
「今日は無理だろ。また今度な」
の一言だ。
別れを決めたはずなのに、馬鹿みたいだけど心が躍った。本当に本当にこの日を心待ちにした。でも結局、大雪にやられた。
「これじゃ、成人式の晴れ着は台無しね」
母の言葉に、
「そうね」
とだけ答えた。
カフェオレボウルで飲みながら、私はじっと窓の外を眺めていた。音もなく降り注ぐ雪は、ここが東京だということを忘れているのかもしれない。
低く垂れこめた灰色の空ある。音もなく真綿の様に白い雪の塊は、私の願いなど聞いてもくれず、その塊はあとからあとから、絶え間なく降り注ぐ。
『止んでくれれば。今からでも止んでくれれば。』
どうにもならない心の叫びなど、東京の雪は聞いてはくれなかった。私の願いなど、あいつの心をかえることなんてできない。その日一日結局雪は降り続き、私はその日、窓の外に目をやりながら、あいつとの事を一人思い出していた。
去年の夏、私は会社の飲み会で、かなり酔った。普段はそこまで飲まない。でも、その日の昼間、職場でちょっとしたイザコザがあって、間に入って止めようとしたら、
「でしゃばらないで」
と、大声で言い返されて、かなりいらついていた。周りもそのことに気が付いていたようだ。飲めない日本酒まで飲んでしまって、頭がぐるぐる廻って、テーブルの上に頭をくっつけて眠っていた。
「しかしさ~、みゆきさんに怒鳴るなんて、たかぴーって、お門違いもいいところですよね。
まっ、聡さんがさっさと謝っとけば、みゆきさんだって、今夜はきっと楽しいお酒だったはずなのに」
と、営業では一番年下の酒井が言った。
毎日のように、営業部ではたかぴ~こと竹内静香と、沢村聡の言い争いが絶えることがなかった。部長から、美雪が間に入って、うまく取りまとめるように、と、指示が出ていた。
だけど、たかぴ~は、普段から、自分には懐かず、喰ってかかる聡が気に入らなかったし、何かと言うと部長が、たかぴ~を避けて、美雪に用事を頼むのが気に入らなかった。
「ほんと、美雪さんには悪いことしちゃったかな」
聡が言った。
「そうだよ、お前がたかぴ~ともめずにいれば、美雪さんだって、今夜楽しかったんだよ」
課長代理の花岡が言った。
「しかし、たかぴ~は誰にも懐かないよな。社内にたかぴ~とウマが合う相手はいないのか?」
「・・・・・・」
「聞いた俺が悪かったよ」
一瞬、どっと笑いが起きて、その場が和んだ。
「課長代理は、美雪さんと、つきあってるんですか」
「えっ。」
酒井がきいた。花岡は思い切り焦って、
「俺なんて、お願いしてもつきあってもらえないさ」
と言った。
「え~。付き合ってると思ってましたよ」
周りの視線がみゆきと花岡に注がれたその瞬間、
「ま、お願いされたらわかんないけどね~」
美雪は途中から聞いていたのだ。テーブルに顔を伏せ目を閉じたまま、美雪は言った。本心だった。美雪の本心だ。
「じゃ、折を見て頼んでみるよ」
花岡が返した。みんなが笑った。
公園通りを下った。パルコ、マルイ、西武と続くネオンがやけに眩しい。美雪は、今の仲間は最高だな、と心底思う。人望の厚い花岡のもと、営業成績優秀だけど、たかぴ~には敵意むき出しの沢村聡。その沢村の後をしっかり追いかけ始めた酒井則之。この三人で飲んでいる時が一番楽しい。部長から何とかしろ、と言われている竹内静香の存在がなかったら、どんなに毎日バラ色かと思ってしまう。
「あ~、明日も仕事なのね。私はこのまま帰るから。みんなで続き楽しんで」
と、美雪がスクランブル交差点の109‐2の前で言った時だった。
「今日はおれも帰るよ。お前たち二人で楽しんで来い」
花岡が、沢村と酒井に言った。
「あ~っ、課長代理、今夜美雪さんにお願いするんですね。見届けたいところですが、僕たちは失礼しますよ。頑張ってくださ~い」
頭の廻らない酒井は、「?」と言った表情で沢村に連れられて行った。
「へぇ。お願いするんだ。無理だと思うな。わたしには」
美雪がちゃかすように言った。ほんの一瞬の沈黙が続いた。
「お前、誰かいるの?付き合ってるやつ、誰かいるの」
次の瞬間、信号が青に変わった。雑踏に押されるように二人は駅に向かった。同じことを聞くことはしなかった。答えることもなかった。ただ、流されるように交差点を渡り、同じ電車に乗り込んだ。何度、こうして肩を並べ帰路を共にしただろう。
時に会社での愚痴を、時に芸能ネタを。今夜は何も話さず、だけど、いつもこうして、乗り換え駅で手を振る。
「また、あした」
美雪が、電車を降りようとしたその時だった。乗降客に押され、酔っ払った美雪がバランスを崩し、ヒールが折れて、プラットホームに頭から倒れかかった。
「あっ」
美雪はもちろん、花岡が声を出した次の瞬間。美雪の腕を引っ張って、美雪が顔面を強打するのを助けた男がいた。美雪は、その男の胸に抱かれるようにして、けがをせずに済んだのだ。
「すいません、降ります。とおして」
花岡は慌てて車外に出ようとしたが、あとほんのちょっとのところで、ドア閉まった。
温かい大きな胸。力強い腕。私を助けてくれたのが、あいつ・・・西島雅人だった。
