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第39話 王の見る夢と、囁く影

 エスターニアでの内乱に終止符を打ってから、半年。

 王都カルデアには、あの血生臭い戦いがまるで嘘だったかのような、穏やかな季節が巡ってきていた。初夏の柔らかな日差しが、公爵家のテラスに並べられたティーカップの銀食器をきらきらと反射させている。


「リアナ様、次の夜会でお召しになるドレスのデザイン画が届いておりますわ」

「ええ、ありがとう。後で見ておくわ」


 侍女とのそんな平和なやり取りですら、今の私には、薄いガラス越しに見る芝居の一場面のように感じられた。公爵令嬢リアナ・ヴィルヘルムとしての完璧な日常。しかし、その裏で「王都情報調査官」として大陸中の情報に目を通す私は知っていた。この世界の平和がいかに脆く、危うい均衡の上にあるかを。


 そして、その均衡が崩れる日は、あまりにも突然に訪れた。


「――国王陛下が、原因不明の病に倒れられました」


 極秘の魔導通信機から聞こえてきたミラベルの声は、恐怖と混乱で震えていた。王宮筆頭の錬金術師となった彼女ですら、国王の病状を全く分析できないというのだ。

『身体に異常はありません。毒物の反応も、呪術的な痕跡も…。それなのに、陛下は日に日に衰弱され…まるで、魂だけが、少しずつ影に蝕まれていくみたいなんです…!』


 私はすぐさま、調査のために王宮へと向かった。そこは、表向きは平静を装いながらも、分厚いカーテンの裏側のように、重く、よどんだ空気が漂っていた。侍女たちはひそひそと声を潜め、廊下を往く衛兵たちの足音さえ、どこか虚ろに響く。


「…お聞きになりました、奥様? 誰もいないはずの西の回廊から、夜な夜な囁き声が聞こえるそうですわ」

「まあ、恐ろしい。三代前の王妃様の肖像画が、まるで生きているようにこちらを見ている、という噂も…」


 貴婦人たちの間で交わされる、オカルトじみた噂話。これまでの陰謀事件とは、明らかに毛色が違う。人の悪意ではなく、もっと正体の知れない、悪寒を覚えるような何かが、この王宮を蝕み始めている。


 数日間の調査でも、何一つ手がかりは掴めなかった。焦燥感を抱えたまま、王宮の雑踏を歩いていた、その時だった。


『――探すだけ、無駄だ』


 不意に、頭の中に直接響くかのような、静かで、感情のない声が聞こえた。

 はっとして周囲を見渡すが、誰も私に話しかけた様子はない。人々は、楽しげに談笑しながら通り過ぎていくだけだ。気のせい…?


 いや、違う。

 人混みの向こう、噴水の縁に、一人の青年が腰掛けているのが見えた。灰色の髪、灰色の瞳。まるで周囲の色彩を全て吸い取ってしまったかのように、その存在だけがモノクロに見える。この世の者とは思えないほど、現実感のない美貌。しかし、その瞳は、底なしの古井戸のように、何の感情も映していなかった。


 私が彼に気づいたのを察したのか、青年はゆっくりと立ち上がり、人混みをすり抜けるように、私の目の前に音もなく現れた。周囲の人間は、まるで彼が存在しないかのように、その隣を通り過ぎていく。


「…あなたは?」

 私の問いに、青年――ノアと名乗った彼は、僅かに首を傾げた。その仕草ですら、人間離れして見えた。


「それは呪いではない。世界の“調整”だ」

 彼は、他の誰にも聞こえていないかのように、私にだけ語りかける。

「綻びが生じれば、それを繕う。システムにバグが発生すれば、それを修正する。自然な摂理だよ」

「調整…?バグ…?一体、何の話をして…」

「君のようなイレギュラーが、手出しすべき領域ではない」


 ノアは、私の言葉を遮った。彼の灰色の瞳が、真っ直ぐに私の心の奥底まで見透かしてくるかのようだ。この男、私が何者であるかを知っている。私が、この世界の人間ではないことを。


「世界の理に、人の感情は不要だ。ただ、静かに、結末を見届けるがいい」

 彼はそれだけ言うと、私に背を向けた。

「待ちなさい!」

 私が手を伸ばそうとした瞬間、彼の姿は、まるで陽炎のように揺らめき、雑踏の中へと気配もなく消えていた。後には、心臓を直接掴まれたかのような、冷たい感触だけが残った。


 隠れ家に戻り、私は一人、彼の言葉を反芻していた。

「調整」「バグ」「イレギュラー」。

 それは、この世界が、誰かの手によって作られたものである可能性を示唆していた。国王陛下を蝕む、原因不明の病。王宮に漂う、オカルトじみた怪異。謎の転生者、ノア。そして、「諜報員」の記憶を持ったまま、この世界に生まれた、私自身の存在。

 これまで無関係だと思っていた全ての点が、今、一つの禍々しい線で繋がった。


(世界の理ですって…? 誰かが犠牲になるのが、当然の摂理だとでも言うの…?)

(冗談じゃないわ…!)


 私は、拳を強く握りしめた。

 この世界の真実がどうであれ、私の仲間がいて、守るべき人々がいるこの国を、そんな得体の知れない「調整」とやらの好きにはさせない。


(暴いてやるわ。その呪いとやらの正体も、あなたの目的も、そして…私が、ここにいる意味も!)


 私は立ち上がり、屋敷の書斎へと向かった。目的地は、父である公爵ですら、その存在を一部の者にしか明かしていない、ヴィルヘルム家に代々伝わる秘密の書庫。

 王家の最大の禁忌と、この世界の始まりの謎が眠るとされる、その場所の扉を開けるため。

 私の新たな、そしておそらくは最も困難な戦いが、静かに幕を開けた。

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