出会いたくなかった人(一)
よろしくお願いします。
何度も見てきた景色。かつては夢にまで見た憧れの人がそこにいる。
「名前を教えてくれないか」
彼の低い声は耳に心地良い。私は運命的な昂揚と、そして大きな諦めと共に返事を口にした。
「……鈴と申します」
「鈴か。良い名だ。今までこんなに綺麗な人は見たことがない」
彼は美しい微笑みを浮かべて私に近づいてくる。
「そんな、私にはもったいないお言葉です」
ああ、声が震えてしまいそう。
「また会ってはもらえないだろうか、今度はもっときちんとした場で」
覗き込むようにして合わされた目が甘やかに細められた。
私は少し悩んだけれど、出来るだけ卑屈に聞こえるような返事を選ぶ。面倒な女だと思われたいなんて思って。
「私など、朱雀さまがわざわざ会いに来るような者ではありません」
「いいや、きっと会いにくる。約束しよう」
そう言って、名残り惜しそうにその美しい男は去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は思う。約束なんていらない。……だって、もう二度と会いたくないのだから!
「鈴、大丈夫?」
辺りは既に暗く、先刻までの賑やかな時間は跡形もなかった。
「疲れたわ。これから皿洗いの後始末が待っていると思うと本当に憂鬱よ」
心配そうにのぞき込んだ幼馴染に、私は肩をすくめて笑う。
「台所が悲惨な状況になっていないことを願うのみだね……」やっぱり『強制力』が働いたのかな」
黎は私の言葉に神妙に頷いてから、少し暗い声で言った。——『強制力』か。そんなものがあるのだとしたら、私はどうあがいてもあの末路しかないのかもしれない。
気づいたのは七歳の時。
まだ幼かった私は、憧れの世界の一員に——芸者さんになるために、親元を離れて修行を始めた。踊りに三味線に唄、大変だけどやりがいのある日々を過ごしていた私は、ある日女将さんが連れてきた男の子を見て衝撃を受けることになる。
私は死んだのだ。いや、正確にいうと私の『前世』は死んだのだ。
私は、普通の女子高生だったはずだ。断片的な記憶ではあるけれど、両親と妹がいて、友達もたくさんいたことを覚えている。学校では華道部に入っていて、古着店などを巡って着物や帯を買い集めるの趣味の、和風好きの女の子だった。
そんな私は学校の友達に勧められたことで、とある乙女ゲーム『晦の夢見草』をプレイした。友達が前世の私にこのゲームを勧めたのは、ゲームの世界観が和風なものだったからだろう。それまで乙女ゲームなんて少しもプレイしたことがなかったにも関わらず、私はそのゲームにすっかりハマってしまった。グッズを買い、イベントに参加して、ファンブックも製作スタッフインタビューも隅から隅まで読んだ。……それどころか、乙女ゲームというジャンル自体にもハマり、『晦の夢見草』以外にも何作もプレイした。
前世の私の死因が何であったのか、詳しくは思い出せない。高校三年生の冬、やっとのことで大学受験を第一志望校合格の形で終えることができ、春には憧れの大学に入学するんだと、緊張と不安とでドキドキしていたところまでの記憶はあるから、きっとその辺りに死んだのだろう。
私がこの記憶を思い出すきっかけになった、女将さんが連れてきた男の子は、『晦の夢見草』の攻略対象だった。黎という名前で、公式人気ランキングでは二位にランクインしていた。
母親を流行り病で亡くし、花街を彷徨っていたところを、女将さんが見かねて連れて帰ってきたことから、芸者たちの世話役として置屋——私たち芸者が共同生活している場所——で暮らすことになったという、攻略対象内でも割と重めの設定のキャラだ。
『晦の夢見草』の黎ルートは、ヒロインの父が仕事相手を接待するために花街の料亭を利用した際、父の忘れ物に気づいたヒロインがそれを届けに行ったことで、偶然同じ料亭の別の部屋で行われていた宴会に置屋の芸者たちを送った帰りだった黎と出会うという始まり方だった。
