【9】 カミカクシ
「ええと……一倉さん、よくない報せとそうでもない報せ。先にどちらからがいいですか?」
握っていた勾玉のブレスレットを手首にもどしながら、うつむいていた顔を上げた新名さんはそう訊いた。
「じゃあ……よくないほうからお願いします」
よくない報せとそうでもない報せ。感じる不安を矢井田さんに向けると、またもや曖昧な笑みを口元に浮かべていた。
矢井田さんと新名さんは幼馴染みだという。幼稚園からの同級生。矢井田さんよりも新名さんのほうが年若く見えるのは童顔のせいだろう。
新名さんの勤務先は特殊清掃会社。もらった名刺には「夜須清掃サービス」とあった。矢井田さんの勤める不動産会社はその「夜須清掃サービス」に業務を依頼しているらしい。
特殊清掃会社とはいわゆる事故物件やゴミ屋敷の清掃や原状復帰を行う会社だ。「夜須清掃サービス」はそれにくわえて、物件の心理的瑕疵の浄化も請け負っているという。つまり除霊とか浄霊とかいうもの。そう説明された。
「結論からいうと」
そう切り出した新名さんは申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「アドバイスくらいはできるかもしれません。でも、この案件は引き受けられません」
「えっ?!」
わたしよりも先に矢井田さんが反応した。
新名さんが依頼を断るとは思っていなかったらしい。店内には、ひどく驚いた声が大きく響いてしまった。近くのテーブルに座っていた数組のカップルやグループが不審そうにわたしたちをふり返る。
「ちょっとちょっと、千歳ちゃん。それはないんじゃないの。なんでよ?」
彼らに軽く手を挙げて詫びた矢井田さんは声をひそめた。
「千歳ちゃん言うな。今から説明するところ。正宗はちょっと黙ってろ」
わずかにしかめられたのは新名さんの眉間。
「だってさあ。えぇ? あかりちゃんもそうなの?」
その眉間を気にすることもなく、まだ何かをつぶやく矢井田さん。それを無視した新名さんはテーブルに額がついてしまうくらいに頭を下げた。
「一倉さん、お力になれずに申し訳ないです」
「あ、はい、あ、いいえ……」
何と言ってよいのかわからずに、とっさに間抜けな返事をしてしまった。
矢井田さんに連絡を取った理由は、声をかけてくれていたから。ほかに伝手はなかったから。
李依瑠ちゃんを疑うボスに「なんとかしてほしい」とお願いをされても、わたしになんとかできるはずもない。
たまたまの偶然が重なっただけ。ボスの気のせい。そうして片付けてしまえるのならば、本当はそれが一番いい。それなのにそれができないのは……。重なり過ぎている、からだ。
同窓会から始まり、中野の動画、事故、夢、望ちゃんの見えないお友だち──
ミルクレープの生地の層のように積み重なる偶然。それが過ぎれば……必然だと思ってしまう気持ちの悪さがある。得体の知れない何かの力が働いているのかもしれないと、そう思わせる種類の気味の悪さだ。
憑かれるだとか呪いだとかの現象は、エンターテイメントの中だけの産物であることが当たり前だった。
人に語って聞かせるような心霊系の怖い体験などはいっさいしたこともなく、お化けや幽霊などは見たこともない。霊感といえるものはまったくのゼロ。『あなたの知らない世界』とは無縁で生きてきた。金縛りにあったことさえない。
少なくともわたしの日常の中には存在しない世界だった。
そんなわたしが一人でどうこうできるわけもない。
本当は、ボスにもわたしにも必要なのはカウンセリングなのかもしれない。だけど、それでは望ちゃんのことは説明がつかない。
新名さんがいわゆる本物の「霊能者」なのかもわからない。それでも李依瑠ちゃんの濡れ衣を晴らすためにも、望ちゃんの不安を取り除くためにも頼るしかない。新名さんに断られるとほかに案はない。
「少し視させてもらいました」
「はい」
霊視というものか。
「引き受けられない理由は、俺では力不足だからです」
断る理由は謝礼の問題なのかもしれない。頭の隅にはチラリとそんなこともよぎっていたが、どうもそうではないらしい。
こういったことの相場はよくわからない。それならば矢井田さんに聞いていた言い値の金額を支払おうと考えていた。もちろんそのままボスに請求するつもりだった。