「大丈夫?」
「え、あ、ありがとう。」
「けがは?」
「ヒールかな」
西島は、人懐っこい笑顔を浮かべて言った。「そっか、ケガはヒールね。どっか痛いとこない?」
「大丈夫」
そう言って西島の腕から離れようとしたその時、右の足首がズキンとして、悲鳴を上げた。
「痛い」
「捻った?捻挫かな」
右足を捻ってしまったらしい。
「歩ける?」
西島の歩ける?に歩いてみたのだけど、思うように足をつけない。西島は先を急ぐのか、腕時計に視線をちらりとやった。
「無理かな。タクシーに乗ります。大丈夫。親切にしていただいてありがとうございました。名前お聞きしてもいいですか」
美雪が言うと、西島は名刺を出した。
「ぼくね、西島雅人。ビルとかの設計やってるの。お礼は要らないから、君が大きなビル建てるようなことがあったら、僕に連絡してね。本当は送っていってあげたいけど、まだ、仕事なんだ。ごめんね」
そう言って名刺を無理やり美雪に渡すと、自由が丘の階段を一気に下って行った。
『お礼は要らない』か・・・・・。
不思議な人ね。美雪は駅の階段をどうにかこうにか降りると、そこからタクシーに乗って自宅に向かった。自由が丘のタクシー乗り場はいつも長蛇の列だけれど、同じだけタクシーも待っている。いくらも待たずに乗れてホッとする。本当なら自由が丘で乗り換えで、そこから二つ目のあまりパッとしない駅で降りるのだけど、痛い足を撫でながら、帰宅した。
父も母も寝ていた。
インターネットを自室でするために、美雪は最近、部屋に電話を引いた。その電話が鳴ることは、滅多にない。
『世の中から忘れられた存在』
美雪は自分をそう評している。誰からも必要とされていない自分。売れ時をあっという間に過ぎて、電話すら鳴らない。だけど、その日は違っていた。留守番電話のメッセージランプが点滅している。ボタンを押す。課長代理からだった。
「心配しているので、帰宅したら必ず電話してください。必ず」
私が転んだところを見ていたから、気にしてるのかな。なんか、いやだな。見られていたなんて。折り返し電話をかけることにためらいがあった。少しの間が空いた後、着信した。
「もしもし、花岡ですけど」
「あ、中原です。心配掛けたようですいません」
「うん。帰宅できたなら、良かった。ケガなかった?」
「足をちょっと。捻挫みたいです。でも、ヒールが、もげました・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「あははははっ。お前とは笑いあう仲なんだろうな」
「笑いあう仲ですか」
確かにそうだ。美雪は花岡に好意を寄せている。花岡も、美雪を想っていてくれているはずだ。会社でも噂になるほどの仲なのだから。
でも、恋愛にはなかなか発展しない。仲間と飲み歩き、わいわいがやがや騒ぎながら、まるでサークル仲間のように同じ時間を過ごしている。美雪にとっての花岡は、居心地のよい時間を提供してくれる、代えがたい存在だった。花岡にとっても自分もそんな存在なのだ、と、美雪は思っていた。
そう思うことで、この関係を維持しようと思っていた。失いたくなかったのだ。
「助けてくれた人は?」
「え、ああ。名刺もらいました。フリーの設計士らしいです」
「設計?」
「私、ビル建てないとならないんですよ。ビル」
「ビル?」
「そう、ビル」
そんな話をしているうちに、美雪は眠ってしまった。深い眠りの中で、美雪は確かに安堵感を得ていた。話すべき相手に見守られているという安堵感。充足感。大きな懐の中で守られているような、そんな気持ちの夜だった。事実、花岡は携帯に何度も電話をくれていたらしい。美雪がタクシーの中にいる間も。
翌朝、美雪は痛かった足に目をやった、腫れてはいない。歩けそうだ。
「お礼はいらない、って言ってたけど、やっぱり礼儀よね」
そう思ったからだ。
「はい、西島デザイン事務所です。お手数ですが、十一時以降にお電話くださるか、この後にメッセージをおいれください。こちらからり返しおかけします。」
留守番電話だった。個人設計事務所って、朝遅いんだ。そう思い、美雪は背筋を伸ばすと、精一杯恰好をつけて、メッセージを入れた。
『中原美雪と申します。昨夜は自由が丘駅で助けていただき、ありがとうございました。そのうち、大きなビルを建てますので、よろしくお願いします』
電話を切ると、「これでよし」美雪はそう言って、仕事に向かった。西島が電話に出なくて、好都合だった。話なんてないのだから。軽く、お礼が済めばそれでいい。顔面強打を避けられたお礼は伝えたわけだし、ビルなんて私が建てられるわけないんだから、これでいいわ。
それより気になるのは、昨夜、電話をしながら眠ってしまったことだ。花岡との電話を「おやすみなさい」と言って切った覚えがない。それをネタに盛り上がるのは、あんまり嬉しくない。
「やばっ。」
時計はもう出勤時間を過ぎていた。
痛かった足を引きずるように、美雪は駅へと急いだ。