幼少期に芸者たちに毎日良いように使われ、いじめられ、居場所もなく、人生を悲観していたために成長しても自暴自棄になっていた黎を、優しく親切なヒロインが救っていくさまは、感動としか言いようがなかった。
——問題なのは、黎をいじめていた芸者の中心人物が鈴だったことだ。鈴はゲームの中で一番の売れっ妓だった。しかし、裏ではとにかく性格が悪かったのだ。というのも、自分の面倒をよく見てくれていた姐さんたちが、黎が置屋に来てからというもの、黎のことばかりを気にかけるようになったのが気に食わなかったのである。——つまり、完全な八つ当たりだ。鈴は、八つ当たり、ただそれだけの理由で、毎日のように黎に罵詈雑言を浴びせ、理不尽な使い走りをさせていたのだ。
まあ、お決まりのように、そんな悪女には、悪女らしい末路が待っている。黎のルートのハッピーエンドでは、鈴はヒロインの父親によって、売れっ妓芸者の立場を追われ、娼婦として売り飛ばされる。そして絶望の中、劣悪な環境に耐えられず死ぬことになるのだった。
私は前世の記憶を思い出した途端、なんとかしてこの末路を回避しなければならないと決意した。だからこそ、黎と出会ってすぐに、彼と仲良くすることにしたのだ。
悲惨な末路回避の第一歩として、私は黎と出会ったばかりの頃、『晦の夢見草』の鈴の行動を反面教師に、黎に私用の用事を頼むということをほとんどしなかった。代わりに、私は彼にいつも笑いかけて、そして親愛を持って接した。
その甲斐あってか、今では私たちは互いに一番の親友で、そして信頼できる幼馴染だ。
彼も、時々愚痴をこぼしたり、遠慮のない言葉を口にしたりするけれど、なんだかんだ言いつつ私と一緒にいてくれる。仲が良いというか、家族同然というか、私が無意識で口にする横文字を、彼もまた恐らく無意識で口にしているくらいだ。初めてそれに気づいた時には、長く一緒にいると口調が似てくるというのは、本当なのだなとかえって冷静に考えてしまったくらいだ。
ただ、私の末路回避の第一歩である、「黎に仕事を頼まない」というのは、結果として失敗していると言わざるを得ない。お互いに距離が近いせいないのか、結果として黎は私の世話をよくやくのだ。彼は置屋をうまく回していくための裏方のような人なのだから、皆の世話をやくのは当然といえば当然なのだけど、それにしてもちょっと私に割いている時間が長すぎる気がしてならないような気がする。
自由時間だろうが休日だろうがお構いなしに私に付いてまわって、私の代わりに荷物を持ち、私の代わりに買い出しへ行く。私の代わりに部屋の扉を開けてくれたときは、さすがに「それくらい自分でさせてちょうだい」と言わざるを得なかった。——これでは一見、私が黎を言いなりにしているように見えても仕方ない。元々それを避けるために仲良くしていたのに何故……と不思議でならない。
姐さん——同じ置屋で暮らす先輩の芸者さんたち——も「相変わらず仲が良いわねぇ」なんて、呑気に言っているけれど、私は黎が私のことで少しでもストレスを抱えているのではないかと思うと心配になってしまう。彼が私の為に何かをする度に、「自分でするから」と言ってはいるのだけど、聞いているのかいないのか……彼の行動が修正されることは今もないままだ。
思い返せば、幼い頃、黎は表情の変化が乏しい子だった。今でもどこか作り笑いが上手なところがあって、本心では何を考えているのかが時々読み取りにくい。とはいえ、私たちは毎日、何年も一緒にいたのだ。私が彼に向けている親愛を、彼もまた私に返してくれていることは分かっている。彼が私に付いてまわって世話をやくのも、多分彼なりの親愛の表現なのだろうと、私は自分を納得させることにしていた。
問題なのは、黎以外の攻略対象だ。私は前世の記憶が蘇ってすぐ、それぞれのルートで鈴がどのように関わっていて、どういった末路を辿るのかを改めて整理した。そして、兎に角ルートに入るきっかけさえ無くせば一番簡単だという、至極当然の考えに至ったのだ。——つまり、私が攻略対象に出会いさえしなければ末路を回避する方法を模索する必要すらないということだ。
