【7】 悪い夢
赤い赤い真っ赤な夕焼け。
陽は西の方角にある山の裏に隠れてしまった。
山に遮られた太陽はそれでも空に真っ赤な色を映す。まるで蓋をするように、赤い夕焼けは空一面に重く濃く覆いかぶさっている。
わたしは神社の境内に立っていた。
ほかには誰もいない。
──静かだ。
どうしてわたしはここに居るのだろう。
「だれかいますかぁ?」
この静けさを破ってはいけない。そんな気持ちもあったが、不安のほうがそれを上回った。戸惑いながらも恐る恐る出した声はまるで少女のように高かった。
その声に応える者はいない。
笹の葉をさらさらと揺らす風が吹いているだけ。
ふと、視線を落として手をみた。わたしの手はふっくらとした子どもの手だった。
ああ、そうだった……。
どうして忘れていたのだろう。
わたしは李依瑠ちゃんとかくれんぼをしているのだ。
「もぉーいーかーい」
周囲を見回しながら問いかける。
「まーだだよ」
境内を反響して返ってくるのは李依瑠ちゃんの声だ。
しばらく待ってからふたたび尋ねてみる。
「もぉーいーかーい」
「まーだだよ」
そんなやり取りを数回くり返した。
「李依瑠ちゃん、まだぁ?」
待ちきれなくなり、返事を待たずに探しにいこうとしたときに、背後から玉砂利を踏む音がした。
李依瑠ちゃんだ。
そう思い振り向くと──
そこに立っていたのは白目をむいた中野だった。
生え際が後退して広くなった額には、ぱっくりと横に開いた傷がある。破れた皮膚のふちに溜まった血は黒く固まりかけている。その中の赤黒い肉はむきだしになっていた。皮膚に掘られた穴のような傷からは、心臓の拍動に合わせるようにして滴る赤い血液。それは顔中に垂れ流れていて、まるで赤い涙を流しているようにも見えた。
あまりにもグロテスクな姿に息も止まるほど驚いてしまった。恐怖に身体は強ばる。動けなかった。
中野は「あ……あ……」と、地の底から響いてくるような唸り声を、絞り出すようにして喉から発していた。わたしにゆっくりと腕を伸ばしてくる。
白目がぐりんと動いた。濁った灰色の瞳が現れる。その生気のない虚ろな瞳はわたしを捕らえた。
赤い血は真っ赤な夕焼けと同じ色。
淀んだ灰色の瞳はどうみても生者のモノではない──
中野の小刻みに震える腕は、もうすぐにもわたしを捕らえようとさらに伸びてくる。
後退りもできない。声もでない。
それでも声にならない声で必死に叫ぶ。
いやだ……こないで! こないで! こないで!
触らないで! 触らないで!
触らな──
「はあ──っ!」
目を覚ますとオレンジ色の常夜灯に照らされた部屋の天井が見えた。
心臓の鼓動は暴れまわっている。苦しい。呼吸も荒い。額を手の甲でぬぐうとびっしょりと汗をかいていた。冷たい汗だった。深く息を吐く。
夢──
ベッドからのそりと身体を起こした。
震える両手をゆっくりと広げてみる。閉じたり開いたりして確かめる。
大丈夫。子どもの手ではない。
今の……大人になったわたしの手だ。
その手のなかに顔を埋める。
大丈夫。
これは、ただの夢。
これは夢。
現実ではない。
✾✾✾
「先輩。顔色が悪いですよ」
ファイルを受け取ると、心配そうに奈津美が顔を覗き込んできた。
「大丈夫よ。寝不足なだけだから」
「ゲームとかやってるんですか?」
「違うわよ。ちょっと眠りが浅くてね」
恐ろしい姿になった中野の夢を見て以来、似たような夢を見続けていた。うなされて深夜に目が覚めてしまう。
スマートフォンで時間を確認すると午前三時。深夜ではなく、もはや早朝か。
いったん起きてしまうと起床時間の六時までは眠ることができないでいた。
ただの夢だとわかっている。それでも最近は眠ることも憂鬱に感じはじめていた。
いつも神社の境内に立っている。そこで李依瑠ちゃんとかくれんぼをしている。
「もぉーいーかーい」
「まーだだよ」
そんなやり取りを数回繰り返すと、玉砂利を踏む音がする。李依瑠ちゃんだと思って振り向くと──
そこに立っているのは、もはやお馴染みになってしまった額から血を流した中野だけではなく、恨みがましく上目で睨んでくるボス鈴木だったり、安っぽい化粧をきめの粗い肌に施した会ったこともない壮年の女性だったり、ほかの見も知らぬ誰かだったりする。
