わたしは
さくら視点です。
毎日、変わらない世界。
例えば、屋敷から見える景色。朝と夕方、決まった時刻に聞こえてくる鐘の音。屋敷に仕えている人々と、その人たちのわたしへの態度。
どこに出かけるわけでもないのに、いつでも美しいものばかりが取り揃えられた着物や帯。
勝手に出るなと言いつけられているせいで、幼い頃は何度も恨めしく感じた屋敷の塀。わたしが唯一四季の移ろいを感じることができる庭園。
病気がちで滅多に起き上がれないお母様と、仕事で殆ど帰ってこないお父様。
そして、決められた人生と、決められた婚約者。
わたしの世界は、ずっとこれだけ。
わたしが彼女に出会ったのは、偶然道に迷っていた時だった。呼びかけられて振り向いた途端、何かとんでもないものが私の身体を走ったように思えた。——ああ、わたしは聞いたことがある。こういう衝撃的な出会いは、運命と呼ぶのだ。
何故だかわたしの名前を知っていたその人は、鈴と名乗った。わたしでも名を聞いたことがあるくらい有名な芸者さんだった。
それから何度か彼女の住む街を尋ねた。豪華な着物に身を包み、艶やかに微笑む彼女は自分に自信がある、孤高の人に見えた。反対に、普段着を着て置屋を動き回っている彼女は、気さくな同年代の女の子だった。そんな人と、わたしは友人になりたいと願った。どうしようもないくらい、彼女に惹かれた。
お父様やお母様がこの状況を見たら何と言うだろう。尊敬している両親だ。……尊敬しなければならない両親だ。分かっている。だからわたしはいつも必死で二人にとっての理想の娘を演じ続ける。どうせ他にやりようもないと諦めて。
自分の婚約者の愛人と友人になることを望むなんて、わたしは気が狂っているのかもしれない。でも、あなたを見ていると、なるほど彼が好きになったのも頷けると思ってしまうの。
「こんにちは、鈴さんはいらっしゃいますか?」
置屋に着くと、裏口の戸を開いて声をかける。舞や琴のお稽古が終わった夕方の時間帯は、自由時間なのだそう。この時間には、鈴さんも余裕があることが多く、わたしが訪ねて行くと自室に招いてくれる。
「こんにちは、さくらさん」
「黎さん。こんにちは」
鈴さんの幼馴染だという彼は、着物やら帯やらを大量に手に抱えて慌ただしく廊下をかけて行く途中で、わたしに気が付いたようだった。
「鈴ですよね。ちょっと待っててください」
遠くで黎さんが鈴さんを呼ぶ声が聞こえる。
「こんにちは、さくらさん。来てくれて嬉しいわ!」
手に箒を持ったまま、彼女は裏口まで来てくれた。
「ごめんなさい。なんだか皆さん忙しそうなときに来てしまったみたい」
「ええ、実は少し。せっかく来てくれたのに申し訳ありません」
「そんな、謝らないでください。わたしが確かめもせずにいきなり来てしまったのが悪かったの」
残念だけど日を改めようと思い、踵を返しかけた、その時。何かが崩れ落ちて、割れたような音が響き渡った。
「ああ、嘘でしょ。また誰かやらかしたわ……」
鈴さんが小さく呟いた。
「姐さん! 鈴姐さん」
可愛らしい女の子の声が、焦ったように鈴さんを呼んでいる。
「またやらかしたのちとせ! そろそろいい加減にしなさい!」
「違います! 私じゃないです。かすみです」
「ああ、もう。今行くからちょっと待ってて。絶対触らないでよ」
彼女は持っていた箒を裏口の壁に立てかけると、草履を脱いだ。
「ごめんなさい、さくらさん。ちょっと問題が発生しました。こんな雑なお見送りですみません」
鈴さんは苦い顔をして謝った。
「いえ、大変そうですね」
「最近入った子が皿でも割ったみたいで……」
なるほど、あの音はお皿が落ちて割れた音だったのね。
「鈴、あやめ姐さんが普段着用の襦袢の半衿付け替えてだって。お座敷の時間になる前にやっちゃった方が良いんじゃない?」
慌ただしく廊下を歩きぬけて行った女性が鈴さんに声をかけてゆく。
「姐さん、台所の火、消し忘れてませんか?」
今度は、鈴さんよりも少し年下と思われる女性が、大量の大根を抱えながら声をかけた。
「嘘、忘れてた。ごめん、消しておいてもらえる?」
「無理です。私今女将さん待たせてるので」
ほんの少しの間にも、たくさんの人が忙しそうに歩き回っているのが分かる。
「あの、鈴さん、大丈夫ですか?」
いくつもの仕事を頼まれてしまって、大変そう。