美雪が出勤して、そのあと、花岡が出勤する。電車が一本違う、という位だろうか。互いに同じ電車にする、という歩み寄りをすることもない。この距離感が心地よい。朝、9時にチャイムが鳴る。この時間からミーティングが始まるのだか、今日は、沢村と酒井が遅刻だ。電話もない。
『飲み過ぎ』
美雪は心で思った。昨日のお酒も、週末にしよう、と美雪は言ったのだが、昼間、たかぴ~との一件があり、花岡の掛け声で週のど真ん中、水曜日に飲んだのだ。
『たかぴ~に隙を与えてどうすんのよ』
美雪が心の中で叫んでいると、二人が、いかにも昨日飲みすぎました、という風で到着した。たかぴ~が横目でちらり、と見た。
「あのね、沢村。髪ぐちゃぐちゃ。ワイシャツ出てるし」
「酒井、なんなの、その眠そうな目」
美雪はたかぴ~が言いたそうなことを、貴ぴ~が口にするより早く二人に言った。
「顔を洗ってきなさいよ。午後から客先でしょ。ピシッとしてよ。ぴっしっっと」
美雪が言うと、二人は、はいはい、という感じで、洗面所に行った。
「まったく、来ればいい、ってもんじゃないですよね、課長代理」
たかぴ~は、二人のだらしなさの原因が、昨日の飲み会にあることを知っている。課長代理がついていて、と本当は言いたいのだ。何かにつけて、たかぴ~は厳しい。でも、今日は明らかにこっちの分が悪い。
『次何かあったら、この分まで合わせてコテンパンにされるよ』
美雪は、昼休みに二人にささやいた。
その日の夜だった。美雪が部屋で片づけものをしていると、鳴らないはずの電話が鳴った。
「もしもし・・・」
「こんばんは。西島といいますが」
「え、あ、昨日の西島さんですか?」
美雪は焦った。そうだ、ナンバーズデイスプレイ。こちらからの電話番号は特に隠さず電話した。だから、連絡先がわかったんだ。
「ごめね。仕事柄、連絡先がわからないと困ることが多いので、電話番号は記録してるんだ。びっくりさせちゃったかな」
「いえ。昨日はありがとうございました。電話しちゃってすいません。まだビル建てる予定はないんですけどね」
「あ、そうなの。連絡くれたから、すぐにでも設計に取り掛かれるかと思ったよ」
「すいません、期待させちゃって」
話しながら美雪は思った。
これは何だろう。ずっと前からの知り合いのよう。暖かで、ほわんとした、この穏やかな気持ちは何だろう。この日から、美雪は西島との深夜の電話を心待ちにするようになった。自宅の連絡先、職場、携帯番号。知れば知るほどに、もっと深く知りたい。そう思った。
『恋なのかも知れないな』
三〇を過ぎて、美雪の日常が大きく動き始めていた。
「お先に失礼します。」
美雪が定時で退社しようとした時だった。沢村が、
「え、美雪さん定例会は?」
と訊いた。定例会というのは、いつもの飲み会で、今日はその日だと前からメールしてあった。
「今日はダメ、って言ってあったでしょ」
と言うと、美雪は急いで会社を出た。
今日は、西島と新宿で会おうと約束していた。
「ビルはまだ先の様だけど、芽のありそうなお客さんには先行投資しないとね」
そう言って誘われた。いつもの定例会とどっちが先の約束だったか、と言えば、定例会なのだが、どっちに行きたいか、と言えば言わずもがな、である。楽しみだった。毎晩の電話が本当に楽しかった。今日は電話じゃなく話せる。そう、西島との初めての時間だった。
「ゆっくり話そう」
西島はそう言って、感じのよいラウンジに連れて行ってくれた。
「飲めない」
という美雪に、決してお酒を無理強いすることもなく、西島も楽しそうだった。
お酒に少し酔ったのだろうか、西島がふと影のある顔をする。
「俺ね。心に傷負ってんの」
「傷?ですか」
「そ、傷」
「へえ。ま、心に傷なら、こんな私でもたくさん負ってますから、大したことじゃないですよ」
「ふっ。君はほんとうに明るいんだな。話していて楽しいし。とても頭が良い。こっちの弱さを受け止めてくれるような、度量の広さも、育ちの良さも感じるよ」
「え~っ、育ちの良さですか。会社じゃ『がさつ』で通っているのに」
「そうやって、傷の話から別の話に、切り替えようとしてくれているんだよね。頭が良いんだよ。弱みを見せずに済みそうだ」
「話してもいいですよ。まだ、会ったばかりです。損得なしに私になら話せるでしょ。訊きますよ。西島さんの話」
西島はお酒を飲みながら、最近離婚したこと。別れた奥さんが、四歳になる一人娘を引き取っていること。会いたいけど、今は会わない、と心に決めている事を話してくれた。
そして、
「今は君との時間に癒されているよ」
そう言った。
『癒されている』
美雪には、ほんの少しだが、この言葉が引っかかった。
その夜、美雪は西島に抱かれた。優しい温もり。肌と肌との重なり。何重にも思いが重なって、美雪は西島を受け止めた。永遠に受け止めると心に誓って。
翌日も、その翌日も、西島から電話があった。そして、会った。
『君にまた会いたい―』
そんな言葉を言われたのは、何度めの電話の時だったろうか。仕事で北海道にいくという西島から、
「帰ってきたら、どこかの温泉に行こう。どこでもいいよ。君が決めて。休みを合わせるから」
そう誘われて、美雪の心は高鳴った。
「北海道から電話するから。言ってくるよ。美雪。待っていて」
