文鳥ですが守りたい!
アリス・ウイスランドは、長い白銀の髪に緑の瞳をした十六歳の男爵令嬢だ。
――九年前までは。
若葉芽吹き、若人の心躍る春。
魔法学院の教員用寄宿舎で、鳥籠の止まり木にちょんとのる手のひらサイズの真っ白な一羽の文鳥。
これが、今のアリスの姿である。
そして、アリスの視線の先にいるのは、アリスと同じ白銀の髪に緑の瞳をした一人の男性だ。
その人は、アリスをじっと見ると
「アリス姉さん……」
そう、苦し気につぶやいた。
◆
話は少し前に戻る。
「わたしのために、ジンジャービスケットを?」
寄宿舎の廊下を歩くレイモンドの手のひらで、アリスは白い羽をぷるっと震わせた。
廊下には、レイモンドとアリスだけしかいない。
レイモンドは、本日最後の授業である実践魔法を終え、自室に戻るところだった。
「今日の夕方から毎日午後四時、おまえは用務員室のヨキアムさんのところへ行け。ヨキアムさんが部屋の出窓に、焼きたてのジンジャービスケットを用意してくれる」
魔法学院の生き字引と呼ばれるヨキアム爺さんは、菓子作りが得意だ。
生徒たちは、ヨキアムが作る菓子目当てに用務員室へと顔を出し、ついでにあれこれとヨキアムの手伝いをしているのだそうだ。
レイモンドが、アリスのためのジンジャービスケットをヨキアムに頼んだところ、爺さんは二つ返事で引き受けてくれたらしい。
レイモンドがくしゃみを一つする。
「あの、レイモンドさま」
「なんだ」
「ジンジャービスケットは、そりゃとても嬉しいのですが。それよりも気になることがあります」
「言ってみろ」
「なぜ、そんなにびしょ濡れなのですか?」
「あぁ――」
レイモンドが空いた手で濡れた前髪を後ろへかきあげると、その指が通ったままの線が金色の髪に入った。
制服の白いシャツは、レイモンドの体にピタリと張りついている。
その濡れ方は、雨に降られたなんて甘ちょろいものではなく、水風呂にでも入ったかのようなびしょびしょのビタビタといった具合なのだ。
現に、今もレイモンドが歩くたび体のあちこちから雫が落ち、彼が歩いてきた廊下はその板の色を濃く変えていた。
「この間は、前髪が焦げていました」
「そうだったか」
「泥まみれのときもありました」
「うん」
今一つの反応しか返ってこないレイモンドの手のひらを、アリスは薄紅色のくちばしでツンツンつつく。
「おい、痛いぞ」
「痛くしております! レイモンド様! 焦げたり、泥団子になったり、果ては水浸し! 実践魔法の授業とは、いったいどんなことをするのですか?」
「おまえには、関係ないだろう」
「関係なくありません! わたしは九年間、レイモンド様の盾となり、あなたさまをお守りしてまいりました! そのレイモンド様が、実践魔法の授業を受けるたびに、泥団子になって帰って来るんですよ!」
毎回泥団子は違うだろう、とレイモンドがぼそりとつぶやくが、アリスはそれをあえて無視した。
本来ならレイモンドは、王の二十九番目の子として後宮で暮らし、魔法学院ではなく王立学園へ通うはずだった。
そして、名ばかりの男爵令嬢のアリスには知る由もないが、なにかしら重要な仕事を任される未来が待っていたはずなのだ。
その道を断つ原因を作ったのは、誰でもない、アリスだ。
アリスの食い意地により起きた事件のせいで、レイモンドと母で側室のビクトリアは、後宮を追い出された。
――「ぼくにとっては、おまえが誘拐され、ローガンに強請られた出来事は、千載一遇のチャンスだったのだ」
レイモンドにとっては、今の状況はありがたいそうだが。
だからといって、アリスの罪が消えるわけじゃない。
それはそれ、これはこれなのだ。
そのためアリスは、自分の人生……いや、鳥生のすべてをかけて、レイモンドに尽くし、幸せになっていただきたいと切に願っているのである。
「レイモンド様、やはり実践魔法の授業にも、わたしの帯同をお許しいただくよう、先生方にお願いをしていただけませんか?」
魔法学院では、座学における生物の帯同は許していた。
レイモンドは文鳥連れだが、トカゲやカナブン。芽の出ていない鉢植えを机の上に載せ授業を受けている生徒もいた。
「無理だ。座学とは違い、実践はぼくたち生徒の未熟な魔法が教室中にあふれる。そんな中に、おまえを連れていくなんてありえない。たとえ、認められたとしても、ぼくが嫌だ」
「でも、他の授業同様に、シャツのポケットに潜り込んでいれば……」
アリスの目に、レイモンドのびしょ濡れのシャツが映る。
「……おまえも、無理だとわかっているのだろう?」
アリスは小さな頭をカクッと下げた。
文鳥となってから九年間。
アリスは多くの時間を、レイモンドの肩やポケットで過ごした。
「なにが起きたのか、わからないのが不安なのです」
