悪女
次の日、さくらさんは珍しく朝早くに置屋を訪ねてきた。
「すみません、こんな時間に」
「大丈夫よ、稽古場に行くまではまだ時間があるから」
裏口の外、眩しい朝日の下で、立ち話を交わす。
「昨日鈴さんに助言してもらったのもあって、帰ってからしっかりとお父様と話し合ったんです。少し怖かったけど、家業のこととか、お母様のこととか、わたしの人生とか、私が前から言いたかったこと、全部言えました。お父様は、はじめは難しい顔をしていらしたけど、わたしが言いたいことは分かっていただけたみたい。『さくらは思っていたよりも大人だったんだな』と言われたの。婚約破棄についても承知してもらいました。実はお父様も、朱雀さまにはそんなに良い印象はなかったみたい。元々、わたしが嫌がったら破談にする予定だったらしいです。——わたし、そんなこと知らなかったから。わたしの意志で断って良いことではないなんて、どこかで思い込んでしまっていて」
さくらさんはどこか少し早口に言い切った。
「そう! 良かったわ」
彼女の喜びが、全身から伝わって来る。私はまるで自分のことのように、明るい気持ちになった。友人が喜んでいる姿をみるのは、私にとっても嬉しい。
「自分の気持ちってきちんと言っていかないと、行き違いが起こるんですね。——言って良かったんだわ。抑えつけていたのは私の方だったのかも」
満面の笑みを見せる彼女は、とても綺麗だった。
今日は舞の稽古が久しぶりにあまりうまくいかなかった。師匠もヒートアップしているのか、そんなところまで誰が気づくかと言いたくなるような細かい動きを徹底的に直された。
「ただいま帰りました」
「鈴、お帰りなさい」
女将さんの声が聞こえてほっと息をつく。裏口の戸をあけて廊下の奥を見ると、そこには数日ぶりに台所に立つ女将さんの姿が見えた。
「今日はさすがに鈴も遅かったわね。お手伝いはいいからお座敷が始まるまでちょっと休憩していらっしゃい」
女将さんの気遣いに頭を下げながら、私はどの部屋へ行こうか考える。居間は皆がいるから楽しいけれどあまり休めないかもしれない。自室で静かに過ごすのも良いけれど、これは反対に寂しすぎる。迷った私の足は、やっぱりある部屋の前で止まった。
「黎、入っても良い?」
こうして声をかけると、どうしたって小さな頃を思い出す。昔はこんな風に声をかけることもなくお互いの部屋に入り浸っていた。いつからだろう、さすがに勝手に異性の部屋に無遠慮に入るのはどうだろうかと躊躇するようになったのは。
「どうぞ」
聞きなれた声に、遠くへ行きかけていた思考が戻って来る。
「お帰りなさい。今日はどうだった」
「……散々よ。指先の角度がたったの五ミリ違っただけで、私は何時間もお説教だったのよ。そりゃあ、私よりずっと上手な方ですもの、アドバイスは普段から素直に受け入れるように努力しているけど、五ミリよ、五ミリ。もはや狂気だわ」
襖を閉めて、床に置いてあった座布団に座る。黎は少し離れたところに置いてあった座布団を持ってきて、私の隣に座った。黎はこういうときに私の隣を選びがちだ。普通は向き合うように座る人が多いと思う。彼の行動は、こうして時折大多数が選ぶスタンダードからずれるのだ。私はその些細なずれに黎らしさを感じて微笑ましくなる。
「お疲れ様」
こういうときに黎の柔らかな声は良い。少しだけ荒んでいた心が、すぐに落ち着きを取り戻していく。
「そういえば、今朝さくらさんと話していたでしょ。何かあったの」
黎の言葉を聞いて、私はまだ黎に話していなかったことを思い出した。
「そうだわ。さくらさんがね、朱雀との婚約を破棄したんだって」
「昨日話していたのもそのこと?」
「ええ、そうよ。個人的な話だから詳しくは言えないけれど、昨日さくらさんの話を聞いて私も少し助言させてもらったの。その結果報告みたいなものを、わざわざ今朝しにきてくれたのよ」
「婚約破棄はさくらさんから?」
