【6】 兆し
「あの……余計なお世話だったら聞き流してください。もし悩んでいることがあるなら、よかったら相談に乗れるかもしれません」
そんなことを言われて箸をとめる。目の前の男をちらりと上目に見た。
「先輩は最近、元気がないから」と、後輩の奈津美に食事に誘われた。……と思ったら、合コンのメンツが足りないという理由の数合わせだった。ひとりにドタキャンされたらしい。
今はまったくそんな気になれない。「悪いけど」と断った。それでもお願いしますと拝まれて、頭まで下げられてしまった。
「今日はそれでなくても女子の人数が少ないんですよぉ」
奈津美のその言葉に、そもそもまだ女子枠に入れてくれるのか……とも思った。
彼女の必死の様子に内心ではため息をつきつつも、気分転換にはなるかもしれないと、一次会だけの約束でひたすらに会費分の料理を皿に取っていた。とはいっても、そこまでの食欲はない。
遠慮がちに声をかけてきた男は、たまたま目の前に座った不動産会社の営業だった。歳はわたしよりも若いように見える。営業職らしく、ぱりっとしたスーツを着ている。押し付けがましくもなく、人当たりのよい話し方をすると思った。
アルコールを飲んでいるとはいえ、記憶が曖昧になるほどではない。悩みごとをこの彼に話した覚えもない。
「……なにか悩んでいるように見えますか?」
そう訊くと彼は答えることもなく、曖昧に微笑んだ。
ああ……。なるほど、そういうことか、と合点がいく。悩みがない現代人なんかいないものね。そうやって心の隙をつついてくる作戦ですか。そんなことはもっと若い子にやればいいのに。
わたしも曖昧に微笑う。今は本当にそんな気分にはなれない。箸を動かして料理を口に運ぼうとする。
「気のせいかなとも思ったんですけど。小さい……っていっても小学校の高学年くらいの女の子かな? ときおり、あなたの傍にいるみたいなんで」
「……」
箸を止めて、思わず息を呑んで目の前の彼を見た。
✾✾✾
「改めまして、一倉凛花と申します」
「矢井田正宗です」
そこそこに盛り上がっていたメンバーが二次会へと流れるなかを抜け出して、矢井田さんとふたりで喫茶店にいた。向かい合って名刺の交換をする。その名刺には、聞いたことのある不動産会社の社名が印刷されていた。
「あの……単刀直入にうかがいますけど、矢井田さんってその……視える方なんですか?」
思わず声をひそめる。
喫茶店内はかなり混んでいた。賑やかな週末の喧騒と穏やかな温かい色の照明に、現実から離れたこんな会話は似つかわしくないように思えた。
「はっきりと視える、というわけじゃないんですが……」
矢井田さんはまたもや曖昧に微笑う。もしかしてこれは、板についてしまった営業スマイルなのだろうか。
「それで……さっきの話なんですが。女の子がいるって……?」
「あの、先に断っておきますが、俺はあなたを怖がらせようとか、怖がらせて何かを売りつけようとか、お金をむしり取ろうとか、それに託つけて連絡先を交換しようだとかどうこうしようとか、そういった下心的なことは……一切ありません」
どちらともとれない表情をするわりには、はっきりと言いきった。最後はいささか詰まったみたいだけど。
「はあ……」
なんというか……多少は警戒していたことを自ら言ってしまう率直な物言いに、かえって毒気を抜かれてしまった。
小学校高学年ほどの女の子が視えると言われたときは驚いた。だからといって本物だとは限らないと頭の隅では思っていた。可能性としては詐欺だとか、例の中野の動画をたまたま見た希少なひとりなのかもしれないのだ。
「俺は多少勘が働くくらいで……。知り合いにそういうことを任せられるヤツがいまして。もしお困りなら、連絡をつけることができますから……。お知らせしておこうと思ったんです」
「……」
「あ、別にお困りじゃなければ全然いいですので」