美雪は何度も何度も、同じ夢を見た。電話の向こうで西島の顔は見えなかった。でも、夢の中ではいつもいつも、照れ笑いを浮かべながら、昔からの知り合いの様な、そんな空気があった。
西島が北海道に発って三日目。東京を発ったその日から連絡がない。仕事で出かけている北海道まで電話をするには気が引けた。でも、声が聞きたい。
美雪はいろいろ考えて、湯河原に行こうと決めた。湯河原なら、東京からも近いし、わざわざ、仕事を休まなくても行ける。忙しい西島の都合を気にしなくてもいいだろう。いろいろ調べて、旅館を決めた。懐石料理がおいしそうだ。静かな時間を過ごしたい。西島と一緒に過ごしたい。会社近くの代理店で、旅館と列車の予約をした。
すぐ近くなのだから、列車は要らないかな、と思ったが、合わせて予約した。早く、九月になればいい。楽しい時が過ごせればいい。
今夜電話をして、『予約したよ』と、話そう。それだけで美雪は満ち足りた気持ちになった。
その夜、美雪は自宅から西島の携帯に電話した。呼び出し音が続いたが何度かけても繋がらなかった。留守番電話に
「予約を取りました。一度連絡くださいね」と、メッセージを入れた。だが、朝まで西島からの電話はなかった。
結局西島からの連絡があったのは翌日の昼だった。会社にいる時に携帯がなり、
「メッセージ聞いたよ。これから帰る。夜また連絡するよ」
と、言われた。
「美雪さん。今日、定例会です。だめですよ、この間もすっぽかしたんですから」
そうだ、今日は花岡たちとの久々の定例会だった。忘れていた。
「ごめん。今夜はダメだ」
美雪は、沢村と酒井に両手を合わせて謝った。
「ごめん。ホント、ごめん。今度絶対埋め合わせるから」
「まったく、課長代理に言いつけますよ」
「ホント、課長代理もしっかりしてくれないかな」
美雪が花岡に目をやると、そこには、たかぴ~にあれこれ指示を出している、花岡がいた。こちらを見てはいなかった。
夜―いつもより早い時間に電話が鳴った。
「もしもし」
美雪は変だな、と思いながら電話に出た。それは西島からではなかった。
「俺」
電話の主は花岡だった。
「どうしたの?」
電話は飲み屋からのようだった。電話の様子からかなり酔っているのがわかる。
「どうしてるかな~って思ってさ」
「どうしてるかな~?って、寛いでるわよ、自分の家だもの」
「そう?・・・あのさ」
「何よ」
「始めないか、俺たち」
「始める?何を?」
「だからさ、恋愛」
「れんあい」
「そうだよ、恋愛」
「花岡課長代理様と私が?」
「そう」
「恋愛?」
「始めちゃったらさ、終っちゃうだろ」
「終わる?」
「そう。俺、怖かったんだよ。今までの関係まで壊れちゃいそうで。だから、黙ってたんだ。でも、俺、お前が他の奴のものになってゆくのを黙ってみているのが嫌なの。だから、始めないかな。って思ってさ」
私だって、花岡に心惹かれなかったわけではない。いつも視線の先には花岡がいた。でも、私も同じだ。恋愛を持ち込むことですべてが消えてしまいそうで、私は花岡にのめりこむことはなかった。花岡と恋愛してもしなくても、そこには後悔がありそうだった。だから、花岡の言うことがなんとなくわかる。
「始めたら終わりが来る」
私も同じだ。ただ、私はもう、別の世界を見つけてしまった。見つけてしまった。終わりが来るかも知れないけれど、始めてしまったのだ。別の世界を。
「あのね」
美雪が、花岡に、自分にはもう既に、始めてしまった別の世界があることを、話そうとした時だった。
「ツー・ツー・ツー・ツー」
電話が切れた。花岡は、立っていられないほど酔っていて、電話を切ってしまったのだった。その日、花岡はこの後もかなり飲んだらしい。翌週、美雪はこの後の事を、沢村と酒井から聞かされた。
『課長代理の威厳もなにもない醜態』
を見事に晒したらしい。
電話が切れた後、しばらくして、待っていた西島からの電話があった。
「予約取れたよ。九月十九日から二十一日。予約して、予約金も払ったから」
私が嬉しくてたまらない、というように話すと、西島は即座に、
「ごめん、行けなくなった」
と言う。え?なぜ?という私の問いかけには、
「土日も仕事が入ってしまって。今度必ず埋め合わせするから。北海道で仕事取れたんだ。本当にごめん」
美雪はかなりがっかりしたのだった。だけど、
「しようがないよ、仕事なら。キャンセルしておくよ」
と言った。すると、西島は、
「お土産を買ってきたから、明日会える?チケットのキャンセルも俺がしておくから。せめてものお詫び、ごちそうするよ」
そう言って、翌日土曜、美雪は西島の部屋を訪れた。池袋、立教大学に近い場所にあるマンション。駅まで迎えに来てもらい、二人で歩いた。マンションの入り口で、暗証番号を入力。
『2424』
「西島だから。西で2と4ね」
と、言った。部屋の前まで行くと、植木鉢を持ち上げた。鍵だ。
「オートロックだし、一人暮らしだし、鍵なくすと大変なんだ」
「不用心じゃない?」
「男を襲ったりはしないさ。多分」
そう言った。