「おまえが一緒にいると、授業に身が入らない」
「そんなに危険なのですか?」
「座学と違い、一クラスの生徒の数も少なく、そこに先生が三名もつく」
アリスが黙りこむと、レイモンドが溜息を吐いた。
「今日の授業は、水の魔法だった」
「水を出すんですか?」
「移動だ。机の上に水が入った器があり、その水だけ上に持ち上げ、器に戻した」
しぶしぶといった感じで、レイモンドが説明を始める。
「びしょ濡れになるほど、大きな器だったのですか?」
「いや。授業は二人組でやるのだが。なぜだか、ぼくと組んだ彼は、教室にいた他の生徒の水まで全部集めてしまい、それをぼくたちの机にある器に入れようとした」
そのため、入り切らない水はそばにいたレイモンドにかかったのだそうだ。
「前髪の焦げも、泥団子も、もしや同じように?」
「思うに、彼は自分の魔法をコントロールする力が足りないのだろう」
「いつも同じ相手なのですか?」
レイモンドが頷くと、雫も落ちた。
そのレイモンドの声には、相手を見下したり、馬鹿にしたりといった色はない。
同級生のそのままを受け止め、それをアリスに話している。
魔法学院生活が始まって二か月弱。
レイモンドの口から同級生の話が出てきたのは、これが初めてだ。
というより、そもそもレイモンドと同級生の間には、いつもうっすらと距離があった。
後宮にいるときと比べると、レイモンドは丸くなったとアリスは思う。
とはいえ、一般的に見て、レイモンドが親しみやすい性格でないことは、わかっている。
そんな彼の性格に加え、同級生たちも「元文鳥王子」に対して、どんな態度をとっていいのか様子を窺っている状態であるように思えた。
中には、レイモンドについて「できそこない」とか、「落ちこぼれ」とか、「王家の面汚し」とか、本人に聞こえるように話し、果てはありもしない噂話を、真実だといわんばかりに堂々としている生徒もいる。
そういった彼らに共通しているのは、レイモンドを「王子」の名で呼ぶことだ。
レイモンドに対する話し方も、わざとらしいへりくだり方で、聞いてるだけでアリスの羽は怒りのあまり膨らんだ。
そして、これまた微妙なのが、魔法学院の寄宿舎におけるレイモンドの部屋の場所だ。
学院からの説明によると、建物の構造の関係で、レイモンドの部屋は他の生徒たちとは離れた場所になった。
そのおかげで、こうして人目を気にせずにアリスはレイモンドと話すことができるけれど、同級生から意図的に隔離されてしまったような気がしないでもない。
友だちが、なにがなんでも必要だと、アリスは思わない。
ただ、そういった結論は、一通り試したあとでもいいのかなと思うのだ。
レイモンドは泥団子君に対して、あんな目に遭いながらも悪い感情を抱いていないようにアリスは感じた。
アリスは、泥団子君に興味を持った。
レイモンドが、再びくしゃみをする。
「おまえと話すと、どうも話が脱線してしまうな」
「人のせいにしないでください。はやく部屋に戻り、温かい湯に入ってください」
「そうする。だから、おまえはヨキアムさんのところに行ってこい」
「でも、ほんとうに、ヨキアムさんはジンジャービスケットを焼いてくれるのですか?」
アリスは、ヨキアム爺さんの皺だらけの顔を思い浮かべた。
「妙に疑い深いな。焼きたてのほかほかだぞ」
ほかほか……。
アリスはうっとりと目を閉じ、すっと匂いを嗅いだ。
当然、この場ではジンジャービスケットの匂いなどしない。
するのは、レイモンドの匂いだけだ。
石鹸だかなんだかわからないが、レイモンドは濡れていてもいい匂いがする。
そういえば、びしょ濡れのレイモンドだけれど、アリスをのせる手のひらに水気はなかった。
「いいか。くれぐれもヨキアムさん以外の人からビスケットをもらうんじゃないぞ」
「……あい」
アリスが過去を思い出し、しょぼんと返事をすると、レイモンドが小さく笑った。
◆
ピィピ ピィピ
用務員室の窓に降り立ったアリスは、部屋にいるヨキアム爺さんに挨拶をした。
「あぁ、文鳥ちゃん。ちょっと待ってろよ」
ヨキアムは、にひひと笑うとオーブンの扉を開けた。
すると、窓辺まで甘い香りが漂い、アリスはほわんと幸せ気分になった。
ピピッピ ピピピー
嬉しさを表現するため、アリスは鳴く。
後宮で生活をしていたとき、アリスはレイモンドやビクトリアを相手に人の言葉で話していた。
たまに、鳥の鳴き真似をするときもあったけれど。
なんというか……かなり適当だった。
後宮を出るにあたり、さすがにそれでは不味いだろうと、アリスはレイモンドの積極的な指導の下で特訓を重ね、鳥の鳴き声をマスターしたのだ。
泳ぎと一緒で、一度コツを掴めばなんなく鳴けるようになった自分は、やっぱり文鳥なのだとしみじみと思った。
いや、文鳥じゃないけど。
しかしだ。
