無表情
今日もまた美しいその男は私に会いに来た。彼は私と密着するような距離に座り、私の顔を覗き込む。
「鈴。お前は本当に美しいな」
かつての推しが私のためにそんなことを言ってくれると思うと、とても感慨深いのだけれど、今世の私には残念ながらその言葉は恐怖にしかならない。
「ありがとうございます。……少し離れてくださいませんか」
私はちょうど空いた食器を見つけて、それを下げるふりをしながら朱雀から離れようとした。が、彼は立ち上がりかけた私の腰を抱き寄せると、持っていた食器を元の位置に戻してしまう。
「相変わらずつれないな。もっと素直になればよいものを」
彼に気づかれないように顔を背けてから、私は小さくため息をつく。素直になって良いのなら、「もう会いに来ないでください」と言いたいのをなんとか飲み込んだ。
あの最悪な出会いから二週間。この男は残念なことに本当に私に会いに花街にやってきた。それも一度や二度のことではない。
たった二週間の間に、私はもう八回もこの男に会っている。あまりの頻度に私は怯えるやら、困惑するやら——本音を言うと、若干引いていた。芸者としてデビューしてはや三年だが、こんな頻度で会いに来る人に出会ったのはさすがに初めてだった。
「私を呼ぶのってそんなに安くないと思うんだけど、破産しないのかしら。……しないんだろうな。あの人の実家、お金あるもの」
「鈴、かわいそうに。最近愚痴の頻度が多いね。鈴がいないとその分置屋が回らないから、負担が全部僕にきて、それもそれで辛いんだけど」
花街は祭りが近いこともあって、何かと忙しい。黎も準備にひっきりなしで、こまごまとした家事が後回しにされているのを最近はよく見かけた。
「……今日は何枚皿が割れたのかしら」
私がにっこりと微笑んで言えば、黎もまた作った笑顔を私に向けた。
「五枚」
予想以上の枚数だった。姐さんたちはまだお座敷に出ているだろうし、女将さんは祭に向けた仕事がたくさんあって手一杯。まだ修行中の妹たちが家事を担うのは当然と言えば当然だけれど、損害が多すぎる。
できるだけ早く帰って色々と手伝いたいと思うのに、朱雀は今日もまたなかなか私を離してくれず、すっかりこんな遅くになってしまった。私の帰りが予定よりも大分遅くなったのを心配して迎えに来てくれた黎とお互いに愚痴をこぼしながら、私たちはお座敷からの帰り道を歩く。
「これだけ短期間に通いつめるのはもちろん怖いけど、それに加えて距離感が近いのも怖いのよ。……というか、ヒロインがかわいそう」
あんなに可愛い婚約者がいながら、芸者のもとに通うなんて朱雀の行動は信じられない。
「そういえば、そろそろ朱雀の花街通いを知るイベントが起きる頃なのではないかしら。はやく弁解をしに行きたいわ」
「鈴ってば、もう説明じゃなくて弁解って言っちゃってる……でもいつもこんなに帰りが遅くなるのはちょっと困るね。『こうも毎日だと鈴も疲れているでしょう』って女将さんが心配してたよ」
黎が言うのを聞いて、ふと気づく。
「なるほど、だから黎は最近いつも迎えに来てくれてたのね。暗い道も黎が一緒なら心強いわ。でも我慢しすぎないでよ。私の世話ばかりしていなくて良いのよ」
確かに黎が一緒にいれば安心だけれど、彼の負担を考えると一人で歩くことは全く苦ではない。「次は一人で帰るから迎えに来てくれなくて大丈夫よ」と伝えようと、私が口を開くよりも前に、
「いや、我慢はしていないけど」
と黎は言った。……本当だろうか。これで実は仕事量を増やしている私のことを恨んでいました、なんてことだったら目も当てられない。
私たちは良い意味でお互いに気を使わずに一緒にいられる間柄だけど、もしかしたらそう思っているのは私だけで、黎の方は私の行動が度々ストレスになっているのではないだろうかと少し心配になる。
