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私の名前を、婚約者だけが知りませんでした

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/24

 「ミラベル様」——その名前を呼ばれることを、私は5年前から諦めている。


 宮廷の回廊を歩くたびに、すれ違う文官や侍女が「マリエル様、おはようございます」と声をかけてくる。姉の名前だ。訂正するのは3年前にやめた。「はい、おはようございます」と返すだけの日々は、慣れてしまえば別に苦痛でもない。

 慣れてしまった自分が、少しだけ嫌だった。


 私はミラベル・ヘルダ。ヘルダ伯爵家の次女。

 長女のマリエル姉様は王都一と謳われた美貌の持ち主で、社交界の華で、そして極度の虚弱体質だった。3年前から療養のため領地に引きこもっている。

 代わりに宮廷の薬草園を管理しているのが、私だ。


「マリエル嬢、今期の薬草の納品書を」

「はい、こちらに」

 差し出した書類を受け取った薬務官は、私の顔を一瞥もしなかった。薬草の染みで荒れた私の手も、書類の差出人欄に書かれた「ミラベル」の文字も、見なかった。

 姉の代わりの、地味な妹。宮廷では誰もが姉の名前だけを覚え、私の名前は覚えない。5年間、ずっとそうだった。

 名前を間違えられた回数を記録したら、そろそろ四桁に届く頃だ。数え始めたのは2年前だが、途中で帳面がいっぱいになったので諦めた。趣味にするには地味すぎた。



「ああ、マリエ——」

「ミラベルです、殿下」

 第二王子アレクシス殿下は、婚約者だというのに、やはり私の名前を間違えた。

「……ああ、そうだったな。すまない」

 悪い人ではない。ただ、致命的に私に興味がないだけだ。視線はいつも、ここにいない姉の影を探している。

「薬草園の報告がございます。今期のカモミールは豊作で——」

「ああ、それは後で書面で」

「……左様でございますか。承知いたしました」

 殿下は足早に去っていった。たぶん、5分後には私が何を言いかけたか忘れている。

 ——殿下は毎晩、私が配合した安眠の薬草茶を飲んでいる。不眠症であることは宮廷の侍医から聞いていた。カモミールと月見草の配合比率を0.1刻みで調整したのは私だ。殿下はそれを、誰が作った茶かも知らず飲んでいる。

 ちなみに安眠茶に添えている青い花は、殿下のためではない。毎朝殿下の部屋を掃除してくれる老侍従のエルンスト爺やが、青い花が好きなのだ。殿下は花の存在にすら気づいていないだろう。



 宮廷薬草園は、王宮の東の端にある。

 朝露が残る時間に薬草を摘み、種類ごとに束ね、各部署に届けるのが私の日課だった。宮廷医務室に解熱草、厨房に料理用ハーブ、貴賓棟に芳香草。誰にも感謝されない。誰にも認識されない。けれど、届けなければ宮廷の日常は静かに狂う。

 束を結ぶとき、私にはひとつだけ癖がある。季節の小花を一本、添えること。届け先の人のことを考えて選ぶ。医務室には安眠を誘うラベンダー。厨房長は黄色が好きだからマリーゴールド。外交使節が来たときは、使節の出身地に咲く花を。