鈴さんは少しの沈黙の後、
「……黎! どこにいるの!」
と、黎さんを呼ぶ声をあげた。
「あ、今兄さんはお稽古からまだ戻ってない子たちを迎えに行ってるのでいないです」
さっきの大根を抱えた女性が顔だけ向き直って告げる。
「どうしよう、キャパオーバーよ。まず何からやれば良いんだっけ。えっと……ああ、そうだ皿が割れたんだ」
鈴さんが、疲れた顔で呟いた。
わたしは彼女を見て、ふとあることを思いつく。断られてしまうだろうかと緊張しながらも、何とか口を開いた。
「……あの、お手伝いしましょうか?」
「え、そんな、悪いです。大丈夫」
決死の思いで申し出た手伝いは、すぐに断られてしまった。ここで引き下がるのも悔しくて、何とか言葉を続ける。
「わたし、お裁縫は得意なんです。さっき言ってた半衿の付け替え、わたしにやらせてもらえませんか?」
いつも限られた自由時間の中でも喜んで迎え入れてくれるのだもの。そのお礼になるかは分からないけれど、わたしにもできることがあるなら、是非やらせてもらいたかった。
「本当! ……じゃなくて、大丈夫です。そのうち黎も戻って来ると思うし、お客様に手伝わせるわけにはいかないわ」
一度目を輝かせた鈴さんは、それでもやっぱり断ってしまった。
「お客様じゃなくて、お友達です。友達が困っているときは助けるものなのだと聞きました。どうかお手伝いさせてください」
これくらいしかできないけれど、わたしが少しでも役に立てたなら嬉しい。
「ええ、どうしよう。私の罪状に名家のお嬢様に置屋の手伝いをさせたことが加わりそう……」
鈴さんは何やら呟いて迷っていたようだったけれど、最終的には、
「……お願いします」
と言ってくれた。
「本当にありがとうございます! とても助かりました。それに、すごく上手なんですね」
わたしが通された部屋でちょうど半衿を付け替え終えた頃、鈴さんが部屋にやってきた。
「いえ、お役にたてて良かったです。そう言ってもらえると嬉しいです。実は、ちょっと自分でも得意だと思っているの」
「ちょっとだなんて謙遜だわ! 私は本心で言っています。自信を持って良い特技だと思います」
大げさだとは思うけれど、嬉しい。
「鈴、ただいま。あやめ姐さんに聞いたよ。なんだか色々問題続きだったんだって?」
「黎! おかえりなさい。そうなの。トラブルの連続だったわ。黎に助けを求めようとしたら、いないって言われちゃったし」
黎さんがわたしに軽く会釈をしてから鈴さんの隣に座る。
「ごめんね。大丈夫だった?」
「大丈夫よ。それより、見て、これ」
鈴さんはわたしが付け替えた半衿を指さす。
「とても上手だと思わない?」
「本当だ。誰がやったの? 鈴じゃないでしょ。だって鈴はいつも、とりあえず縫えてさえいればそれで良いとでも言うような出来だもの」
「あら、事実だから言い返せないじゃない。……これね、さくらさんがやったのよ」
笑いながら答えた彼女は、わたしに視線を向けた。
「え、さくらさんが。凄いね」
「そうよね! あやめ姐さんもこれなら喜ぶわ! 本当にありがとう、さくらさん」
その後、襦袢を受け取ったあやめさんは、わざわざわたしがいる部屋を訪ねてお礼を言ってくれた。
それどころか、置屋の女将さんにまで、半衿の話は伝わったらしく、
「あら、本当に上手ね。こんな子が一人でもいたら良いんだけど、みんな裁縫はからきしの子ばかりなのよね」
と、襦袢を見ながら感心したように呟いた。
その度にわたしは少し恥ずかしいような困ったような気持ちになったけれど、でも、とても嬉しかった。唯一好きで続けてきたことが、ようやく報われた気がした。
屋敷ではわたしの頑張りを見ている人は一人もいない。わたしはただ自分の気を紛らわせるためだけに針を取る。
ここではこんなささいなことでさえ、誰かが見つけてくれる。人から人に伝わって、皆がわたしという存在に気づいてくれる。
それから、わたしは鈴さんと黎さんの三人でおしゃべりに花を咲かせていた。
しばらくすると、小さな女の子が黎さんのもとに駆け寄ってくる。
「置屋ってこんなに小さな子もいるんですね」
先ほどお皿を割ってしまったというその女の子は、想像していたよりもずいぶん幼く感じられた。
「こんなに小さな子でも、親元を離れて修行に来るのですか?」
