第28話 秋風の凶報と、王子の手紙
隣国エスターニアの王子が引き起こした王都テロ未遂事件から、一年。
王都カルデアには、まるで悪夢が嘘だったかのような、穏やかな日々が流れていた。季節は秋。公爵家の庭園では、金木犀が甘く香り、色づき始めた木々の葉が、柔らかな西日を受けて金色に輝いている。
「リアナ様、新しい紅茶が入りましたの。お試しになりますか?」
「ええ、いただくわ」
侍女の言葉に優雅に微笑みながら、私はテラスの椅子に腰を下ろした。公爵令嬢リアナ・ヴィルヘルムとしての、完璧な午後。しかし、その穏やかな表情の裏で、私の思考は全く別の場所にあった。
(…東方諸国の穀物価格が、三週連続で緩やかに下落。原因は豊作か、あるいは大口のギルドによる意図的な市場操作か。ミラベルの分析では、微量の『成長促進薬』の反応が出ている。これは調査の必要あり、ね)
王都情報調査官としての仕事は、もはや私の日常の一部となっていた。昼は令嬢として貴族社会の情報を集め、夜は"花季"として紅灯区の情報網を動かす。充実してはいる。けれど、私の心のどこかには、ぽっかりと穴が空いたままだった。
(…カレル。あなた、今どこで何をしているの?)
あの夜、私に謎の警告を残して姿を消した、食えない情報屋。彼の行方は、私の情報網をもってしても、依然として掴めていなかった。まるで、この世から存在が消えてしまったかのように。
そんな、穏やかで少しだけ物憂げな午後を破るように、一人の訪問者が屋敷を訪れた。王都守備隊の制服に身を包んだ、ヴォルフガング中佐その人だった。極秘の来訪らしく、彼の硬い表情には、いつにも増して険しい光が宿っている。
応接室に通された彼は、人払いをした後、単刀直入に切り出した。
「リアナ嬢。たった今、王宮に公式の連絡が入った。――エスターニア国王陛下が、崩御されたそうだ」
「なんですって!?」
思わず立ち上がりそうになる私を、彼は手で制した。
「公式発表は『長年の心労による病』。だが、私の情報筋によれば、陛下の容態は数日前まで安定していたという。あまりに…突然すぎる死だ」
彼の言葉が意味するものを、私は即座に理解した。暗殺。それも、国家の中枢が関わる、巧妙に隠蔽された…。
王都に、再びきな臭い風が吹き始めようとしていた。
その夜だった。
自室でエスターニアの情勢分析を行っていると、窓の外で、フクロウが鳴くような微かな音がした。それは、私とミラベル、そしてごく一部の協力者だけが知る合図。
窓を開けると、闇の中から黒装束の男が音もなく現れ、私の前に跪いた。その顔には見覚えがある。レオニード王子が、かつて密かにカルデアに潜ませていた諜報員の一人だ。
「リアナ様。我が主、レオニード殿下より、親書をお預かりしてまいりました」
男が差し出した封筒には、エスターニア王家の紋章が、黒い蝋で固く封じられていた。
封を切り、中にあった羊皮紙を広げる。そこには、レオニード王子のものと思われる、流麗だが、悲痛なまでに力のこもった文字が綴られていた。
『麗しの"夜空の星"、リアナ・ヴィルヘルム様。
この手紙が、貴女の目に触れていることを願う。我が父、国王陛下は、昨夜、何者かの手によって暗殺された。その首謀者は、私の兄、第一王子アルフォンスだ。彼は、大陸の闇を支配するという暗殺者ギルド『影の揺り籠』と手を組み、正統な王位継承を捻じ曲げ、この国を掌握しようとしている。
かつて憎しみに囚われた私が言うのも滑稽であろう。だが、今の私には、この国を、そして民を、兄とギルドの毒牙から守りたいという想いしかない。しかし、私の力はあまりに無力だ。衛兵も、貴族も、多くが兄とギルドの側に寝返った。このままでは、エスターニアは血みどろの内戦に陥り、ギルドの傀儡国家と成り果てるだろう。
リアナ様。貴女の知恵と、勇気と、そして仲間たちの力を、どうかお貸し願えないだろうか。これは、一国の王子としてではなく、一人の友人として、貴女に捧げる最後の望みだ』
『影の揺り籠』――その名前に、私の心臓が凍り付いた。
カレルがかつて所属し、そして彼が今も追い続けているであろう、あの巨大な闇組織。
全てのピースが、一つの禍々しい絵を形作り始める。エスターニアの内乱。暗殺者ギルド。そして、カレルの失踪。これは、偶然ではない。全ての根は、同じ場所で繋がっている。
私はすぐにミラベルとヴォルフガングに連絡を取り、状況を共有した。
「他国の内政への干渉は、主権の侵害だ。いかに緊急事態とはいえ、公式には動けん」
ヴォルフガングは、軍人として当然の懸念を口にする。
「でも、花季様…! カレルさんの…!」
ミラベルは、言葉を詰まらせながらも、私の心を正確に代弁してくれた。
そうだ。これは、エスターニアだけの問題ではない。
これは、カレルの物語に、決着をつけるための戦いだ。
そして、あの孤独な情報屋を、過去の呪縛から解き放つための、私の戦いだ。
「ヴォルフガング中佐。公式に動けないのなら、非公式に動くまでですわ」
私は、二人に向かって、きっぱりと言い放った。
「外交使節団です。エスターニア国王陛下の弔問、及び、新国王の即位に向けた祝賀使節団。その一員として、私はエスターニアへ渡ります」
「それは、王都情報調査官としての任務じゃないわ。…いいえ、それだけじゃない。これは、私が、私自身の意志で終わらせなければならない物語なのよ」
私の瞳に宿る、揺るぎない決意を見て、ヴォルフガングは深く息をつき、そして頷いた。ミラベルは、力強く私の手を握りしめてくれた。
次なる戦いの舞台は、隣国エスターニア。
私は、カレルとの再会を、そして彼との対峙を予感しながら、静かに、しかし熱く燃える闘志を胸に、異国への旅の準備を始めるのだった。