西島の部屋。設計の資材やら関係する書類の山ばかりの部屋。初めて訪れるその部屋は、大きな窓から燦々と太陽が降り注いでいた。さすがに八月は暑い。
「エアコン、今冷えてくるよ」
そう言って、椅子に座るように西島は勧めた。「お土産」
西島は北海道と言ったらこれだよね、と、六花亭のホワイトチョコレートをくれた。そして、美雪の顔色を窺うように、
「これも」
と言って小さな箱を差し出した。
「Gショックなんだ。お揃い。色違い。ペア。
もらってくれる?」
そう言った。
「俺、ダイビングするんだ。今年は忙しくてもう無理だけど、いつか連れてゆくよ。その時まで、これ、お揃い」
美雪は拗ねていた。楽しみにしていた湯河原だったから。でも。時計のプレゼントですっかり機嫌が直ってしまった。いつかきっとどこかに一緒に行けるだろう。信じて待っていよう。と。
「あれ何?」
美雪の視線はリビング脇に画鋲でとめられたキーホルダーに注がれていた。ガラス細工のキーホルダー。その先にシリンダー錠が一つ架かっている。
「あれはね、北海道に借りている部屋の鍵。俺、北海道が好きでさ。小樽に部屋借りてるの。今は東京がメインだけど、北海道でも仕事してるから。今がんばれるのは、北海道があるからで、ま、お守り。活力源」
西島は小樽が好きなんだと、美雪に話した。
西島の部屋で宅配のお寿司をご馳走になった。そして、帰り際、チケットを渡した。
「キャンセルお願いね」
「わかった。ごめんよ。その気にさせて、キャンセルだなんて」
「いいわ。ダイビングまで我慢するから」
「美雪」
「ん?何」
「お前はわかってるんだろうな。俺ってやつを」
「え?どういう意味?」
「きかないだろ、北海道でのことや、どうしてキャンセルして、って言ったか」
「仕事なんでしょ~」
「うん。そうだけどさ」
「私、信じちゃう人だから。基本、誰も疑わない」
「そっか。俺、信じてもらえているんだね。良かった」
そう言った時の西島の笑顔は、まるでいたずらっ子な子供のような笑顔だった。
結局、西島との楽しみにしていた湯河原はダメになってしまった。代わりに手元にやってきた白のGショックは、その日から、私の左手から外すことはなかった。あの日まで。あの日まで、美雪の左腕にあったのだ。
確かに同じだ。西島はこれの黒をしていた。これはこれで嬉しい。でも、どうしても、思ってしまう。
『湯河原行きたかったな』
と。
「ああ、嫌だいやだ。私って、こんな、しつこい性格だったっけ?もう湯河原は忘れなくちゃ」
でも、神様は意地悪で、美雪は結局また、湯河原で悲しい思いをすることになった。
本当なら、湯河原に出かけていたはずの金曜。美雪は定例会と称するいつもの飲み会を抜けだし、西島の携帯に電話した。せめて声だけでも聞きたかったのだ。でも繋がらなかった。
「連絡ください。待っています」
留守番電話にメッセージを残した。今日の飲み会は美雪からみんなを誘った。一人でいたくなかったのだ。一人になれば、きっと、無性に寂しくなるだろう。西島の事だけを想うだろう。ワイワイ、ガヤガヤ騒いでいれば、そんな思いも吹っ飛ぶだろう。土曜も、日曜も仕事を入れた。書類の整理がたくさんある。忙しくして、とにかく、忘れよう。この腕時計があるのだから・・・・・。そんな気持ちでやり過ごした。
「あと何回こうやってみんなと騒げるかな」
帰り道、騒々しい電車の中で、花岡がつぶやいた。
だけど、その日の美雪の耳には届いていなかった。
何日かの後、部屋の電話が鳴った。西島だと思ったら違った。電話の向こうは女だった。
「もしもし、あの、久遠ミサといいますが」
「くどうさん」
美雪はくどうという名に覚えがない。間違い電話かと思った次の瞬間、その女はこう言ったのだ。
「あの、西島さんと付き合っているんですか?」
と。
「え、にしじま・・・?」
「そう、西島雅人さんと、付き合っているのか訊きたいのです」
ちょっと混乱した。返事に困った。
『誰、この人』
自問自答した。かなり頭が混乱した。
「あなたこそ、付き合ってる・・・?」
「そのつもりです」
電話の向こうの久遠という女は、自分が付き合っている。あなたはいったいなんなんですか?と、言いたいわけだ。
「この番号はどうやって調べたの?」
「あの人の部屋で。あなたの電話番号のメモがあって。私は、東京でのあの人の生活を知りません。北海道でのあの人しか。ずっとずっと信じてきたんです。なのに、この間、北海道にちょっと帰ってきて。でも、ずっと様子がおかしくて。いつもなら、仕事先だ、遊び友達だと、携帯にいっぱい電話がかかってくるのに、私と一緒にいる間、電源ずっと切ってるし。最初は私のためにそうしてくれてる、って思ってました。でも。違う。あなたからの電話で、私が逆上しないように、だから切ってた」
「切ってた・・・」
「そう。あなたを守るために―」
久遠ミサは、美雪の沈黙には関係なく、一人で話を進めた。
「私たち、バリ島で結婚式しようって、約束していたんですよ。西島は北海道の部屋の鍵をお守りって言って、新しく借りたっていう、東京のマンションに飾っておく、そう言っていたのに。それを信じて待っていたのです」