現在アリスは、人として思考し、人の言葉を話すことで、体は文鳥だけれど自分は人間だと自覚することができる。
けれど、ある日突然、それらがすべて自分から失われてしまうんじゃないかと思うときがあるのだ。
心が体と同化し、本物の文鳥になってしまう、とか。
ただ、アリスは図太い。
だから、自分が文鳥になったとしても、きっと本能の赴くままあちこち元気に飛びまくるのだろうと想像できる。
そして、不敬にも、レイモンドのこともすっかり忘れ、そこら辺の林でのんきに野生文鳥生活を始めてしまうのだ。
もしかすると、うっかり出会った野生の文鳥と番になって、卵をじゃんすか産み、楽しい家族生活を送るかもしれない。レイモンドを残し――。
そう思うと、友だちは無理でも、例えば、お茶を一緒に飲むとか、一緒に勉強をするとか。
友だちの一歩手前の、知り合いでもいい。
そんな人が、レイモンドにできたらいいなとアリスは思っている。
◆
「はい、文鳥ちゃん。お待ちかねのジンジャービスケットだ」
ヨキアムの声とともに、アリスの目の前に皿に載った一枚の四角いビスケットが置かれた。
レイモンドの言うとおりの、ほかほかだ。
ピピッ ピピッ ピピッ
アリスはヨキアムに礼を言うと、大好きなビスケットを早速つつき出した。
あったか おいしい あったか おいしい
「いい食いっぷりだね。ん? つつきっぷりか? 実はね、レイモンドさんにビスケットを頼まれる前にね、赴任してきた先生からもジンジャービスケットを焼いて欲しいと頼まれたんだよ」
ピピピピピ
(そうですか、そうですか。ジンジャービスケットはおいしいですからね)
文鳥なりの相槌を打ちつつ顔を上げたアリスの目に、用務員室の入口のドアが開くのが見えた。
男性がひょいと顔を出す。
「ヨキアムさん、おじゃまします。ジンジャービスケットをいただきに来ました」
男性の声は陽気で軽い。
彼は鍔の短い麦わらの帽子をかぶり、色のついたトンボ眼鏡をかけていた。
絵の具をぶちまけたような模様のシャツははだけ、日に焼けた胸元が見えている。
不審者である。
破廉恥である。
レイモンドには、近づいてほしくない大人の見本のような人物である。
ヨキアムは、この男性を先生だと言ったが、いったいなんの教科だろうか。
「先生、さぁ、入ってください。ビスケットはそこの缶に入れてあります」
「ありがとうございます」
男性は、持っていた布の袋にビスケットの缶を入れると、ふいっとアリスを見た。
「おや、これはレイモンド王子の愛鳥では?」
「そうだけど。あっ、先生。王子呼びはダメだって」
「あはははは。習慣を変えるのは難しいなぁ」
アリスの中で、この先生への印象がさらに悪くなる。
「先生同様に、この文鳥ちゃんも、ジンジャービスケットが好物だそうでね」
「……え? ジンジャービスケット?」
突然、男性がアリスを両手で包み込むように持った。
しかし、持ち方が斜めだったため、アリスの体も斜めになる。
「ヨキアムさん。俺、これからレイモンド王子に会う約束があるので、この文鳥も連れて行きますね」
「あぁ、そうですか。彼に、明日の朝、お代を忘れずにと伝えてください」
「お任せください」
レイモンドがこの破廉恥男と会う約束をしている?
そんな話、アリスは聞いてない。
ピピピピピピ
(ヨキアムさん、だすけで~)
「先生、文鳥ちゃんを頼んだよ。ビスケットもさ、たんとあげてやってね」
「もちろんですよ」
ピピピピピピ
(ヨギアムざん、だずげで~~)
斜めの体のまま、アリスはヨキアムに助けを求めたが、その叫びは届かなかった。
◆
(やだ、もう。ぐるじい……)
どんな意図か知らないが、またしてもアリスは攫われた。
ヨキアムもヨキアムだ。
簡単にアリスをこんな男に渡すなんて。
どうにかして逃げようとアリスは羽をばたつかせるが、先生はびくともしない。
「暴れないで、文鳥。羽が傷つく」
先生の言葉に、アリスはぴたりと動きを止める。
「言ったところで、通じるわけないか」
そうだった、通じちゃだめなんだ。
アリスは羽が傷つかない程度に、もう一度バタバタしてみる。
「鳥籠がいるな。生物室に寄るか」
籠は簡単に見つかったようで、アリスはすぐにそこに入れられた。
籠には止まり木があった。
アリスはぱっと飛び、その細い木を掴んだ。
そして、はふはふと、息を吸う。
(鳥籠に入れたってことは、とりあえず殺されることはなさそう?)
そんなことを考えているうちに、先生は教員用の宿舎へ向かい、その中の一室へと入った。
先生が、アリスの入った鳥籠をソファの前のテーブルに載せた。
視線を感じて見上げると、先生がじっとアリスを見下ろしている。
「食べる」
(え? この人『食べる』って言った? なにを? もしかして、わたしを~~~!!!)