 誰に頼まれたわけでもない。受け取る人が「あら、綺麗」と一瞬でも思ってくれたら、それでよかった。


「お嬢様。今日もお姉様のお名前で呼ばれたんですか」

 侍女のベルタが薬草園の柵に肘をついて、不機嫌そうに言った。

「今日は3回。少ないほうよ」

「少なくない! 5年ですよ、5年!」

「ベルタ、声が大きい。カモミールが驚く」

「カモミールは驚きません!」

 ベルタは私より3つ年下で、ヘルダ伯爵家の使用人の娘だ。怒りの代弁を頼んだ覚えはないのだが、勝手に引き受けてくれている。

「お嬢様の功績が全部お姉様のものにされてるんですよ。害虫を駆除したのも、乾燥室を改修したのも、全部お嬢様じゃないですか」

「誰のおかげでもいいわ。薬が正しく届けば、それで」

「……お嬢様はいつもそうです」

 私は薬草の染みで黒ずんだ左手で茎を折り、束に添える菫を選んだ。今日の届け先は貴賓棟。隣国の外交使節が滞在している。

 辺境の使節団には、辺境の花を。取り寄せておいたリュゼリカを一輪添えた。辺境の山にしか咲かない、淡い紫の小花だ。



 貴賓棟に薬草束を届けた帰り道、薬草園に見知らぬ青年が立っていた。


「——勝手に入らないでいただけますか」

 青年は振り返った。濃い栗色の髪に、穏やかな灰青の瞳。外交使節団の正装を着ている。背が高い。私が見上げる角度になるのが少し悔しい。

「すみません。見事な薬草園だったもので、つい」

 お世辞だろう。宮廷の誰も気にかけない場所だ。

「……ミラベル嬢ですか?」


 足が止まった。


「……今、なんと?」

「ミラベル・ヘルダ嬢。お間違いなければ」

 心臓が、一拍だけ跳ねた。この宮廷で。姉の名前ではなく、私の名前を——初対面の人間が呼んだ。

「……ヴェストール辺境伯家のカイと申します」

「なぜ、私の名前をご存知なのですか」

 自分でも驚くほど、真剣な声が出た。

 カイ殿は少し考えるように視線を落としてから、微笑んだ。

「——長い話になります」

「お時間はございます。なにせ私は、存在しないも同然の人間ですので」

「存在しないも同然の方が、これほど見事な薬草園を維持できるとは思えませんが」



 その日から、カイ殿は毎日薬草園に来るようになった。


「辺境には薬草が不足していましてね。自前で薬草園を作りたいのですが」

 嘘だと思った。しかし薬草の話をする相手がいるのは、純粋に嬉しかった。5年間、薬草の話を聞いてくれた人はベルタだけだ。ベルタは聞いてはくれるが、3分で寝る。

「この品種は日陰を好みます。直射日光に当てると葉が焼けますので」

「辺境は日照が強いから、石壁で影を作る必要がありそうですね」

「ええ。それから、この薬草は根を深く——」

「株分けの時期は秋が最適ですか」

「……ご存知なのですか?」

「多少は。辺境では野草の知識が生存に直結しますから」

 カイ殿は私が話すとき、ちゃんと目を見た。宮廷で私を見る人は少ない。でもカイ殿の灰青の瞳は、はっきりと「ミラベル」を見ていた。名前を間違えたことは、一度もなかった。


