【15】 カミの名 1
「サイジン……ですか?」
「ここの社に祀られている神様のこと」
有名どころで云うと『天満宮』『天神社』といったら『菅原道真公』でしょ。『明治神宮』なら『明治天皇』と『昭憲皇太后』の御二柱。『伊勢神宮』なら外宮は『豊受大御神』、内宮は『天照皇大神』、『出雲大社』なら『大国主大神』。夜須さんはすらすらとそう説明した。
そう云われてみると、加曽蔵神社に祀られている神様の名前は……。
「知らないです」
「お祖母さんたちに聞いたことは?」
隅々まで記憶を巡らしてはみるが「ないです。すみません」と答えた。
父方も母方も祖父母たちは地元の人間だった。母方の祖母と祖父はわたしが中学生のときに、父方の祖父は小学校に入学した年に、祖母は数年前に亡くなっている。
母方の祖父母はクリスチャンだった。週末やクリスマスや新年やイースターなどには、家族で甲原市にある教会に通っていたそうだ。母も生まれたときに洗礼は受けたものの、中学生にもなると土日祝日は部活動などで忙しくなり、だんだんと教会とは疎遠になった。信仰はもっているのかもしれないが、今は礼拝には通ってはいない。父方はよくも悪くも特定の信仰を持たない。新年を祝い、節分には豆を撒いて焼いた鰯の頭を玄関前に飾り、クリスマスを楽しむ。初詣には下林市にある有名な神社を訪れていた。どちらの祖父母や両親からも『加曽蔵神社』のことでなにかを聞いた覚えはない。
境内に「狐」の像があれば『お稲荷さま』だとわかる。だが、加曽蔵神社には「狛犬」などのそういった像もない。
クリスマスシーズンのライトアップではないが、年末や新年に小さな電球を笹に吊るすなどもしていない。御朱印やお守りもお札もおみくじもない。手水舎も神社の縁起を記したパネルもない。お祭りさえもない。社務所はあるものの、神主さんも巫女さんも見かけた憶えはない。そう考えるとないない尽くしだ。
それでも境内と裏の遊び場は草が伸び放題になることもなく、ある程度は整えられていた。定期的に神社の関係者が通っているのだろう。
「そっか」
夜須さんはわたしの答えに特に落胆した様子もなく、予想通りだとでもいうように淡々と答えた。
「それは……重要なことですか?」
「ここにいらっしゃるのはね、古いカミ様なんだよ」
取りかたによっては答えになっているような、いないような。どちらつかずの返答だった。
懐中電灯は足元を照らしている。わたしたちはその白い光の輪の中に立っていた。その光に慣れてしまうと、周囲の闇はさらに深く底がないように映る。やはり独りではこんな場所にはとても立ってはいられなかった。
手首から伝わる夜須さんの体温は、暗闇の中にぽつんと灯る蝋燭の炎のようだと思った。
笹鳴りは止まない。
冷たい風はなおも吹きつけて、髪を乱す。
運んでくるのは新しい芽吹きを予感させる春の匂いではない。枯れた木々や葉のどことなくすえた匂い。それが鼻腔を満たして刺激する。
「僕はこの土地に紛れ込んだ異物だ。だから、挨拶はきちんとしなくちゃならない。……どうしようかな。取りあえず、ここを掴んでて。絶対に離さないでよ」
夜須さんはわたしの手首を放すと、腰の辺りのチェスターコートの布地をしっかりと握らせる。
「行くよ」
「はい」
足を一歩踏み出して鳥居をくぐった。参道の端を歩き、社に進む。わたしは後ろからついていく。
これからなにが起こるのだろう。もしくはなにも起こることはないのか。社までは数歩分の距離なのに、果てしなく遠い気がした。緊張のせいでコートを握った手にも力が入ってしまう。
夜須さんは足を止めると、懐中電灯を「持ってて」とわたしに寄越した。それから社に向かって深い二回の礼のあとに柏手を二回打つ。
柏手の音は高く、澄んでいた。音は闇の中に吸い込まれていくようだった。
二拝二拍手一拝。
それを合図として周囲の空気は入れ替わった。今まで以上に冷たく硬く、糸をピンと張ったようだ。鋭い刃や細く削られた氷の先端を肌に押し充てられているようにも感じる。
