私の名前を、婚約者だけが知りませんでした
「ミラベル様」——その名前を呼ばれることを、私は5年前から諦めている。
宮廷の回廊を歩くたびに、すれ違う文官や侍女が「マリエル様、おはようございます」と声をかけてくる。姉の名前だ。訂正するのは3年前にやめた。「はい、おはようございます」と返すだけの日々は、慣れてしまえば別に苦痛でもない。
慣れてしまった自分が、少しだけ嫌だった。
私はミラベル・ヘルダ。ヘルダ伯爵家の次女。
長女のマリエル姉様は王都一と謳われた美貌の持ち主で、社交界の華で、そして極度の虚弱体質だった。3年前から療養のため領地に引きこもっている。
代わりに宮廷の薬草園を管理しているのが、私だ。
「マリエル嬢、今期の薬草の納品書を」
「はい、こちらに」
差し出した書類を受け取った薬務官は、私の顔を一瞥もしなかった。薬草の染みで荒れた私の手も、書類の差出人欄に書かれた「ミラベル」の文字も、見なかった。
姉の代わりの、地味な妹。宮廷では誰もが姉の名前だけを覚え、私の名前は覚えない。5年間、ずっとそうだった。
名前を間違えられた回数を記録したら、そろそろ四桁に届く頃だ。数え始めたのは2年前だが、途中で帳面がいっぱいになったので諦めた。趣味にするには地味すぎた。
◇
「ああ、マリエ——」
「ミラベルです、殿下」
第二王子アレクシス殿下は、婚約者だというのに、やはり私の名前を間違えた。
「……ああ、そうだったな。すまない」
悪い人ではない。ただ、致命的に私に興味がないだけだ。視線はいつも、ここにいない姉の影を探している。
「薬草園の報告がございます。今期のカモミールは豊作で——」
「ああ、それは後で書面で」
「……左様でございますか。承知いたしました」
殿下は足早に去っていった。たぶん、5分後には私が何を言いかけたか忘れている。
——殿下は毎晩、私が配合した安眠の薬草茶を飲んでいる。不眠症であることは宮廷の侍医から聞いていた。カモミールと月見草の配合比率を0.1刻みで調整したのは私だ。殿下はそれを、誰が作った茶かも知らず飲んでいる。
ちなみに安眠茶に添えている青い花は、殿下のためではない。毎朝殿下の部屋を掃除してくれる老侍従のエルンスト爺やが、青い花が好きなのだ。殿下は花の存在にすら気づいていないだろう。
◇
宮廷薬草園は、王宮の東の端にある。
朝露が残る時間に薬草を摘み、種類ごとに束ね、各部署に届けるのが私の日課だった。宮廷医務室に解熱草、厨房に料理用ハーブ、貴賓棟に芳香草。誰にも感謝されない。誰にも認識されない。けれど、届けなければ宮廷の日常は静かに狂う。
束を結ぶとき、私にはひとつだけ癖がある。季節の小花を一本、添えること。届け先の人のことを考えて選ぶ。医務室には安眠を誘うラベンダー。厨房長は黄色が好きだからマリーゴールド。外交使節が来たときは、使節の出身地に咲く花を。
誰に頼まれたわけでもない。受け取る人が「あら、綺麗」と一瞬でも思ってくれたら、それでよかった。
「お嬢様。今日もお姉様のお名前で呼ばれたんですか」
侍女のベルタが薬草園の柵に肘をついて、不機嫌そうに言った。
「今日は3回。少ないほうよ」
「少なくない! 5年ですよ、5年!」
「ベルタ、声が大きい。カモミールが驚く」
「カモミールは驚きません!」
ベルタは私より3つ年下で、ヘルダ伯爵家の使用人の娘だ。怒りの代弁を頼んだ覚えはないのだが、勝手に引き受けてくれている。
「お嬢様の功績が全部お姉様のものにされてるんですよ。害虫を駆除したのも、乾燥室を改修したのも、全部お嬢様じゃないですか」
「誰のおかげでもいいわ。薬が正しく届けば、それで」
「……お嬢様はいつもそうです」
私は薬草の染みで黒ずんだ左手で茎を折り、束に添える菫を選んだ。今日の届け先は貴賓棟。隣国の外交使節が滞在している。
辺境の使節団には、辺境の花を。取り寄せておいたリュゼリカを一輪添えた。辺境の山にしか咲かない、淡い紫の小花だ。
