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【17】 カミの名 3


飢饉にまつわる文章の一部に、個人によってはショックを受けるおそれのある表現を使用しております。

ご注意くださいませ<(_ _;)>


今回は長くなってしまいました。二回に分けております。





 厳しい環境と生活の中でも希望を見い出すために、なにかにすがるのはごく自然なことだ。


 願いや祈りは『神』を産む。


 ()の恵みを得るために太陽を仰ぎ、水を欲して雨乞いをする。春には穀物の収穫を祈り、秋にはその恵みを享受し、山や海の幸に喜び感謝を捧げる。そういった信心は信仰に育っていく。  


 八百万の神と云われるように、古来よりこの国には「森羅万象に神が宿る」という思想もある。現象や自然、物などにも魂や精霊が宿るとの考え方だ。その思想は──「アニミズム」は、この国だけに限らずに世界中に存在している。


 たとえば奈良県の三輪山は『大物主(おおものぬし)大神(のおおかみ)』が(しず)まる神の山として信仰されている。

 古くなった道具に魂が宿るという付喪神(つくもがみ)信仰もある。

 

 『神』は信心と信仰と(おそ)れの中で祀られていくことになる。


 『古事記』や『日本書紀』では、高天原から宮崎県の高千穂に天津神(あまつかみ)が降り立ったとされている。高天原から天を(くだ)った神々は、土着の神々(国津神(くにつかみ))たちを服従させて国を譲り受け、平定したという神話だ。

 

 時は流れてやがて仏教が伝来する。そこでは(ほとけ)、天津神と国津神、アニミズムなどの思想とが混じり合っていった。

 古来の神や仏はその名や姿を書き換えられ、あるいは荒ぶる魂を鎮めるために、新たにつくられて祀られた。


 上ヶ丘の信仰の対象はどういった存在だったのか。

 土着の民たちの神か、あるいは流入した民たちの神だったのか。


 加曽蔵神社の祭神の原型は、産土神(うぶすながみ)のような存在だったと考えられる。産土神とは土地神であり、その土地とその土地に産まれたものを守護する神全般を示す。『天照皇大神(あまてらすおおみかみ)』のような個別の名称ではない。


 もともとの信仰の対象の姿は山なのか、丘なのか、川なのか、虹のような自然の現象なのか、そこに棲まう生物なのか、まったく別のものなのか。

 『上ヶ丘』の地名のとおりに『丘』を対象とした可能性は高い。


 また、古く縄文時代から「蛇」は信仰の対象とされていた。蛇は脱皮を繰り返して成長することから、再生や生命力などの象徴とされる。

 『丘』のなだらかな形は、三輪山と同じように、とぐろを巻いた蛇に見立てられていたのかもしれない。その丘や水辺に現れる「蛇」を祀ったのかもしれない。

 『蛇』は古来『カカ』『カガチ』などと呼ばれていたという説や、『神』=『カ(蛇)ミ(身)』という説もある。『カガチ(カカ)ガオカ』『カミガオカ』から『上ヶ丘』へと変化したのかもしれない。


 『上ヶ丘郡風土記』にも記されていたが、上ヶ丘一帯は全国的な大飢饉とは別に、過去には幾度か凶作に見舞われている。


 餓死者も大量に出るほどの大凶作だったのは、十三世紀前半の鎌倉時代に起こった全国的な大飢饉「寛喜(かんき)の飢饉」だ。


 上ヶ丘では夏の大雨は降り止まなかった。太陽の不足により気温は上がらずに冷害が発生した。降り続く雨のために水嵩を増した川も氾濫し、山が崩れた。

 畑は水没して作物も土も流された。かろうじて残った作物の生育も悪かった。そして危惧していたとおりに、秋の実りは絶望的な状況となる。


 次の春に蒔く種も食べ尽くした。

 木の皮や草のツル、危険をおかして捕らえた山の獣や昆虫など、目についた動くものや食べられるものは何でも食べた。都では往来に餓死者の(むくろ)が放置され、食人の噂も流れた。