「食べるものといえば……そうか。ジンジャービスケットか」
先生は持っていた缶からビスケットを出すと、籠の隙間から押し込んで入れた。
ぼとり、と籠にビスケットが落ちる。
(食べるって、そういう意味?)
ほっとしつつも、鳥籠の中に入れられたビスケットを見て、アリスはもやもやとした。
ビスケットの渡し方に、愛情がない。
レイモンドだったら、こんな風にしない。
それに、レイモンドから言われたのだ。
――「ヨキアムさん以外の人からビスケットをもらうんじゃないぞ」
このビスケットを作ったのはヨキアムだけれど、それでもアリスは食べない。
(レイモンド様……)
レイモンドを想い、アリスの瞳にじわっと涙が……浮かばない。
文鳥にも涙腺はあるけれど、人とは違うようなのだ。
それに、泣くのはあとだ。
冷静になって、今度こそ自力で逃げよう。
先生はレイモンドのことを「レイモンド王子」と呼んでいた。
王子じゃないレイモンドを、「王子」呼びする人は、腹に一物ある人だ。
無性に腹がたってきたアリスは、低い唸り声を出し先生を威嚇する。
けれど、先生はそんなアリスの怒りなど気にも留めずに、ソファへと座った。
「おまえさん、どうしてジンジャービスケットが好きなんだい?」
「はっ?」
「ん?」
思わず出てしまったアリスの素の声に、先生がきょろきょろとしだす。
「誰かの声がしたような?」
ピピピピピ ピーピピ
誤魔化すように、アリスは囀る。
危なかった。
いきなり話しかけられたせいで、ナチュラルに答えてしまった。
「まぁ、いいや。ごめんな、おまえさんに、罪はないんだ]
意外にも先生はアリスに謝りだした。
「実は、俺は姉を探していてね。その鍵が、レイモンド王子の母上であるビクトリア様に関係あるのではないかと思っていて。そうしたら、レイモンド王子の愛鳥がジンジャービスケットを好きだというだろう。ジンジャービスケットは、俺と姉が好きだった菓子だったから。つい、ね……」
男性が帽子を脱ぐと、はらりと白銀の髪がゆれた。
色つきのトンボ眼鏡を外すと、緑の瞳が現れた。
アリスの視線の先にいるのは、アリスと同じ色の髪と瞳の男性だ。
その人は、アリスをじっと見ると
「アリス姉さん……」
そう、苦し気につぶやいた。
(ちょっと待って。この日に焼けたボタン二つ開けの破廉恥男は……。もしかして、もしかすると)
「アリス姉さん、会いたいよ。会って『ノア』って呼んでほしいよ」
(うわっ、やだ、ノア? この子、わたしの弟だ!!)
九年振りに会う弟との残念な再会に動揺したアリスは、止まり木から足を踏み外し、そのまま落下した。
◆
ヨキアムのところに文鳥を迎えに行ったレイモンドは、そのままの足でノア・ウイスランドの部屋に向かっていた。
教員宿舎一階の右から二番目。
ヨキアムから聞き出したウイスランドの部屋に向かいながら、レイモンドは今まで習った実践魔法を確認する。
(火は使える。土も。水も大丈夫だ)
ノア・ウイスランドは、魔法学院の教師だ。
どの教科の担当かは知らないが、当然、レイモンドよりも魔法の力は上であるだろう。
そんな相手に勝つ方法は。
(考えろ、落ち着け)
自分にできること。
走る。
武術。
魔法。
文鳥を助けることに全神経を向けていくうちに、レイモンドは、自分が鋭く細い刃物にでもなったような感覚に陥った。
五感が研ぎ澄まされ、もはや、肉体などないかのようだ。
目当ての部屋の前に、レイモンドはすっと立った。
深呼吸し握った右手を開くと、レイモンドのてのひらと同じ長さの真っ白な杖が現れた。
杖をドアノブにつけると、錠の映像が頭に浮かんだ。
(鍵はかかって、ない?)