 3日目のことだった。

 薬草園に薬務官が書類を届けに来た。

「マリエル嬢、追加の発注書です」

 私が「はい」と受け取ろうとしたとき、隣にいたカイ殿が口を開いた。

「——ミラベル嬢、ですよ」

 薬務官が目を丸くした。カイ殿は穏やかな顔のまま、しかし訂正を引っ込めなかった。

「薬草園を管理しておられるのはミラベル・ヘルダ嬢です。お間違えのないように」

 薬務官はぎこちなく頭を下げて去った。

「……カイ殿。余計なことを」

「余計ではありません」

 心臓が痛いほど跳ねた。5年間、一度も誰にも訂正してもらえなかったことを、この人は何でもないようにやった。


 5日目。カイ殿が帰った後、カモミールの畝の端に一輪の花が置いてあった。

 淡い紫。リュゼリカだ。

 辺境の山にしか咲かない花が、なぜ薬草園に——。

 私が貴賓棟に届けた薬草束に添えたのと、同じ花。

 まさか。偶然だ。偶然に決まっている。けれど、その一輪を捨てることはできなかった。水を張った小瓶に挿して、作業台の端に置いた。


 7日目。

 植え替え作業を手伝ってくれたカイ殿と、同じ苗に手を伸ばした。指先が触れた。

 カイ殿は手を引かなかった。私も、引けなかった。

 3秒。たぶん3秒だけ。

 それだけのことなのに、指先がいつまでも熱かった。


「お嬢様、辺境伯子息殿のことが気になるんですか」

「……気にならないわよ」

「嘘です。薬草園に行く前に髪を直してましたよね」

「……風で乱れただけよ」

「今日は無風です」

 ベルタの観察力は、薬草ではなく私に対してだけ鋭い。余計な才能だった。



 穏やかな日々は、唐突に終わった。


「ミラ——いや、えーと」

「ミラベルです」

「……そう。ミラベル。婚約を——解消してほしい」


 ああ、やっぱり。驚きはなかった。5年間名前を呼ばれなかった婚約に、形以上の意味はない。


「理由をお聞きしてもよろしいですか」

「……ローエンシュタイン侯爵令嬢と話す機会があって。彼女は華やかで——」

「姉に似た方ですか」

 殿下が黙った。

「——左様でございますか。承知いたしました」

「……怒らないのか」

「怒る理由がございません。殿下は私の名前すらご存知なかったのですから、解消するのは名前のない婚約です」

「では、薬草園の引き継ぎ書類をお送りします」

「……引き継ぎ? 薬草園はマリエル嬢の——」

「マリエル姉様は3年前から療養中です、殿下。3年間、全ての管理は私が行っておりました。殿下にお渡ししていた報告書の差出人欄には、ミラベルと書いてありました。——お読みいただけていなかったようですが」