わたしが驚きながら聞くと、黎さんと鈴さんは何とも言えない表情で顔を見合わせる。
「この子ね、売られたんです」
鈴さんが私の傍に寄ると、小さな声で私に告げた。
「多分、飢饉が起きたって噂になってる村の出身なんだと思うんだけど、どうも両親に売り払われて、その後街の方で売られて船に乗せられる寸前だったみたいで。ご存知ですか? 船に乗ったが最後、生きて戻ってはこられないと言われているんですよ。……それで、うちの置屋の女将さん人が良いから、小さな子を見ると放っておけなくて、連れて帰ってきちゃったんです」
「売られた?」
思いもかけない言葉が聞こえて、私は思わず大きな声を出してしまった。
「そうなんです。この置屋は私みたいに自分から修行に来た人ももちろんたくさんいるけど、この子とか、黎みたいに、やむを得ず身を置いている人も何人かいるんです」
「黎さんもなんですか?」
わたしが彼に視線を移すと、黎さんは女の子を膝の上に抱き上げていた。
「僕は父親の顔も名前も知らないんです。母親と二人で暮らしてたけど、あるとき病気になって死んじゃって。それから花街に迷い込んで途方に暮れていたところをここの女将さんに拾われました」
彼は何ともなさそうな口調で答えた。
「……そんな」
「結構よくある話だと思いますよ。最近はどこも不作が続いていて、飢饉も起きてますから。この辺りはまだましな方です」
「わたし……」
何も知らなかった。
「この子は、こんなに小さいのに。ご両親と別れて、たった一人で、大丈夫なんでしょうか」
黎さんの膝の上でお手玉で遊んで居る少女は、わたしたちの話が分かっているのかいないのか、とても楽しそうに黎さんに話しかけていた。
「女将さんが気付いて手を差し伸べてあげられる人数は限られているけど、ここに来たからには大丈夫よ。読み書きから計算まできっちり仕込まれますから。……それにこの子は——かすみは、一人ではありません。私たちがいる限り、もう二度と、絶対に一人になんてさせない」
何も言えない。贅沢三昧でなにも知らずに生きてきたわたしには、何かを言う資格はない。
その時、何かがわたしの体にぶつかった。よく見ると、お手玉だ。さっきまで黎さんの膝の上で楽しそうに笑っていた女の子は、今度は彼の腕の中から抜け出そうとしていた。
「こら、かすみ。人に投げたらだめでしょう」
黎さんが焦ったように言った。
「ごめんなさい、さくらさん。まだ小さいから許してあげて。遊びたかっただけだろうから」
「ええ、もちろん。……懐かしい、わたしも小さい頃よく遊びました」
なにげなく外を見るとさっきまで明るかった空には、夕焼けが落ちている。
「そうだわ。さくらさん、私たちもうそろそろお座敷の準備をしないといけないんです。せっかく訪ねてくださったのに、色々手伝ってもらっちゃってすみません。本当に助かりました」
「いえ、どうか、本当に気にしないで。あの、よければわたし、この子を見ていましょうか?」
これ以上長居するのはかえって迷惑かもしれないと思いながらも、申し出てみる。
「え? 良いんですか」
鈴さんは嬉しそうにしていた。
「だって、今日はお二人ともとても忙しそうですから」
「……お願いします。今人手が足りなくて。黎は他の子たちを送りに行くのでいませんけど、私は隣の部屋で年下の子たちの踊りを見ているだけなので、何かあったら声をかけてください」
そう言うと彼女は奥にあった棚から扇子を取り出して、帯にしまう。黎さんは、かすみさんに声をかけると、わたしに頭を下げてから、部屋から出て行った。
「かすみ、大人しくしてるのよ。あんまり我が儘を言って私のお友達を困らせないでね」
鈴さんも黎さんに続いて廊下に出ると、慌ただしく襖を閉めた。
さっきまで一緒に遊んで居た女の子は、やがて遊び疲れたのか眠ってしまった。
しばらくして、わたしは隣の部屋を訪ねた。ほんの少しだけ襖を開ける。
「そうよ。さっきよりその方がとっても綺麗に見えるわ」
数人の少女たちを相手に踊りを教えている鈴さんは、とても美しかった。
「すみません、姐さん。いつも練習見ていただいて」
