ゾディアック・クルージング
櫂が静かに海に差し込まれ、力強く後ろへと運ばれる。
すると音も無く、舟がすーっと前へと動く。
もう一回、もう一回と繰り返すうちに、舟はすぐに数十メートル進んだ。
私は、天海の渡し守。
星を回り、天海を巡る。
一つ一つの星の元へ廻るのが楽しくて、私は今日も回っている。
海には、そこここに島があり、そのうえで人や動物たちが生活をしていた。
私が今いるところも、そんな島の一つだ。
「おう、今日も来たのか」
話しかけてくれるのは、ヒツジと一緒にいる農夫のおじさんだ。
おじさんは、昔から畑を耕していて、露地栽培で商売もしているそうだ。
でも、私にはタダでいつもコマツナやトマトなどをもらえた。
「おじさん、こんにちは」
「おうおう、今日もかわいいな。どうだ、採れたてのキュウリでもどうだ?」
「いいんですか?」
「大丈夫さ。商売分は別にあるからな」
「じゃあ、ありがたくもらいますね。ありがとうございます」
「おうおう、またなー」
そう言うとおじさんは鍬を肩に担いで、口笛を吹きながらヒツジと一緒に別のところへゆっくりと歩いて行った。
私は、そんなおじさんを数秒の間みていたが、再び櫂を動かして進みだした。
ゆっくりと進んでいくと、向かいから船が来た。
「あら、今日はここで出会ったわね」
とてもきれいな女性が、私と同じように櫂をもっていた。
「エウロペさん、こんにちは。今日は猟犬はいないんですね」
船の中には、いつもいるはずの猟犬が乗っておらず、槍が1つ座席に立てかけてあった。
「今日は息子たちが猟に出ているのよ。これから迎えに行くところ」
「そうなんですか」
「何かとれていたら、後でおすそ分けしましょうか」
エウロペさんは、私にそう提案した。
「いいんですか」
「もちろんよ。夫も許してくれるでしょう。あなたのことを気に入っているみたいだしね」
「ありがとうございます」
お辞儀をしたが、エウロペさんはほほ笑みかけながら言った。
「いいのよ、5人と雄牛だけで食べきれない量をいつもとってくるから。それじゃあ、また」
「はい、家でお待ちしてます」
一気に遠ざかっていく船を見送りながら、私はエウロペさんの背中に言った。
再び私が舟を動かし始めると、陸地で白鳥と遊んでいる双子が見えた。
「あ、お姉さん、こんにちは!」
「こんにちは。ポリュデウケース君とカストール君だったね」
どっちも同じ顔をしているので、どっちがどっちかわからないが、彼らのニコニコ顔でどちらでもいいやという気持ちにさせてくれる。
私は櫂を使い、船を止めて陸地へ降りる。
「ねえねえ、今日はどんな話をしてくれるの?」
「そうだよ、どんな話を聞かせてくれるの?」
彼らが言っているのは、私がいつも来るたびに聞かせている神話のことだ。
例えば、巨人と神々の戦い。例えば、巫女が話した未来と過去。例えば、国産みや神産みの話。
私が過去から現在に至るまでに聞いた話を、かいつまんで聞かせていると、彼らの目がきらきらと輝いているのがはっきりと見えるのだ。
それがまた楽しくて、私は今日も話をした。
「…さて、今日の話はこのぐらいで」
「えー、もっと聞きたーい」
私がそう言って、座っていた椅子から立ち上がろうとすると、服の裾を引っ張ってもっと話してほしそうにじっと見つめていた。
「ダメ。今日はここまで」
ウルウルな目で私をじっと見てきたが、そこはグッとこらえて船に乗り込む。
「また明日来るから、その時に続きを話すわよ。ね」
「分かった、約束だよ」
「うん、約束」
私はそう言って、手を振りながら彼らと別れた。
次に出会ったのは巨大な蟹と大きな海蛇だ。
彼らは、ヘラという女性のペットで、蟹はカンケール、海蛇はヒュドラという名前がついている。
