【13】 結界
汚れているわけではない。だが建物と同じに、ただどこか古めかしい匂いのするガラス扉を手前に引く。公民館のエントランスへ足を踏み入れると、時が止まっていたかのような錯覚を覚える。そこにはあの頃と変わらない空気があった。
低い天井には細長い蛍光灯がまだ取り残されている。
縦長の窓から射し込む陽は、たよりなく透明だった。漂う塵に反射しながら空間に仄かな陰影を作り、床に貼られた四角いフロアタイルの上にぼんやりと落ちている。
フロアタイルは年月を経て薄黄色に変色をしていた。もともとは明るい灰色だったはずだ。公民館の建設当初からそのままというわけではない。幾度かは修繕されているのだろう。それでもところどころは歪な形に割れてしまって剥がれている。
そういったものたちは、古びた建物にありがちなどことなく薄暗い雰囲気に、さらに「旧さ」の輪をかけているようにも思えた。
「図書館は二階にあるんです」
夜須さんに声をかけて右手にある階段を示す。
階段をのぼりながら、正確には図書室なのかもしれないと考えた。
ドアを開けた音は尖ったノイズのように静かな空間を走る。
ドア付近にいた白髪の老人は顔を上げた。夜須さんの姿を見留める。珍獣でも眺めるように、その視線はじっと夜須さんを追いかけた。その気持ちはわかる。
夜須さんは迷いなくカウンターに進んだ。
司書の男性に目当ての本の場所を教えてもらっている。
部屋の中にはそれなりに利用者がいた。子どもや学生の姿はなく、年配者ばかりが目立つ。書架の脇に置かれている椅子に座って新聞を読んでいたり、机に本を広げては細かい活字の列に目を細めながら指でも追っていたり。散歩をするように書架と書架の間を巡っていたりもする。
都内の繁華街は、いわゆる量産型や地雷系、男女問わずに思い思いのファッションやメイクに身を包んだ若い年代の子たちで溢れている。それなのにここは真逆の空間だった。
地方は過疎化が進んでいる。高齢化が進み、子どもや人口が少なくなっているという日本の現状をまざまざと思い出させる。
机や書架の間を通り抜けるときに、ほぼ漏れなく彼らは顔を上げた。夜須さんの姿をじっと眺めてから、わたしへと視線は移る。その目には多少の好奇心があった。そして、彼らの日常への侵入者を拒んでいるようでもある。わたしはなんとなく気まずい思いで目を逸らす。夜須さんは気にも留めないで歩く。
目当ての本は一番奥の書架だった。
プレートには『郷土/歴史』とある。
「あの、わたしもお手伝いします」
指先で背表紙のタイトルを追う夜須さんは肯定なのか、唸っているのだか判らない「うぅん」という返事をした。すぐに指先は一冊の本を抜き出した。タイトルには『上ヶ丘市史』とある。
「じゃあ、こっちを持ってきて」
夜須さんの指した先には『新編上ヶ丘郡風土記』と書かれた背表紙がある。シリーズで並んでいた。
「どの巻ですか?」
「全部」
そう言うと自分は『上ヶ丘市史』を一冊だけ持って、さっさと席へと着いてしまった。組んだ脚の膝の上に本を載せると、さっそくパラパラとページを捲りだす。
緑色の布クロスに金の文字を施し装丁されたハードカバーの『新編上ヶ丘郡風土記』は、その厚さと相まって一冊一冊はかなり重い。全九巻を三回に分けて運び、机の上に三冊づつの山にして並べた。
「ありがと」
礼は言ってくれるのかと思いつつ、視線をページに落としたままの夜須さんに尋ねる。
「ほかにはなにか、お手伝いできることはありますか?」
「……そうだね。じゃあ『加曽蔵』が関係ありそうなページに付箋を貼っておいてよ」
スーツのジャケットのポケットから蛍光ピンクの付箋を取り出すと「はい」と手渡された。
なんて準備がいい。
天井の端の細長い蛍光灯はジジッと音を立てている。その音を聞きながら当たりを付けた項目周辺のページをひたすらに捲り、活字を追った。
✾✾✾
夕方までにはなんとか間に合った。夜須さんは資料を読み込むというよりは、目を通してさっと確認をするような様子だった。わたしが付箋を貼った箇所以外のページも、手慣れたように捲っていく。
公民館を出ると、陽が落ちたあとの空気はすでにかなり冷たかった。
空には水色と薄いピンク色の夕焼けがあった。西の山の際の空は透明なオレンジ色をしている。濃淡の見事なグラデーションだった。同じはずなのに都心とは違い、空は高く広く見える。
