#2 その男、影に触れる
よろしくお願いします。
魔王の眷属を討ち果たした閃光の名は、瞬く間に王都中へと広まり、王都のギルドでは、冒険者たちがその話題で持ちきりだった。
「聞いたか? 閃光が魔王の眷属をたった一太刀で両断したらしい」
「やべぇな……魔王の眷属って言やぁ、国が戦争しても勝てねぇような連中だろ?」
「アイツ、本当に人間なのか?」
どこへ行っても、酒場でも市場でも、アルトの武勇伝は語り継がれていた。
しかし——
その話を黙って聞いていた者がいた。
王都の片隅、薄暗い路地裏。
フードを深く被った人物が、一人つぶやく。
「閃光か……興味深い」
彼の手には、一枚の古びた羊皮紙が握られていた。そこには、アルトの姿とともに、こう書かれていた。
——"討伐対象"
一方、当の本人であるアルトはというと、王都の郊外をぶらぶらと歩いていた。
「ふぅ……ちっとはのんびりできるかと思ったが、そうもいかねぇか」
どこへ行っても自分の噂話ばかり。どこかの王族や貴族に招かれる前に、さっさと別の場所へ移動しようと考えていた。
「さて、次はどこへ向かうかな」
アルトは腰の刀に手をかけながら、王都の門へと向かっていた。
だが——
「——閃光のアルト」
背後から、冷たい声が響いた。
アルトは軽く首を傾げ、その声の主を振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
男は痩せぎすの体にローブを纏い、腰には奇妙な形の長剣を携えていた。
細身の剣士特有のしなやかな立ち姿。
そして——その瞳には、獲物を狙う捕食者の冷たい光が宿っていた。
「お前、何者だ?」
アルトが問うと、男は微笑を浮かべながら答えた。
「俺か? そうだな……世間では死神の傭兵と呼ばれている」
死神の傭兵の噂は、アルトのような放浪の戦士とは違う形で語られていた。
「狙った獲物は必ず殺す」
「暗殺すらも一瞬で終わらせる剣士」
「そして……彼に狙われた者は、生きて帰ったことがない」
それが死神の傭兵の異名の由来だった。
「へぇ……で、その死神さんが俺に何の用だ?」
アルトは相変わらず飄々とした態度を崩さない。
男は静かに剣を抜きながら言った。
「お前の首に賞金がかかっている」
その言葉に、周囲の空気が一気に張り詰めた。
「帝国直属の秘密部隊からの依頼だ。閃光のアルト……ここで死んでもらう」
次の瞬間——
死神の傭兵の姿が消えた。
「おっと」
アルトはわずかに体をずらす。
次の瞬間、彼がいた場所を死神の傭兵の剣が切り裂いていた。
「へぇ……速ぇじゃねぇか」
アルトは余裕の表情で男を見つめる。
だが、死神の傭兵もまた笑っていた。
「お前もな」
その言葉と共に、男の剣が再び襲いかかる。
凄まじい速度で繰り出される連撃。
しかし——
「……遅ぇよ」
アルトはすべての攻撃を紙一重でかわし続けていた。
「なるほどな……こりゃあ、今までの相手とは違うかもな」
アルトは楽しそうに微笑み、ゆっくりと鯉口を切る。
「だが——結局、結果は変わらねぇ」
次の瞬間——
一筋の光が走った。
死神の傭兵の腕から、鮮血が噴き出す。
「……ぐっ!」
男は慌てて後方へ跳躍し、距離を取る。
しかし、アルトはすでに彼の背後にいた。
「お前、ちっとは楽しませてくれると思ったんだけどな」
男の首筋に、すでにアルトの刀が当てられていた。
死神の傭兵は息を飲む。
彼の剣速は、これまでの戦いで敗北を知らなかった。
それを——
たった一閃で超えてきた男が目の前にいる。
「……化け物が」
死神の傭兵は、震えながらつぶやいた。
「悪いな」
アルトは刀を振り下ろした。
死神の傭兵の体が、その場に崩れ落ちた。
「ふぅ……」
アルトは血を払うと、鞘に刀を収めた。
しかし——
彼はすぐに周囲に漂う異様な気配を察知した。
誰かが見ている。
「……さて、今度はどんな奴が相手かね」
アルトは再び鼻唄を歌いながら、王都を後にする。
アルトは森を抜け、広大な草原を歩いていた。
