混濁(一)
黎視点です。
物心ついたころには、母と二人暮らしで、父の顔も名前も知らない。母は病気がちで、僕を気にかける余裕がないことが多かった。いつも、昼間は眠っていて、夜になると派手な着物を着てふらふらとした足取りで出かけてゆく。何の仕事をしていたのか覚えていないが、あまり収入が安定していなかったところと、僕の父親が誰なのか分からないところを考えると恐らく想像通りだったことだろう。
知らない男が家に上がってくることも多く、邪魔だと男たちに手を挙げられることも日常茶飯事だった。母は男たちが家にくると、僕を奥へ押し込んで、いないことにしてしまった。
母に縋ってみたことは、何度もあった。幼い子どもというのは、無条件に親を慕うもので、何度邪見にされても、懲りないものだ。僕は、気まぐれの愛情を求め、必死に母の機嫌を伺って過ごしていた。
母は、無視はするものの、幼い頃の僕に手を挙げることはなかった。しかし、僕が五つをこえた辺りになると、鬱憤晴らしとして暴力を振るうようになっていった。
僕は望まれない子であったに違いない。今でも「あなたさえいなければ、私はきっと幸せになれたのに」という母の口癖が、耳に残っている。
僕が七つになったころ、暮らしていた辺りは不況に見舞われて、まともに米や野菜などの食材が手に入らなくなった。そのせいかどうかは分からないが、元々病気がちだった母は病気が悪化して亡くなり、僕は天涯孤独の身となって、住んでいた場所を追い出された。
母と住んでいたところが治安の悪い場所であることは、その頃にも薄々気づいていたが、運の悪いことに、母と死に別れ、一人さまよっていた場所は、さらに治安の悪い場所だった。もう何日前に食事をしたのが最後か思い出せず、ふらふらとしながら倒れかけた時に、たまたま通りかかったのであろう女性に助けられた。
しばらくして目を覚ますと、知らない部屋の布団の上に転がっていた。辺りを見回すと、襖の陰から女の子が覗き込んでいた。彼女は僕と目が合ったとたん、ただでさえ大きな目をさらに丸くした。
しばらく茫然と僕のことを見つめていた彼女は、しばらくすると「女将さん、あの子目が覚めたみたい」と大きな声を出して、駆けて行った。
聞けば、ここは置屋だそうだ。なるほど、女性ばかりいるわけで、ここに男がいてはまずいだろうこともなんとなく察しがついた。
しかし、女将さんの、
「大丈夫よ。男手があった方がなにかと助かるし。皆の世話役ってことで置いておきましょう」
という一言によって、僕はそのままそこで暮らしていくこととなった。
その後呟かれた、
「……それに、こんな小さな子、放り出すわけにいかないもの」
という一言は、女将さんの人となりを良く知った今となっては、こっちが本心であったであろうことは、想像にたやすい。
「私、あなたと同い年なの。仲良くしてね」
僕がここに来たときに覗き込んで様子を伺っていた彼女は、幼いながらも整った顔立ちで笑って見せた。
「仲良くなんてできない」
僕の返答にしばらく不思議そうにしていた彼女は、
「どうして?」
と尋ねた。
「僕と一緒にいたら、不幸になってしまうから」
僕はそう言うと、彼女の前から逃げるように立ち去った。
刷り込みとは恐ろしいもので、一度幼い頃に植え付けられたものは、なかなか払拭されない。今思えば、満足に人付き合いもできない、面倒な子どもだったことだろうと思うけれど、鈴はそう簡単には諦めなかった。
「黎、今日の朝食は一緒に食べましょう? あなたはどんな食べ物が好きなの? 私、知りたいわ」
「黎、今日は私と一緒に、女将さんのお手伝いで買い出しに行きましょう? 女将さん、いつも手伝いをした子には、お菓子を買ってくれるのよ」
「黎、私のお稽古の練習に付き合ってくれない? 姐さんたち皆忙しそうで、でも、一人で練習するの、寂しいんだもの」
毎日毎日、僕はそっけなく返事をして立ち去るか、そもそも返事を返さないかの二択の反応しか示さないにも関わらず、鈴は僕に声をかけ続けた。