「こんにちは」
私は彼らに声をかけたが、彼らは見向きもしなかった。
その代わり、私の死角になっていた蟹の陰のところから女性がひょっこりと現れた。
「あら、こんにちは。今日も回ってるの」
「はい、これが私の日課なんで」
「いいわねー。ねえ、それよりもいい男を紹介しようか?」
「まだ、私には早いですよー」
困ったような表情を浮かべるようにしながら、私はヘラさんに言った。
「あらそう?でも、そろそろ身を固めないといけないわよ。私なら、どんな男とでも結婚させてあげられるけど…」
「大丈夫ですよ。私も好きな人を探してますけど、まだ見つかってないだけですし」
ヘラさんは、私に写真を見せながら聞いた。
「本当に?ほら、この人なんかあなたと趣味が合いそうなのよ」
見せたのは、白く長いひげを生やした老人だった。
「確かにこの方は、渡し守を生業にしてますけど、地獄の渡し守のカロンさんじゃないですか。私には不釣り合いですよ。というか、私が嫌です」
「でも、この人も独身だし…」
「大丈夫ですって、そこまで心配しなくても。では、今日はこのあたりで。先を急ぐので」
私は舟をそのまま勢いよく櫂を動かして、その場所から早々に立ち去った。
後ろから、いつでもどうぞという声が聞こえたような気がしたが、気のせいだとして忘れることにした。
ふと遠くを見ると、高い山をもった島が見えた。
「ああ、あそこだね」
私は独り言をいいながら、その島、ネメアーへ向かった。
舟を島に留めながら、大声でいった。
「こんにちはー!ご飯をもってきましたよ!」
すると、近くの洞窟から巨躯がゆっくりと現れた。
ライオンだ。
「ネメアーさん、持ってきましたよ」
彼は一声唸ると、私が持ってきた肉にかぶりついた。
そのまま洞窟へと引きずっていくのを見届けると、私はすぐに島から遠ざかった。
数分間進むと、ちょっと大きな船に乗った女性たちがキャイキャイ話しながらやってきた。
「あら、お久しぶりね」
「あ、こんにちは。ご機嫌いかがですか」
「ええ、とってもいいわよ」
ニコッと笑いかけながら一人が話しかけてくる。
「今日はご家族で、旅行中ですか」
「ええ、久しぶりに休暇でね」
私に話しかけてくる人は、デーメーテールさんだ。
普段は馬を飼っているのだが、ときどきこうして外へ出てくることがある。
その間、馬たちは何をしているのか、私は知らない。
今回の船には、デーメーテールさん以外にも、娘であるペルセポネーさん、その友人であるイシュタルさん、キュベレーさんとアテーナーさんが一緒に乗り込んでいた。
「みなさん、ご一緒に旅行へ?」
「ええ、そうなのよ。ちょうど冬なんだけど、ハーデースが掃除したいからと言ってね」
「体のいい追い出しって言うことですか…」
私がボソッと言うと、デーメーテールさんはむっとした表情を浮かべた。
そこへペルセポネーさんが入る。
「まあまあ、そんな感じだよ。お母さんもちょっとは落ち着いて」
「そうですよ、旅行できるだけでもありがたいんですから」
さらにイシュタルさんが入る。
その時、私は一人足りないのに気づいた。
「そう言えば、アストライアーさんはどうしたんですか。いつも一緒にいらっしゃると思ったんですが…」
「ああ、あの子は天秤の調整。ちょっと落としちゃったらしくてね」
「そうだったんですか」
ペルセポネーさんが説明をした。
「そうそう、これ渡しといてもらえるかな」
ペルセポネーさんは、私に麦の穂が入ったタッパーを渡した。
「分かりました。アストライアーさんに渡しておきます」
「よろしくね」
そして、私は再び舟を進め出した。
アストライアーさんは、小さな小屋に住んでいるため、私はそこまで舟を漕いで行った。