◇
貴賓棟に薬草束を届けた帰り道、薬草園に見知らぬ青年が立っていた。
「——勝手に入らないでいただけますか」
青年は振り返った。濃い栗色の髪に、穏やかな灰青の瞳。外交使節団の正装を着ている。背が高い。私が見上げる角度になるのが少し悔しい。
「すみません。見事な薬草園だったもので、つい」
お世辞だろう。宮廷の誰も気にかけない場所だ。
「……ミラベル嬢ですか?」
足が止まった。
「……今、なんと?」
「ミラベル・ヘルダ嬢。お間違いなければ」
心臓が、一拍だけ跳ねた。この宮廷で。姉の名前ではなく、私の名前を——初対面の人間が呼んだ。
「……ヴェストール辺境伯家のカイと申します」
「なぜ、私の名前をご存知なのですか」
自分でも驚くほど、真剣な声が出た。
カイ殿は少し考えるように視線を落としてから、微笑んだ。
「——長い話になります」
「お時間はございます。なにせ私は、存在しないも同然の人間ですので」
「存在しないも同然の方が、これほど見事な薬草園を維持できるとは思えませんが」
◇
その日から、カイ殿は毎日薬草園に来るようになった。
「辺境には薬草が不足していましてね。自前で薬草園を作りたいのですが」
嘘だと思った。しかし薬草の話をする相手がいるのは、純粋に嬉しかった。5年間、薬草の話を聞いてくれた人はベルタだけだ。ベルタは聞いてはくれるが、3分で寝る。
「この品種は日陰を好みます。直射日光に当てると葉が焼けますので」
「辺境は日照が強いから、石壁で影を作る必要がありそうですね」
「ええ。それから、この薬草は根を深く——」
「株分けの時期は秋が最適ですか」
「……ご存知なのですか?」
「多少は。辺境では野草の知識が生存に直結しますから」
カイ殿は私が話すとき、ちゃんと目を見た。宮廷で私を見る人は少ない。でもカイ殿の灰青の瞳は、はっきりと「ミラベル」を見ていた。名前を間違えたことは、一度もなかった。
3日目のことだった。
薬草園に薬務官が書類を届けに来た。
「マリエル嬢、追加の発注書です」
私が「はい」と受け取ろうとしたとき、隣にいたカイ殿が口を開いた。
「——ミラベル嬢、ですよ」
薬務官が目を丸くした。カイ殿は穏やかな顔のまま、しかし訂正を引っ込めなかった。
「薬草園を管理しておられるのはミラベル・ヘルダ嬢です。お間違えのないように」
薬務官はぎこちなく頭を下げて去った。
「……カイ殿。余計なことを」
「余計ではありません」
心臓が痛いほど跳ねた。5年間、一度も誰にも訂正してもらえなかったことを、この人は何でもないようにやった。
5日目。カイ殿が帰った後、カモミールの畝の端に一輪の花が置いてあった。
淡い紫。リュゼリカだ。
辺境の山にしか咲かない花が、なぜ薬草園に——。
私が貴賓棟に届けた薬草束に添えたのと、同じ花。
まさか。偶然だ。偶然に決まっている。けれど、その一輪を捨てることはできなかった。水を張った小瓶に挿して、作業台の端に置いた。
7日目。
植え替え作業を手伝ってくれたカイ殿と、同じ苗に手を伸ばした。指先が触れた。
カイ殿は手を引かなかった。私も、引けなかった。
3秒。たぶん3秒だけ。
それだけのことなのに、指先がいつまでも熱かった。
「お嬢様、辺境伯子息殿のことが気になるんですか」
「……気にならないわよ」
「嘘です。薬草園に行く前に髪を直してましたよね」
「……風で乱れただけよ」
「今日は無風です」
ベルタの観察力は、薬草ではなく私に対してだけ鋭い。余計な才能だった。
◇
穏やかな日々は、唐突に終わった。
「ミラ——いや、えーと」
「ミラベルです」
「……そう。ミラベル。婚約を——解消してほしい」
ああ、やっぱり。驚きはなかった。5年間名前を呼ばれなかった婚約に、形以上の意味はない。
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