「本当の本当に大丈夫? ……なんなら私のこと嫌ってくれても良いのよ。私、黎になら悪口を言われたり意地悪されたりしたって耐えられるもの……もちろん、ちょっとは悲しいけれど」
「嫌ってない、知ってるでしょ。というか、本気? そんなこと言うなんてちょっと酷くない?」
そんな黎の声が少し遠くから聞こえたことに気づいて、彼が立ち止まっていたことを知る。仕方がないから私も立ち止まって後ろを振り向くと、彼は恐ろしいほどの無表情で私を見つめていた。
黎のこの表情を見ると、私はいつも幼い頃の彼を思い出す。今となっては、彼は基本的にはくるくるとよく表情を変えるけれど、昔は何を考えているのか本当に読み取れないほどの無表情だった……そう、丁度今の彼のように。
「ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったんだけど、確かにちょっと酷いことを言ったわ。ただ、黎が心配だっただけなの。何かあったらなんでも相談してね」
彼の無表情をどうにかしたくて、私は黎の手に自分の手を重ねるとにっこりと微笑んだ。残念なことに黎は笑い返してはくれない。
「相談ね……」
私を見ていた黎は、繋がれた手に目線を落としてから、呟くように言った。
「ちょっとだけ羨ましい、かな」
彼の言葉の意味がよく分からない。
「羨ましい? 何が羨ましいの?」
「……朱雀のことが、少しだけ、羨ましい」
「朱雀が? どうして?」
思いもよらないことを言われて、私は首を傾げる。
「客なら、鈴のことを好きにできて、近づけるんだろうなって思って」
朱雀とのお座敷を思い出す。黎の言う『好きにできる』が具体的にどんなことを指しているのかはよく分からないから判断できないけれど、近い距離にいたことは確かだ。
「いや、度を越えたらやんわり止めるけど……なに、そんなことを羨ましいなんて言ったの?」
黎が朱雀を羨ましいというのが不思議だ。私たちだって、たった今、現在進行形で手を繋いでいるじゃない。さすがにこんな道の途中では人の目があるからできないけれど、置屋に戻ってからでよければ、『近づく』どころか黎が望むなら抱きしめてあげても良い。間違いなく一介の客と私の距離感よりは黎と私の距離感の方が近い。
「いけない? 最近お互いに忙しくて全然休みもないし、二人きりでいる時間がほとんどないから、ちょっと思っただけ」
確かにここ最近は休みがすれ違うことも多かった。でも。
「私たち、仕事だとしても結局一緒にいることが多いじゃない」
置屋での家事や妹たちの世話は言わずもがな、お座敷への行き帰りの時だって、稽古場に行く時だって、必要ないと言っても自分から付いてくる人が何を言っているのか。
「そうだけど、そうじゃないというか」
しばらくお互いに何も言わずにいたけれど、無音に耐えられなくなってきた私は空気を変えるためにわざと明るく声をかけた。
「黎、疲れているんじゃないの?」
「……ああ、うん。そうだね、そうかも。ごめん、変なこと言った。忘れて」
私の調子に黎が乗ってくれたおかげで、気まずかった雰囲気が変わる。
「謝らなくて良いのよ。私も今日は疲れたし、早く帰りましょう」
互いにいつもの調子を取り戻した私たちは、今度はなんてことのない世間話を交わしながら帰路を急ぐ。互いにお腹がすいていたせいか、話は次第に食事の方向に傾きだした。
「時々パンやケーキ、カレーやオムライスが食べたくて仕方なくなるのよ。ああ、給食の揚げパンが食べたい」
いくら前世から和食好きだったと言っても、私は普通の女子高生らしく世界各国の料理も食べてきたのだ。たまに無性に洋食が食べたくて仕方なくなる。
「鈴は時々『パンが食べたい』って言うよね。特に朝に」
「私は、朝はどちらかというとパン派だったのよ」