「こんにちはー、アストライアーさん。ペルセポネーさんから言付かって、渡したい物があるんですが」
私が小屋の玄関をノックしてから中に向かって言うと、上から声が聞こえてきた。
「ペルセポネーから?」
屋根から顔をのぞかせて、黒ずんだほほをこすりながら現れたのは、アストライアーさんだった。
「ちょっとまってね、そっち降りるよ」
よっと、という声とともに、私のすぐ横へ飛び下りてきた。
「それで、ペルセポネーから何を預かったんだい」
私を家の中へ案内しながら、私に聞いた。
「ええ、これです」
私は預かったタッパーを渡した。
「ああ、麦か。今年もいいのが採れたんだね」
その麦をタッパーごと棚に置くと、机の上で散らばっている部品を避けるようにしてコップを私に渡した。
「まあ、疲れたでしょう。ああ、単なる水だよ」
彼女は笑いながら私に言った。
アストライアーさんはよくお酒を飲んでいて、水とお酒を間違えて出すこともあったから、あまり信用していなかった。
匂いをかいでから、安心して飲んだ。
「天秤は直りそうですか」
「よく落とすからね。慣れたものよ」
笑いながら、私に話す。
「今回も、うっかり机に置いていたのを肘で押しちゃってね。それでパーンさ」
ジェスチャーを交えながら、机から落ちて部品が砕け散ったさまをこまごまと教えてくれた。
「大変ですね…」
「大丈夫さ、私自身が組み立てたものだから構造はしっかりと把握してるし、何度も落としてるから組み立ては慣れてるし」
それからいろいろと話、というか愚痴を聞き続けた私は、さっと立ちあがって、別れをいってから、舟で離れた。
しばらく舟を漕いでいたら、急に前から矢が飛んできた。
あわててしゃがみ込むと、続いて怒号が飛んでくる。
「なに?何が起こったの?」
船の陰から前をみると、大蠍を矢をつがえた人が追い回しているところだった。
「ケイロンさん!?」
「誰だ!」
私のほうにまで矢を向けてきたから、あわてて顔をのぞかす。
すると、ほっとした表情で再び大蠍に矢の照準を合わせた。
「君か、よかった。こんなところでオーリーオーンに出会ったら、また刺されてしまう」
「オーリーオーンさんは蠍のところへ近寄りませんよ。家だって反対側じゃないですか」
「そうなんだがね…」
矢で狙いをつけたまま、ケイロンさんは思い出に浸っていたようだ。
ケイロンさんとオーリーオーンさんは、旧知の仲だったが、ある日オーリーオーンさんが大蠍に刺されてしまった。それ以来、ケイロンさんはその大蠍を狙い続けていて、オーリーオーンさんは大蠍から逃げているという話を聞いたことがある。
「ケイロンさん、蠍が逃げて言ってますけど」
「あっ、こら待て!」
そう叫んで、私を置いて大蠍とのレースを再開した。
「頑張ってくださいね」
私の声も届いたかどうかわからないが、とりあえず言っておいた。
それから、櫂を持ち、再び海を進みだした。
私はおなかがすいて近くにあった陸地に舟を置いて、持ってきていたお弁当を開けた。
「いっただきまーす」
手を合わせて言ってから、おにぎりやハムといったご飯の数々が小さい箱に整列しているお弁当を食べ始めた。
その時、海の中から山羊が上がってきた。
下半身は魚だ。
「パーンさん。どうです、食べますか?」
「…いただこう」
一言だけ言って、私が渡したおにぎりを一口で食べた。
「…すまないが言付けを頼めるか」
「なんでしょうか」
私がお弁当を食べながら聞いた。
「…ガニュメーデースに、水がめの水を切らさぬようにと」
「分かりました。必ず伝えましょう」
私はそう言って、お弁当を食べ終わると、パーンさんに別れを告げてガニュメーデースさんのところへ向かった。
ガニュメーデースさんは、料理長みたいな感じの人で、給仕係をしていた。