駐車場に樹の車はまだなかった。
「あの、先ほどはすみませんでした」
チェスターコートを羽織る夜須さんに謝ると「なにが?」と返ってくる。
「夜須さんのことは、その……『民俗学の研究をしている人』と伝えてあったんです。それで『学者さん』なんて」
「ああ、別にいいよ。『祓い屋』なんて紹介されてヘンに警戒されてもね。逆にやりにくいし」
表情からはそれが本心のようだと窺えた。夜須さんはそういった意味では気を使わない人だ。
言われてみると確かにそういうものかもしれない。ただでさえ人目を引く夜須さん。図書館での老人たちの視線を思い浮かべる。それに、わたしだって矢井田さんのことを警戒した。
「……そういった伝説とかには詳しいんですか?」
「なにも特別に詳しいってわけじゃないよ。ネットでちょっと検索すれば、誰だってなんでも調べられるでしょう?」
「まあ、そうですけど……」
それじゃあ、なんでわざわざ図書館まで足を運んで調べるのか。それもネットで事は足りるのでは? そんな疑問は呑み込んだ。
「だったらなんで図書館に? とか思った?」
腑に落ちない表情を読まれたらしい。
「いや……まぁ、はい」
矢井田さんのように曖昧に微笑う。
「僕はネットとかと相性が悪いんだよね。すぐに頭も痛くなっちゃうし。まあ、資料を探すのには図書館は手っ取り早いしね」
「そうなんですか」
それは操作が苦手という意味だろうか。人によっては電磁波に過敏だったり、パソコン酔いもある。
「それはそうと、あのあとは夢は見ない?」
「あっ、はい。お蔭さまで」
夜須さんに「お呪い」と背中を叩かれた。そのあとからは悪夢も見ない。気配もあの日を境に感じなくなった。視界の端に黒いスニーカーが映ることもない。
「そう。ならよかった」
「どうして……わかったんですか?」
夢の話だけは伝えてはいなかった。だって、あれはただの夢なのだから。
「泥」
「どろ?」
「そう。負の感情は──悲しみとか恨みとか妬みとか嫉みとか怒りとか後悔とかってヤツね。そういった感情は『黒いモノ』を引き寄せやすいんだよ。『黒いモノ』っていうのは陰の気。つまり陰。簡単にいうと、どろどろに濁ってヘドロのようになった感情の成れの果て。それが寄せ集まったものを僕は『泥』と呼んでる」
コートのポケットから出した片手を銃の形に作り、わたしへと向ける。
「きみは『泥』に細い糸をつけられていた」
バン!
それを撃つ真似をした。
そういえば……あのときにも夜須さんに同じようなことを言われていた。
「『泥』は夜になるとその糸をたどって、一倉さんに悪さをしてたってこと。だからもう、女の子もいないでしょう?」
夜須さんはポケットに手をもどしながら夕焼けの空を仰いだ。
「女の子……李依瑠ちゃんのことですか?」
「そう。その子」
あの気配は──
李依瑠ちゃん──だった。
夜須さんのいう『泥』。負の感情。悲しみやら恨みやら妬み、嫉み、怒り、後悔の念。わたしと李依瑠ちゃんの負の感情が引き合ったのならば。
彼女がそこにいた理由は。
李依瑠ちゃんは。
心臓の鼓動が早くなる。
膝は細かく震えてくる。
誰にも言えなかった。考えないようにしていた。
でも、もう──
向き合わなければならない時が来たのだ。
「やっぱり……恨まれているんでしょうか」
「どうして?」
「だって……!」
「きみには結界を張ったんだ」
「結界……?」
「泥が侵食できないようにね。あの子は、傍できみのことを心配していたんだよ」
心配していた?
李依瑠ちゃんがわたしを……?
夜須さんは肯く。
「僕が感じたのはそれ。もうその心配はなくなった。だから出てこないんだよ」
じっとわたしを覗き込む夜須さんの目。その瞳は、またわたしを見てはいない。わたしを見透かして、すべてを通り越して、どこか遠い場所を見ている。
「本当に……?」
「嘘をつく必要もない」
夜須さんは人の気持ちに忖度をしない。それはよくわかった。
だったら、本当に……。
震えている膝から力が抜けた。重力に従ってその場にへたり込んでしまった。
「大丈夫?」
「……ありがとうございます」
立ち上がるのに夜須さんは手を貸してくれた。その手を取る。そのとき、滲む視界に駐車場に入ってくる青い軽ワゴン車が見えた。
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