「いいのよ。ちとせは、確かに覚えは遅い方だけれど、一つ一つがとても丁寧だから、気づく人は絶対気づいてくれて、凄いと思ってくれるはずだわ。……私だって、女将さんや姐さんたちに色々迷惑かけて、たくさん叱られてここまできたんだから、ちとせも同じよ。もちろん、他の子たちもね。また何かあったら聞きに来てね。時間を探して絶対見てあげるから」
「「ありがとうございました」」
わたしや鈴さんよりも少し幼いであろう女の子たちは、鈴さんに頭を下げた。
「あの、鈴さん」
思わず見とれてしまっていたけれど、私はかすみさんが眠ってしまっていることを思い出して、襖の隙間から鈴さんを読んだ。
「あら、さくらさん。ごめんなさい。いつからかしら? 私、気づかなくて」
「いえ、ついさっきなので大丈夫です。あの、かすみさんが遊び疲れて眠ってしまったみたいで」
「本当? 女将さんのところに連れてって寝かしちゃった方が良いわね。すぐ行きますから、ちょっと待っていてください」
鈴さんはそう言うと、落ちていた扇子や傘を手に持った。
すっかり寝入ってしまったかすみさんを女将さんのところへ連れて行った後、鈴さんはいつものように私を自室に招いてくれた。
「凄いですね。毎日のように練習していて」
私がいつ訪れても、彼女の自室には扇子や傘が転がっていた。つまり、彼女はわたしが訪れるまでの時間はいつも練習に充てていたということだろうと今更気づく。
「努力なさっているんですね。さっき、少しだけ覗いてしまったのだけど、とても素敵でした」
「ありがとう、熱心な子ばかりだから、私も教えがいがあるんです。自慢の妹たちだわ」
鈴さんの言葉に、わたしはぐっと身を乗り出した。
「もちろん皆さんも素敵でした。でも、わたしが言っているのは鈴さんのことです」
「え?」
「だって素敵じゃないですか。本当に皆に頼りにされているんだろうな、と思って」
「……やだわ。そんなことないです。私は自分が貰った恩を、次の世代の子たちに渡しているだけよ」
鈴さんは恥ずかしそうにそう言うと、わたしから目を逸らして湯飲みのお茶を飲んだ。
鈴さんは、人と人をつなぐことができる人だ。受け取った感情を、別の人に与えることができる人。いつも明るくて、前向きで、それから、人に親切にできる人。
自分の時間を割いてでも、年下の子の面倒を見て、年上の人の言いつけには素直に従い、わたしとおしゃべりをしてくれる。いつだって努力を忘れず、そしてそれを驕らない。
わたしはどうだろう。
与えられた恩恵に気づきもせず、世間のことはまるで知らない。贅沢な暮らしをしながら、自分の人生が思う通りにいかないなんて、文句だけは一人前だ。
何も成し遂げたことがないのに。努力の方法さえ知らないくせに。
——だったら、わたしは、ここで終わるの。
望まれた通りの人生を歩んで、好きでもない人と結婚して。そこにわたしの幸せは本当にあるの。
考え込んで、そして小さく首を振った。きっとない。わたしはそんなことは少しも望んでいない。
だったら、あの人たちに逆らうというの。わたしのことなんてまるで見ていないあの人たちに。わたしが便利な道具ではなく、感情を持った人間であるということにまるで気づかないあの人たちに。
とても怖い。でも、もしかしたら。
忙しいだろうに、鈴さんは、裏口まで見送りに出てくれた。
「本当にありがとう、助かりました。今度は、もっとゆっくりおしゃべりしましょうね」
「こちらこそ。とても楽しかったです。また会いにきます」
「暗くなるまでにお屋敷に戻れるかしら?」と心配そうに呟いている彼女に、わたしは告げる。
「……わたし、決めました」
「え?」
「今まで一つも自分で決めて自分で努力をするということをしたことがなかったけれど、鈴さんを見ていて、ちゃんと自分の人生を自分で生きてみたいと思ったんです」
唐突だったから、驚かせてしまったかもしれない。
「ありがとう。鈴さんのおかげでわたしは変われる気がします」
ずっと、決められた道を生きてきた。そこにわたしの感情なんてなかった。これは、ただのわがままだ。今までの贅沢の代償であるはずの義務を放棄するのだから。
でも、それでも。
私は世界を見てしまった。その世界は、明るくて、暖かくて、そして私を受け入れてくれた。そこに立って初めて、わたしはようやく自分を知ることができた。
わたしの世界はわたしの力で変えることができるのかもしれない。努力は報われるということを、彼女のおかげで知れたのだから。