「こんにちは、ガニュメーデースさん」
私が彼の家に入るときには、なにか紙と見つめ合っていた。
「ああ、君か。ようこそ、何か食べるかい?」
「いいえ、さっき食べてしまったので…」
そうはいっても、いい香りのスープを目の前にして、再びおなかがすいてきた。
「まあ、お腹がすいているんだったらと思っただけさ」
「空いてます!」
そう言ってテーブルに座った。
ガニュメーデースさんは苦笑いをしながら、スープを持ってきてくれた。
そのスープを飲みながら、私はパーンさんからの言伝を伝えた。
「…そうか。彼は確かにそう言っていたんだね」
「ええ、水がめの水を切らさないようにって…」
「この海、どうやって水位が維持されているか知ってるかい」
彼が唐突に私に聞いた。
「えっと…ごめんなさい、知らないです」
私はそのことを知らなかった。
「この海の水は、僕が流している水がめからの水だけで支えられているんだ。だから彼はいつも水のことを教えてくれるのさ。あ、彼だけじゃないな」
そう言って写真を見せてくれた。
「アプロディーテと、その息子であるエロースだ。彼女らは魚で、僕にパーンと同じように水の状況を教えてくれる。彼らの情報で、海へ流す水の量を調節しているんだ」
「へー、そうだったんですね」
「さて、それよりもせっかくのスープが冷めてしまうよ」
「あっ」
私はあわてて残りを飲み始めた。
それからスープを飲み干して、ガニュメーデースさんにお別れをいってから、私は船にのって自分の家に戻るために漕ぎだした。
「そうだ、この料理の仕方を教えてもらえばよかった」
私は舟に乗せているキュウリの束を見ながら言った。
その時、急に舟にブレーキがかかった。
「あ、ごめんなさい」
私が海を見ると、紐で腰のあたりを結んでいる2尾の魚が、こちらを見ていた。
「こんにちは、アプロディーテさん、エロースさん」
彼女らは周りを見回しながら人間に戻り、私の船へと乗り込んだ。
「テゥーポーンさんはこのあたりにはいませんよ。大丈夫です」
私がそう言うと、やっと安心したように座った。
「これから、私の家に戻るところなんですが、一緒にどうですか」
「よろしいのでしたら」
アプロディーテさんがそう言ったのを受けて、私は、再び櫂を海に差し込んで、家へ戻った。
「どうぞ、ゆっくりしてください」
私は彼女たちに椅子をすすめた。
「後で、他の人たちも来るでしょう」
私はそうも付け加えた。
言うが早いか、エウロペさんがやってきた。
「こんにちは、持ってきたよ」
牛を丸々一頭連れてきた。
「待ってましたよ。でも、どうやって調理しよう…」
「そんな時には僕の出番だろうね」
家に入ってきたのは、ガニュメーデースさんだ。
「今日は雄牛の丸焼きかい?」
次々と今日会った人たちが入ってくる。
10分ぐらいで、全員が集まった。
驚いたのは、匂いにでも釣られたのか、ネメアーのライオンもでてきた。
「…じゃ、残るはあと一人ですね」
私は見回していった。
そのお方は、数分でやってきた。
「失礼するよ。いい匂いがしてきたものでね」
ゼウスさんがそう言って家に入ってきた。
「どうぞどうぞ。こちらへ来てください」
私は上座へゼウスさんを案内した。
「では、失礼して」
ゼウスさんが座ると、私も自分の席に座り、ガニュメーデースさんの給仕で夕食会が始まった。
夕食会後、私は一人で家にあったもので夜食を作っていた。
「ふー…」
今日もらったキュウリで浅漬けを作ろうと考えたのだ。
「こんなもの?」
ほどほどに袋を揉むと、冷蔵庫にしまいこんだ。
「明日になったら、おいしい浅漬けになっててね」
そう言葉をかけて、今日の思い出とともに冷蔵庫の扉を閉めた。