口元に笑みが浮かぶ。
ウイスランドはヨキアムに嘘をつき文鳥を攫った。
それは、到底許されるものではない。
教師相手に魔法を使ったとばれたら、始末書どころの騒ぎではなくなるかもしれない。
退学かもしれない。
でも、構わない。
文鳥がいなくなってしまったら、レイモンドが魔法を学ぶ意味も消えるのだから。
レイモンドにとって大切なのは――。
誰よりも傷つけたくないのは――。
――「実践はぼくたち生徒の未熟な魔法が教室中にあふれる。そんな中に、おまえを連れていくなんてありえない」
ふいにレイモンドは、いつかの自分の言葉を思い出した。
◆
「おい、大丈夫か? 鳥も止まり木から落ちるのか?」
気がつくと、アリスはノアの手の中にいた。
「慣れない鳥籠で様子が違ったんだな。ごめん。悪かった。ええと……医者か? 校医に連絡か。いや、動物魔法の先生か?」
おろおろするノアに、アリスはほっとした。
外見は変わったけど、中身はちっとも変わってない。
優しくて、すぐにオロオロして。
アリスの一つ下の弟のノアについての近況は、時折ビクトリアから伝えられていた。
アリスが文鳥になる決心をしたのも、ビクトリアが責任を持ち、ノアの成長を見守ると約束してくれたからだ。
実際には、弟の面倒を見てくれたのは、アリスとビクトリアを引き合わせた商会だったのだけれど、それでもアリスはありがたいと思ったし、そのおかげで、思う存分レイモンドを守ることができた。
そして、文鳥になることを選んだ時点で、アリスは二度と弟には会わないつもりでもいた。
というのも、文鳥から人に戻れたとしても、その間アリスは人としての成長が止まっているので、文鳥になった年齢、つまり十六歳のままだからだ。
まさか、その姿で、二十代半ばになった弟に「姉さんよ」なんて、会いには行けないだろう。
そもそも信じてもらえないだろうし、信じたら信じたで大騒ぎになるのは目に見えている。
しかし、妙である。
アリスは、魔法学院でノアが教師として働いているなんて報告を受けていないのだ。
たしか、ノアの就職先は……。
弟の手のひらでころんと転がりながら、アリスはうむむと考え込む。
そのとき、部屋をノックする音が聞こえた。
「ウイスランド先生、レイモンドです」
アリスとノアが同時にハッとする。
「やばい。俺は王子の愛鳥をこんな目に……」
(ノア。あんた、いまさらだよ)
アリスが、むくりと起き上がると、ノアがあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「レイモンド君、入って来てくれたまえ」
(なにが、「くれたまえよ」)
アリスがノアの手のひらから飛んだのと、レイモンドがドアを開けたのは同時だった。
◆
ノアが大きな体を曲げ、ソファに座ったレイモンドに頭を下げた。
アリスは、レイモンドの肩にちょんといた。
「乱暴な真似をしてすまなかった。実は、君に聞きたいことがあったんだ」
レイモンドは無言だ。
そのため、ノアは頭を上げるタイミングがわからず、頭を下げたままの姿勢を保っている。
「どうぞ、顔を上げてください。けれど、文鳥は譲りませんよ」
「あぁ、もちろんだよ」
ノアは落ち着きなくうろうろしたあと、部屋の隅にある椅子を持ってきて座った。
「それで、ぼくに聞きたいこととはなんでしょうか?」
「姉を探しているんだ」
思いがけない話をされたといった表情を、レイモンドが浮かべる。
「それは、先生の姉上ですか?」
ノアは頷くと、アリスにしたことと同じ話をした。
「なぜ、母が姉上の働き先と関係があると思われたのですか?」
「話せば長くなるんだが……。姉は俺の学費を稼ぐために、ある商家の伝手により王都で働き始めた。俺は商家との約束で、姉を探したり、接触したりするのはダメだと言われていた」
アリスは小さな首を上下した。
「しかし、そんなわけにはいかないだろう?」
なんですと?
「俺は学校が休みのたびに、その商家に行った」
ななな!!! ノアってば、なんてことを!!
「しかし、行くたびに、姉はここにはいないと言われ、追い払われた。そんなとき、路地で遊んでいた女の子が、『お姉さんなら、後宮に行った』と教えてくれたんだ」
なんて口の軽い!
アリスの頭に何人かの候補が浮かぶ。
あの商家は、子だくさんなのだ。
「後宮といっても、多くの人がいますよ。ぼくの母と先生の姉上を結びつけるのは、無理があるのでは?」
「君と母上は後宮を出された。そして、王都の隅に居を構えた。その際に、手を貸したのが俺の姉を後宮に働きに出したその商家だと噂を聞いた。噂とはいえ、俺の知り得る情報で、あの商家と後宮を結ぶ線は、ビクトリア様しかない」
意外にも核心に近づく推理をしてきたノアに、アリスは感心した。
「あの商家は、ぼくの母の父である、ブラックウッド伯爵の馴染みの店です。そして、ブラックウッド家は、王都から離れた場所に領地があり、タウンハウスも持っていません。そのため、今回、世話になったのです」
ブラックウッド伯爵やその領地については、アリスも初めて知ることだった。
「姉についてなにか聞いていませんか? 姉が働き始めたのは九年前、十六歳でした」
「……。ぼくが知る限りでは、そのような若い女性はいなかった。ただ、母ならなにかを知っているかもしれない。訊いてみましょう」
「それはありがたい!」
ノアが日に焼けた顔を、ぱっと明るくした。
「ところで――」
レイモンドが話を続ける。
「参考までに、先生の姉上の容姿や、性格を教えてもらえないだろうか」
(はっ? そんなのノアが話したら、わたしだってバレ……)
ないか。
性格はともかく、アリスの容姿をレイモンドは知らない。
容姿どころか、レイモンドにとって、アリスは文鳥である。
だから、ノアがいくら正確に描写したところで、行方不明のノアの姉と文鳥になったアリスを結びつけることは、ありえないのだ。
ほっと胸を撫でおろしたものの、今度はノアがアリスをどう表現するのかと、ちょいと気になってくる。
耳をぴこっと傾けるアリスの前で、ノアが物憂げな息を吐く。
「ぼくの姉はですね、この世の者とは思えない、天使のような女性なのです」
ノア、あんた、なに言ってんの。
「……天使、か」
しかし、レイモンドはノアの言葉を茶化すことなく、なぜか、肩にのるアリスをちらりと見てきた。
「それで、容姿は?」
レイモンドが食い気味に質問をぶつける。
「髪の色は、雪の結晶に月の光が滴り落ち溶けたような、美しくも儚い白金。瞳は、森よりも色を濃くした罪深いほどの緑。髪も瞳も俺と同じ色でありながら、同じ色とはいえないほどに神々しい。まさに、天使ですよ」
「色……。そうだった。人間には、色があるんだな。色……色か」
ノアは天使とうるさく、一方、レイモンドは色、色とうるさい。
っていうか、この二人、大丈夫だろうか?