だから、お座敷に来る上客の名前が『朱雀』というと聞いて、私は即座にお断りした。幸いにも、私を指名したお座敷ではなく、ここの置屋ならだれでも良いという要望だったから、私はそのお座敷には目もくれず、いつもの常連のお客さんのお座敷に行くところだった。
辺りが暗くなりきる少し前の時間帯。私と黎は揃って置屋を後にする。黎は、私が「自分で持つ」と言ったのを聞かなかったふりをして私の代わりに荷物を持った。お座敷の時間が次第に迫って来る。大丈夫だろうとは思うけれど、万が一にも遅れるわけにはいかないので、私たちは近道である狭い路地を歩くことにした。
「道が少しぬかるんでいるから気を付けて」
彼は足元に視線を向けながら、荷物を持っていない方の手で私の手を取る。
「私はもう十七ですけど、黎には私がまだ七歳くらいの子供に見えているのかしら……」
置屋で代々受け継がれてきた高級な着物を着ているのだもの。ぬかるんだ道どころか、例え火の上を歩かされたって私はこの着物をダメにするようなことはしない。
祭りが三ヶ月後に迫っていることもあって、最近は稽古も宴会もひっきりなしだ。黎はこの連続勤務のせいで、幼い見習いの子たちを稽古場に送って行くときの感覚が抜けていないのかもしれない。
「黎、あなた疲れてるのよ。今日は私を送ったらまっすぐ帰ってよく休んでちょうだい」
私は彼に取られた手を振りほどくと、返してもらおうと荷物に手を伸ばす。
ちょうどその時だった。
「姐さん! 鈴姐さん!」
なんだか遠くから焦ったような声が聞こえる。
「私、今呼ばれた?」
気づいていなかっただけで実は私も疲れていたのかもしれない。幻聴が聞こえるなんてなかなかだわ、と少し沈んでいたら、黎が、
「多分……」
と答えたので幻聴ではなかったことが証明された。——いや、私も黎も疲れているのならもしかして集団幻聴かもしれない。揃いも揃って幻聴が聞こえるほど疲れているなんて笑えない。
「誰かしら。追っかけとかだったら気づかなかったことにしたいんだけど」
現実逃避の思考を一度ストップして、冷静に考える。芸者姿で道を歩いているときに声をかけてくる人はスルーしてしまうに限る。大抵はお金を払う気もないのに私たちに接触しようとするろくでもない人か、物珍しさで声をかけてくる観光客なのだから。
「姐さん! 私です。ちとせです」
声が近づいてくる。彼女が名乗ったのが聞こえて、私たちはようやく足を止めた。
ちとせは、幼い頃から私が面倒を見ていた妹分だ。修行を始めたのが遅く、上達もあまり早い方ではなかったから、お座敷に出向くときは姐さんたちの手伝いばかりだったが、ついこの間、晴れて芸者デビューすることが出来た新人芸者だった。
「ちとせ。どうしたの、そんなに息を切らせて」
ぜえはあと荒い呼吸を繰り返しながらも彼女はなんとか声を出した。
「姐さん。ああ、兄さんもいらしたんですか。すみません、私姐さんにお座敷の時間が半刻遅くなったのを伝えないといけなかったことを思い出して」
思いもよらないことを告げられて、驚いてしまう。
「えぇ! 聞いてないわよ、駄目じゃない、自分がお座敷で私に伝える時間がなかったなら、せめて誰かに伝えるように言っておいてよ」
半刻——つまり一時間だ。ちとせは確かつい数十分前まで自分のお座敷の仕事があったはずだった。連絡が遅くなったのも仕方がない。しかし、半刻も遅くなったのだったら、私はもう少し長く置屋にいられたはずだ。皿洗いも掃除も中途半端な状態で、まだ年端のゆかない妹たちに投げ出してこなければならなかったことを思い出すとうなだれたくもなる。帰った時に皿が割れていたら、ちとせも一緒に片付けてもらうんだから、と一人決意したところに、
「本当にすみません」
という沈んだ声が聞こえた。私はつきそうになったため息をそこで飲み込むと、意識して明るい声で言う。
「もう、これからは気をつけてよ」
ちとせが頷いたのを見て、私も彼女を元気づけるように頷き返す。
「兄さんにもご迷惑をおかけしてしまって本当に申し訳ないです。これからは気を付けます」
ちとせは私の半歩ほど後ろにいた黎を見て頭を下げた。
