第3話
モウブレーとの話を終えてからしばらく後、アリアはスコールを連れ、金獅子亭の裏庭に足を運んでいた。
ベンチに腰かけ、スコールを撫でながらもの思いにふける。
裏庭は花壇や噴水が設けられており、ささやかな庭園のようになっていた。冷ややかな風が、肌に心地よい。
すると間もなく、近づいてくる足音があった。
「眠れない?」
現れたのは、シーナである。
「案内された寝室があんまり立派で、何だか落ち着かなくって」
アリアはそう言って苦笑した。
「英雄の娘が、ずいぶんと庶民的なことを……」
「実際、私の家は質素な暮らしぶりだったと思うわよ。英雄なんて呼ばれてたけど、お父様は控えめな人だったから」
「そりゃあまた、ウチの団長と気が合いそうだな」
煌びやかに飾られた金獅子亭を見上げながら、アリアもシーナもクックッと笑った。
「そうだ。眠れないんなら、ちょっと教えて貰いたいことがあるんだけど……」
「いいよ。ほら、座って座って」
「悪いねジイ様、二人きりのところを」
シーナが謝ると、スコールはフンスと鼻を鳴らして立ち上がり、少し離れたところに腰を下ろした。
「ふふ、別に構わないってさ。それで、何が聞きたいの?」
「さっき言ってた、邪教徒ってやつさ。本当に、あんな絶界や柱を信仰してる連中がいるのか?」
「私も、うわさ程度にしか聞いたことがないんだけどね。絶界とは奇跡が顕現する、神の愛が降り注ぐ神聖な土地だって……だから、柱を封印したアーネスト様を嫌悪しているらしいわ」
「奇跡ねえ。まあ奇跡っちゃ奇跡なんだろうけど……というか改めてだけど、絶界って何なんだ? あとアーネストってのは? 王様なの? それとも神様?」
シーナが口早に捲し立てる。アリアは、
「えーっと……」
と言って髪をいじりながら、一つずつ答え出した。
「まず、絶界が何かってことだけど、詳しいことは誰にもわかっていないの。言えるのは、この大陸にかつて存在したと言われる霊魂の領域、地続きの別世界、隔絶された三つの大地、ということだけ」
「三つ……」
「そう。今日の遭遇したあれも便宜上、絶界と呼んだけど、本来はその三つだけ。そして、このノルズヴァン王国の首都、私やお父様が暮らしていたミュールも、かつてはその一つだったの」
「へえ……じゃあそこには勿論、あれが、柱サマがいたわけだ」
シーナが辟易した顔でぼやくので、アリアは眉を下げて笑った。
「ええ。『戦槌の魔王』と呼ばれる、恐るべき柱が。戦槌の傭兵団にとっては、名の由来でもあるわね。伝承によれば、太古の時代にミュールを築いた人物で、偉大な武人であり王だった彼は自らの老いを許せず、自身の民を生贄に捧げることによって不老の悪霊となり、絶界と化した都を彷徨い続けたと言われているわ」
「そいつを、我らのアーネスト様がやっつけたんだな」
「そう。『到来の魔導士』アーネスト・ヘインズ、『暁の弓取り』ベアトリス・サングスター、『巨人』ラ・ヴォルカン、勇気ある三戦士によって、今から約800年前、邪悪な魔王は見事封印されたのです」
「めでたしめでたし」
シーナが口を挟むと、アリアは首を横に振る。
「いいえ、まだ続きがあるわ。その後、残る二柱の封印にも成功したアーネスト様は、解放された地に三国を築き、それらすべてを統治する王となった。そしてついには、その人智を超越した偉業により、神々の領域へと昇華した――それがこの国、そして大陸全土で信仰されているアーネスト教の由来でもあるの」
「今日話してたおとぎ話、『アーネスト王伝説』か」
「そう。そしてそのおとぎ話が、絵本の枠を飛び越えようとしている。何かがこの国、いやもしかしたら、この大陸全土に巻き起ころうとしている……」
アリアは俯き、白く小さな拳を握りしめる。
「この企みを止めなくちゃ」
アリアが、すっくと立ちあがった。
「行くのか」
「ええ」
「ジイ様も?」
スコールも勇ましく吠えて答える。
「団長が調べてくれるって、言ってたろ」
「こればっかりは、譲れないわ。ほかの誰にも」
翡翠色の炎が、アリアの瞳で煌々と燃えている。
その横顔を見上げるシーナの瞳もまた、静かな輝きを湛えていた。
「それで、俺は置いてけぼりかい?」
「はは、まさか。何て言ってあなたを誘おうか、考えていたところよ」
「……そうこなくっちゃ」
シーナが笑顔で差し出した手を、アリアも力強く握り返す。
「――まこと、お父上に瓜二つですな」
突然掛けられた声に振りむくと、そこにはモウブレーとチェンバースが立っていた。
「監獄島に行って、何ができる?」
モウブレーの問いに、シーナは負けん気たっぷりに答える。
「何もできないかも知れないし、何かできることがあるかも知れない。それを確かめに行くんです」
「シーナよ、お前は生まれも育ちも覚えていないと言っていたが……そのギャンブラー精神、確実にノルズヴァンの血が入っているぞ」
モウブレーはそう言って、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「恩知らずな真似を、お許しください」
「いいえ、お嬢様。ハナから止められるとは思っておりませんよ。何せ、あの方の血を引かれているのですからね」
誇らしげに頷いて、何やら感じ入っている様子のモウブレーの隣で、チェンバースが困ったように笑っている。
「私の弓をお渡ししようと思ったのですが、すでに業物をお持ちのようですね」
「はは、私のじゃないんですけど。勝手に拝借してきちゃって……」
「よい弓です。大事にされてください、弓は必ず応えてくれます」
チェンバースがアリアの手を取り、祈るように優しく包み込んだ。チェンバースの手は、歴戦の弓取りらしく、硬いマメができているものの、白く美しく、そして暖かかった。
「監獄島は超一級の極悪人、重罪犯が収容される場所だけあって、看守も強者揃いと聞いています。お嬢様、どうかご無事で……」
「我々も準備ができ次第、後を追います。スコール殿がいれば問題ないでしょうが、とりあえず腕利きを付けましょう。ウチの傭兵団で……そうですな、12番目の腕利きですよ」
モウブレーは皮肉っぽい眼差しでシーナを見る。
「よかった。俺はてっきり20番目くらいだと思ってたから」
早朝、アリアたちはオダリアの南門にて、旅立ちのときを迎えていた。
暁闇を引き裂く朝日に目を細めるアリアは、白のブラウスの上から黒のベスト、赤のケープコートを羽織り、下はベージュのホットパンツに黒のタイツ、茶のブーツという出で立ちである。
すべてチェンバースの見立てた衣装で、洗練された雰囲気はより引き立てられ、とくに強調された脚線美が目を引いていた。
「どうしたの、シーナ。何かついてる?」
「ああいや、何でも。はは」
一方のシーナはというと、いつもの一張羅の上から紺のダスターコートをまとっていた。
街道は朝もやをまとい、樹々に差し込む日光が、夜露に濡れた緑葉の上で跳ね踊って輝いている。
モウブレーが用意してくれた幌馬車に乗り込み、アリア、シーナ、スコールは旅立つ。
見送りはいない。だが、それでよかった。
金獅子亭から南西を見守る、モウブレーとチェンバースの視線を、感じていたから。
「――さあ、行きましょう」