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「……ご、ご主人様っ!!」
立ち去ったクルトを追いかけなんとかルティアがその背中に追いついたのは、すでに屋敷の目の前だった。
「はぁ…はぁ…ようやく、追いつきました…」
「ーーー大丈夫?」
あまりにも酷い息切れの音にクルトも心配になりのそばに近付く。
「す、すみません…恥ずかしながら体力不足ですわ…あんまり走るようなことが無かったので…」
「…ルティア嬢、貴女は御令嬢なんだ。走る機会がないのは当たり前だしーーー…俺みたいな男の侍女になる事も、本来はなかったはずなんだ。…っ貴女は!ルティアは!幸せに、幸せに生きていたはずなんだ!!俺なんかと関わる事もなく、あの男と結婚して……平和に…幸せに…」
「…ご主人様?」
「俺が壊した」
白い面の下から仄暗い、嗄れた声が響く。
(貴方のせいじゃない)
「俺が、壊したんだ。貴女の人生を」
ドロドロに煮詰めた闇を飲み込んだような、暗い声。
(呪いをかけた人、その人だけが悪いの)
「ご主人様!!」
「どうして、どうして貴女が、貴女だけが不幸を背負わなければならない」
「クルト様!!」
ルティアはできる限りの背伸びをして、面の上から男の両頬に手を添えた。
「わたしが!私が不幸に見えますか!?」
未だかつてないほど大きな声がルティアの口から飛び出た。
「貴方と過ごしたこの半年間、私はどのような表情をしていましたか!?貴方はずっと、ずっと私が不幸だと、そう思いながら一緒にいてくれたんですか!?」
ルティアの視界はゆらゆらと水の中のように曖昧になってしまう。
沢山、伝えたいことはあるのに込み上げてくる嗚咽でうまく外に出せなかった。
「私は、ーーー私はずっと楽しかったのに!!」
その、瞬間。
「ーーーっ」
骨が、軋むかと思うほど強く
太陽が、その身に落ちてきたかと思うほど熱く
ルティアはクルトに抱き締められていた。
つま先立ちだった彼女の足は今や少し宙に浮いている。
「どうして…」
ルティアの肩にその顔を埋めるようにしているクルトから、頼りない小さな声が聞こえた。
「ねぇ、クルト様。今となっては彼と結婚した私が幸せだったかどうかはもうわかりませんけれど」
ローブに隠れたその頭を、ルティアは優しく撫でる。何度も、何度も。
(どうか、伝わりますように)
「チーズたっぷりのマシュポテトの味を知ってしまった私はこんなに幸せそうでしょう?」
(貴方と過ごす時間がどれほど私を救ってくれたか)
途端にさらに力強くなった抱擁に、ルティアは少し意識が飛びそうになった。
※
(前にもまして、だわ)
「あの、クルト様…」
「だめ。早く出して」
「でも…」
「でももだってもないよ。ちゃんと消毒しないと。化膿してしまったら大変でしょう」
ルティアはスカートに隠された膝を睨む。
そこには、今朝転んで出来てしまった浅い傷が隠されていたーーのだが、いつもと歩き方が違うと早々にクルトにバレてしまったのだ。
(前々から過保護な方だと思っていたけどーー)
「自分で、やりますから…」
「傷の手当て、したことあるの?」
「……」
何も言い返せなくなったルティアは諦めたようにそのスカートを膝上まで持ち上げる。
「ーーーっ」
それに息を呑んだのはクルトだった。
(ーーーしまった)
ルティアの怪我が心配で詰め寄ったのは事実だ。
けれど、そう。その普段は隠された白く細い脚を見て、健全な青年は大いに動揺した。
「あ、あのクルト様…どうか一思いに…痛いの、我慢しますから…」
クルトを見上げるルティアの頬は赤く染まり、瞳は涙で潤んでいる。
(この国の法律を最初から唱えようそうしよう)
頭の中で法律を早口で唱えながら、クルトは無心で傷の手当てをする。
ーーーあの騒動から早1ヶ月。
2人は概ね平和に過ごしていた。
あの日以降、クルトは少しーー随分と変わった。
『ルティア、手を繋いでもいい?』
今やすっかり日課になった庭園の散歩も
『ルティア、髪に触れてもいい?』
ルティアの髪に花の欠片がついていた時も
ルティアに触れるようになった。
嫌だったらはっきりと言って欲しいと何度も言われているが、ルティアがそれらを拒否したことは一度もない。
『本当に嫌じゃない?』
『私、嫌なことは嫌だとちゃんという人間ですわ』
『そっか…そうだね…』
そう言いながら優しく髪を撫でるその手から喜色が伝わってきてルティアは少し恥ずかしくなったのだ。
「ねえ、ルティアその脚で歩ける?俺が抱えて行こうか?」
「もう!このくらい大丈夫ですわ!クルト様もお仕事に戻ってくださいませ」
「え〜」
「え〜、ではありません!もう!」
「ふふっ…ルティアって怒り方も可愛いよね」
「可愛くありません!」
そんな穏やかな日々の中、ある日ルティアに1通の手紙が届いた。
それは彼女の父からで、内容はこう記されていた。
“ステラ・タージス夫人が面会を申し込んできている。どうするかはお前に任せる”