「うちの姉はですね、外見だけでなく中身も天使なんです。正義感にあふれ、面倒見がとてつもなくいい」
「なるほど、それはたしかに天使だ」
いやいや、どこにでもいる文鳥ですよ。
「そして、おしとやかで――」
「ん? んんん? 待ってくれ。姉上は、おしとやかなのか?」
「はい。立ち振る舞いが静かで、声も落ち着き、いつも優しく微笑んでいました」
ノアが瞳を潤ませ、遠くを見る。
まぁ、その……。
ノアの言い分も、わからなくはない。
たしかに、ノアと暮らしていたときのアリスはそうだった。
ノアは、おしとやかと表現をしたけれど、ただ動かなかっただけだ。
それもこれも、浪費家の両親が原因だ。
彼らから十分な食事が与えられなかったため、活動するエネルギーが不足していたのである。
いつも微笑んでいたのも、口角を上げるとそれだけで体に良いと、野菜を包んでいた新聞の記事で知ったからだ。
つまりが、健康法だ。
「先生、失礼を承知でお伺いしますが。姉上は食い意地が張っていたなんてことはありませんか?」
「姉が?」
ノアが首を振る。
「姉と食い意地なんて、とうてい結びつかない言葉ですよ。姉は、自分の食べる分まで俺によこすような人でしたから」
「そうか……」
「そんな姉の唯一の好物がジンジャービスケットだったのです。なので、ヨキアムさんから、レイモンド王子の文鳥もジンジャービスケットが好きだと聞き……」
まさか、またもやジンジャービスケットが命取りに?
バレる可能性なんかないけれど、それでもアリスはヒヤヒヤしてしまう。
「ちなみになのだが、先生の姉上は話し出すと止まらず脱線し、説教臭いとか。のんき顔とか寝相が悪いとか、あとは……」
「待ってください! それは、誰のことですか? 少なくても、姉ではないですね。絶対に、違います!」
「そうだ」とノアが椅子から立ち上がる。
「たしか、姿絵があったはずです」
そう言いながら、机まで行き、引き出しを開けた。
「あれ? ない。どこだ? 前の下宿に忘れてきたかっ……。至急、取りに行かねばっ! いずれにせよ、今度見せますよ」
「いや、結構です。……とにかく、母に手紙で伝えます」
「ありがとうございます――って、待て、待て。なんか、会話、おかしかったよな。君は生徒で俺は先生。なんか、調子が狂うなぁ」
ノアが頭をかく。
「ところで、ウイスランド先生の担当教科をお聞きしてもいいですか?」
「あぁ、俺? 家庭生活一般科。二年生からの履修科目に入っているはずだよ」
「縫物とか料理ですか?」
「そうそう。あと、体に必要な栄養素とかね。魔法使いって、まぁ、便利に使われてしまうところがあって。平気で僻地とかとばされるわけ。周りに食堂もなければ洗濯屋もない、布はあるけれど洋裁店もない。そうなると、仕事以前に生活に困るわけ。だから、どんな場所に行っても、自分で身の回りのことができるように訓練していくわけ」
「魔法は、お使いにならないんですか?」
「魔法はできないよ。だって、俺、王立学園出身だし」
そうなのだ。ノアは王立学園で学び、そして――。
「赴任されてきた、とヨキアムさんからお聞きしましたが、以前は?」
「うん。王立学園に入る前の子どもたちを教える初等学校で働いていた」
「それが、どうして?」
「レイモンド王子がここに来ると聞いて、慌てて転職してきたわけさ」
「……それほどまでに、姉上を」
ノアがふっと表情を曇らす。
「自分の今の生活が、誰かの不幸の上にあるかもしれないというのは、辛いものですよ。一目でいいので、姉に会いたいんです。元気なら、よかったと思うし。もし、そうでないのなら、今度は俺が姉を支えたいと思っています……ってほら、また、なんで君を相手にするとこんな話し方になっちゃうかな」
ノアが笑う。
「先生。ぼくはもう王子ではありません」
「あぁ、そうだな。姉のこともあって、その呼び方が癖になっていた。すまなかった」
ノアは缶からジンジャービスケットを一枚取り出すと、小さな袋に入れた。
