休暇(二)
朝ごはんを食べ、女将さんに挨拶をしてから、私たちが繰り出したのは元城下町だった。
「目的もなく自由に遊びまわれる休日なんて久しぶりだわ。お祭りの時期は気が狂うように忙しいもの。遊べるうちに遊んでおかないと。黎と久しぶりに一緒に出掛けられて嬉しいわ」
今日も人で賑わっている通りを見渡すと、気持ちが高ぶる。私は今日ばかりはお稽古もお座敷も一旦忘れることにしようと決意した。
「それで、具体的にどのお店に行きたいとかはないの?」
黎は少し迷っていたようだけど、近くにあった団子屋の看板を見上げながら答えた。
「食べ歩きでもしない? 甘味処に入るのも良いと思うけど、鈴はどっちがいい?」
「黎って甘いものが好きよね」
黎にわがままを言いたい時には、お菓子を与えておけば丸めこめることが多い、というのは本人には伏せておく。もっとも、疲れているときには自ら甘いものを探してさまよっていることもあるので、彼も自覚はあるのかもしれない。
「どっちでも良いからお任せするわ」
「そう? じゃあ食べ歩きに付き合って。とりあえずここの団子食べよう」
言うやいなや、黎は団子屋の前の列の後ろについた。私も彼を追いかけて一緒に並びながら、通りの向こうを窺う。
「良い匂いね。どれも美味しそう」
屋台が並んだ通りは、夜の花街とは違った賑わい方で、見ていて楽しい。黎は店員から受け取った団子を一つ私に差し出しながら、近くの和菓子屋を指した。
「あのお菓子、こないだ女将さんが買ってきてたやつだ」
「本当だ。私も黎も忙しすぎて食べそびれたの、悔しかったわ」
他愛ない会話を交わしながら、目に映る屋台を巡ってゆく。
「……さすがにこのくらいにしておかないと太りそう」
数時間後、私はギブアップを申し出た。同世代の女の子たちの中では割と食べる方である自覚がある私も、後のことを考えるとこのくらいでストップしておきたい。祭りを前にして体型が変わってしまうと色々と都合が悪いのだ。
「そう?」
次の屋台へ足を向けかけていた黎が立ち止まった。
「黎はよく食べるわね。なんでそんなに細いのよ。羨ましいわ」
「食べた分動けば良いだけでしょ」
心底不思議そうな顔をされてしまった。この人、絶対にダイエットの概念を知らない人だ。体型を気にする年頃の女の子に恨まれそうな発言をした黎に、私も年頃の女の子の一員としての言葉を零す。
「私だって動いてるつもりなんだけど」
「別に太ってないと思うけど」
慰めにもならなければ、褒め言葉にも成り得ない台詞をかけられた。
「……それはどうもありがとう」
私は体重計という発明品がないこの世界に感謝すべきかもしれない。多少の増減なら本人すら気づかないでいられるのだ。——逆に考えれば、自分自身が体重の増減に気づいたときには確実に他の人も気づいているということでもあるのだけど。
「じゃあその辺の小物屋でも周ってみる?」
黎の言葉に、「それもいいわね」と頷いて答える。
「女の子のショッピングなんて長くて退屈よ。頑張ってね」
と冗談めいて言ったら、
「さあ、鈴の場合はどうだか」
と呆れたような返事が返ってきた。
夕方になり、少し寒くなってきた時間帯、私たちは置屋へと帰り着いた。
「結局いつもこうなるよね……」
「本当、なんでかしら」
私たちの視線は本日の購入品に向けられている。
「女の子のショッピングは長くて退屈、なんじゃなかったの?」
「世の女の子がどうやってあんなに長時間買い物を続けられるのか、教えて欲しいわ」
「何事も効率重視の鈴には無理だと思う」
どうやら憧れのショッピングには適性がなかったらしい。
「結局買ったものといったら、姐さんたちが切らしてた化粧品に、妹たちが欲しがっていた雑貨に、女将さんが今度ついでに買ってきてと言っていた石鹸」
黎は机に並べられた品物たちを持ち上げるとため息をついた。
