【32】 ルール
若干ですがPTSD(身的外傷後ストレス障害)を思わせる文章があります。
イジメに関係する文章があります。
苦手なかたはご注意ください。
くすくすと笑う李依瑠ちゃん。
「つまんない」って……聞き間違いだよね?
「今……なんて……?」
「つ・ま・ん・な・い。って言ったよ。もうやめちゃうなんてつまんない。だって、そうでしょう?」
李依瑠ちゃんは当たり前のことだというように続ける。
「凛花ちゃんだってそう思ったんだよね。中野くんは悪いことをしたって。李依瑠と凛花ちゃんを傷つけたって」
「う……ん、そう思った。だから、わたしが中野にちゃんと抗議をするよ。李依瑠ちゃんはもう、わたしの代わりにこんな苦しい思いはしなくていいんだよ。こんなことをしなくていいんだよ。つまんないなんて……そんなことを言わせてごめんね」
わたしが中野を憎いと思ってしまったから。李依瑠ちゃんをわたしの感情に同調させてしまったから。わたしのせいだから。わたしがきちんとするから。
李依瑠ちゃんにはもうこれ以上は、こんなことはさせられない。
「李依瑠ね、ずっとずっと思ってたことがあるの」
楽しそうにくすくすと笑い声を立ててはいるが、李依瑠ちゃんの目は笑ってはいない。
「なに? なんでも言って。なんでも聞くよ」
「あのね、傷つけられた人は、どうして傷つけられたままでいなくちゃいけないの? やり返したっていいよね? 悪いことをした人は、悪いことをした分の報いを受けるのは当然のことだよね?」
「それは……」
「やられたらやり返す」こと。感情論からすれば被害者側には、受けた害と同じことを加害者側にやり返す権利があるようにも思える。
精神的、身体的、物理的に一方的に害を受けた者は、悔しく痛く悲しい思いを自身の内に抱えることになる。
その感情を抱えたまま生きていくためには、無意識下でも当時の記憶を封印したり、忘れようと努力をしたりしなければならない。自分自身の心を壊されないように、深い場所に感情を押し込め、留め続けるしかない。
それでも心身の傷痕は、何年もの時間を経ようが突如としてフラッシュバックされることもある。味わった苦痛や屈辱、恐怖などは鮮明に甦り、苦しめられる。
受けた害の大小は他人が判断することではない。信頼していた者からの被害や、好ましく思わない者や組織から受けたと感じる害は、さらに悲しみや悔しさ、恨みや怒りなどを増幅させるだろう。容易に受け流すことなどできない。それは間違いないはずだ。
実際に、中野にだってわたしはその感情を抱いたのだから。
「やられたらやり返す」行為は被害者の持つ権利にも思える一方で、しかし、それを行ってしまってもいいのだろうか? という抵抗を感じることもまた、たしかなことだった。
二律背反のような複雑な感情を持ってしまうのは、理由のひとつとして、「良心」を持っているからだ。
幼いころから大抵の人間は、人の嫌がることをしてはいけないと教えられているはず。なぜならそれは善くない行為であり、正しくないことであり、道徳に反するから。
正しくないことは悪いこと。悪いことはしてはいけないこと。忍耐は美徳だという考えもある。その思考は心のもっと深い部分に「良心」として根付いている。
やり返す行為は自分の良心に背くことになり、葛藤が生まれる。
法治国家に生まれ育ったことも理由になる。
法律というルールに基づいて権利は保証され、平和な社会生活は成り立っている。
法律に従うのならば、私的な制裁は禁止されている。もし私刑をくわえたのなら、法律違反として処罰の対象になってしまう。感情にまかせて行動に移してしまえば、今度は自分が加害者となり、法律によって裁かれる。そのことも報復の抑止力のひとつとして働いているように思う。
わたしは聖人君子でもないし、正しいとされていることだけを行って生きてきたわけでもない。「大抵」側にいる極めて普通の人間だ。
右の頬を打たれても左の頬を差し出すこともない。そのままのやられっぱなしに疑問も感じる。
