【5】 動画チャンネル 2
部屋に帰るとすぐに暖房をいれて、すべての部屋の明かりをつけた。
お腹は空いているはずなのに食欲はなかった。夕食用に買ってきたサンドイッチを冷蔵庫にしまう。
お風呂の湯をためる気にもならなかった。浴室で使うことのできるスピーカーを壁に取り付けて、陽気な雰囲気のポッドキャストを流した。なんでもいい。とにかく誰かの賑やかな音がほしかった。静けさには耐えられないような気がした。
シャワーを頭から浴びて気持ちを落ち着かせた。熱い湯をかぶりながら、顔に流れ落ちてくる湯の滴もそのままにして頬を伝うにまかせる。
中野があんな動画をつくるなんて──
憤りはもちろんある。だけどそれ以上に裏切られたような気持ちもあった。
多かれ少なかれ全員が同じ痛みを分かつ当事者だと思っていた。それなのに中野は当事者のふりをしながらも、自分だけは部外者だといわんばかりに李依瑠ちゃんとわたしを痛めつけた──
会社や学校やバイトや遊びからの帰りや、あるいはこれから出勤する人たちが映し出されていた暗い窓に映ったあの少女。
中野の動画に不意を突かれて動揺していた。見間違いだと言われてしまえば反論はできない。だけど間違えるはずはない。あれは李依瑠ちゃんだった。ほんの一瞬だけ。まばたきをすると消えていた。
……いいや、違う。
そんなはずはない。
見えたと思ったのはやっぱりわたしの錯覚だ。
李依瑠ちゃんはあんな姿のまま、あんな場所にいるはずがない。
シャワーからあがると、熱いコーヒーを淹れて黒い液体に砂糖とミルクを放り込んだ。
覚悟を決めて途中になっていた動画を改めて再生する。
画面の中の中野は『神隠し事件』の概要のあとに、自分がそれにどうかかわったかを滔々と語っていた。そのあとに当時に警察から「何か知っていることはないか?」と聴かれた面々の話を要約していた。
小学生だったわたしたちには、警察は自宅に訪ねてきて聴き取りを行った。小学校の教師たちには校長室において、それぞれに聴き取りが行われたらしい。
事情を訊かれた主要な児童の情報はどこからか週刊誌にリークされた。事件の報道が下火になるまで、わたしは母の運転する車で登下校をすることになった。
「当時、吉田李依瑠さんと最後まで一緒にいた友だちの証言では、李依瑠さんとは神社の階段下で別れたということになっているんだよね。お互いの家の方向が反対だったから、そこで別れたということらしい。十月の防災無線の放送は夕方の四時半に流れるんだ。それは当時も今も変わってないよ」
『現場へ』という赤いテロップが流れて画面が切り変わる。
「会長たちは今、その神社に来ているんだけど……」
両脇を笹が生い茂る、苔の生えた古い石階段をのぼる映像。カメラを持っているのは中野だろうか。腕時計が撮される。時計の針はちょうど四時半を指している。笹林の隙間からときおりに映る空は、夕暮れの色をしていた。
防災無線からはあのメロディが流れているのが聞こえる。
石階段をのぼりきる。ひびのように塗装が剥がれかけて、退色した朱色がはりついた鳥居をくぐる。
「この時間でも神社はかなり薄暗いし、なんか雰囲気も怖いよねぇ」
そこからは小さな古い木造の社まで、一直線に続く短い参道だ。境内には誰もいない。社の背後にある、狭い遊び場にも人の気配はしなかった。
「やっぱり人はいないね。今はここで遊ばせる親もいないと思うし」
カメラは社を撮してから、木造平屋の古びた小屋のような社務所や境内を順番に収めていく。
風に揺れる笹のさわさわとした葉擦れの音が映像に入り込む。
あの日以来、なにも変わっていない。
二十年ぶりに見た光景だ。
「あんな事件もあったからだけど、単純にここはなんだか静かすぎて気味が悪いよ。よくこの時間に女の子ふたりで遊んでたなぁ」
玉砂利を踏む音がする。カメラを持ったまま境内を歩き回る画像が続く。
その画角が一瞬だけ下にずれると画面にノイズが走った。
その画面の端に黒いスニーカーとジーンズをはいた子どものような小さな足が映り込む。
途端にカメラは天地の制御を失った。境内の玉砂利や夕暮れの空や社務所などがぐるぐると回る画面に撮し出される。中野たちの叫び声が入る。「ちょっ!?」「なにいまのっ?!」「え!?」「映ったよな!?」「いないじゃん!」
再び正しく撮影が開始された映像には、周囲を探すようにして社や社務所が映し出された。だが、なにも、誰も映ってはいなかった。
