【14】 場
「遅くなってごめん。ちょっとさつきがグズっちゃって」
「そんなに待ってないからいいよ。さっちゃんはどうしたの? 大丈夫なの?」
助手席のシートベルトを締めながら訊く。バックミラーに素早く視線を流して、アイメイクが崩れていないかを確認する。駐車場へと入ってくる樹の車に慌ててしまい、雑に親指で目尻をぬぐったからだ。
「前はよく夕方近くになると泣き出してたんだよね。最近は落ち着いてたんだけど。それなのに今日はなんだかひどくグズっちゃってさ。ゆうだけじゃあやせなくって、二人でさつきのご機嫌を直してた」
生後二、三ヶ月ごろの乳児は夕方になるとぐずって泣くことがある。それを「黄昏泣き」と云うらしい。六ヶ月ごろまでにはだんだんと落ち着いてくる。さつきはもう一歳を過ぎたのに今日に限って……。そんなことを樹は話していた。
「そっか……。大変だったね」
「まあ、大変は大変だけど。かわいいよ」
親になれば可愛がるだけでは済まない。
夜中でも数時間おきに授乳をしたり、オムツを換えたり、風邪を引いて熱を出せば仕事を休んだり早退したりで病院へと連れて行く。子どもが幼いうちは自分の自由な時間などほとんどない。睡眠だって犠牲にする。子どもを持った友人や職場の先輩たちからはそういった話をよく聴く。その姿を見てもいる。彼らは愚痴まじりに話してはいるものの、我が子を愛おしく思っていることはとても伝わってきた。
ゆうちゃんも樹もまだ若いのによくやっていると思う。わたしが二人の年齢のときには自分のことしか考えていなかった。ただただ懸命にだけではなく、仕事にも少しの余裕を持って取り組めるようになってきたころだ。自分の働いた収入で生活をすること、遊ぶことも楽しかった。
ふと、李依瑠ちゃんの母親のことが頭に浮かんだ。彼女はどうだったのだろうか。いつから……そんなふうになってしまったのだろうか。
「じゃあ第一ホテルへ行きますよ」
樹はバックミラー越しに夜須さんに確認をとる。
「その前に加曽蔵神社に行きたいんだけど」
意外な応えに樹と顔を見合わせた。
神社? この時間から?
樹もわたしと同じことを考えたに違いない。
「神社かぁ。あそこは境内に明かりがないんですよ。暗くなってからはちょっと……」
夜に行くのはよしたほうがいいと、樹は夜須さんをとめた。その意見に同意する。
そもそも加曽蔵神社は、小屋のような社務所もいつでも閉まっていて、御朱印やお守りの類いはない。地域の人々が大晦日や新年に幸先詣や初詣に訪れるような神社でもない。ましてや暗くなってからなどは参拝する者もいない。「いるとすれば、丑の刻参りで五寸釘を打ち付けるため」などと、樹は笑えない冗談を言った。
李依瑠ちゃんが行方不明になったあと。神社周辺の市道に街灯と防犯カメラを増やすようにと、地域の住民から地元の議員を通して市に要望が出された。その甲斐あってなのか、すでに計画にあったことだったのかは判らないが、しばらくすると石階段の入り口付近と周辺に街灯が増やされた。ところが、肝心の境内や石階段には照明が取り付けられることはなく、そのままに放置されていた。
空の夕焼けはとっくに色を変えている。
水色は濃い藍色に。ピンク色はすみれ色に。山や雲の際に申し訳程度にうっすらと残っているオレンジ色も、すぐにでも夜に飲み込まれてしまうだろう。そうなれば照明のない境内は真っ暗だ。
「明日の朝、鈴木さんの家にうかがう前はどうでしょうか?」
そう提案をしてはみるものの、夜須さんは首を縦には振らなかった。
「いや。今日がいいな」
心配そうに樹はわたしの顔色をうかがう。
あの当時に樹は五歳だった。警察が家に上がりこみいろいろと聴き取りをしたこと、わたしの情報が週刊誌に流れてしまい、小学校の登下校に母が車を出して送迎をしていたこと、周囲のどこか尋常ではない空気などを樹は憶えている。樹の幼稚園には出勤前の父が送っていった。それに最近では、中野の動画と事故の件がある。
「姉ちゃんは……大丈夫なの?」
中野の動画を見ただけなのに呼吸は苦しくなった。息をきちんと吸っているのにもかかわらず。実際にその場へ行くとなると……大丈夫かそうでないかは、行ってみないとわからない。すぐには答えられなかった。