闇の気配が濃い。気のせいではない。
ふっと意識をもっていかれるような感覚を覚えると、突然に視界が廻った。夜須さんの背中と懐中電灯の白い明かり、周囲の闇とが一瞬にして混ざり合いぐるぐると廻る。まるでコーヒーの中に落とされたクリームを、スプーンで螺旋を描きながら溶かしていくようだった。
その目眩に、真っ直ぐに立っていることさえできずに腰から崩れ落ちる。瞬間に夜須さんに受け止められた。懐中電灯を参道の石の上に落としてしまい、カツンと乾いた音が鳴る。転がった光の輪は、反対側の闇を照らした。かろうじて夜須さんのコートだけは離さなかった。
音がした。
笹のざわめきか。どこから聞こえたのか。
エアコンの室外機が唸るような、打楽器を打ち鳴らしたあとに残響する震えのような、不明瞭にくぐもった音がした。それにもかかわらずにわたしの鼓膜を抜けて頭の中へと入ったその音は、なぜだか意味を成した。
オカエリ──と。
「大丈夫?」
驚いたものの目眩は一瞬だった。それよりも──。
支えられて体勢を立て直そうとした。「はい」と、返事をしたはずだった。それなのに、わたしの口から出た言葉はまったく違うものだった。いや、これは言葉でもない。さっき聞こえた打楽器の残響のような音だ。
話そうともしていないのに口は勝手に音を紡ぎだす。河川の許容量を超えた水が堤防を乗り越えるように、喉を震わせて音をとめどなく垂れ流している。身体の感覚もおかしい。夜須さんの姿も霞んでしまい、ぼんやりとして見える。わたしのすぐ傍に、目の前にいるのに。伸ばした手の先が見えないほどの濃い霧の中にいるみたいだった。
自分がどうなっているのかわからない。口から流れ続ける音は止まらない。止められない。
──怖い。
夜須さんはわたしを支えたまま。その体温だけは確かなものに思えた。
頭の中に羅列する音。次から次へと流れ込んでくる、なにかわからない思考。それらはわたしの中でぐちゃぐちゃに動き廻っている。よくわからないものに感情を激しく揺さぶられる。泣きたくはない。でも泣きたい。笑いたくはない。でも笑いたい。叫びたくはない。でも叫びたい。涙が溢れてくる。わたしの意思ではない。音も涙も止まらない。どうしたらいいの? 怖い。怖い。怖い……!
夜須さんの声が聞こえたような気がした。それと同時に、ばん! と背中を弾かれる。
ふいに身体の感覚が返ってくる。反射的にひゅっと大きく息を吸い込むと、勝手に動いていた口が止まった。
「……あ」
焦点がもどる。感情がもどる。涙が止まる。
目の前にはじっとあの瞳で覗き込む夜須さんの顔があった。
涙を拭おうとしたがコートを掴んでいた手は固まっていた。指が動かない。夜須さんはその手をほぐして指を開いてくれた。強く握りすぎたせいで、布地はしわくちゃになってしまったかもしれない。
「思った以上だったね」
……なにが?
それを訊くために声を出そうとして噎せてしまった。慌ててショルダーバッグからハンカチ取り出す。
「……すみません。わたし……」
涙で濡れてしまった頬も目も、ハンカチを押し充てて拭う。マスカラもすごいことになっていそうだと、そんなことを思った。
「さて、挨拶も済んだことだし。帰ろうか」
夜須さんはわたしが落としてしまった懐中電灯を拾いあげた。
「歩ける?」
はい、と肯く。
今のは……一体なんだったのだろう。
わたしがわたしではないようだった。
それに、あの「オカエリ」。
周囲を見回す。当たり前だが、わたしたちのほかには境内には誰もいない。
心なしか夜の闇は薄れて軽くなっているような気がした。風はいつの間にか止んでいる。笹鳴りもない。境内はしんと静まっている。離れた線路を走る電車の規則正しい走行音が微かに聞こえてきた。
「あの……!」
石階段を降りようとしている夜須さんを慌てて追いかけた。
★「手水舎」の読み方はいろいろとあるようです。「てみずや」「てみずしゃ」「ちょうずや」「ちょうずしゃ」など。凛花は「ちょうずや」派です。
ルビだらけになっちゃった……( ˊ꒳ˋ;)