パンとジャムとバター、スープとスクランブルエッグ、飲み物はリンゴジュースが良い。デザートに時々ヨーグルト。ああ、考えるだけでなんて最高の朝ごはんだろう。
「パンって、どうやって作るの?」
味や形状より先に作り方が気になる辺りが、黎らしい。
「えっと、多分小麦からかな。この世界にもうどんはあるから、多分小麦は栽培されてるのよね。あれ、じゃあもしかしたら作れる……いや、ダメだ。イースト菌が必要なのよ。あれがないと膨らまないの。それに、そもそも材料が揃ったって、私は作り方を知らないから、分量が分からなくて作れないわ」
おぼろげな記憶を辿ってパンの作り方を思い出そうとするけれど、よく分からない。小学生の頃に、お料理教室みたいなところで一度だけ生地から作ったことはあるはずなのだけど。
「じゃあ、さっき言ってたカレーライスは?」
今度はさすがに分かる。私はカレーの作り方を、野菜を切るところから説明しながら、頭の中で、黎が言った『羨ましい』という言葉を思い出した。さっきは反応に困って、なんとなく流してしまったけれど、そもそも『なんでも相談して』と言ったのは私だ。朱雀が羨ましいというのはちょっと私には理解できない。でもきっとこれは、黎の本心の言葉だったに違いない。黎は『二人きりでいる時間がほとんどない』と言っていた。それなら、私が黎と二人きりでいられれば、彼は満足するのだろうか。
「それでね、最後にカレールーを入れるの」
そんなことをぐるぐると考えながらも、私はカレーの説明を最後まで話し終えた。
「ここまで知っている食材ばっかり出てきたから作れそうだと思ってたのに、最後に聞いたことないものが出てきちゃった……」
私は黎の言葉に思い切り頷いてから、辿り着いていた置屋の裏口を開く。
「そうなの。カレールーを入れない限りカレーにはならないし、私はカレールーが何で出来ていたのかよく知らないわ。だから、この世界でカレーは食べられないのよ……」
ちなみに同様の理由からシチューも食べられないし、ハッシュドビーフもハヤシライスも食べられない。
「多分、色々なスパイスを入れたら出来るんだろうけど、何が必要か知らないし、この世界に揃っているとも思えない。今なら分かるわ。カレールーを作り出した人は偉大よ」
下駄を脱いで廊下に上がると、妹たちがいる部屋の灯りがすでに消えているのを見て、できるだけ声を潜めて言った。
私は今カレーが食べたくて仕方がなかったけれど、そんなことを言っても出てくるわけではないから、大人しくいつも通り一度自室に寄って荷物を置いてから居間へ向かった。そこには予想通り、私たちがお座敷の合間につまめるようにと女将さんが作り置いてくれている軽食が並んでいる。
「……私、洋食も好きだったけど、今一番好きなのはこうして全部仕事が終わった後の真夜中に食べる女将さんの料理かもしれないわ」
私に続いて居間に入ってきた黎が、黎が神妙に頷いたのが、何だかおかしい。
私は彼が居間の襖を閉め切ったのを見届けてから、両手を広げた。
「おいで」
「良いの?」
「ええ、もちろん」
黎は一瞬だけ迷ったようだったけれど、結局そのまま私に近づいて抱きしめてくれた。
「大好き、鈴」
私は黎を抱きしめ返す。
「はいはい、知ってるわ。私も好きよ」
その時、裏口の扉を開くガラガラという音が聞こえた。
「お姐さまがたのお帰りみたいね。私、お出迎えに行くから、黎はお茶の用意をしておいて。姐さんたちも軽食を食べるかもしれないし」
彼は名残惜しそうな表情で私から離れた。襖を開けながら部屋を何気なく振り返ると、黎は言われた通りにお茶の準備を始めている。
「いつも頼りにしてるのよ。本当に」
「……うん。ありがとう」
黎が言っていた『羨ましい』を解消するには、どこまでしてあげたら良いのだろうと私は少し悩ましく思った。