#4 その男、故郷を想う
よろしくお願いします。
アルトは街の広場を抜け、人気のない裏通りへと足を向けた。かつてこの道を何度も通ったはずなのに、今日の景色はわずかに違って見えた。
戦う事を選び続けてきた自分の決断は、揺るぎないものだった。だが、それを問い直されたことで、今まで気にもしなかったものが目に映るようになったのかもしれない。
そんな時、路地の片隅にしゃがみ込む老人がいた。
ただの物乞いか、それとも旅の途中で行き倒れた者か——しかし、アルトは足を止めた。
その老人は、普通の者とは異なる雰囲気を纏っていた。背中を丸め、薄汚れた外套に身を包みながらも、目は鋭い光を宿している。
アルトが一歩近づくと、老人はゆっくりと顔を上げた。
「お主……"閃光"か?」
低く、しかし確信を持った声だった。
「それを知ってるってことは、ただの爺さんじゃなさそうだな」
アルトは警戒を解かず、相手の様子を窺う。
老人は口元にわずかな笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。驚くほどしっかりした動きだった。
「久しいな。お主とこうして言葉を交わせる日が来るとは思わなかった」
アルトは眉をひそめた。
「……俺を知ってるのか?」
「知っているとも。だが、わしの名を聞いても、お主には馴染みがないだろうな」
老人は袖の中から一本の短剣を取り出した。刃は鞘に収められているが、その形状には見覚えがあった。
それは、アルトが生まれ育った島に伝わる"契の短剣"——一族の長や隠れ里の守護者しか持たぬ特別な刃。
アルトの胸の奥に、微かな緊張が走った。
「お主の里は、すでに滅んだと思っていたか?」
老人の言葉に、アルトの手が無意識に腰の刀へと伸びた。
彼が旅に出た理由の一つは、まさにそれだった。故郷が襲われ、全てが焼かれたあの日。自身を鍛え上げた師も、仲間も、皆死んだものだと信じていた。
だが、目の前の男は違うと言う。
「……何が言いたい?」
アルトの声は低く、しかし内に秘めた動揺を隠せなかった。
老人は静かに頷き、背を向ける。
「ついてこい」
そう言い残し、路地の奥へと歩き出した。
アルトは一瞬、躊躇した。しかし、このまま知らないふりをすることはできない。
彼はゆっくりと足を踏み出し、老人の後を追った。
二人が辿り着いたのは、街の外れにある古びた倉庫。
木の扉を開けると、そこには埃を被った机と、いくつかの木箱が積まれていた。
老人は机の引き出しから一冊の古びた帳面を取り出し、アルトの前に置いた。
「これは?」
「お主の一族に関する記録だ」
アルトは慎重に手を伸ばし、帳面を開いた。
そこには、彼が知るはずのない名前と出来事が記されていた。
一族の戦士たちの名。
彼らが果たした役割。
そして——滅びたとされたその後の話。
「……生き残った者がいるのか?」
アルトの声には、わずかな震えがあった。
老人はゆっくりと頷いた。
「完全に滅びたわけではない。ただ、多くの者は散り散りになり、今は別々の地で生きている」
アルトは帳面の最後のページに視線を落とした。
そこには、最近の記録として、ある者の名前が書かれていた。
「この名……知っている」
それは、アルトがかつて兄のように慕っていた者の名だった。
戦乱の最中、彼は生死不明となっていたが——この記録によれば、彼はまだ生きている可能性がある。
アルトは帳面を静かに閉じた。
「どこにいる?」
老人は少し間を置いた後、低く答えた。
「西の砂漠地帯。お主と同じく、一人で戦い続けている」
アルトはゆっくりと立ち上がった。
「なら、行くしかねぇな」
街を出る準備を整えながら、アルトは思考を巡らせた。
剣を選んだ自分。
戦うことを宿命として受け入れてきた。
だが、それだけが全てではない。
失ったと思っていたものが、まだどこかに残っているのなら——
それを確かめずにはいられなかった。
西の砂漠。
かつての仲間がいるかもしれない場所へ。
アルトは足を踏み出した。
西へ向かう道は過酷だった。
街を出て数日、風景は次第に緑を失い、乾いた大地へと変わっていった。地平線の彼方には、波打つように広がる砂漠が見えた。
陽が高く昇る頃には、空気が重くなり、灼熱の光が地面を焼き付ける。アルトは歩みを緩めることなく、一定の速度で進んでいく。
砂漠地帯に入ると、風が微細な砂粒を巻き上げ、頬に当たる感触がわずかに痛みを伴う。しかし、彼はその不快さを気にすることはなかった。
彼の目的は明確だった。