矢井田さんは慌てたように両手を振ってその前の言葉を打ち消した。
気配をときおり感じるような気がする。スニーカーとジーンズが視界の隅に入るような気がする。すべて気がするだけだ。今は特になにかそのことによる支障があるわけではない。
おそらくこれはわたし自身の問題だ。
必要なのはメンタルクリニックへの通院だと思う。
でも……もし、そういった現象が本物であるのならば……。
二分の一を引かなかったわたしは恨まれている……そういうことなのだろうか。
「一倉さん?」
矢井田さんは黙ってしまったわたしを訝しげに覗き込んだ。
「あ……すみません。少し考えます」
「わかりました。ちょっと失礼します」
矢井田さんは渡してくれた名刺に、ボールペンでプライベートの携帯電話の番号を書き込んだ。
「これ、俺の連絡先なので。必要であれば連絡してくださいね」
矢井田さんはそう言うと、また曖昧に微笑んだ。
✾✾✾
「先輩、週末はどうでした? 一次会のあとに不動産会社の人と消えたでしょう? ふたりで一緒にどこかへ行ったって聞いてびっくりしましたよ」
翌週の月曜日の朝に奈津美はそう言って笑った。残念ながらそんな艶っぽい話ではないのだけど、本当のことを言っても引かれてしまいそうなので曖昧に微笑む。矢井田さんの営業スマイルみたいだ。
「それで、どうなんですか?」
トイレの鏡に向かって、保湿のためのリップクリームを塗り直しながら奈津美は微笑う。
「なにが?」
「いい感じですか? 付き合うとか?」
「いやいや、そんなんじゃないの。ちょっと趣味が合う人みたいだったから、喫茶店でお茶を飲んだだけよ」
「えっ? それだけですか? インスタの交換とかは? 次の予定は?」
矢継ぎ早に質問を繰り出す彼女を「うーん……どうかな」とはぐらかして、先に仕事にもどる。
矢井田さんには少し考えると言ったものの、実際にどうするかはまったく考えてはいなかった。
まだ、このときまでは。
✾✾✾
『昨日の夜 中野が車で事故った!』
社食で頼んだ本日の定食のAランチ。それについてくるミニサラダのレタスをフォークでつついていると、テーブルに置いたスマートフォンが低い音を立てて震えた。
和葉からのLINEだった。
立て続けにスマートフォンが震える。
『頭を打ったらしくてまだ意識はもどってない 車は横転して廃車』
『今は面会謝絶になってる』
『旦那が聞いてきた 見通しのいい道路での単独事故だったって』
中野が……。
『バチが当たったんじゃないかって噂になってる』
すぐさま脳裏に浮かんだのは動画の映像。
神社で映った李依瑠ちゃんの黒いスニーカーとジーンズ。
返信の文字を何回も間違えながら入力した。焦りもあり、指がすべってしまう。
『和葉は? なにかヘンなことはない? 大丈夫?』
『なんで私? 別にないよ 大丈夫』
すぐに既読がつき、笑顔の顔文字が一緒に送られてきた。
『よかった』の文字と一緒に同じ絵文字を送る。
和葉は大丈夫だと聞いてほっと安心はしたものの、食欲はすでにどこかへと消え失せていた。
Aランチのトレーを端によける。財布を広げてカード入れから一枚の名刺を取り出した。
矢井田 正宗。
名刺の隅にはスマートフォンの番号が書かれている。その数字をじっと眺めた。
中野の事故は、ただの偶然?
それとも……和葉が言うようなバチがあたったの?
中野にバチが当たるというのなら。
わたしには……。
やっと正宗の登場です。
★矢井田正宗
拙作のホラー作品『憑いてます』に登場する人物です。
タグにも「スピンオフ的な」と入れましたが、『誰そがれかくし』の主人公は凛花です。
『憑いてます』を読まれていなくても大丈夫なように描いております(*´꒳`*)
もしご興味がありましたら『憑いてます』も覗いてくださるとたいへん嬉しいです。こちらでは正宗もちょろっと活躍しております<(_ _)>