【19】 荒魂と和魂 1
荒魂・和魂
灰色がかった雲は朝から低く垂れ込めていた。
今日は夜須さんを連れて望ちゃんに会いに行く。
これからのことに緊張しているせいか、それともただボスに会うことに気乗りがしないせいだけなのか。あまり食欲はなかった。それでも朝食に、母の作ってくれた豆腐と油揚げのお味噌汁を飲みながら、父が点けていたTVの情報番組を見るともなしに見ていた。お天気キャスターのお姉さんは爽やかな笑顔を浮かべて言った。
「お帰りの時間帯には小雨がぱらつくかもしれません。折り畳み傘をお持ちくださいね」
母の車を運転して第一ホテルまで夜須さんを迎えに行った。
車の運転免許は持っている。大学二年生の夏に取得していた。主な目的は、就職活動のためにエントリーシートの資格欄を少しでも多く埋めるためだ。
仕事に車を使う場合は別としても、都心の生活であれば車を持つ必要性をあまり感じない。徒歩圏内には何軒ものコンビニエンスストアがあり、スーパーマーケットやドラッグストアもある。生活必需品ならば、だいたいはその徒歩圏内で揃う。駅に併設されている百貨店には専門店も星の数だ。
車を使うとむしろ、駐車場を探すことのほうが大変だ。月極であっても時間貸し駐車場であっても料金設定は高い。
だが地元に帰ったときには話はまったく別になる。運転免許は大いに役に立つ。
この辺りでは、車やバイクなどの移動手段を持っていないと不便なこと極まりない。最も近くのスーパーひとつをとってもそれなりの距離はある。
電車でもバスでも数分も待てば次の便がくる都心とは違い、バスは一時間に一本でもあるのならばかなりいいほうだった。
ボスは下林市に家を建てていた。旦那さんと望ちゃんの家族三人で暮らしているらしい。
下林市の駅までは電車を使うという手段もある。それも考えたが、そうすると駅に着くまでと駅に着いてからの移動が問題だった。タクシーの乗り換えも上手くいかなければ、時間もかかるうえに面倒くさい。
上ヶ丘市から下林市までタクシーともなると、料金もそれなりだ。つまり、車を出すのが時間的にも費用の面からも一番の得策だった。
運転をするのは数年前の里帰り以来。週末ドライバーでさえない、ゴールド免許の立派なペーパードライバーの身。多少の不安はないでもないが、いざ車のハンドルを握ったのなら……感覚を思い出してなんとかなるはずだ。
「お母さんが運転してあげようか?」
母は好奇心を全面に押し出した笑顔を浮かべていた。樹から伝え聞いた夜須さんを見たいのだろう。昨日も「お母さんが迎えに行けばよかったぁ」などとこぼしていた。
「やっぱ東京の人はこう、なんかしゅっとしてるよな。こう、しゅっと。オーラが違うよな。学者さんっていっても髪なんかもすっごい派手でさ。いや、ホントにすごいわ。この辺りじゃ絶対にあんな人はいないよ。ミュージシャンとかタレントとかホストみたいだったよ。あとさ、なんていうんだっけ? ええと、コ……コメンテーターとか文化人? 最初は見た目にかなり驚いたけどさ、話してみたらいろいろと教えてくれたりして。ちょっと変わってるかもしれないけど、だけど面白い人だったよ。あとさ、知ってた? 俺たちってもしかしたら平家の子孫かもしれないんだって!」
父は黙って聞いていただけだった。母とゆうちゃんは平家の子孫が云々の話よりも「会ってみたいね」と、夜須さんに興味津々の様子だった。さっちゃんも抱っこをさせてもらっていたわたしの腕の中で、二人に同意するようにご機嫌そうに笑っていた。
確かに夜須さんはなんというか……雰囲気が違う。そこは同意するが、樹の夜須さん像はかなりいい方へと誇張されているように思う。それに、ちょっとどころか相当変わっている。
母の申し出はありがたかったが、やんわりと断った。
ボスと望ちゃんのことを話してはいないのに、ボスの家まで連れていってもらうことはできない。
母には今日は、夜須さんに上ヶ丘を案内すると話してあった。