かつて兄のように慕った者——生きているかもしれない仲間を探す。
それがただの幻影かもしれないとしても、確かめることなく背を向けることはできなかった。
夕暮れが近づく頃、遠くに砂岩でできた建物の影が見えた。
この砂漠地帯には、遊牧民や盗賊の集落が点在していると聞いていた。
アルトは慎重に周囲を確認しながら歩を進める。
しかし、異変に気づいたのは、その集落が近づいた時だった。
人気がない。
通常、こうした砂漠の拠点には見張りがいるはずだった。
しかし、ここには誰の気配も感じられない。
風の音だけが響き、建物の影には動くものすらない。
アルトは静かに鞘に手をかけながら、集落の中へと足を踏み入れた。
崩れかけた石造りの家々の間を進む。
地面には足跡がいくつも残っていた。しかし、それらは不自然なほど一方向に集中していた。
まるで、住人が何かに追われるように逃げたか、あるいは——
強制的に連れ去られたかのようだった。
アルトは注意深く周囲を観察しながら、一つの建物の扉を押し開けた。
中は荒れ果て、棚は倒れ、生活の痕跡だけが残っていた。
誰かがいた形跡はある。
しかし、それが突然途絶えたように見える。
アルトは床の上に落ちている小さな革袋を拾い上げた。
中には干し肉と水筒が入っていた。
途中で放棄されたにしては、あまりにも真新しいものだった。
「何があった?」
独り言のように呟きながら、さらに奥へと進んだ。
やがて、集落の中央にある広場にたどり着く。
そこで、アルトは異様なものを目にした。
地面に大きな円形の跡が刻まれている。
それは、まるで巨大な何かがここに降り立ち、地をえぐったような形をしていた。
円の中心には、黒く焦げた跡があり、そこだけ異様なほど空気が重かった。
アルトは足元の砂をすくい上げた。
細かい粒子がさらさらと指の間をすり抜ける。
だが、わずかに混じる黒い砂は、ただの砂ではなかった。
「魔素……?」
それは、強い魔力を持つ者が力を放った後に残るものだった。
何者かが、この地で強大な魔法を行使した——それが人為的なものか、あるいは別の存在によるものかは分からない。
ただ、ここで何かが起こり、住人は姿を消した。
アルトは広場を見渡しながら、ふと地平線の向こうに目を向けた。
砂漠の先に、黒い塔のようなものが立っているのが見えた。
それは異質だった。
砂の中に埋もれるようにして立ち、建造物というよりは、自然の地形の一部のようにも見えた。
しかし、それにしてはあまりにも不自然な形をしている。
アルトは考えた。
住人が消えたことと、あの塔の存在には何かしらの関係があるのではないか。
直感が告げていた。
あそこに行けば、何かが分かる。
アルトは再び歩き出した。
乾いた風が砂を巻き上げ、黒い塔の影が、徐々にその姿を大きくしていく。
塔に近づくにつれ、周囲の気温が変化しているのを感じた。
砂漠の熱気が薄れ、冷たさを含んだ風が肌を撫でる。
それは、通常の砂漠ではありえない現象だった。
塔の表面は黒曜石のように滑らかで、太陽の光を吸収するように闇を帯びていた。
扉のようなものは見当たらない。
ただ、一箇所だけ、わずかに表面が歪んでいる部分があった。
アルトはそこに手をかざす。
すると、空間が微かに揺れ、目の前に小さな隙間が生じた。
まるで、"迎え入れる"かのように。
「……中に何がある?」
アルトは刀の柄を軽く叩き、深く息を吐く。
そして、一歩踏み出した。
黒い闇が彼を包み込み、塔の中へと導いていく。
塔の内部は、外観からは想像もつかないほど広大だった。
壁は黒曜石のように輝き、天井はどこまでも高く、奥行きの感覚すら狂うような空間が広がっている。
不自然なほど静かだった。
しかし、その静寂の中で、アルトは確かに"何か"の気配を感じた。
それは人のものではない。
敵意とも異なるが、こちらを"観察している"ような感覚。
まるで、この場所そのものが"意思"を持っているかのようだった。
アルトは慎重に歩を進める。
奥へ進むにつれ、空間の歪みが増していく。
壁が波打つように揺らぎ、現実と幻が交錯する。
そして、広間の中央にたどり着いた時——
そこには、一人の男が立っていた。
その背中は見覚えがあった。
だが、アルトはすぐに理解する。
目の前にいるのは、"かつての仲間"ではない。
そこに立つのは、何か別のものだった。
「……お前は誰だ?」
アルトが問いかけると、男はゆっくりと振り向き。
そして、僅かに微笑みながら、静かに口を開いた。