「……力不足というと? 新名さんに断られてしまうと、ほかにこういうことを頼める人のあてもないんです」
なんとかお願いをしたい。そんなわたしの気持ちに、新名さんは眉を下げる。それから慎重に言葉を選びながら説明をはじめた。
「力不足というのはちょっと違うかな……。ええと、俺には踏みこめない領域。そういったほうが正しいのかな」
「なんだよ? 踏みこめないって?」
「それも今から説明するから」
横から口を出した矢井田さんを新名さんはめんどくさいというようにいなす。幼馴染みだけあって気の置けない関係なのがよくわかる。
「まず二十年前の『加曽蔵神隠し事件』ですが。これは……本物だと思います」
「それは……どういう意味でしょうか?」
「『加曽蔵神隠し事件』は、事件ではないということです。人が失踪してるから事件は事件なんですけど……。警察では犯人は見つけられないという意味で」
新名さんはわたしの反応を確かめるようにゆっくりと頷いた。
「『神隠し』はご存じですよね。昔からある、人が忽然と姿を消してしまう現象です。女性や子どもに多いといわれています」
「はい。あの、神隠しは知っています。だけど……そういうことって、たとえば連れ去りとかの事件や家出とか、突然の事故に遭ってしまったことへの説明をつけるためだったりするんじゃ……」
「もちろんそういった理解できないことや不都合なことに説明をつけて納得するためや隠すため……ということも多いと思います。でも、それだけじゃない」
「まどろっこしいなぁ! どういうことよ?」
懲りない矢井田さんはまた新名さんに睨まれる。
「稀なことだとは思いますが。場所と時間、それと波長。ちょうどすべてが合ってしまったんじゃないかと思います。だから境界の扉が開いてしまった。もしくは開けられたか」
時間と場所──
赤い赤い真っ赤な夕焼け。風に笹の葉音がまじる神社の境内。
──昼と夜の間の刻。
ゾクリと肌が粟立った。十月のあの場所の空気がふいに背筋に触れたように思えた。
店内には心地好い環境音楽が流れているのに。ガラス張りの窓からは暖かそうな、まだ明るい昼の陽が射し込んでいるというのに。
新名さんの言葉は、わたしをわたしに見えていた現実から引き剥がしていく。
「じゃあ……誰がというか、なにが李依瑠ちゃんを……」
自分でもなにを訊いているのかわからない。それでも訊かずにはいられなかった。
映画や小説や漫画やドラマなどのエンターテイメントの話ではない。新名さんに依頼をしていても、そんなことは自分の身の回りには現実に起こるはずもないと、どこかでたかをくくっていた。……それが、揺らぎはじめている。
じっとわたしを見る新名さんの目。
彼の瞳は、それでもわたしを見てはいない。わたしを通り越してどこか遠くを見ているように感じた。きっと、その瞳のせいだ。
……怖い。直感的にそう思う。
「『カミ』と呼ばれるもの。あるいはそこに祀られているもの」
「神様……」
「もしくは本人が望んでついていったのかもしれません」
「李依瑠ちゃんが自分で……?」
その言葉にはっとする。
李依瑠ちゃんは実の母親に育児放棄をされていた。あの日も……のちに報道されたことだが、その何日も前から母親は男と旅行に出ていて家にはいなかった。乱雑に物が散らばった室内のテーブルの上には、食べかけの菓子パンと小銭が残されていたらしい。
誰もいない家の中にたったひとり残されていた李依瑠ちゃん。
母親がいてもいなくてもいつもひとりと同じ。頼るべき親には頼れない。まだたったの十歳。甘えたい年齢の子どもなのに。どんな気持ちで毎日を過ごしていたというのか。
そんな家に帰りたいと思うのだろうか。
わたしだったら、帰りたくない。
ふいに目頭に熱さを感じて視界が揺らぐ。
「あああぁ。千歳が泣かした」
「え? 俺?! すみません。そんなつもりじゃ……」
「いえ、こちらこそすみません」
慌ててハンカチをバックから取り出して、ぐすっと鼻をすすり上げた。
★次回の更新は8月23日の18時30分を予定しております(*ˊ꒳ˋ*)
……冬野が使っていた資料集が見つからなくなりました。放り出してあったのをどこかへ片付けたはずなのですが、どこに片したかまったく記憶にない……。
困る困る困るよう! ‧º·(ฅдฅ。)‧º·˚.
どーしよう!?