1話 どこにでもいる小悪党
空が夜の闇に覆われて、粉雪が地上へと降り注いでいた。粉雪は近代的なオフィスビルが建ち並ぶ地上へとその手を伸ばし、シンシンと降り積もっている。
だが普通のオフィスビルとは違うところがあった。本来はサラリーマンが大勢働く建物であり、綺麗な建物が多いが、そのビル群は様相が違った。
オフィスビルといえば聞こえは良いが、そのビル群はどれも劣化しておりボロボロであった。外壁が汚れていたり、ヒビが入っている程度はマシな方で、外壁が半分崩れて赤錆で汚れた鉄筋が剥き出しになり、窓枠だけが残る廃ビルもあった。
キィキィと錆びた非常階段が軋む音が微かにして、今にも外れそうであり、壊れかけの電光看板が時折自分の役割を思い出したかのように放電すると、点滅して辺りを照らす。
廃ビルが連なっている地域は、誰が見ても廃墟だ。どのビルも同じように既に窓ガラスはなく、中を覗いても打ちっぱなしのコンクリートだけが目に入り、机一つ、ロッカー一つも何も無いがらんとしたものだった。
人の訪れないはずの、もはや機能を失ったはずの廃ビル。夜の宵闇の中で誰もおらず、粉雪が白く染めていく。
━━はずであった。
だが、その日は違った。廃ビルの中でも、特に大きめのかつては一流企業の本社か、複合施設として建てられたか、巨大な廃ビルの一階。サッカーでもできそうなほどに広々とした元ホールに大勢の人々の声が響いていた。
それは荒くれ者たちの怒号であり、暴力を良しとする者たちの楽しげな興奮した声であった。
「やっちまえ、ツヨシ! 思いっきり拳を喰らわせてやれ!」
「おらあっ、今まで大きな顔をしてやがった奴の顔を潰してやれ!」
「あと一発で倒せるぞ、全然相手にならねーじゃねーか!」
嘲りと嘲笑が大勢の顔に愉悦と共に浮かぶ。居並ぶ者たちは広間に円を作るように立っており、中心へと声をかけている。
中心には二人の男が立っていた。
一人は二メートル近い熊みたいな体格で、タンクトップを着て、その筋肉を誇示しており、明らかに己の力を武器にしていると一目でわかる男だ。その体躯に似合った凶暴そうな強面でグローブのような拳を構えて、対面の男をニヤニヤと可笑しそうに見ている。
もう一人はアロハシャツを着込んだ細身の男だ。熊みたいな男に対して、背丈は180センチ程ではあるが、その体格は比べると明らかに貧弱で、その顔立ちは平凡で目つきの悪さと浮かべる気弱そうな歪んだ笑みが、小狡いイメージを与えていた。
「へへっ、どうしたよランピーチさんよ? お前の自慢の筋肉はどうしたんだ? 聞いてるぜ、へんてこな薬を飲んだか、呪いをかけられたかで、弱っちくなっちまったみたいじゃねーか」
既に己の勝利を確信しているのだろう。熊のような男はせせら笑いを浮かべて、貧弱そうな男へと拳を見せつけるようにゆらゆらと揺らす。
「あんだよ、知ってるなら手加減しろよな。だが薬をやっちゃいねーし、薬も呪いも関係ない。そんなもんが手に入るようなマシな人間じゃねーだろツヨシ」
ランピーチと呼ばれた男は軽口を叩くが、頬が腫れ上がり、ツヨシと呼んだ相手の顔はほとんど無傷であるのと対照的であった。口元も切れて痛々しく、負けそうなのは誰が見ても明らかだった。
「減らず口を叩く余裕はあるんだな。だがこれでおしまいだ!」
ツヨシが強く踏み込んで、全力でのストレートを放つ。右拳が唸りをあげて、その筋肉が齎す力通りに、ランピーチと呼んだ男の頬にめり込む。
口から血を吐き、ランピーチは無様に後ろへとコンクリート床を擦りながら倒れ込むとピクピクと痙攣をするのであった。
「はっ、俺たちはこんなやつを怖がっていたのかよ。なにが探索者だ。探索者崩れどころか、そこらのチンピラにも劣るぜ。おらあっ、お前ら、よーく聞け、これからは俺様がここ一帯のボスだ。よーく覚えておけよ?」