夜空には無数の星が瞬き、遠くには次の街の灯りが見えている。
「帝国の連中も、そろそろ諦めるかと思ったが……しつこいもんだな」
帝国が次々と送り込んでくる刺客を退けるのも、もはや日常の一部になっていた。
どれだけ斬り伏せても、彼を狙う手は途切れない。
しかし、剣士としての腕を鈍らせぬためにも、強敵との戦いはむしろ望むところだった。
「さて、次の街では少しゆっくりしたいもんだな」
そう呟きながら歩を進める。
街の門を抜けると、すでに夜も更けていた。
昼間は賑わっていたであろう通りも、今は静かで、灯りがわずかに揺らめいている。
アルトは適当に酒場を見つけ、中へと入った。
中には数人の客がいるだけで、カウンターの奥には老齢の店主が黙々と酒を注いでいた。
「酒と簡単なつまみを頼む」
アルトが席に着くと、すぐに注文したものが出された。
久しぶりにゆっくりと酒を飲み、疲れを癒そうとしたその時、一人の男が店に入ってきた。
背が高く、見慣れない帽子を被っている。
腰には長い剣が下げられていた。
「ここに閃光と呼ばれる剣士がいると聞いたが……」
店の空気が一瞬で緊張に包まれる。
アルトは酒を飲み干し、ゆっくりと杯を置いた。
「それは俺のことか?」
男は無言のままアルトを見つめる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「俺は異国の剣士。お前と手合わせを願いたい」
「へぇ……いきなり勝負か」
「ただ、俺自身が閃光相手にどれほどの剣士なのか、確かめる必要がある」
アルトは興味深げにその男を見つめる。
帝国の連中のように命を狙うわけでもなく、純粋に剣の腕を試そうとしているようだった。
「面白いな」
アルトは立ち上がり、店の外へと向かった。
街の外れにある広場。
二人の剣士が向かい合う。
月の光だけが彼らを照らし、夜風が静かに吹いている。
「名を聞いておこうか」
アルトが尋ねると、男は答えた。
「ヴァルド。故郷を捨て、剣を極めるために旅をしている者だ」
「なるほどな」
アルトは軽く鞘に手をかける。
「では、始めようか」
ヴァルドもまた剣を抜く。
次の瞬間、二人は同時に踏み込んだ。
ヴァルドの剣筋は、これまで戦ったどの相手とも違っていた。
一つひとつの動きに無駄がなく、流れるような美しさがあった。
アルトは紙一重で攻撃を避けながら、逆に反撃の隙を探る。
しかし、ヴァルドはそれすらも読んでいるかのように、すぐさま次の動作へと移る。
「なるほど……これは面白いな」
アルトは軽く笑いながら、さらに踏み込む。
二人の剣は交差し、わずかに火花を散らす。
ヴァルドは剣を巧みに操り、アルトの攻撃を防ぐ。
「ここまでの相手は久しぶりだ」
「俺も同じだ」
互いに一歩も引かぬまま、応酬が続く
数分が経過した後、アルトは僅かに動きを変えた。
ヴァルドの攻撃の流れを読み、最小限の動きで躱しながら、刀を振るう。
ヴァルドの剣が止まる。
アルトの刃が、彼の首元に触れていた。
わずかに間合いを狂わせることで、相手の動きを封じたのだ。
ヴァルドは静かに剣を下ろし、笑みを浮かべる。
「完敗だ」
アルトもまた刀を収めた。
「いい勝負だったな」
「確かに。これほどの剣士と戦えたのは、俺の旅の中でも数少ない機会だ」
ヴァルドはアルトをじっと見つめる。
「お前の剣には何かがある。ただ強いだけではない……それが何なのか、俺にはまだ分からない」
「俺も知らねぇよ。ただ、剣を振るって生きてるだけさ」
ヴァルドは納得したように頷く。
「このまま旅を続けるのか?」
「そうするつもりだ。行く宛てもねぇがな」
「ならば、いずれまた会うこともあるかもしれんな」
「かもな」
ヴァルドは背を向け、街の外へと去っていった。
アルトはその背を見送りながら、再び酒場へと戻る。
宿に戻り、床につく。
これまでの戦いとは違う、純粋な剣の語らい。
それは久しく味わっていなかった感覚だった。
「たまには、こういうのも悪くねぇな」