「久しいな、アルト」
その声は、かつて聞いたはずのものだった。
アルトは目の前の男をじっと見つめる。
その顔立ちは、確かにかつての仲間のものだった。だが、目の奥には異様な光が宿り、その微笑みはどこか人間らしい感情が欠けている。
「……レオン、なのか?」
アルトは慎重に言葉を選びながら問いかけた。
男はゆっくりと首を傾け、まるでその名前を懐かしむように小さく呟く。
「レオン……そう呼ばれていたこともあったな」
その答えに、アルトの背筋が冷たくなった。
目の前に立つ者は、確かにレオンの姿をしている。だが、それは彼が知っていた人物ではない。
アルトはゆっくりと刀に手を添えた。
「お前は……何者だ?」
男——レオンと名乗るものは、軽く肩をすくめる仕草を見せた。
「それをお前が決めるといい。私はレオンだったかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、確かに私はここにいる」
彼の言葉は、あまりに曖昧だった。
アルトは目の前の存在が何を企んでいるのか測りかねた。
そして、気づいた。
塔の内部が、先ほどよりも変化している。
黒曜石のように滑らかだった壁が、まるで生き物のようにわずかに脈動しているように見える。
それは呼吸のようでもあり、何かの意志が働いているかのようでもあった。
まるで、この空間そのものが、レオンと同化しているかのように——
「お前がここにいる理由は何だ?」
アルトは冷静に問いかけた。
レオンはゆっくりと手を広げると、周囲を見渡すように視線を巡らせる。
「アルト、お前はこの塔を何だと思う?」
「……ただの遺跡ではないことは分かっている」
その言葉に、レオンはわずかに笑みを深めた。
「これは塔ではない。これは……"門"だ」
その言葉に、アルトの心臓が一瞬止まるような感覚に襲われた。
"門"。
それが意味するものが、すぐに理解できた。
この世界にはいくつかの"門"が存在すると伝えられている。
それは異世界と繋がる境界であり、太古の時代には人と異形のものが交わる場所だったという。
そして、その"門"の力を扱える者は限られている。
人ならざる者——すなわち、神か、それに等しい存在。
「まさか、お前……」
「そう。私は"門"に選ばれた者だ」
レオンはその言葉を、まるで当然かのように言い放つ。
しかし、アルトには受け入れがたい現実だった。
かつて人間だった者が、"門"の力を手にしたとき、何が起こるのか——
それはもはや、人のままではいられないということを意味していた。
「レオン、お前は……何をしようとしている?」
アルトは相手の意図を見極めようとした。
レオンはしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「この世界を"門"の向こうへと繋ぐ。いや、正確には"統合"する」
その言葉に、アルトの中で戦慄が走った。
「お前……本気で言っているのか?」
「もちろんだ」
レオンの声は揺らぎもなく、まるでそれが当然の成り行きであるかのように響いた。
「この世界は不完全だ。かつて門が閉ざされ、世界は縮小した。我々が知るこの世界は、"かつてあった広大な領域"のほんの一部に過ぎない」
彼の言葉が示唆するものを、アルトは理解した。
門が開かれたとき、世界は拡張する。
だが、それは単なる拡張ではない。
"門の向こう側"にある存在と、この世界の融合を意味している。
もしそうなれば——
この世界は、もはや"人の世界"ではなくなる。
「それを……許すわけにはいかない」
アルトは刀を抜く。
レオンはその様子を見て、僅かに微笑む。
「やはり、お前はそうするか」
「お前がレオンなら、こんなことはしなかったはずだ」
「そうかもしれない。だが、私はレオンであり、レオンではない」
その言葉が最後の合図だった。
レオンの背後にある黒い空間が歪み、そこから無数の影が溢れ出す。
それは人の形をしているが、明らかに異質な存在。
アルトは剣を構え、静かに息を整える。
もはや言葉は不要だった。
彼は、この場で決着をつけなければならない。
レオンが"門の向こう側の存在"になってしまう前に——
そして、この世界が"門の支配下"に置かれる前に——
アルトは地面を蹴り、最初の一撃を放った。
刃が光を反射しながら、闇の中へと切り込んでいく。
その瞬間、塔の内部が大きく揺れ、空間そのものが変質していくのを感じた。
最後まで読んでくださりありがとうございました。