「それから殿下。毎晩お飲みになっている安眠茶の配合も、私が調整しておりました。後任の方に引き継ぎますが——同じ配合は、おそらく難しいかと」


 ベルタは泣いた。私よりずっと長く、ずっと激しく。

「あの王子、絶対後悔しますからね!」

「しないと思うわ。後悔するほど私を知らないもの」

「自虐ではなく統計的事実よ。5年間で名前を正しく呼んだ回数がゼロの人間が後悔する確率は、限りなくゼロに近い」

「統計で語らないでください!」



 婚約解消から10日後。

 ヘルダ伯爵邸に、宮廷からの使者が現れた。

 使者の後ろに、アレクシス殿下がいた。


 殿下の顔を見て、息を呑んだ。

 目の下に深い隈。頬がこけている。唇は乾き、声に力がない。10日でここまで人は変わるものか。

「ミラベル嬢、どうか薬草園にお戻りいただけないでしょうか」

「理由をお聞きしても」

「後任が——解熱草と催吐草を取り違えた。患者が3人倒れた」

「……それは」

「乾燥室の温度管理を誰も知らなかった。1か月分のカモミールに黴が出た。外交の茶会で出した薬草茶に——辺境の使節から『雑草の煮汁か』と正式な苦情が」

 カイ殿の国の使節だ。少しだけ申し訳ない気持ちになった。

「さらに——」

 殿下が言い淀んだ。視線が落ちた。

「私の安眠茶が——配合が分からないと言われた。引き継ぎ書類に書いてあるはずだと侍医が言ったが、後任はその書類を読んでいなかった。10日間、まともに眠れていない」

 だからこの顔なのか。

「あの茶は誰が作っていたのか、侍従のエルンストに聞いた。エルンストは『ミラベル・ヘルダ嬢です。5年間ずっと』と答えた」

 殿下の声が震えた。

「私はその名前を聞いても、すぐには誰のことか分からなかった。——5年間。毎晩、あの茶を飲んでいたのに」

 殿下が息を吸い、吐いた。

「それからエルンストがもう一つ言った。薬草束に、毎日花が添えてあったと。殿下のお好きな青い花——ではなく、エルンストの好きな青い花だったと」

 あの花は殿下のためではなかった。殿下はそのことすら、いなくなってから知った。

「5年間。花も、茶も、報告書も。全部——全部そこにあったのに、私には見えていなかった」

 殿下は初めてまっすぐに私を見た。目が赤かった。眠れていないからか。それとも——。

「……戻ってきてはくれないか」


「お断りします」


 声は震えなかった。

「殿下。私は5年間、薬草園を守りました。名前を間違えられても、報告書を読まれなくても、安眠茶の礼を一度も言われなくても。それでも構わないと思っていました」

 息を吸った。

「——でも、もう構いません。私は辺境に参ります」


 殿下の目が見開かれた。

 その視線の先に、カイ殿が歩み出た。

「殿下。ミラベル嬢には、辺境の薬草園をお任せしたいと思っております」

「……雇用の話ですか」

「いいえ。婚姻です。ミラベル嬢と」

 殿下の顔から色が引いた。

 殿下が私を見た。私の手——薬草の染みで荒れた手を見た。姉の白い手とは似ても似つかない、5年分の仕事が刻まれた手。それから殿下は、カイ殿の隣に立つ私の顔を見た。

 私はカイ殿を見ていた。カイ殿も私を見ていた。

「……すまなかった」

「お気になさらないでください。殿下はご存知なかっただけですから」


 殿下が門を出るとき、一度だけ振り返った。

 私がカイ殿の隣で微笑んでいるのを見た。殿下は、その笑顔を知らなかっただろう。5年間隣にいて、一度も向けられたことのない笑顔だった。


 ベルタが駆け寄ってきた。

「殿下のお顔が真っ白でしたよ!」

「薬草茶でも差し上げましょうか」カイ殿が穏やかに言った。

「今の宮廷の薬草茶は飲めたものじゃありませんよ。雑草の煮汁だって噂です」

「では、ミラベル嬢に淹れていただきましょう」

「……勝手に決めないでいただけますか」

「すみません。つい」

 ベルタは私の袖を引っ張って、小声で「お嬢様、この方は逃がしちゃ駄目ですよ」と力説した。



 辺境への馬車に乗る前日、カイ殿に聞いた。


「なぜ、私の名前を知っていたのですか」

 カイ殿が懐から、小さな押し花を取り出した。紫色の小花。茎は潰れているが、色は鮮やかだった。

「——リュゼリカ」

「3年前、貴賓棟に届いた薬草束に添えてありました。辺境の山にしか咲かない花です。王都で手に入れるのは容易ではない。——誰に頼まれたわけでもなく、隣国の使節に故郷の花を添える人がいる。それが誰なのか、知りたくなりました」

「……花一本で」

「翌年も添えてあった。でも届ける人は裏口から来て、裏口から帰る。3年目、貴賓棟の裏口で早朝5時から待ちました。そこに来たのがあなただった。左手で薬草束を抱えて、もう片方の手にリュゼリカを持って。部屋の前に置いて、一度深呼吸をしてから立ち去った」

「……」

「名前を知ったのは去年です。宮廷中に聞いて回りましたが、全員『マリエル嬢の管轄』としか答えない。ベルタ殿だけが教えてくれました」

「あの子……」

「ベルタ殿の話を聞いた後、薬務官への納品記録を調べました。3年前を境に筆跡が変わっている。書類の精度が上がっている。備考欄に保存方法の注記が増えている。——姉上ではない、別の人間が書いている。名前のない人間が、5年間、誰にも気づかれずに薬草園を守っていた」

 息が詰まった。この人は。誰にも見られていなかった仕事を——書類の筆跡から、読み取ったのだ。

「あなたの名前を呼びたかった。呼ぶ理由が欲しかった。だから求婚しました」

「……論理が飛躍していませんか」

「していません。名前を呼ぶ正当な理由として、婚姻は最適です」

「……変な方ですね」

「よく言われます」

「でも——嬉しいです」

 カイ殿が息を呑んだ。

 あの薬草園のカモミールの畝に、リュゼリカを置いたのはやはりこの人だった。



 辺境への馬車の中。隣にカイ殿が座っている。

 窓の外には王都の街並みが遠ざかっていく。不思議と、未練はなかった。


「カイ殿」

「はい」

「……カイ、と呼んでもいいですか」

 カイ殿が一瞬黙った。耳が赤くなっている。

「……呼び捨てですか」

「辺境では敬称をつけないと聞きました」

「……誰に聞いたんですか」

「ベルタに」

「ベルタ殿は本当に余計なことを……」

「余計ではありません」

 カイの言葉をそのまま返した。カイが目を見開いて、それから笑った。

「……ミラベル」

 5年間、誰にも呼ばれなかった名前が、こんなにも温かく響くものだったのだ。

「はい」

「辺境の薬草園には、毎日花を添えてください。あなたの好きなように」

「当然です。誰に頼まれなくても、ずっとそうしてきましたから」

 カイが私の手を取った。薬草の染みが残る左手を、そっと包んだ。

「知っています。最初から」


 馬車の窓の向こうに、辺境の山が見え始めた。

 春になれば、あの山にリュゼリカが咲くのだろう。


 私は笑った。泣きそうになりながら、笑った。

 隣にいる人が、私の名前を知っている。

 それだけのことが——世界の色を、こんなにも変えてしまう。

【作者から読者様へお願いがあります】


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