「大丈夫。多分向こうで時間が潰せると思う」
いつも通りの黎の穏やかな声が聞こえる。黎は頼もしいことに、私と違ってこれくらいのアクシデントなら慌てない。むしろ、どのくらいの異常事態なら黎の平常心が崩れるのか、見てみたいくらいに、いつだって冷静だ。……単に大袈裟な感情の起伏が苦手なだけかもしれないと、私はなんとなく気づいてはいるのだけれど。
「もういいわよ。私たちはなんとかするから、ちとせは置屋に戻って、これからお座敷の仕事がある姐さんたちの準備の手伝いをしてあげてちょうだい」
ちとせが何度か頭を下げてから来た道を戻って行くのを見届けてから、私は黎に向き直る。
「私たちこれから一時間は待ちぼうけね。……まあ、久々に二人で色々喋れると思うと悪くもないかもしれないわ」
黎が目を細めてから頷いたのを見て、私はもう荷物を彼から取り返すことは諦めて、おとなしく手を引かれたまま、一緒にお座敷への道を歩いた。
仕事場である料亭の店主さんは私たちの災難を聞いて少し笑ってから、奥の小さな部屋を指し示した。
普段はここで働く人たちの休憩場として使われているというその部屋で、私はどこかの部屋から聞こえてくる笑い声や、忙しそうに歩き回っている仲居さんたちの足音を静かに聞いていた。
「こうして働いている人がいる近くでじっとしているのって、実は心苦しくてやりきれないのよね、今もこんな格好じゃなかったら厨房の仕事を手伝いに行きたいくらいよ」
「鈴は置屋にいても常に動き回っている気がする……働き者というか、落ち着きがないというか」
最後の一言が若干余計だ。でも、常に動き回っているという彼の意見には、我ながら同意せずにはいられなかった。
「きっと、前世でもう少し長生きできていたら、私はワーカーホリック一直線だったと思うわ」
私がしみじみと言うと、黎は笑って頷いた。
こうしてしばらく他愛のない会話を交わしながら時間をつぶしていたら、入口の方が少し騒がしくなってきた。お客様がいらしたらしい。予定よりちょっと時間が早いけれど、丁度良い。せっかく早めに来ていたのだからお出迎えでもしようと、私が部屋から出た、その時だった。
何度も立ち絵とスチルで見たことがある赤色の着流しが目に入る。黎に初めて会ったときと同じ衝撃を感じた。
そこにいたのは、まさに今お座敷を去るところであろう朱雀だった。おかしい、朱雀のお座敷に行った姐さんが女将さんに報告していた終了時間よりもまだ半刻は早い。私は頭の中でこの失敗がなぜ起こってしまったのかを必死に考える。——きっと何らかの形で彼の宴会は早めにお開きになっていたのだ。そんな話は『晦の夢見草』で書かれていなかったのに!
ああ、あのまま部屋でおとなしく時間になるのを待っているべきだった。気を利かせてお出迎えなんかに出てこなければ、こんなピンチに陥らずに済んだはずだ。
私の代わりに朱雀のお座敷に出向いていた姐さんとすれ違い、軽く会釈する。どうか、このまま何事もなく終わりますように。
「この芸者は、君の置屋のところの子なのか」
朱雀が姐さんに尋ねているのが耳に入る。顔を上げたくない。早く行ってくれないだろうか。
「そうですよ。若手では一番の売れっ子です。綺麗な子だし、本当に努力家で」
姐さん、こんな状況じゃなかったらとても嬉しい言葉なのですが、今は余計なこと言わないでいただきたいです。と、心の中で念じるけれど、通じるはずもない。
やがて朱雀は私の横を通り過ぎた。思わず呼吸が止まる。彼の一挙一動が、流れて行くような赤が、上品な香の香りが、私の心を揺り動かした。
もしこの世界線が朱雀のルートであるのなら、私たちはここで『出会わなければ』ならない。でも、どうか、お願いだから。
彼が入口の方へ歩いて行くのを見て、私は少し安堵する。違ったのかもしれない。ここは、私たちが出会うことがない世界線なのかもしれない、と嬉しくすら感じた。……だから、油断したのだと思う。もう大丈夫だろうと、顔を上げてしまったのだ。
「名前を教えてくれないか」
朱雀が振り返ったことで、私とばっちりと目が合う。
あぁ、終わった。