それでも、堪え忍ぶことや同じ痛みを与えることを、単純に肯定することも否定をすることもできないでいる。
「凛花ちゃんはさぁ、中野くんを赦してあげたいの?」
視線を足元に落とした李依瑠ちゃんは、玉砂利を爪先でかき回しながら小さな円を描きはじめた。
「中野は……これ以上はもう……」
「赦す」という物言いには抵抗を感じた。
中野を「赦す」とはいえない。中野のしたことを赦せるとは思わないからだ。
加害した者が害を与えた者に「赦し」を乞うのは、被害者のためではなく、自分のためだと思うから。
赦されることができれば心は楽になる。反省をすることもあるだろう。だが、精神的にせよ物理的にせよ、与えた傷は消えることはない。
被害者は「赦し」を与えたとしても「赦さなかった」としても苦しむことになる。前者も後者も自身の心に苦しめられる。なにかを憎み続けることは呪い続けることだ。それはとても苦しく、膨大なエネルギーをも必要として疲れきってしまう。そして枷を嵌めることになる。自分は「赦せない」人間なのだと。優しくはない人間なのだと。
加害者の傲慢に、被害者はどこまで寛容にならなければいけないのだろう。
中野を「解放」してほしいという願いは、李依瑠ちゃんのため。わたしのため。ただし、これもエゴだと解っている。
「中野を赦すとか、赦さないとかじゃないの。今は李依瑠ちゃんの苦しさをなくしたい。恨むことや憎み続けることって辛いし苦しいよね。李依瑠ちゃんが中野の意識を閉じ込めたのは、わたしが中野を呪ったからなんだよ。李依瑠ちゃんはわたしに同調してくれたんだよね。ありがとう。でも……そんな気持ちを持ち続けることって楽しいことじゃないよ。わたしも苦しいよ。だからもうやめる。だから李依瑠ちゃんも、もうやめていいんだよ。もうやめようよ」
頬を伝って落ちる涙はいつの間にかとまっていた。
「あのね……さっきから凛花ちゃんの言ってることって、よくわかんない。李依瑠ね、ぜんぜん苦しくなんかないよ。だって楽しいもん」
足元に描かれる円が徐々に大きくなる。
── ジャリジャリ
「楽しい……?」
「そうだよ。とっても楽しいの」
── ジャリジャリジャリジャリ
李依瑠ちゃんはにっこりと微笑んだ。
爪先でかき回す玉砂利の音が大きく耳に障る。
── ジャリジャリジャリジャリジャリジャリ
先ほど覚えた李依瑠ちゃんの違和感の正体は……。
記憶のなかの李依瑠ちゃんは、こんな目で笑っただろうか。こんな仄暗い雰囲気をまとっていただろうか。
わたしが忘れてしまっているだけなのか。思い出というフィルターにかけてしまい、過去を美化させているだけなのだろうか。
姿形は同じ。だけど、少なくとも目の前にいる李依瑠ちゃんは、わたしの知っている ── 教室の小さな水槽を泳いでいるメダカに一緒に餌を落としたときに、小さな生物に優しい眼差しを注いでいた李依瑠ちゃんではなかった。
『荒魂』
ふっと、夜須さんの声が耳元で聞こえたような気がした。
「ねえ、じゃあ考えてみて? 凛花ちゃんは、鈴木さんや柿本さんや石田さんも赦してあげるの? 酷い悪口をたくさん言われて、無視もされて、仲間外れにもされてイヤな思いをたくさんさせられたよね? 鈴木さんたちは笑ってたよ。楽しいからでしょう? あの人たちは李依瑠と凛花ちゃんがどんなに悲しかったかなんて、どれだけ苦しかったかなんてずっと知らないままなんだよ。それでいいの?」
想像はできるかもしれないが、加害者は自らが与えた悲しみや恐怖や痛みを、本質的には永遠に知ることはない。被害者ではないからだ。
あれは遊びのつもりだったと云うかもしれない。反省していると云うかもしれない。
だがあまつさえ、時が経てば自分が痛みを与えたという事実さえもを忘れてしまうこともある。
周囲の景色が変わった。
空一面に赤い夕焼けが広がる加曽蔵神社ではなく、わたしたちは加曽蔵小学校五年三組の教室にいた。
読んでくださってありがとうございます。
む、難しい……(-""-;)
言語化もサブタイトルも何もかも……
でも、この山を越えれば!
お付き合いくださってありがとうございます!