「……じゃあ、先に姉ちゃんを家に送ってから、夜須さんを神社にお連れしますよ」
答えなかったことが答えだと、樹は理解したらしい。
「いや? 一倉さんも一緒だよ」
バックミラー越しの夜須さんと目が合う。
「僕ができることは伝えてあったよね」
『『カミ』にかかわる問題そのものを解決することは出来ないよ。出来るのはそれぞれが納得する、その手伝いをすることだけ。それでもいい?』
その言葉をはっと思い出す。
「ええと……。ちょっと事情があるんで。姉ちゃんは神社には行かないほうがいいと思うんで……」
「わかりました」
樹の言葉を途中で遮った。
「姉ちゃん!」
「もう子どもじゃないんだから」と、安心させるように微笑ってみせる。
「でも」
「そんなに心配してくれなくても大丈夫だってば」
わざと軽い調子で肯いた。
樹は迷っているようだった。それでも渋々というように、サイドブレーキを解除するために足元のペダルを踏み込む。
「じゃあ……神社へ行くよ」
✾✾✾
公民館から加曽蔵神社までは車だと十分もかからない。
樹は加曽蔵神社の石階段の手前に車を停めた。
空は深い藍色に塗り潰されていた。もうオレンジ色の残照さえ見えない。
道路のアスファルトにはひび割れがあり、端のほうには小さな穴が所々に開いているのがわかる。補修も間に合わないのか、する気もないのか。
風にその身を揺すられる笹の林は、ぼんやりとした黒い塊となっている。
街灯の白い明かりはそれらを映し出していた。
車を降りる夜須さんへと樹が声をかける。
「暗いですよ。本当に気をつけて」
夜須さんは「了解」と片手を挙げた。
樹はわたしのために自分も同行すると言った。だが、夜須さんは「それは困る」と断った。
納得せずに説明を求める樹を「車に人が乗ってないと駐禁をとられちゃうでしょ。すぐにもどってくるから大丈夫よ」となだめた。
こんな時間にこんな場所で駐車違反の取り締まりなんてするはずもないだろう。苦しい理由付けだとは思いつつも、それは正論だった。
夜須さんが「困る」と云うからには、樹が来ると困る理由があるのだ。それに……樹まで巻き込みたくはない。
「姉ちゃん。何かあったらすぐに呼べよ。大声でもいいし、スマホでもいいから。すぐに行くから」
「ありがと。いざとなったら頼りにしてるからね」
当たり前のことだが、樹はもう五歳の幼稚園児ではないのだと実感した。
夜須さんと石階段の入り口に立つ。神社へと続く石階段のその先を見上げた。
まるで深く大きな穴がぽっかりと口を開いたような、真っ暗な空間があった。
両脇の笹は空を隠して頭上を覆うように繁っている。笹に阻まれてしまい、石階段へは街灯の明かりは届かない。
吹いてきた冷たい風は笹の葉を鳴らす。
ぶるっと肌が粟立つのは風のせいなのか。
夜須さんはコートのポケットから取り出した小型の懐中電灯のスイッチを入れた。やはり準備がいい。
黒っぽい緑色の苔に覆われた石階段が白っちゃけた光の輪の中に浮き上がる。
「はい」
夜須さんは懐中電灯を持っている手とは反対の手を差し出した。
「……なんですか?」
ライトを使うからわたしのスマートフォンを出せとでもいうのだろうか。
「手を貸して」
手?
わけのわからないままに右手を差し出す。するとその手首をぎゅっと握られた。
驚いたまま振りほどく間もなく、夜須さんはわたしを引っ張り石階段をのぼっていく。
「あの、夜須さん?」
「迷子にならないようにね」
懐中電灯の光はある。真っ暗とはいえ境内は狭い。迷子になんかなりようもない。だからとはいっても……ひとりで立っているのはやはり、怖い。
夜須さんの手は意外にも温かかった。手首から伝わるその体温に、どこかでほっとしてもいる。
それに「迷子」という言葉には、言葉以上の意味があるようにも思えた。
それでも、夜須さんと一緒ならば。大丈夫。
今は不思議とそんな気がしていた。
石階段をのぼりきる。朱い鳥居をくぐる前に夜須さんは足を止めた。
「きみはさ、この神社の祭神を知ってる?」