バリ島―結婚―お守りの鍵
美雪の心の中で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。
「この間、私が東京に行った時、温泉に連れて行ってくれたんですよ。あやしい、そう思ったんです。だって、今まで一度も温泉なんて誘ってくれなかったくせに、私、直観したんです。東京のあの人の部屋に誰かいるんだなって。部屋に来られちゃまずいんだなって。結局、温泉に二泊して、そのまま北海道に帰るように言われたんですけど、無理やりついて行きました」
『ちょっと待って。温泉ってなに。話についていけない・・・・・』
美雪は、本当に混乱していた。頭の周りにざざざっと幕が張られて、相手の言うことがすごく遠くに聞こえた。
「で、見つけたんです。あなたの電話番号と名前を書いたメモ」
少しの沈黙のあと、念押しするように相手が言った。
「付き合っているんですよね」
と。少し間をおいて、美雪が言った。
「きいてもいいかしら」
「ええ」
「温泉って、いつ?」
「9月の19日から2泊で」
「場所は?」
「神奈川にある、湯河原温泉ですけど」
「旅館は・・・」
「星影の里」
「・・・・・」
美雪は電話を切った。
涙が頬を伝った。悔しかった。今電話で話したことは、すべて夢。そうだ夢だ。夢であってほしい。夢であってほしい。
美雪は布団を被って泣いた。泣いている間、何度か電話が鳴ったが、美雪は出なかった。
朝など来なければいい。ずっと暗闇でいい。このまま、ずっと。
ほとんど眠れぬまま美雪は朝を迎えた。
『こんな時でも朝は来るんだ』
そうだ、朝は黙っていてもやってくる。だけど、今朝は心も体も重い。
『会社なんて行きたくないな』
美雪はそう思った。駅までの足取りが重い。寝不足で、ぼうっとしている。電車のつり革につかまる。つかまっていることでようやく立っていられる。それほどの状態。ガラス窓に映る自分の顔を見る。昨日までのウキウキした自分とは違う。もう、あとほんのちょっとで涙がこぼれそうだ。涙を必死でこらえている自分が窓ガラスに映っている。
「んっ」
美雪ははっとした。泣きそうな、窓ガラスの中の美雪を、じっと見つめる花岡の姿がそこにある。同じ車両の少し離れたつり革に、花岡も昨日の酔った自分をただ預けているように見えた。でも、花岡の瞳は、美雪をじっと見据えている。ガラス窓を通して、見守られているようなそんな気分になった。
「おはよう」
中目黒で乗客の半分は降りる。花岡は美雪の隣にやってきた。
「おはよう」
挨拶は交わしたけれど、美雪は花岡の顔を見ることはできなかった。今にも泣きそうな気持を、見透かされそうで嫌だった。花岡もそのことに気付いていた。黙っていようと思ったのだが、どうしても、気になって仕方がない。
「何かあった?」
「別に・・・」
「そう?」
花岡は知っている。いつもの美雪なら、
『大アリ。もうあり過ぎて、説明できない』
位の事を言うだろう。何もない、と言うのは美雪からの『触れないで』というメッセージだ。そして、いつも、ここで踏みとどまってしまうから、美雪との仲が進展しないこともちゃんと理解している。だけど、美雪が別の世界を選んだことを、今の花岡は知っている。
「初めてだよね」
「え?」
「いや、こうして会社に向かう道を一緒になるのがさ。飲み会帰りはしょっちゅうだけどね」
「ホントだ」
そうだ。本当。こうして渋谷の街を朝から一緒に歩くのは初めてだ。
「同じ方向なのにね」
美雪は、花岡と決して瞳を合わさなかった。
何があったのかはわからない。でも、何かあったのはよくわかる。
246に架かる歩道橋を渡り、だらだらとした坂を上る。登りきったあたりにある、一番背の高いビルの12階にある会社に、あとほんの少し、というところまで来て、花岡は、意を決したように美雪に言った。
「俺ね、来月で異動になるんだ。
無事、昇進。
お前の上司もあと、わずかだ」
「え、そうなの。異動ってどこ?どこの課長になるの?営業一課の課長じゃないの?」
「営業は、卒業。お前たちの面倒からも解放さ」
気が重い。さらに気が重い。
営業部は一課から四課まであって、得意先ごとに分けられている。去年一課の課長が部長になり、長いこと、部長が一課課長も兼任し、花岡が係長から課長代理になったのだった。みな、花岡を課長と慕って、仕事にまい進していたのに。
その日の午前中、社内に回覧が廻った。
『辞令
花岡達也
本社 経営企画室 企画室長・・・』
回覧を見て、一課の面々がざわついた。
「企画室長って、営業はどうすんですか。しかも、本社って、神戸ってことでしょ」
「部長がいるでしょ、今までと一緒よ」
酒井に美雪は言った。
「神戸が何よ。寂しくなるけど、仕事だから全然平気よ―」
きっと、日に日に、花岡のいない寂しさが襲ってくるのだろう。昨日は西島。今日は花岡。大切なものをもぎ取られたようで、美雪はこのまま消えてしまいたいほどだった。
会社にいるという事を、こんなに長く感じたことはない。だけど、家に帰るのが、こんなに憂鬱だったこともない。昨日の電話の主は、またかけてくるだろう。私が、昨日の電話の