腕を掲げて、勝者であると宣言すると、周りから喝采があがる。
「すげーぜ、ツヨシ。これからはあんたがボスだ!」
「これからはあんたの、いや、ボスの時代だぜ」
「これで俺達のチームも安心だな」
称賛の声に包まれて、ツヨシは気を良くして相好を緩ませる。その喝采の中にはツヨシを恐れて、媚びへつらうか、作り笑いを浮かべる者たちも多くいて、心の底から祝っているのは極少数だが、それでも構わなかった。
力を前に出し、恐怖でチームを支配する。それがチームの掟だとツヨシは思っていたからだ。それはある意味では正しく、力をなくした際の末路がどうなるかを倒れている男から予想できることでもあったが、己の力に自信のあるツヨシは気にしなかった。
「よし、今日は祝いだ。この元ボスの隠し金を知っているやつはいるか? その金でパーっと……ん、どうした?」
喝采が戸惑いにと、そのざわめきと困惑が後ろへと向いていることに気づきツヨシは振り返ると、見下したように嗤う。
「なんだ、まだ立つ力が残っていたのかよ。まだやる気か? あぁん?」
そこには鼻血を袖で適当に拭うランピーチがいた。もはや勝ち目はないのに、馬鹿な奴だとせせら笑いながらも、少し思いついたことがあり尋ねることにする。
「なぁ、もしかして俺の配下になりてえってことか? それならてめえが隠している金を寄越しな。配下になりたくねぇってんなら、仕方ねぇ。ここでごみのように死んでいきな」
部下になりたいと言わなければ殺す。隠し金の場所を教えなければ殺すと言外で伝える。ランピーチの隠し金が見つからないことがあるかもと予防線を張ったのだ。隠し金を渡してきたら言い出すつもりであったが、そんなことはおくびにも出さない。
泣いて命乞いをするか、隠し金は勘弁してくれと土下座をするか、どちらかだと考えていたツヨシだが、コキリと首を鳴らすと、ランピーチは冷たい視線を向けてきていた。
予想と違う。それどころか負けたにもかかわらず余裕が垣間見えるランピーチの姿に内心で動揺を覚える。なにか嫌な予感がする。暴力の世界に生きてきたツヨシは、困惑し混乱し、それを持ち前の強気と、先程までは圧倒できていたとの自信から無視をすることに決めた。
「なんとか言えやっ、こらぁっ!」
虚勢であるかのように、顔を歪めて凄むツヨシにランピーチは軽く嘆息しつつ、手のひらを振る。
「銃や魔法での戦闘でなくて助かったぜ。そんなんなら土下座して逃げてたわ。喧嘩が一番。勝敗関係なくこれだけは貰えるからな」
「あ? なにが貰えるって? 命が助かるって意味か?」
圧倒的優位にある強者の余裕を見せて、ツヨシがランピーチを挑発すると、ランピーチはぽそりと小声で呟いた。
「経験値さ」
端的であり、小声であることからツヨシにはその言葉は聞こえなかった。しかし、呟きと共に浮かべたランピーチの冷笑が目に入り苛立ちを覚えて拳を構える。
「舐めてんのか、てめぇっ!」
ボクサースタイルでツヨシはジャブを放つ。ボクシングを眺めた事があるだけで、拳の握り方から打ちだしまで適当極まりないが、それなりの喧嘩の場数を踏んで鍛えられており、持ち前の体格が敵を倒せる力を強引に引き出す。
プロならば鼻で笑って躱す一撃。だがチンピラ同士で喧嘩をするには充分な威力を持つ拳がランピーチの顔に迫り━━━。
パンと乾いた音を立てて弾かれた。
手のひらをゆらゆらと揺らし、ジャブを弾いたことをランピーチはわかりやすく見せていた。
「は?」
ツヨシは唖然としてしまう。さっきまでは通じていたのだ。ジャブを躱そうとバタバタと無様に懸命に動いていたはずだった。
「ま、まぐれだ!」
ツヨシはジャブを繰り返し放つ。パンパンと乾いた音がして、手のひらに拳が打ち付けられて、受け流されていく。