「もっと自分自身にお金を使う方法を学んだら? 欲しいものとかないの?」
「欲しいものを買った結果がこうだったんだから、仕方ないじゃない……」
店で商品を見ていると、置屋の皆のことを思い出してしまうのだから困ったものだ。
「二人とも帰ってたの」
「女将さん、ただいま戻りました」
花街は今からが忙しくなる時間帯だ。たすきを結びながら、せわしなく動いていた女将さんは、私たちに気がつくと声をかけてくれた。
「あの、これ」
黎が畳に並べられていた購入品の中から小さな箱を手渡した。
「ああ、切らしてたのよ、石鹸。ありがとう——二人とも結局おつかいみたいなことしてきちゃったの? せっかくの休日だったのに」
眉を下げて笑った女将さんに、私は肩をすくめてみせた。
「気づいたらこうなっていて……」
「いつものことね。じゃあ、いつもついでに休日のところ悪いんだけど、手間取っているらしい妹たちの様子を見に行ってあげてくれる?」
台所の方から、何かが割れたような音が聞こえてくる。
「鈴姐さん! 助けてください! 」
ちとせの切羽詰まったような声も飛んできた。
「ああ、嫌な予感がする」
私が小さく呟くと、女将さんは夕食の食器を下げながらくすくすと笑い出した。
「私たち、今日は休日のはずよね」
「うん……」
「それも、連続勤務の後の久しぶりの休日のはずよ」
ただでさえせわしないお座敷前の時間帯は、今日は輪をかけて忙しくなってしまった。
「はあ、皆で共同生活している限り、休日なんてあってないようなものなのよね。もはや日常が仕事というか。……トラブルってどうして一つ起こると、いくつも連続して起きるのかしら」
ほんの数刻前には騒がしかった置屋も姐さんたちは皆お座敷に行き、小さな妹たちは就寝してしまったせいで、とても静かに感じる。
黎と一緒に洗った食器を食器棚に戻していた私は、なんとか最後の一枚を戻し終えた。食器棚を見つめて、ここ数日で犠牲になった食器たちを思い浮かべる。この置屋は皿が割れまくる呪いでもかかっているのだろうか。これは本気で、十歳以下は皿洗い禁止のルールでも作った方が良いかもしれない。——いや、さっき土鍋をダメにしたちとせはもう十五歳だった。
「とにかく、お疲れ、鈴」
「ありがとう、黎もね」
そろそろ自室に戻ろうかと思い、立ち上がりかけたその時、
「……鈴」
黎に呼び止められてしまった。
「どうしたの?」
「もう寝るの?」
「そうだけど。黎もそろそろ寝た方が良いんじゃないの」
こうして二人でいると昨日の出来事を思い出す。私は無意識に黎から距離を取ろうとしていた。そんなことを知ってか知らずか、黎は私が避けるよりも先に距離を詰める。
「これあげる」
そう言って彼が手渡したのは簪だった。
「まあ、きれいね」
一見シンプルに見えて細かな意匠が凝らされている。淡い青色の玉簪に銀の装飾が付けられていた。
「私にくれるの? なんで?」
……正直これはちょっと色々邪推してしまわざるを得ない。どっかのお座敷か稽古場の行き帰りで別の置屋の女の子に貰ったものだったりしないだろうか。
「似合うだろうと思って」
「……珍しいわね」
彼の本当の意図がどこにあるのか分からずに困惑してしまう。動かないでいた私を見かねたのか、黎は私の手から簪を取り上げると、そのまま私の髪をまとめ上げた。
「やっぱり似合うね」
満足そうに微笑むと私を見つめてくる。
「ありがとう……」
黎はこういう時に恥ずかしげなく褒めるから、なんだかくすぐったくなってしまう。
「どこで買ったの?」
貰ったものについていろいろと質問するのはあまりお行儀が良いとは言えないけれど、私たちの関係性なら別に良いだろう。
「今日屋台で」
「いつだろう、気づかなかったわ」
「鈴が石鹸を選んでたとき」