「黎、おはよう。今日も良い天気ね。黎は、今日は一日なにをして過ごす予定なの? 決まってないなら、私と一緒に姐さんたちの着物を畳むの、手伝って……」
「もうやめて!」
ある朝のこと、僕はとうとう耐えきれなくなって声を荒げてしまった。
「黎、私はただ、黎と仲良くなれたら良いなと思って」
突然のことに驚いたらしく、一歩だけあとずさった彼女は、それでも諦めずに、そう言った。
——こんなに綺麗な女の子が、僕と仲良くなって、不幸になってしまったらどうするの。
「僕はいるだけで誰かを不幸にしてしまうから、だから、仲良くはなれない」
その時、僕は勢いあまって、彼女を突き倒してしまった。
「……誰が」
鈴は突き倒されたまま、声を張り上げた。
「誰がそんなこと言ったの!」
僕が思わず振り返ると、鈴は立ち上がり、立ちすくんでいる僕のもとに歩いてきた。
「私はそんなこと言わない。黎と一緒にいても不幸になんてならない。そもそも、誰かと一緒にいると不幸になる、なんてこと絶対にないわ。そんなのは、自分のせいで不幸になっているのを、他人のせいにしているだけよ。私はそんなことしない、そんな卑怯な人間じゃない」
「僕はいらない子。最初から、生まれてこなければ良かった存在なのに? あのまま放っておいてくれれば、僕は終われたのに。このまま、どこまで続ければ良いの?」
これ以上踏み込んでほしくなくて、もう辛い思いはしたくなくて、どうすれば良いか分からないまま、同情を引くような言葉を言ってしまった。嫌われただろうか、と一瞬不安になって、そしてそれで良かったはずなのにと思いなおす。
「黎、生きていたら良いことがあるわ。もちろん、辛いこともたくさんあるけれど、良いことだってたくさんあるのよ。もし黎が今まで、辛いことばかりだったのなら、これからはきっと良いことばかりよ」
鈴は相変わらず、明るく優し気な言葉ばかりを選ぶ。
「……そんなこと分からない。どうせまた、裏切られて一人になる。恵まれてきた人に分かるわけがない」
やめてほしい。期待させないでほしい。鈴に僕の何が分かるって言うんだ。
「確かに私は分からない。ずっと恵まれていたもの。でも、恵まれている人は、そうでない人に手を差し伸べることができるのよ。私は黎を助けてあげる。黎が私を裏切らないと約束するなら、私は黎を一人にしないと約束する。ずっと一緒にいるわ」
鈴は、いつの間にか涙をこぼしていた僕を抱きしめた。
「誰に何を言われても、どんなに辛いことや苦しいことがあっても、自分だけは自分のことを裏切ってはいけないのよ。だって自分の人生は、誰にも手出しできないもの。もちろん、時にはそんなこと思えないような酷いことだって起こるけれど、そういう時は、心の中で言い返してしまえば良いわ。大丈夫よ、私は黎を愛しているから」
その時、ずっと絡みついていた呪縛が、一つほどけた。呪いのような言葉に、心の中で言い返す術を学んだ。
そうして、晴れて鈴の望みは叶い、僕たちはどこへ行くにも二人一緒と言って良いほどに、仲良くなった。
鈴は、人と会話をする方法も、かるたやお手玉などの遊び方も、それから台所に忍んでつまみ食いをする方法まで、なんでも教えてくれた。
勝手にどこかへ行くな、余計なことを話すな、と言われ育った僕の手を取り、外へと引っ張り出してくれたのはいつだって彼女だった。
女将さんとしても、「鈴は真面目過ぎて心配だった」とのことらしく、同年齢の僕たちが一緒になって何かをしているのを見るのは、嬉しいことだったそうだ。——もちろん、つまみ食いなどのいたずらは、二人ともこっぴどく叱られたけれど。
僕は初めて、暴力や飢えの気配を感じず、そして気まぐれの愛情を得るために人の顔色を窺わなくて良い日々に、気づけば安堵を感じるようになっていった。
「どうしたの」
真夜中を過ぎた頃、十三になり、お座敷に上がれる一人前の芸者になる目前となった鈴が、声をかけてきた。
「どうしたって?」
「なんだか少し寂しそうだから」