「お詫びの印だよ、文鳥」
アリスは、ピピピと囀り弟を許した。
◆
夕暮れ時、アリスを肩にのせたまま、レイモンドが無言で渡り廊下を歩く。
なにやら、レイモンドは思案顔である。
「……あの、レイモンド様。わたし、またもや誘拐され、申し訳ございませんでした」
「えっ? あぁ、おまえのせいじゃない。気にするな」
「でも、怒ってませんか? 無口ですし」
「ぼくはおまえと違い、おしゃべりではない」
「ですね」
わかってはいるけれど、今のこの沈黙に、アリスはなにか意味を感じてしまうのだ。
「文鳥、きょうだいというのは、あんなに絆が深いものなのか?」
レイモンドの言葉にハッとする。
レイモンドには、きょうだいが二十八人いる。
中でも一番年が近いのは、アレだ。
初代アリス誘拐犯のローガンだ。
ローガン以外のきょうだいにしても、レイモンドとは距離を置いていた。
親しく話すどころか、行事で顔を合わせる以外、交流はなかった。
だから、アリスがノアを思うような。
ノアがアリスを慕うような。
会わずとも、心の底で互いの幸せを願い合うような、そんな繋がりとは無縁なのだ。
「レイモンド様。きょうだいなんて、ホント、いろいろです。きょうだい関係も、家族の形も、人の数だけあります。ウイスランド先生には、先生のあたりまえがあり、レイモンド様には、レイモンド様のあたりまえがあり。どちらが正しいとか、間違っているとか、そんなことはないのです」
レイモンドがふっと笑う。
「なぜだろうな。きょうだいと聞いたとき、ぼくの頭にローガンが浮かんだ。きょうだいらしいことなんか、一つもなかったというのに」
「わたしは、あの方が好きではありません!」
「ぼくだって、彼が好きではない。でも、だからといって。彼に不幸になって欲しいとは思わないんだ」
レイモンドの話にアリスは驚き、またもやあやうく落ちてしまいそうになった。
「レイモンド様は人が良すぎます。ローガン様は、とんでもないことをしたんですよ? なのに、『ぼくはレイモンドの文鳥が羨ましかっただけなんだ』とか、『試験のことだって冗談で、まさかレイモンドが本気にするとは思わなかった』なんて、嘘ばかり。また、それが認められたのが腹立たしい。あの方は、いまだにあの後宮でのんきに暮らしているんですよ!」
さすがに、王立学園の入学は叶わず、謹慎も三か月といった処分は受けたが、後宮を出ていくことになったレイモンドと比べると天と地ほどの差がある。
「文鳥。言葉は空から降ってくるそうだよ」
空から?
アリスは空を見上げた。
夕暮れの空はきれいだが、それだけだ。
「……いやぁ。なにも降ってきませんが」
「母上から、魔法学院に入る前に言われたのだ。良い言葉も、悪い言葉も、誰かに言ったそのまんまで、ある日、突然、空から降ってくるそうだ。だから、悪い言葉を言いたくなったら空を見上げろと。その言葉を、将来自分が浴びることになってもいいのか考えろと」
「……」
レイモンドの静かな声が、アリスの小さな体にしんと染みていく。
そんなわけないのに、アリスの瞳に映る茜色の雲が滲んで見える。
できそこない 落ちこぼれ 王家の面汚し
後宮を出て自由になったレイモンドは、自由のもとで偏見や差別の中に身を置くことになった。
入学してまだ二か月にも満たないが、今、彼はアリスが予想すらしなかったあらゆる言葉に囲まれている。
悪口や噂といったものは、後宮だけのものではなかった。
悲しいけれど、人が集う場所にはつきものなのだ。
ビクトリアにはそれがわかっていた。
ビクトリアは正しい。
母からの言葉は、長い目で見ればレイモンドを守るのだろう。
でも、そうなんだけど。
正しければ、それでいいのだろうか?
嫌な言葉を浴びれば人は傷つく。
悪意を向けられれば悲しい。
理不尽な言葉には怒りたい。
アリスは、レイモンドの感情に蓋なんかしたくない。
それは、正しくないのかもしれないけれど。
アリスは友だちで、親友の立場でレイモンドを――。
文鳥だけど守りたい!