 とりわけ乳幼児の餓死は深刻だった。食べるものがないために母親の乳も出ない。


 その大飢饉から数年先まで。失われた土地の力がもどるまで。上ヶ丘は慢性的な食料不足に陥ることになる。


 村人たちは土地神に祈った。恵みを、生活の安定を、天候と土地の回復を、子どもたちの健やかな成長と死後の安寧を。


 平安時代末期から中世にかけては、仏教からの地蔵信仰が広まっていた時代だった。

 地蔵菩薩は子どもを見守る存在とされる。弥勒菩薩が現世に現れるまでの間は、六道(ろくどう)すべてにおいて衆生を救済してくれるとも信じられていた。

 そのような時代と状況を背景として、地蔵信仰は上ヶ丘の産土神と混じり合ったのではないだろうか。


 その鎌倉時代の飢饉の(のち)に、『加曽蔵神社』の名称は『上ヶ丘郡風土記』に登場する。


 『加曽蔵神社』の(やしろ)を世話していたのは、村の複数の有力な「家」だった。そのなかでも最も力を持っていた「家」は、江戸時代にもなると村の庄屋職につく。そして「蔵元(くらもと)」の姓を公に名乗った。同時に神社の管理も一手に引き受けるようになる。


 「蔵」はもともとは、なにかを保存したり隠したりする場所の意味に使われていた。仏教では包みこむという意味もある。

 「蔵」は神と社を示し、同時にそれらを護るという意味だったのではないだろうか。


 社の世話をしていた家々は、おそらくすべての家が「蔵元」だった。庄屋として「蔵元」を名乗った家との区別を(はか)り、それぞれに「倉」の字を用いて分かれたのかもしれない。「一倉」「仁倉(にくら)」「三倉(みくら)」のように。もしくは「蔵」から「倉」へと、時を経て変化を遂げたものかもしれない。


 さらに時代は進む。

 明治元年に神仏分離令が明治政府より出された。それによって全国的に廃仏毀釈運動が高まる。

 神社からは仏教の要素を取り除かねばならなかった。おそらく加曽倉神社にも、昔は仏像や石仏などがあったのではないか。はっきりとした神社仏閣名は書かれていないものの、地蔵菩薩の石仏を寄進したとの一文が『上ヶ丘郡風土記』にはあった。


 明治三年に「平民苗字許可令」が出される。農民や商人も公に姓を名乗ることを許可された。


 明治四年の「戸籍法」制定により、元の「蔵元」の家系は、家に継がれていた姓を登録することになる。しかしその意味は長い年月の間に、代を重ねるごとに信心とともに失われてしまったのだろう。


 現在の『加曽蔵神社』の登記簿に記載されている代表役員の欄には「蔵元」の名前はない。住所から調べると中部地方に拠点を置く団体にたどりついた。


 江戸時代は庄屋として多くの土地を所有し、その土地を小作地として貸していた「蔵元」家だったが、明治五年に庄屋制度は廃止される。その()も引き続き地主として小作地を貸していたが、戦後のGHQの農地改革によってほとんどの小作地を二束三文で政府に買い上げられた。経済的基盤を失ってしまった「蔵元」家は、たちまちに困窮することとなる。


 昭和二十年代前半の戦後の混乱期のなかで、屋敷やわずかに残った土地を売り払い「蔵元」一族は上ヶ丘を離れた。昭和二十六年以降に「蔵元」家は『加曽蔵神社』も手離している。おそらくはブローカーを通して売買された線が濃厚だ。


 今となっては「蔵元」一族も『加曽蔵神社』の資料も、個人として探し出すのは難しいだろう。金を湯水のごとくに使って、興信所に依頼すればなんとかなるかもしれないけどね──。








 

★『古事記』は物語風、『日本書紀』は歴史書と云う位置付けになっています。詳しいことを知りたいかたは『古事記』『日本書紀』などを読んでみてくださいませ。現代語訳も出版されています。


★『カカ』『カガチ』『カ(蛇)ミ(身)』説は下記を参考文献としております。

 『蛇 日本の蛇信仰』 吉野裕子著 

 (1979年) 法政大学出版局

 (1999年) 講談社 講談社学術文庫


★「寛喜の飢饉」「神仏分離令」「平民苗字許可令」「戸籍法」「農地改革」は史実です。……とはいえ、『誰そがれかくし』はホラー小説です。架空の『上ヶ丘市』にまつわるフィクションとしてお楽しみいただけるのならば幸いでございます。


ざっくりざっくりと描いております<(__)>



 

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― 新着の感想 ―
 なんだろう、私の…Argoの影響がモロに出ている気がしてならず、内容も文章構成もKタナカ過ぎて思わず笑ってしまいました! (;・-・)⌐■-■ 夜須さんのイメージがKタナカに…笑  見聞きして詳細…
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