中野の夢を見た朝は一番に和葉にLINEをした。まさかとは思ったが、一応、中野の容態を確かめたのだ。和葉からの返信はすぐにきた。意識はもどってはいなかったが比較的に容態は安定していて、集中治療室から個室へと移ったとのことだった。
「ファンデーションを塗ってるのに顔色が悪いって相当ですよ。このところ忙しかったですからね。ストレスじゃないですか?」
「そうかもね」
「ストレスはきちんと発散させたほうがいいですって。私でよければ付き合いますから。週末に飲みにでも行きます? ちょっとお洒落なバーを見つけたんですよ」
「うぅん……。ありがと。でもまた今度ね」
気にかけてくれる気持ちは嬉しい。だが、今のわたしに必要なものは良質な睡眠だった。
ランチタイムに眠気覚ましも兼ねて、オフィスが入っているビルの別階にあるカフェへとコーヒーを買いにいった。
夢を見て起きてしまったあとには眠れないくせに、そのぶん昼には眠気が襲ってくる。……まったく困ったものだ。
注文をしたそのカフェのオリジナルブレンドを待っている間にスマートフォンに着信がある。
母からの電話だった。
平日の昼間に電話をかけてくることはめったにない。たいていはLINEで済ませることが多い。それでも声を聞きたいときや話しをしたいときには、夜の八時を過ぎてからかけてくることが普通だった。
「凛花? お母さんだけど。仕事中にごめんね。今は話していて大丈夫?」
「うん。昼休みだから大丈夫だよ」
「そうなの、よかったわ。……樹から今朝に聞いたの。蓮くんのこといろいろ。和葉ちゃんから聞いてる?」
「うん。和葉から連絡きた」
「そうなのね……。電話するのが遅くなってごめんね。あなたは大丈夫?」
「大丈夫だよ」
そう答えた。だが、本当に?
わたしの中のわたしはそう問いかけてくる。
「それならよかったけど……。無理はしないのよ。遠慮なんかしないで、なにかあったらいつでもいいからすぐに連絡をよこしなさいね」
「わかった。心配してくれてありがとうね。そっちはなにか変わったことはない?」
「こっちは大丈夫よ。なにもないわ」
その答えに安堵したが、すぐに母は続けた。
「それでね、もうひとつ用事があって。昨日の夜に鈴木恵さんて人から電話があったの。凛花の連絡先を教えてほしいっていうのよ」
鈴木恵?
なんでボスが? わたしに何の用があるというのか?
夢での憎々しい視線を思い浮かべる。
「なんだかとっても急いでいるみたいで……。鈴木さんて、凛花の同級生だった子よね? でも、お母さんが勝手に教えるのはよくないと思って」
「うん。それで?」
「凛花が連絡先を教えてもいいなら、あなたから鈴木さんに連絡をしてもらったほうがいいと思うのよ。鈴木さんにもそう伝えておいたから。ケータイの連絡先を聞いといたの」
「そう……」
「電話を切ったら番号を送るわね。どうするかは凛花が決めてくれる?」
「わかった」
「だけど……なんだかね、鈴木さんの勢いがすごくて。ひどく差し迫った感じで様子がおかしかったのよ。『大至急お願いします』とかって。お母さん、ちょっと怖かったの」
「そうなの?」
「大丈夫かしら? 連絡するの? お母さん、凛花がなにか変なことに巻き込まれないか、そっちも心配」
「変なことって……。わたしに何の用があるのかわかんないけど。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「そう? へんな勧誘とかじゃなければいいんだけど。壺とか数珠とか売りつけられないでね」
「買わないってば。あ、そろそろ時間だから」
「あら、ごめんね。そうそう! あともうひとつだけ!」
「へんなことじゃないんだけど」という前置きがあり「さっちゃんがつかまり立ちしたの! もうすぐ立ちそうなのよ。本当はもっとハイハイしてから歩きだしたほうがいいんだけど」。
電話を切るとすぐにボスの携帯電話の番号が送られてきた。
ボスは同窓会のときにだって近付いてもこなかった。話しかけてもこなかった。
母には心配しなくても大丈夫とは言ったものの、ボスの用件などまったく見当もつかない。母の言うように、大至急の用件が壺を買いませんか? とかだったならば、もちろん即座に断るけど。
できあがったコーヒーを受け取ってオフィスにもどる途中にそんなことを考えていると、ふと背後に気配を感じた。
視界の端に黒いスニーカーがのぞいたような気がした。