言われてみれば、確かにあの屋台の隣は簪や櫛を置いた雑貨屋だったかもしれない。
「なるほどね……」
言うべきか言わざるべきか迷いつつも口を開く。
「私は良いけど、あんまり他の女の子に気軽にしない方が良いと思うわ」
この世界では男性が女性に簪を贈るのはほぼイコールでプロポーズの意であることが多い。これに関しては、おそらく黎も承知の上だろうから、深い意味はないだろうとは思うけれど。
「鈴なら良いでしょ」
「まあ、良いけど……」
変な勘違いはしないし。
それにしても昨日から黎の様子がおかしい気がする。急にキスしてきたり、プレゼントをくれたり、彼が普段とらないような行動が連続して起こっている。私は内心面倒に感じながらも、これをきっかけに何かがこじれてしまったり、後から後悔したりするよりは、と思って問いかける。
「——何か不安なことでもあるのね。私に話して」
「いや、別に不安なことなんてないけど」
素っ気ない返答は本心であるようにも感じられた。
「珍しいことばっかりするから心配なのよ」
「僕は鈴のほうが心配」
黎の言葉を聞いて、私は少し考える。最近彼を心配させるようなことをしただろうか。身に覚えがない。
「私、何かしたかしら」
「……最近さくらさんがうちを訪ねてくることが多いと思うんだけど」
ああ、そのことか。この間の急な訪問から間を開けず、彼女は連日この置屋を訪れていた。最初の方は私も『ここは慣れていないと危ないから、別の場所で会いましょう』と言っていたのだけど、あのパワフルなお嬢様は私が何回言っても平気そうな顔をしているから、最近は普通に出迎えてしまっている。
「そういえば、黎はあの時一緒にいなかったから知らないものね。——さくらさんってば、私とお友達になりたいなんて言ったのよ」
「そんなことだろうと思った。ゲームの設定からあんまり外れた行動を取るのは危ないよ」
当然の指摘に私は少し決まりが悪くなる。
「まあ、分かってはいるわ。大丈夫、この行動が良い方へ転んでも、悪い方へ転んでも、ちゃんと自分で責任をとるから」
さあ、一体どんなお叱りの言葉が飛んでくるだろうかと身構えたけれど、彼の返答は意外なものだった。
「もっと自分のことを大切にして、どうか。もし鈴がいなくなってしまったら、僕はどうすれば良いというの」
少し低い声で、彼が呟く。
「私は自分のこと、十分大切にしているつもりよ」
『どうすれば良いの』という彼の言葉に罪悪感を覚えながらも、私は微笑んだ。
「全然大切にしてない。口ではそう言いながらとてもお人よしなんだから」
「そうかしら? 皆こんなものだと思うけれど」
ゲームの鈴に比べれば人当たりが良い性格である自覚はあるが、お人よしとまではいかないだろう。
「皆もっと自分のことばっかりだよ」
「黎も?」
「うん」
へえ、それはちょっと意外かもしれない。黎は私よりよっぽど面倒見がよく、周囲の人といざこざを起こしたような話も聞かない。
「僕は鈴が幸せでいられれば、あとはどうでも良い」
黎の表情はとても真剣で、私はその重さに目を逸らしたくなる。
「……それは、自分のことではないと思うけど」
私という他人の幸せを願っている時点で、自分のことが抜け落ちているのに気づいていないのだろうか。
「自分のことだよ、きっと」
黎は、「おやすみ」と言うと、そのまま去って行った。
自室で黎にまとめられた髪をほどいてゆく。
「高かったんじゃないかしら」
今まで気まぐれのように物を贈り合ったことはあっても、ここまで高級そうなものを貰うのは初めてだった。
彼の本心は良く分かっている。その重さは私が積み上げたものだと知っている。受け入れられないのなら、狂わせた私が責任をとって終わらせるべきなのに。この関係が心地よくて、身動きをとれないでいるのだ。
ほら、やっぱり私は自分のことばかりの人間だ。