『西島さんと付き合っているんですか?』
に答えていないから。途中で電話を切ってしまったから。
多分深夜になれば、毎晩、かかってくるかもしれない、西島からの電話を心待ちにしてしまうかもしれない。
『いったい何なの?』
と、問い詰めてしまうだろう。
でも、答えは簡単だ。多分、西島は、北海道と東京を行き来しながら仕事をしていて、北海道にも部屋があって。その部屋では、昨日の電話のミサさんと仲良くやっていて。東京に戻れば、ミサさんのいない寂しさ、離婚で子供に会えない寂しさを、適当に私で埋めていただけ。じゃなかったら、私が、西島と行くことだけを楽しみに、予約したチケットで旅行になんて行けるはずがない。ミサさんが大事だから。私じゃなくてミサさんと出かけた。そうに決まっている。
考えれば考えるほど、自分が惨めになる。
そんなことを考えていた時、ちょうど、自宅近くで携帯のマナーモードに気がついた。相手からの番号。それは、西島からだった。
「もしもし」
「もしもし、俺。わかる?」
「わかるわよ」
「昨日、ごめん。ミサのこと」
「もう、いいわ。いい歳してんだから、女がいたって当然よ。寂しさ埋めるために女がいたって当然よ」
「当然・・・・・理解あるんだね」
「理解?理解なんてしてないわ。でも、そう思うしかないでしょ。だけど、ミサさんと出かけた温泉ってなに?」
「だから、それはさ・・・」
「それは?」
「いきなり、東京に来られちゃって。あのマンションには連れて行きたくなかったんだ。あの部屋にはもう美雪以外、入ってほしくなかったんだよ。だから、慌ててしまって、美雪が予約してくれていた温泉に連れて行ったんだ」
「キャンセルしてなかったの?」
「うん。忙しくて、それどころじゃ、なかったんだ。だけど、だけど俺は・・・」
「普通、別の女と予約した旅館に、他の女、連れて行かないでしょ。そんな、神経、理解できないよ。
ずっと前から、ミサさんとつきあってるんだよね」
「うん、二年になるかな。北海道でね。ミサ一人で頑張ってるんだ。だから、応援してやりたくってさ」
「その人と借りている北海道の部屋の鍵、マンションに飾ってあったよね。お守りって言ってたよ」
「お守りはミサには関係ない。俺が頑張るためのお守りだよ。ミサの勘違いだ」
「もういいわ」
「許してもらえるのかな」
「もういやってこと。私は誰も疑わない。だけど、西島は、もういい」
「もういいって?俺は、美雪が必要なんだよ。もういいなんて言わないでよ。言わないでくれよ」
「いやよ」
「俺はね、俺は、歳を重ねて、爺ちゃん、婆ちゃんになっても、縁側で美雪とお茶を飲みたいの。それにミサと一緒になんて・・・・・」
美雪は思いっきり電話を切った。西島の言葉の続きを遮るように。
切ったその瞬間、留守番電話の点滅に気がついた。
再生ボタンを押す。
1件目―
『久遠です。またかけます』
2件目―
『花岡です。留守電聞いたら、連絡ください。待っているから』
3件目―
『花岡です。電話ほしいんだ。待ってるから、電話ください』
「昨日か」
そう、電話は昨日の夜のものだった。昨日の夜、久遠ミサからの電話を切った後、美雪は布団を被った。電話の音も遮断して、思考もすべて停止して、むせ返る様な悲しみの中にいた。今夜はもう、久遠ミサは、連絡をしてくることはないだろう。さっきの西島からの電話は、ミサが美雪に電話をかけたことを知っていた電話だ。昨日のうちに二人で話しているはずだ。二人の間で話せばいい。
『西島さんとつきあっているのですか』
頭の中でその言葉が行ったり来たりする。
『付き合ってますよ』
そう言えなかった自分が悔しい。
西島に電話をすると、長い話中の事がある。イライラしながらようやく繋がると、決まって理由は、
「ごめん、仕事の話が長引いちゃって」
だった。疑わない自分がいた。いや、信じてなんかいなかった。美雪は、心のどこかでは、西島の気持ちが自分にない寂しさを、抱えていたのだ。
大変なのね、と、相手を思いやることで、『自分の気持ちは通じているはずだ』、そんな風に思ってきた。
Gショックや、旅行に誘われたくらいで、私はいったい何を期待していたのだろう。美雪はその晩思いっきり泣いた。
でも、美雪は左腕から、まるで宝物のようなそれを外すことができなかった。
『信じたい』
いつから、自分はこんなに未練がましくなったのか。
部屋の電話が鳴った。花岡からだった。
「今いい?」
「あんまり良くないけど」
美雪は布団を被っていた。少し籠った声になっていた。
「ああ、そうなの。かけ直すけど・・・」
「かけ直しても同じよ」
―そう、かけ直しても同じだ。この虚脱感はきっと永遠に続くだろう。美雪はそう思っていた。
「ふうっ、やっぱりなんかあったんだね。話してみれば。俺でよければ」
電話の向こうで花岡が煙草を吸っているのがわかる。
―俺でよければ。
花岡に、甘えたい気持ちがなかったわけではない。少なくとも西島にめぐり合う前は、甘えようと思えば、いくらでもそんなチャンスはあった筈だ。でも、留まってしまった。多分お互いに。