そう呟きながら、静かに眠りについた。
翌朝、アルトは陽が昇るよりも早く目を覚ました。
昨夜の剣士ヴァルドとの戦いが脳裏に残っていたからだ。
宿を出ると、街の空気がどこかざわついているのに気づく。
市場の通りでは、商人たちが慌ただしく品物を片付けていた。
住民たちは小声で何かを話し合い、不安げな表情を浮かべている。
「何かあったのか?」
アルトが露店の店主に声をかけると、男は眉をひそめながら答えた。
「昨夜、この街の貴族の屋敷で事件が起きたらしい。何者かに襲われて、一家全員が殺されたそうだ」
「襲撃か」
「それだけじゃない。遺体はどれも不可解な状態だったらしい……まるで魂を抜かれたように、皮膚が灰色に変わり、表情は苦悶に満ちていたそうだ」
アルトはわずかに目を細めた。
これまで戦ってきた刺客や暗殺者の仕業とは思えない。
剣による攻撃ではなく、何か異質な力が働いた気配を感じる。
「犯人の目星はついているのか?」
「それが……目撃情報では、昨夜遅くに街へ入ってきた外套の男が怪しいらしい。けれど、そいつの姿は事件後、どこにも見当たらない」
「外套の男、ね」
アルトは昨夜のことを思い返す。ヴァルドとは剣を交えたが、彼にそんな術を使えるような雰囲気はなかった。ならば、別の誰かがこの街に潜んでいるということだ。
「面白い」
そう呟くと、アルトは足を踏み出した。
貴族の屋敷跡へ向かうと、すでに多くの人々が集まり、王都から派遣された騎士たちが調査を進めていた。
門の前で警備をしていた若い騎士が、アルトの姿を見ると警戒の色を見せた。
「立ち入りは禁止されている。事件の関係者か?」
「関係者じゃねぇが、気になることがあってな。どんな状況だったのかだけでも教えてくれねぇか?」
若い騎士は躊躇したが、アルトの態度が真剣なものだと察すると、静かに答えた。
「被害者たちは一様に衰弱しきったような姿だった。まるで生命そのものを吸い取られたかのように、干からびていたという報告がある」
「干からびていた……?」
「そうだ。そして、奇妙なことに、屋敷の中には一滴の血も残されていなかった」
アルトは短く息を吐いた。
斬撃や魔法での攻撃ではなく、何らかの異能力を持った者の仕業である可能性が高い。
「それで、犯人の手がかりは?」
「外套の男が昨夜街に入ったという情報があるが、今のところ所在は不明だ」
アルトは少し考えた後、静かに口を開く。
「そいつを見つける必要がありそうだな」
事件の匂いをたどるように、アルトは街の外れへ向かった。
貴族の屋敷から続く裏道は、ほとんど人が通らない静かな場所だった。
古い倉庫や使われなくなった厩舎が並び、朽ちた建物の影が長く伸びている。
その奥で、何かが蠢いていた。
アルトは足を止め、視線を向ける。
そこには、全身を外套で覆った男が立っていた。
しかし、男の動きは異様だった。
身体の一部が揺らぐように波打ち、まるで影そのものが意思を持っているかのように見えた。
「お前が昨夜の犯人か?」
アルトの問いかけに、外套の男は静かに顔を上げる。
その瞳は人間のものではなく、闇に飲まれたような深淵の色をしていた。
「閃光のアルト……ようやく出てきたか」
低く、異様な響きを持つ声が夜の空気に溶ける。
アルトは僅かに刀の鞘を押し上げ、警戒を強めた。
「俺を探していたってことは……帝国の連中の差し金か?」
「違う」
外套の男は、ゆっくりとその布を剥がした。
そこに現れたのは、人間ではなかった。
黒い霧のようなものが全身を包み、その身体は形を持ちながらも不定形に揺らめいている。
「我は影喰い……存在する者の生命を喰らい、その記憶を奪うもの」
「……影喰い?」
「お前の力を試しに来た」
次の瞬間、影喰いの姿が歪む。
人間の形をしていたはずの身体が変化し、アルトと同じ形を取った。
「お前の剣技……我が喰らい、再現する」
アルトは眉をひそめながら、わずかに笑みを浮かべる。
「俺の剣を真似るだと? そりゃあ、面白ぇな」