ちゅんとアリスは跳ねると、レイモンドの肩から渡り廊下のすぐ脇の地面へと飛んだ。
そして、夕焼けの中、地面の土にくちばしで、へにょへにょ文字ながらも「ローガン」と書くと、その上をドンドンと踏みつけ始めた。
「おまえ、なにを……」
レイモンドが目を丸くして見下ろしている。
「大丈夫です、地面でジャンプしているだけなので、空からはなにも降ってきません!」
「違う、そうじゃない」
ぴょんぴょんと跳ねるアリスを、レイモントが掴んで持ち上げ、手のひらにのせる。
そして、「ローガン」の文字を片足で一掃した。
「おまえ、字が書けるのなら、……んな、そんな名ではなく、ぼくの……ぼくの名を書け!」
レイモンドが怒り出す。
「わたしの、へにょへにょ文字で、ですか?」
「そうだ!」
迫力に負けたアリスは仕方なく、再び地面に降りた。
そして、さっき同様にへにょへにょ文字で、今度は「レイモンド」と書いた。
ひょいと見上げると、なぜかレイモンドの頬がうっすらと茜色に染まっている。
喜んでいるようだ。
アリスは小さく溜息を吐くと、気が進まないながらもレイモンドの名の上に立ち、ローガン同様にドンドンと踏みつけた。
「おい! 待てっ! 違うだろう、がっ!」
ローガンと同じにしてほしいと言われた気がしたのだが、違ったようである。
レイモンドはぷんぷん怒りつつも、アリスを手ですくいあげ。
土のついたくちばしを自分のシャツでていねいに拭ってくれた。
◆
明け方、アリスが目を覚ますと、ベッドにいるはずのレイモンドがいなかった。
見ると、靴もない。
胸騒ぎがしたアリスは、わずかに空いていた換気用の小窓から、レイモンドを探すために飛んだ。
木々の間を、アリスは飛ぶ。
どこかでレイモンドの声がしないかと耳を澄ますと、ヨキアムのにひひ笑いが聞こえた。
アリスは迷わず、その笑い声へと向かった。
ヨキアムは、裏門の掃除をしていた。
しかも、その隣には――。
「なかなか、うまいじゃないか。レイモンドさん」
「そうか」
レイモンドとヨキアムが箒を持ち、裏門周りの掃除をしていた。
「でも、ほんとうにいいんですかい? 文鳥ちゃんが食べる菓子のために、これから毎朝掃除なんて」
「あぁ、運動にもなる」
「いやはや。あの文鳥ちゃんも、文鳥冥利につきるったぁ、もんですな」
にひひと、朝の学院に響くヨキアムの笑い声を、アリスは木の葉に隠れるように止まった木の枝で聞いてた。
ヨキアムは裏門をレイモンドに任せると、自分は別の場所の掃除へと向かった。
ヨキアムがいなくなったタイミングで、「文鳥」とレイモンドがアリスのいる木を見上げ呼んだ。
アリスは返事をしないまま、レイモンドが差し出した手のひらへと降りる。
「わたし、ジンジャービスケットは、いりません」
「おまえ、ぼくに約束を破れというのか?」
「あんな約束なんて、もう、時効です」
以前、レイモンドが池で溺れかけたとき、アリスは彼に水で体を浮かせる方法を教えた。
そのお礼になにがいいかと聞かれ、毎日一枚、ジンジャービスケットをもらう約束をしたのだ。
「おまえがいらないと言っても、ぼくはここの掃除を続け、毎日一枚、ヨキアムさんからビスケットをもらうよ。それに、ぼくにとっては、時効なんかなく、消せる約束ではない」
「レイモンド様は、真面目すぎます」
「約束とは、真面目なものだとぼくは思う。後宮にいるとき、おまえが食べるビスケットは、ぼくの小遣いで買っていた。でも、あれは元をただせば母上の金だ。そこに、もやもやとした思いがあったのだ。しかし、これからは、自分の力でおまえにビスケットを渡せる。それが、嬉しいのだ」
レイモンドは、さっぱりとした顔をしていた。
けれど、アリスは――。
アリスはレイモンドの手のひらから飛ぶと、そのまま彼の頭の上へ着地した。
「わっ、おまえ、なにするんだ!」
「わたしにも、わたしの気持ちがわかりません!」
アリスは、昨日、地面に書いたローガンやレイモンドの名前を上から踏みつけたように、レイモンドの頭で跳ねだした。
無性に、レイモンドの髪をくしゃくしゃにしたくなったのだ。
だって、だって。
誰かがアリスのためになにかをしてくれるなんて、そんなの初めてだったから。
人のために動くのは慣れているアリスだったけれど、それが、逆になると。
(なんか、むずむずするし、恥ずかしい!)
これは、どういった感情だろうか。
レイモンドに捕獲されるまで、ともかくアリスは跳ね続けた。
◆
アリスと、もしゃもしゃ頭のレイモンドが寄宿舎の部屋まで戻ってくると、部屋の前にはノアが立っていた。
そして、ノアの後ろにはアリスの見知らぬ男子生徒がいた。
「あぁ、レイモンド君、戻って来たか。すまないが、今日から彼と相部屋を頼む」
レイモンドが息をのむ。
「お言葉ですがウイスランド先生。魔法学院の寄宿舎は、個室ですよね」
「なにごとにも例外ってものがあるんだよ。手の空いている先生がいないので、新任の俺がこんなことをしているのも、そう。今朝、この彼の部屋が水浸しになってね。相部屋っていっても、修復が済むまでの間だからそう長くないさ。なんでも、彼と君は実践魔法の授業での二人組だそうだしね」
ノアが隠れている少年を前に出す。
「レイモンド君、しばらくよろしくお願いします」
少年が下がり気味の眉毛をますます下げ、レイモンドに握手を求めてきた。
実践魔法?
二人組?
彼は、泥団子君だ!
表情をなくしたレイモンドの肩で、今から始まる相部屋生活にアリスは心が弾み。
文鳥らしくピピピピピと囀った。
(おしまい)