「……ローエンシュタイン侯爵令嬢と話す機会があって。彼女は華やかで——」
「姉に似た方ですか」
殿下が黙った。
「——左様でございますか。承知いたしました」
「……怒らないのか」
「怒る理由がございません。殿下は私の名前すらご存知なかったのですから、解消するのは名前のない婚約です」
「では、薬草園の引き継ぎ書類をお送りします」
「……引き継ぎ? 薬草園はマリエル嬢の——」
「マリエル姉様は3年前から療養中です、殿下。3年間、全ての管理は私が行っておりました。殿下にお渡ししていた報告書の差出人欄には、ミラベルと書いてありました。——お読みいただけていなかったようですが」
「それから殿下。毎晩お飲みになっている安眠茶の配合も、私が調整しておりました。後任の方に引き継ぎますが——同じ配合は、おそらく難しいかと」
ベルタは泣いた。私よりずっと長く、ずっと激しく。
「あの王子、絶対後悔しますからね!」
「しないと思うわ。後悔するほど私を知らないもの」
「自虐ではなく統計的事実よ。5年間で名前を正しく呼んだ回数がゼロの人間が後悔する確率は、限りなくゼロに近い」
「統計で語らないでください!」
◇
婚約解消から10日後。
ヘルダ伯爵邸に、宮廷からの使者が現れた。
使者の後ろに、アレクシス殿下がいた。
殿下の顔を見て、息を呑んだ。
目の下に深い隈。頬がこけている。唇は乾き、声に力がない。10日でここまで人は変わるものか。
「ミラベル嬢、どうか薬草園にお戻りいただけないでしょうか」
「理由をお聞きしても」
「後任が——解熱草と催吐草を取り違えた。患者が3人倒れた」
「……それは」
「乾燥室の温度管理を誰も知らなかった。1か月分のカモミールに黴が出た。外交の茶会で出した薬草茶に——辺境の使節から『雑草の煮汁か』と正式な苦情が」
カイ殿の国の使節だ。少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「さらに——」
殿下が言い淀んだ。視線が落ちた。
「私の安眠茶が——配合が分からないと言われた。引き継ぎ書類に書いてあるはずだと侍医が言ったが、後任はその書類を読んでいなかった。10日間、まともに眠れていない」
だからこの顔なのか。
「あの茶は誰が作っていたのか、侍従のエルンストに聞いた。エルンストは『ミラベル・ヘルダ嬢です。5年間ずっと』と答えた」
殿下の声が震えた。
「私はその名前を聞いても、すぐには誰のことか分からなかった。——5年間。毎晩、あの茶を飲んでいたのに」
殿下が息を吸い、吐いた。
「それからエルンストがもう一つ言った。薬草束に、毎日花が添えてあったと。殿下のお好きな青い花——ではなく、エルンストの好きな青い花だったと」
あの花は殿下のためではなかった。殿下はそのことすら、いなくなってから知った。
「5年間。花も、茶も、報告書も。全部——全部そこにあったのに、私には見えていなかった」
殿下は初めてまっすぐに私を見た。目が赤かった。眠れていないからか。それとも——。
「……戻ってきてはくれないか」
「お断りします」
声は震えなかった。
「殿下。私は5年間、薬草園を守りました。名前を間違えられても、報告書を読まれなくても、安眠茶の礼を一度も言われなくても。それでも構わないと思っていました」
息を吸った。
「——でも、もう構いません。私は辺境に参ります」
殿下の目が見開かれた。
その視線の先に、カイ殿が歩み出た。
「殿下。ミラベル嬢には、辺境の薬草園をお任せしたいと思っております」
「……雇用の話ですか」
「いいえ。婚姻です。ミラベル嬢と」
殿下の顔から色が引いた。
殿下が私を見た。私の手——薬草の染みで荒れた手を見た。姉の白い手とは似ても似つかない、5年分の仕事が刻まれた手。それから殿下は、カイ殿の隣に立つ私の顔を見た。
私はカイ殿を見ていた。カイ殿も私を見ていた。
「……すまなかった」