影喰いは、その手にアルトの刀と寸分違わぬ形の影の刃を生み出した。
「では、試させてもらう……閃光の剣を」
影喰いが生み出した刃は、正しくアルトの刀だった。
しかし、それはただの模倣ではない。
ただ形を似せただけの偽物とは異なり、影の刃はまるで意思を持っているかのように微細に揺らぎ、空間そのものと同化しようとしていた。
アルトは相手の構えを見ながら、ほんのわずかに表情を引き締める。
「俺の剣を再現したつもりか……面白いな」
影喰いは無言のまま、ただ静かに距離を詰めてくる。
その動きは一切の無駄がなく、まるで影そのものが滑るように移動しているように見えた。
アルトは目を細めながら、鞘に収めた刀をわずかに押し上げる。
「じゃあ、試してみるか」
影喰いが踏み込み、刃を振るった。
アルトもまた、一瞬の間を置いて抜刀する。
二本の刃が交差し、力が拮抗する。
しかし、アルトはすぐに違和感を覚えた。
手ごたえが、まるでない。
影の刃は硬質な感触を持っているはずなのに、衝撃が伝わらない。
まるで空を切っているかのように、刀が相手の武器をすり抜けた。
アルトは即座に身を引くが、その刹那、影喰いの刃が逆方向から迫ってきた。
直感的に危険を察知し、身を翻す。
影喰いの攻撃は、まるで時間差で発生しているかのように、通常の剣技ではありえない軌道を描いていた。
「なるほどな……ただの模倣じゃないってわけか」
アルトは警戒を強めながら、相手の動きを見極めようとする。
影喰いは再び間合いを詰め、刃を振るう。
その攻撃は、まるでアルト自身が過去に放った攻撃そのものだった。
「俺の剣技を記憶して、後から再現する……そういうことか」
影喰いは何も答えず、淡々と剣を振るい続ける。
しかし、アルトはすでに気づいていた。
この敵は、完璧に技を模倣しているように見えて、決定的な違いがあった。
アルトは影喰いの刃をいなしながら、ゆっくりと口を開く。
「お前……俺の剣を再現できてるつもりかもしれねぇが、肝心なところが抜けてるな」
影喰いは微動だにせず、次の攻撃へ移ろうとしていた。
しかし、アルトは攻撃を仕掛けず、ただ相手の剣の軌道を見つめていた。
次の瞬間、影喰いの刃が振り下ろされる。
それに対し、アルトは何の抵抗もせず、ただ刀を鞘に戻した。
そのまま影の刃を避けることなく、わずかに身を傾けながら受け流す。
影の刃は確かにアルトの身体をかすめたはずだったが、彼の表情はまったく揺らいでいない。
そして、アルトは静かに笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「お前に足りねぇのは"迷い"だ」
影喰いの動きが止まる。
アルトはゆっくりと歩み寄る。
「剣ってのはな、ただ型を真似りゃいいってもんじゃねぇんだよ。そこに何を想って振るうかが大事だ」
影喰いの身体が、僅かに揺らぐ。
「俺の剣がただの技じゃねぇってこと、そろそろ気づいたんじゃねぇか?」
影喰いの刃が震え始める。
その形状が次第に不安定になり、闇の霧が立ち上るように崩れていく。
アルトは目の前の敵を静かに見据えた。
「お前が喰ったのは、ただの"形"だけだ。剣はそれだけじゃねぇ」
影喰いの身体が、少しずつ消え始める。
自身の存在を否定され、崩壊していくように。
「……我は……何を……?」
影喰いの声がかすれ、やがてその姿は完全に消滅した。
アルトは一度大きく息を吐き、刀の柄を軽く叩く。
「奇妙な相手だったな……」
これまで戦ってきたのは、明確な敵意を持つ刺客や剣士だった。
しかし、影喰いは違う。
あれは"意志"ではなく、ただ"何かを模倣する"存在だった。
まるで、命そのものの本質を理解できないまま、ただ強者の力をなぞろうとしているようだった。
アルトは考え込む。
「……影喰い、か」
帝国の陰謀とは違う、別の何かが動き始めている気がした。
「……どうするかね」
アルトは夜空を見上げながら、再び歩き出した。
最後まで読んでくださりありがとうございました。