「そうみたい。さくらさん、お嬢様かと思いきや結構根性がありそうな性格をしてるわ。——まあとにかく、これで私が死ぬことは多分なくなったわね」
これまで何年も心にのしかかっていたものが、一気に軽くなったようだ。私は黎の肩に頭を預けると、小さな欠伸をした。
「ねえ黎。私このままお座敷まで少し寝ていてもいいかしら……」
黎は私の言葉には答えることなく言った。
「さくらさんが朱雀と婚約破棄をしたということは、朱雀が誰と結婚しようがさくらさんにはもう無関係ということなの」
私は半分眠りかけていた頭を何とか起こす。
「ええ、そうよ。……それに、さくらさん本人だけではなくて、さくらさんのご両親も、このことは承知しているらしいわ」
「へえ、そう」
私は黎の肩から頭を話すと、至近距離にある黎の顔を見つめた。彼は相変わらず何を考えているのか分からない無表情だった。
「どうかしたの。これでさくらさんのお父様の手で私があんな末路を辿ることは無くなったも同然なのよ、喜ばしいことじゃない」
「——良かったね。じゃあ、今後鈴が朱雀とどうなろうが、鈴に命の危険はないし、鈴は友人に対して罪悪感を覚える必要もないんだ」
黎は何やら見当違いのことを考えているらしい。
「ええ、まあ、そういうことになるわね。だけど私、朱雀とどうなろうとも思ってないのよ」
先日朱雀に『愛している』と言われた時も、私ははっきりと『そういう意味で好きになることはない』と断った。もちろん朱雀がなかなか諦めない可能性だってあるけれど、私は何回だって同じように断らせてもらうつもりだ。ただ、今までは朱雀から好意を向けられているというだけでさくらさんには申し訳なく思っていたけれど、これからはその罪悪感を覚える必要もない。気長に、朱雀に私のことを諦めてもらえば良いのだ。
「……どうだか」
黎はまるで吐き捨てるかのように言った。いつもの彼の柔らかな、穏やかな声はもうどこにもない。
私は急いで黎の機嫌が悪くなった原因を考える。——何も思い当たらない。黎が嫌がるようなことを強制した覚えはないし、黎に迷惑をかけるようなことはもういくつもやり過ぎていて、一体どれが彼にとってのきっかけになったのか判断できない。
仕方がないから私は座ったまま黎を抱きしめて、頬に口付けた。
「ねえ、そんなに冷たい言い方をするなんて酷いわ。機嫌を直してちょうだい」
出来る限り甘えたような声で言う。こんなことで機嫌を取ろうと思う自分自身にうんざりしてしまうけれど、最近の黎は以前に増してよく分からない。よく分からないものは下手に刺激しないに限る。
黙ってされるままだった黎は、何を思ったのか私に体重をかけてきた。抵抗する間もなく背中に柔らかな衝撃を感じる。覆いかぶさるようにしている黎の姿を見て、座布団の上に押し倒されたらしいことを理解した。
「鈴って結構そういうところがあるよね」
「そういうところって?」
「いや、なんでもない。ただ、鈴は悪女だなって思って」
意味が分からない。私は清廉潔白——ではないかもしれないけれど、それでも正しく生きてきたつもりだ。『晦の夢見草』の鈴のように、男を手玉に取って遊ぶような人間ではない。朱雀だって、別に私から好意を持たせたのではなく、向こうが勝手に私に興味を持っただけだ。
「ねえ、祭りの前日はお座敷がないから時間があるでしょう」
黎はこの態勢のまま会話を続けるつもりらしい。彼の言う通り、祭りの前日は舞の最終調整のお稽古はあるけれど、遅くまで仕事をして翌日に響くといけないため、お座敷はない。
私はこの態勢に何とも言えないやりづらさを感じながらも頷いた。
「その時間、僕にちょうだい」
「……いいけど、どこか行くの?」
本当は祭りの前日の自由時間くらいゆっくりしていたい気もするけど、黎から誘われるなんてあまりあることではないから、たまには付き合ってあげよう。
黎は私の質問には答えずに曖昧に笑った。