「お気になさらないでください。殿下はご存知なかっただけですから」
殿下が門を出るとき、一度だけ振り返った。
私がカイ殿の隣で微笑んでいるのを見た。殿下は、その笑顔を知らなかっただろう。5年間隣にいて、一度も向けられたことのない笑顔だった。
ベルタが駆け寄ってきた。
「殿下のお顔が真っ白でしたよ!」
「薬草茶でも差し上げましょうか」カイ殿が穏やかに言った。
「今の宮廷の薬草茶は飲めたものじゃありませんよ。雑草の煮汁だって噂です」
「では、ミラベル嬢に淹れていただきましょう」
「……勝手に決めないでいただけますか」
「すみません。つい」
ベルタは私の袖を引っ張って、小声で「お嬢様、この方は逃がしちゃ駄目ですよ」と力説した。
◇
辺境への馬車に乗る前日、カイ殿に聞いた。
「なぜ、私の名前を知っていたのですか」
カイ殿が懐から、小さな押し花を取り出した。紫色の小花。茎は潰れているが、色は鮮やかだった。
「——リュゼリカ」
「3年前、貴賓棟に届いた薬草束に添えてありました。辺境の山にしか咲かない花です。王都で手に入れるのは容易ではない。——誰に頼まれたわけでもなく、隣国の使節に故郷の花を添える人がいる。それが誰なのか、知りたくなりました」
「……花一本で」
「翌年も添えてあった。でも届ける人は裏口から来て、裏口から帰る。3年目、貴賓棟の裏口で早朝5時から待ちました。そこに来たのがあなただった。左手で薬草束を抱えて、もう片方の手にリュゼリカを持って。部屋の前に置いて、一度深呼吸をしてから立ち去った」
「……」
「名前を知ったのは去年です。宮廷中に聞いて回りましたが、全員『マリエル嬢の管轄』としか答えない。ベルタ殿だけが教えてくれました」
「あの子……」
「ベルタ殿の話を聞いた後、薬務官への納品記録を調べました。3年前を境に筆跡が変わっている。書類の精度が上がっている。備考欄に保存方法の注記が増えている。——姉上ではない、別の人間が書いている。名前のない人間が、5年間、誰にも気づかれずに薬草園を守っていた」
息が詰まった。この人は。誰にも見られていなかった仕事を——書類の筆跡から、読み取ったのだ。
「あなたの名前を呼びたかった。呼ぶ理由が欲しかった。だから求婚しました」
「……論理が飛躍していませんか」
「していません。名前を呼ぶ正当な理由として、婚姻は最適です」
「……変な方ですね」
「よく言われます」
「でも——嬉しいです」
カイ殿が息を呑んだ。
あの薬草園のカモミールの畝に、リュゼリカを置いたのはやはりこの人だった。
◇
辺境への馬車の中。隣にカイ殿が座っている。
窓の外には王都の街並みが遠ざかっていく。不思議と、未練はなかった。
「カイ殿」
「はい」
「……カイ、と呼んでもいいですか」
カイ殿が一瞬黙った。耳が赤くなっている。
「……呼び捨てですか」
「辺境では敬称をつけないと聞きました」
「……誰に聞いたんですか」
「ベルタに」
「ベルタ殿は本当に余計なことを……」
「余計ではありません」
カイの言葉をそのまま返した。カイが目を見開いて、それから笑った。
「……ミラベル」
5年間、誰にも呼ばれなかった名前が、こんなにも温かく響くものだったのだ。
「はい」
「辺境の薬草園には、毎日花を添えてください。あなたの好きなように」
「当然です。誰に頼まれなくても、ずっとそうしてきましたから」
カイが私の手を取った。薬草の染みが残る左手を、そっと包んだ。
「知っています。最初から」
馬車の窓の向こうに、辺境の山が見え始めた。
春になれば、あの山にリュゼリカが咲くのだろう。
私は笑った。泣きそうになりながら、笑った。
隣にいる人が、私の名前を知っている。
それだけのことが——世界の色を、こんなにも変えてしまう。
【作者から読者様へお願いがあります】
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