「私ね、失恋しちゃったのよ」
「・・・・・・しつれん・・・・・」
「そう、失恋」
失恋と告げて、美雪は、肩からすうっと、何かが抜け落ちてゆくような気がしていた。
「失恋か、俺も最近したばっかりだ」
花岡が言った。また、ふうっと、煙草の煙を揺らしているのがわかる。美雪は言葉を返せなかった。間を塞ぐように、
「楽しそうだったじゃないか、最近」
と、花岡が訊く。
―楽しそう。
そうだ、きっと周りにはそう見えていたに違いない。事実、本当に楽しかった。ほんのちょっと前までは。こんな風にぐじゃぐじゃになる前は・・・・・。
また、涙がこぼれおちた。
「泣いてるの?」
「泣いてなんかないわ」
必死で涙をふく美雪。その様子が花岡には見えるようだった。
「そばに居たらな」
「そばに居たら、なによ」
「抱きしめているさ」
「失恋の痛手に漬けこむ気ね?」
美雪が冗談で笑わせようとした。今までもそうだった。いつも、こうして、二人の間は先に進むことがない。
「結構深い傷なのよ、あり得ないくらいの」
「そう」
「抱きしめられたら、その傷から、きっと、また血があふれちゃって。私は今度こそ失血死よ」
「いつ治るんだ」
「え?」
「だから、その傷から、美雪はいったいいつ立ち直るんだ。死なれたら困るんだ」
「・・・・・・」
「抱きしめに行く都合があるから、いつ立ち直るのかはっきりしろ」
―抱きしめに行く都合
「いつまでも、傷が治らないわけじゃないだろ。傷口なんていつか塞がる。塞がるさ。
よし、来年。1月15日の成人式までに何とかしろ。ちょうど、ぴったり3カ月。治せよ。絶対。絶対」
「3か月って、そんなこと勝手に決めないでよ。私、もう恋愛なんていらないし」
「恋愛なんかじゃなくてもいいさ。会いに帰ってくるから、開けとけよ。最後の業務命令だ」
「最後・・・」
翌週花岡は神戸に発った。
翌日もその翌日も、西島から電話があった。
でも、美雪は電話に出なかった。
美雪は知っている。西島が寂しかったことを。一人でいることの寂しさを、美雪で埋めようとしたのだろう。うまく埋められたかどうかはわからない。でも、西島のその傷が美雪で埋められていたのならそれでいい。自分が深く負ってしまった傷は、西島の傷なんかより、浅くて小さな傷のはずだ。決して、悪く思いたくはない。
―本当に、
本当に大好きだったのだから。
「ちょっと、美雪、昼すぎたら父さんと玄関前の雪かきやってよ。凍ったら、明日大変だから」
去年の夏の事を思い出して、いつの間にかうとうとと眠ってしまった。もう一度、外を見る。
「雪止んでるじゃない」
「少し前に止んだのよ、え、ちょっと、美雪、あなた会社行くの?ちょっと、なんなの、その格好は」
「ごめん、母さん。雪かき、父さんと頑張って」
取るものもとりあえず、という言葉がある。
今の美雪はまさにそんな格好だ。ブランド物のバッグも、最新の服もない。駅までに2度転びそうになった。今夜は道が凍って帰りは間違いなく転ぶんだろう。
湯河原まで電車は動いているのだろうか。何も調べてこなかった。こんな雪の日。約束の場所に、本当に花岡は来ているのだろうか。
『会いたい』
美雪を動かしているのはこの思いだけだった。失って初めてわかる大切なものがある。
もう立ち止るのは嫌だ。ようやく、動き始めた東海道のホームには、乗降客があふれていた。今日は雪の影響で、快速アクティーも踊り子も運休しているようだ。でも、普通列車は動いている。今、12時だから、うまくいけば14時には着くだろう。美雪は必死だった。とにかく、花岡に会いたかったのだ。途中、携帯を鳴らしてみる。
『圏外!!』
どうやら、花岡は圏外にいるらしい。電源が入っていないのか、圏外に移動しているのか、そもそも湯河原が圏外なのか・・・・。
途中、雪のため、と言って何度も列車が止まる。ようやく、湯河原駅に降り立ったのは、15時を回った頃だった。
改札に急ぐと、そこには、懐かしい笑顔があった。大雪の中、約束の場所にたつ、懐かしい笑顔。たった3カ月がこんなに懐かしいものだろうか。
「なんだ、お前のその格好」
「自分こそ、何よ、それ」
雪の中、部屋着のスウェットの上に長いダウンをはおっただけの美雪。ズボンの裾を長靴に入れて立っていた花岡。
「会えてよかった」
美雪の言葉に、花岡は
「うん」
と言うより早く、美雪の腕を引っ張って、美雪を抱きしめていた。ようやく手にした宝物のように。
「ちょっと、恥ずかしいでしょ。それに、冷え過ぎてて、ちっとも暖かくないじゃない」
美雪が花岡の胸を押すようにした。でも、花岡は離さなかった。
「やっと、こうすることができたのだから、離さない。絶対」
「終わっちゃったらどうするのよ。始めたら終っちゃうんでしょ」
「また、三か月待たなくちゃいけないなら、始めようと思うんだ。もう、離さないよ」
湯河原の駅。
また降り出した雪。凍てつくような寒さの中、そこだけみょうに暖かな、二人のシルエットが、いつまでも、いつまでも、そこにありました・・・・・。
10年以上前の恋の話でした。
完