こめかみから汗が流れ、息が荒くなり、ツヨシは混乱していた。他者から見ると、その光景はボクシングの練習をしているかのようであった。
「な、なんでだ? さっきまでは通じてたじゃねぇか」
「そうだな。ありゃわざとだ。わざと食らってやってたんだよ」
「演技? え、演技だって言うのか? ううう、嘘つけ! 本気にしか見えなかったぞ。おまえの頬は腫れてるし、鼻血だって止まってねぇじゃねぇか!」
ふざけたように、からかう口調で苦笑するランピーチの言葉に、動揺を隠せずにツヨシは口籠りながらも強く叫ぶ。
たしかにさっきまでは、俺の拳を避けることなどできず、その目に恐怖が入り混じって……。
改めてさっきまでの喧嘩を思い出すと、ジャブを打つ手がピタリと止まる。思い返せば、たしかに恐怖の表情は浮かんでいた。殴られる時に痛がっていた。
だが、その瞳は冷徹でどこか、なにかを確かめるような瞳をして、苛立ちを微かに感じたのを思い出す。
「う、嘘だ。嘘だろ? 演技?」
信じたくない。ツヨシはそのことに気づき、今やまったく当たらないパンチに動揺を隠せずに顔を歪める。いつの間にか、周りの喝采は鳴りを潜めて、シンと静寂が支配しており、誰も彼も先程のランピーチを馬鹿にして、ツヨシを応援する者は一人もいなくなっていた。
その様子を嘆息混じりに、ランピーチは鼻で笑って肩を竦める。
「その通り、嘘だよ。強くなったのさ。『パリィ』ってわかるか? 『体術レベル1』で覚えることのできる技なんだが」
「パリィぐらい知っている! ぼ、ボクシングの技だろ? なんだ強くなったって、理由のわからねぇことを言いやがって! 俺をからかってやがるのか!」
「いや、できるだけ経験値を節約したかったから、レベル1から少しずつ上げて……悪い、忘れろよ。混乱させちまったな」
苦笑いをして、ランピーチは拳を握りしめ━━━。
メシャリと鈍い音がして、眼の前が真っ暗となる。痛烈な痛みが顔から感じられて、ツヨシは床に叩きつけられた。
「ゲフッ、な、なにが」
殴られた。それはわかるが拳がまったく見えなかった。拳を放つ瞬間すら見えなかった。まるで過程を抜かしたかのように、結果だけが発生したかのように、ツヨシはランピーチの拳をまともに受けていた。
拳を振り抜いたポーズでランピーチは立っている。ツヨシを見ると、つまらなそうに、哀れみの視線でツヨシを見下ろしてきた。
鼻が痛み、床に叩きつけられた事により背中も痛む。だが、まだ立ち上がれば戦える。それだけの体力はある。
だが、ランピーチのその視線を見上げて、その態度から絶対の自信と、己では届かぬ分厚い壁を感じ取り、ツヨシは気絶したふりをして目を瞑り戦いを放棄した。
勝てない。心が折れた。身体がブルブルと震えて、気絶の演技をしていることが誰の目からも明らかだったが、もはや戦意は失われていた。
その様子を見ても、トドメを刺すこともなく、ランピーチは鼻を押さえて顰めっつらとなる。
「本当はなぁ、俺に忠誠を誓う奴らがどれだけいるか確かめるために体を張った演技をしたんだ。さて、俺の心配をしてくれたのは何人いたかな?」
心配気にしていた何人かが目を輝かせ、大多数の顔は青褪める。
その様子を見ながら、ランピーチはぽそりと呟いた。
「あ〜、こーゆーのはゲームの中だけにしたかったんだがなぁ」
ランピーチは疲れたように髪をかきながら、鼻血が止まらないと裾で拭う。
そうして怒涛の経験が、たった一時間程度だったことを思い出し、肩を落とす。こんなことになるとは思わなかったと、喜びの顔で近づいてくる仲間を見ながらうんざりとするのであった。
「この夢はいつ覚めるわけ? そろそろ飽きてきたんだけどなぁ」
小声で呟くセリフは誰にも聞こえなかった。