あの黒いスニーカーもジーンズも……憶えている。
これ以上は耐えられなくなり動画を切った。
息を吸っているにもかかわらず、また呼吸が苦しい。
鼻から深く息を吸い、口からゆっくりと息を吐き出す。
落ち着くためにそれを繰り返していると、ローテーブルの上のスマートフォンがブブブゥーと低い振動音を立てた。驚いてびくっと身体が揺れてしまう。あまりにもタイミングがよすぎて心臓に悪い。
画面を覗くと和葉の名前が表示されていた。
「凛花? 遅くにごめんね。今、話してて大丈夫?」
和葉の声は張りつめて重くなった部屋の空気をとばしたような気がした。相手の都合をきちんと考慮してくれる和葉。その気遣いになんだかほっと安心する。こちらへと引きもどしてくれるように、緊張して固く強ばった筋肉がほぐれていく。
「中野の動画は観た?」
最後までは観ていないと答える。
「そっか……ごめん。凛花に報せようかどうしようか迷ったんだけど、やっぱり一番の当事者があとから知るのはまずいかなと思って……」
「うん。ありがとう」
「いくら演出だからって、ちょっとアレはやり過ぎだよね。まだ行方不明なだけなのに。あれじゃまるでさぁ……。同窓会の動画も顔はモザイクをいれてたけど、関係者にはまるわかりでしょ。うちの旦那も中野に連絡して削除しろって怒ってた。地元の子たちもだいたい同じ意見だよ。中野に動画を削除するようにって抗議してる。……動画を観てなんて送っちゃったけど、ごめん。もう観なくていいよ。たぶん、すぐに削除されるから」
中野に対する怒りで興奮した声の中にも、わたしを心配してくれる色が混ざり込んでいる。
「……うん」
そのあとも暗い雰囲気を変えようと和葉はいろいろと話をしてくれていたが、ほとんど覚えてはいない。鼓膜を通り抜けただけだった。
演出……と和葉は言った。それは画面の端に映った、本来ならば映るはずはない黒いスニーカーとジーンズのことなのか。
あれは、少なくとも和葉には演出にみえたのだ。
あれは──李依瑠ちゃんのものだった。
李依瑠ちゃんは──ずっとずっとずっと、二十年前のあの日から、あの神社にいたのだろうか。
✾✾✾
中野の投稿した動画はそれから数日で削除された。和葉によると、地元からかなりの抗議を受けたらしい。中野は謹慎するといって、しばらく引きこもっているとのこと。でも、それも反省をしている自分を見せるためのパフォーマンスだと、和葉はばっさりと切り捨てた。
もともと中野の動画の登録者数は多くはない。だから再生回数も大したことはないとも言っていた。チャンネルの登録者数を増やすためにバカみたいなことをした、というのが周囲の見解だそうだ。
あの夜以来──
会社帰りの電車の窓に李依瑠ちゃんらしき少女を見て以来。気配を感じることがときどきあった。
ふとした瞬間に、横や背後に誰かが立っているような……。見えるわけではない。李依瑠ちゃんだという確証もない。ただ、そんなときにはあの黒いスニーカーとジーンズが目の端に映るような気がする。見ようとしなければ視界の端に映る。見ようとして視線を動かすと消えてしまってなにも見えない。
気のせいだと思うようにした。
二十年前の事件に連なることをきっかけとして記憶が刺激され、さらに連鎖して細かな記憶と当時の感情が呼び起こされたのだ。そのせいで幻覚に似たものを見る。あり得ない話ではないように思う。
あの日。
わたしと李依瑠ちゃんはふたりで遊んでいた。ふたり一緒に神社の石階段を降りた。だけど──いなくなったのは李依瑠ちゃんだけだった。
わたしは李依瑠ちゃんがどこかで元気に暮らしているような気がしていた。
そう思いたかった。思おうとしていた。
根拠などはなにもない。
ただそうあってほしいという願望だ。身勝手な親の元から離れて幸せになっていてほしい。
そう思うことで子どもの心には重すぎて受け入れられない現実を遠ざけていた。
それに……そのことだけがわたしの呵責を軽くしてくれた。ひとりだけ、無事に家に帰りついたわたしの罪悪感をぬぐってくれるように思えた。
帰ることができなかった李依瑠ちゃん。
帰ることができたわたし。
一緒にいたふたり。それなのにいなくなったのはひとりだけ。
ずっと……考えないようにしていたことがある。
李依瑠ちゃんは……わたしを恨んでいるのだろうか。