一緒に過ごすうちにお互いに遠慮がなくなってきたのは、良かったのか悪かったのか。
「……そんなことないよ」
「そう? 顔色が悪いわ」
鈴は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「鈴、なにを隠しているの? 最近いつにも増して思い詰めているでしょう」
意を決して、いつか言おうと思い続けていた言葉を口にする。
「隠してるってなんの話?」
こんなにずっと一緒にいて、お互いのことで知らないことなんてほとんどないのに、鈴はどうしても頑なに、その一線だけは越えさせてくれない。
「なんの話かは、自分が一番分かっているんじゃないの」
「分からないわ……」
「とぼけないで。僕は、本気で言っているから」
鈴は、しばらく何も言わずに考え込んでいるようだった。
でも、やがて諦めたように、
「分かった。信じてもらえるか分からないけど、黎には言っておくことにする」
と言った。
そこからの鈴の話は、確かに信じるには難しいものだった。けれど、僕は信じた。彼女の言うことなら、どれだけ突拍子のない話でも、たとえそれが間違いであったとしても、信じるのが当然だった。理由は、それだけ。
鈴の話によれば、ここは前世でみた『ゲーム』という創作物の中なのだという。鈴も僕もそのゲームの登場人物で、鈴はヒロインの恋を邪魔する悪女としての立ち回りを、僕はヒロインと恋に落ちる攻略対象の役割をしていたのだそうだ。
「それでね、私、多分あんまり長生きできないと思うの。でも、そのまま死ぬなんて悔しいから、出来る限り色々回避する方法は試すつもりだし、実際、今も試している最中なの」
彼女は前世の記憶について一通り話し終えると、そう言った。
「今も試してるって?」
鈴はしばらく言葉に迷っていたようだったけれど、やがて小さく首を振った。
「いいえ、なんでもないわ。忘れてちょうだい」
寂しそうに笑ったその表情を眺めながら、ふと一つの仮説に気づく。
鈴はヒロインと攻略対象の恋を邪魔する悪女なのだ。だったら、攻略対象の一人である僕と悪女である鈴が仲良くしているこの現状は、ゲームの本筋からはずれているのではないか。
気づいてしまえば、鈴が言った『試している』という言葉の意味は容易に理解できた。つまり——彼女は僕と仲良くなりたかったわけでも、僕を愛していてくれたわけでもない。ただ自分の末路を回避するための手段として、僕に近づいたのだ。
初めて、気まぐれでなく、本心から僕を愛してくれたこの人は、僕を騙していた。そう思うと、間の前が真っ暗になるようだった。
鈴は、自分の目的を達成したら、さっさと僕のことを捨てるのだろうか。これだけ一緒にいたのに。ずっと傍にいたのに。七つの頃からずっと、もう六年も、僕は彼女に尽くしてきたのに。
言ってやろうか。鈴が今『なんでもない』と誤魔化した答えを、僕が突き付けてやろうか。鈴はどんな顔をするのだろう。何と言うのだろう。謝るだろうか、それとも笑ってまた誤魔化すかもしれない。
僕は口を開きかけた、けれどどうしても言うことができなかった。僕がどういう言い方で言ったって、きっと鈴は傷つくだろうと思えたのだ。
仕方がないから、僕は鈴に酷い言葉を言うのはやめて、
「分かった、忘れてあげる」
と努めていつも通りの調子で言った。
それは偽りの愛情だったのかもしれない。彼女はきっと僕のことを、この物語を自分の都合良いものへ変えていくための駒としか思っていないのだろう。分かっているのに。
心のどこかで、それでも良いと思う自分がいる。鈴が僕のことを駒として見ているのなら、従順な駒のふりをし続ければ良い。何にも気づいていないという顔をして、今まで通り鈴から与えられる偽りの愛情を享受し続けていれば良い。だって、失ったら生きていけない。一度満たされた環境から自分の意思で抜け出すことは、きっと叶わない。
幼い頃の純粋な愛情は、その日からどうしようもない憎しみを伴うようになってしまった。