【27】 荒魂と和魂 9
「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり、布瑠部由良由良と布瑠部 ── 」
病室の窓は閉まっている。それでも室内には、本格的に降りだした雨の音が忍びこんでいた。風向きの影響を受けた大きな雨粒は、ときおり強く窓を叩く。遠くからの雷の音は断続的に鳴っていた。
個室のベッドに仰向けになって横たわる中野の身体には点滴の管が刺さり、心電図などの器械から延びたコードも何本もつながっている。
同窓会で会ったときよりも頬はほっそりとしていた。ほとんど血の気のない顔色は、蝋でつくられた人形のように白かった。まるで生気を感じない。
頭には白いネット帽子をかぶせられていた。額には大きなカットバンのようなものが貼ってある。車が横転したときに、額にも裂傷を負ったとのこと。額のケガは夢に登場した中野と同じだ。
心電図のモニターには規則正しい波形の緑色が表示されている。ピッピッという高い電子音も波形に合わせて鳴っていた。
中野の身体の上に掛けられた白い布団は、ゆっくりと上下に動いている。そのことで深い呼吸を確認できた。
中野は甲原市にある総合病院に入院していた。
事故当時に救急車で運ばれたのは上ヶ丘の救急指定病院だったが、そこでは対応しきれなかった。すぐに、甲原市内にある『甲原中央第一病院』に再搬送された。甲原中央第一病院には脳神経外科がある。
夜須さんは中野が眠っているベッドの隣に立つ。
手首からはずした勾玉を留めている組み紐を軸として、振り子にしていた。
勾玉はゆっくりと右に、左にと揺らされる。
「布瑠部由良由良と布瑠部 ── 」
唄うように繰り返されている不思議な文言。シャワーからバスタブへと注がれる水のように、言葉は病室へと満ちていく。
病院特有の消毒液の匂いの中に、獣の濡れた毛皮の臭いがどうしてかわずかに混じっていた。微かなそれは鼻腔の奥に不快に貼り付く。
病室の空調は整えられているはずなのに、空気は流れずに停滞していた。部屋の灯りも点いている。それなのに室内は、陽が沈みきる前の夕闇のように仄暗く感じた。
この異質な停滞感は、ボスの家で感じた澱みにも似ている。似てはいるが、同じではない。あの澱みをもっともっと煮詰めて凝縮したような……。比べ物にならないほどの気持ちの悪さが際立つ。
背筋に走る悪寒に、思わず鳥肌が立ってしまった。室内はコートを着る必要がないほど暖かいのに。
部屋の四隅は影が濃い。
夜須さんのジャケットの裾を握っている手は細かく震えてしまう。
この部屋は ── とても……気味が悪い。
余計なことを考えないようするために、夜須さんの声とゆっくりと振られる勾玉に意識を集中する。
普段に会話をする声とは違い、夜須さんの呪文を唱える声はとても響きがよい。ずっと聴いていても飽きることもない。鼓膜からすっと入り込み、心地よく身体中に沁みていくようだった。きっと、体内の波長と同じ1/fゆらぎというものを持っているのだろう。
勾玉をじっと見つめていると、だんだんにうっすらと光を帯びはじめてくる。瞬きをすると消えてしまう淡く白い光。そんな錯覚を覚えはじめた。
深く、息を吸って──
目を閉じる。
ジャケットをつかむ手にさらに力を込める。
気味の悪さを、怖さを祓うために。
夜須さんを通してとどくように。
中野 ──
今、どこにいるの?
あなたのしたことは許せないと思った。
だけど、こんなことを望んでいたわけじゃない。
もう、もどっておいでよ ……
✾✾✾
「なになに? わたしにできること?」
「和葉にしか頼めない」
中野のお見舞いに行きたい。できればそのときに、病室にはわたしと例の学者さんだけにしてほしい。
それを和葉にお願いした。
「面会時間にならお見舞いには行けるよ。甲原市内の総合病院に入院してるから。旦那がよく様子を見に行くんだけど、中野のお母さんとか弟くんとか、誰かしら付き添ってるって言ってたよ。ちょうど今日もね、夕方から旦那が病院にお見舞いに行くんだけど……だけどさ……なんでその学者さんと二人だけ?」
「あのね……」
無理は承知の上だ。
現代の最新医療でさえも中野の命をつなぎとめているだけの状況なのに、「中野の意識を取りもどすために必要な儀式をしたい」などと伝えたら。
わたしがもし中野の家族だったり、和葉の旦那さんのように中野と親しい友人の立場ならば、そんなオカルト的な宗教まがいの、怪しく胡散臭い申し出は不快に思う。不謹慎極まりない性質の悪い冗談だと怒るはずだ。
中野の撮影した神社の動画に写りこんだもの、事故、意識不明、気配、夢、望ちゃんのこと ──
それらは重なり過ぎていた。過剰な偶然の不可解さ。わたしはそれを知っている。だけど、彼らはそれを知らない。
そもそもオカルトやホラーな小説や漫画ではないのだから、こんなことを説明しても信じてもらえるとも思えない。普通の生活を送っていたのなら、まず遭遇することはあり得ない類いの話だ。以前のわたしなら、心療内科を受診することをやんわりと勧めていたことだろう。
だからこれは……夜須さんとわたしだけで行う必要がある。
そのためには和葉に協力してもらうしかない。
和葉を巻き込んでしまうかもしれない。一番の心配はそのことだった。話してしまったら、巻き込んでしまうかもしれない、では済まされない。確実に巻き込む。それに信じる信じないは別としても、和葉ならわたしの力になってくれようとするはず。
……本当に甘えてしまってもいいのか?
一度は決心したはずなのに、今になってはたと浮かんだその躊躇いは、一瞬だけ次の言葉を遅らせた。
それでも ──
『バイバイ』
赤い夕焼けの下。何度も何度も振り返った。何度も何度も手を振った。明日も会えると思っていた。
わたしの手は、もう小さい子どものものではない。
今度は……今なら。
「……あのね」
中野の動画を見たあの夜から今日までにあったこと。夜須さんのことも含めて、それらをざっくりと説明した。すべてを話し終えるまで、和葉はなにも言わずに聴いてくれた。それからしばらくの沈黙のあと「やっぱりねぇ。なんかおかしいと思った」と、かなり意を決して伝えたわりには、軽い返事があった。
「凛花がそう言うなら、きっとなにかの理由があるとは思ったんだけどね……」と、和葉。
「イヤな思いをさせちゃうかなと思って凜花には言ってなかったんだけど……。ちょっと前にね、石田さんが拝み屋さん家から出てきたのをたまたま見ちゃって」
拝み屋さん。
お寺でも神社でもない。なにかの宗教団体の施設なのか個人の施設なのかもわからない。普通の民家の玄関先に白い鳥居を立てて、念仏だかお経だかの書いてある幟を何本も家の外壁周りに立てている家だ。
地元では「拝み屋さん」という通称で通っていた。
自治会にも入っていないらしく、近所付き合いもない変わった家だ。隣の空き地を借りて駐車場にしていた。県外のプレートをつけたさまざまな高級車が訪ねてきては停められていた。
その筋では有名な祈祷師だという噂もあった。だが実際には、何をしているのかも、どういった人物がそこにいるのかも謎のままだった。
今年もよろしくお願いします(๓´͈꒳`͈๓)