第一ホテルの駐車場に車を停める。車の中でそのまま待っていたが、夜須さんは時間になっても姿を現さなかった。約束は九時半。スマートフォンの時間を確認すると九時四十分になっていた。
時間にルーズな人なのだろうか。
夜須さんに電話をかけてみるものの、数回の呼び出し音が鳴ると雑音のようなノイズが入って切れてしまう。なんだろう。雨が降りそうな天気のせいで電波が悪いのだろうか。数回ほど試したが、すべて同じだった。仕方がないので車を降りてホテルへと向かった。
呼び出してもらうために、フロントで夜須さんの部屋番号を伝える。
呼び出し音はかなり長いあいだ繰り返された。そのあとに電話は繋がった。
夜須さんとフロントスタッフとの短いやり取りのあと。
「今いらっしゃるそうです」
フロントスタッフの女性は、お天気キャスターのお姉さんと同じに爽やかな笑顔を向けてくれた。
ロビーのソファに座って夜須さんを待つ。
スマートフォンが震えLINEの着信音が鳴った。
和葉からだった。
『今日はがんばってね』
意味深長なメッセージだと思ったが、気がつかないふりをした。『ありがとう』と入力し、一緒にスタンプを送信した。
昨夜はさっそくに和葉からの電話があった。
案の定、予想したとおりだった。どこかで誰かに、夜須さんと一緒にいるところを見られていたらしい。おそらくは図書館だろうか。こちらは知らないのに、あちらはわたしの顔を知っている。
「帰ってきてるなら教えてよね。なんかホストみたいなめちゃめちゃ派手な人と一緒だったって聞いたよ? ええぇ、誰? もしかして?」
和葉の言いたいことは解った。すぐに「違うから」と否定をする。
「知り合いの知り合いの学者さん。上ヶ丘の歴史に興味があるんだって。わたしはただの案内係だよ」
母に説明したことと同じことを伝える。それでも和葉もあまり納得のいかないような返答をしていた。
話題を変えようと中野の容態を訊ねる。和葉の旦那さんからの情報では、安定はしているものの、意識はまだもどっていないとのことだった。……中野のことも夜須さんに相談してみたほうがいいのだろうか。ただの事故ではなく、なにかそう云ったモノが絡んでいるのならば、原因を取り除かない限りは目覚めることはない……のだとしたら。いくら中野の動画を発端として巻き込まれているとはいえ、知らないふりをするのも寝覚めが悪い。
和葉にはこちらの「用事」が終わったら連絡をすると伝えた。「待ってるね」との和葉の言葉に、心のどこかでざわざわと波立っていたなにかが、静かに凪いでいくのを感じた。
夜須さんはすぐに来ると言っていたものの、さらに十分以上も降りてこない。
時刻を確認すると十時を過ぎていた。
ここから下林市までは、なにも問題が起きなければ車なら三、四十分ほどで着く。ボスとの約束は十一時だった。かなりの時間の余裕を取ったのは問題が起きることを想定してのことだった。問題というのは……わたしが道に迷うことだ。
スマートフォンのカーナビに頼るとしても、初めて走る道には不安しかない。
少し遅れるかもしれないとボスに連絡を入れようかと迷った。だが、時間的にはまだ余裕はある。余計なことで連絡を取りたくもない。
……道に迷いさえしなければいいのだ。
「おはよう」
その声に顔を上げる。眠たそうに目蓋をこする夜須さんが立っていた。
「おはようございます」
あまりにも普通の様子だった。遅刻をしたことを悪びれる様子もない。一瞬、昨夜は時間を伝え忘れたのではないかと思ったほどだ。
「朝に弱くてね。待たせたね。さ、行こうか?」
★荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま、にぎたま、にきみたま、にぎみたま)の読みがあるようです。
Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%AD%82%E3%83%BB%E5%92%8C%E9%AD%82
『誰そがれかくし』では【あらみたま】【にぎみたま】を使っております。




