第4話
稲光が煌めき、雷鳴が轟く。
それを合図と取ったかのように、全員が動き出した。
「うおおぉっ!」
金切り声を上げる幽鬼に向かい、雄叫びを上げながら走り寄るシーナとスコール。その間を、一本の矢が駆けぬけていく。
その矢は、幽鬼が力なく差し出した右手に直撃した――かのように見えたが寸前、空中でぐしゃりと潰れてあえなく地面に転がった。
間髪入れず、スコールが跳びかかる。
しかし瞬きする間もなく姿をくらました幽鬼。
次の瞬間には、まるで最初からそこにいたかのように、シーナの背後に佇んでいた。
気配を察したシーナは、振りかえりざまに横一閃の剣を振るう。幽鬼はまたも姿を消すと、シーナとスコールの間に煙の如く身を移した。
「グルルァッ!」
スコールも負けじと素早く反応し、牙を剥いて食らい付く。
しかし幽鬼が右手をふわりと横に振っただけで、スコールの巨体が軽々と壁際まで吹き飛ばされた。
続けて斬りかかったシーナ。しかし彼もまた、左手を差し出されただけで、時間が停止したかの如くビタリと硬直して動けなくなってしまう。
それはまるで、見えざる無数の手に全身をくまなく掴まれているような感覚であった。
直後、幽鬼が人差し指で下を指差す。すると強大な力によって、シーナの身体が地面に激しく叩き付けられた。
続けて、手を高く振りあげる幽鬼。
――やばいっ!
何をされるか見当も付かなかったが、とてつもない危険が迫っていることは明白であった。
しかし次の瞬間、幽鬼の身体に矢が突き立った。
とくに苦しむ様子も見せず、矢を受けた反動に身を任せる幽鬼。後方にゆらりと仰け反ると、陽炎の如く姿を消した。
その場に落ちた矢には、一滴の血も付いてはいなかった。
「倒した……の?」
呆然と、矢を見つめるアリア。しかしすぐに、その言葉が間違いだったと直感する。
周囲を取り囲む、膨大な数の気配を感じたのである。
敵の姿は見当たらない。だが全身を襲う強烈な悪寒に、幽鬼の存在を確信せざるを得なかった。
「シーナッ! スコールッ!」
アリアは弓を構え、周囲にくまなく目を光らせながら、シーナの元へ歩み寄る。
スコールも同様に、鼻を鳴らし唸り声を上げながら近づいてきた。
また、剣を杖にしてなんとか立ちあがるシーナだが、とくに負傷は見受けられない。
屋上の中央にて、互いの背を守るように立つアリアたち。降り注ぐ風雨は、その勢いを増しつつあった。
「二人とも、大丈夫?」
「ああ、体調は最高。ジイ様もピンピンしてる……ただ、状況は最高とは言えないが」
剣を強く握りしめ、雨の滴る顔にいたずらっぽい笑みを浮かべるシーナ。
「付いてきたこと、後悔してるか?」
「今更な質問ね」
アリアも思わず笑みを溢した。
状況は芳しくないが、不思議と絶望感はなかった。
すると次の瞬間、スコールが大きく吠えた。続けて、目を眩ますほどの雷光が閃く。
まぶたを開いたとき、アリアは我が眼を疑った。
それはなぜか。
数え切れないほど大量の幽鬼が、アリアたちを取り囲んでいたのである。
「後悔してるわ、最高に」
無数の幽鬼たちが無数の叫び声を上げ、一斉に襲い掛かる。
「来るぞっ!」
シーナが叫んだ。
「来ないでっ!」
アリアも叫んだ、というよりは懇願した。
三人は無我夢中で矢を撃ち、剣を振り、牙を突き立てる。
幽鬼の分身は攻撃を受けると、触れたような触れていないような――そんな奇妙な感触だけを残し、姿を消していく。
不幸中の幸いは、分身たちの行動が極めて単調なことにあった。
分身たちは手を伸ばし、こちらに突っ込んでくるだけ。まるで相手に触れることだけが狙いのようである。
ただそれだけに「あの手に触れたらどうなるのか」という疑念が、「あの手に触れてはならない」という恐怖となり、アリアたちの反撃をさらに必死なものにした。
降りしきる風雨の中、迫る無数の手から自分を、仲間を守るため、一瞬の油断も許されない攻防が続く。
しかしついに、アリアの矢筒が空になった。
――しまった……!
アリアの動きが止まったとき、やせ細った灰色の手が、彼女の手首を掴んだ。
振りほどこうとする間もなく、アリアの白い手首を凄まじいまでの熱量が襲う。
刹那、彼女が感じたのはひどく深い悲しみに憎しみ、怒り……かつて味わったことがないほどの、途方もない苦痛の記憶であった。
「~~~ッ!!!」
突如流れ込んできた感情の奔流に、少女は叫ぶことさえ忘れ、ただ倒れ込む。
「「オオオォッ!!!!」」
シーナの剣とスコールの牙が幽鬼を襲った。
すると幽鬼は短い悲鳴を漏らしながら姿を消し、分身たちも一斉に掻き消えた。
糸の切れた人形のように、その場にへたり込むアリア。
「おい! おい、大丈夫か?!」
茫然とした表情で息を切らすばかりで、何も答えない。
幽鬼に掴まれた手首を見ると、そこだけ焼け焦げたかのように真っ黒にただれていた。
シーナは思わず息を飲んだが直ぐに手を当て、治療を施す。
魔法の光がアリアの手首を包み込み、数秒もするとまったくの元どおりとなった。
「しっかりするんだ、傷は治った! ほら、大丈夫だ、だろう?!」
必死に声をかけるシーナ。
彼の魔法は身体の傷は治せても、心の傷までは届かない。
それでも懸命に、必死に励ましの言葉をかけ続ける。
スコールもまた、へたり込んだままの主人に向け、泣くように吠え続けた。
「シ……シーナ、は……」
しばらく茫然としていたアリアだったが、二人の声が届いたのか、やがてゆっくりと口を開いた。
「シーナ、は、大丈夫……?」
弱々しくも笑みを浮かべ、すり寄ってきたスコールの頭を撫でる。
「他人の心配してる場合かよ。言ったろ、最高だって」
シーナは治療の反動で顔を青白くし、冷や汗を流していたが、その眼には安堵の涙が浮かんでいた。
すると少し離れた位置に、幽鬼がまた姿を現した。
今度は分身を伴わず、一体きりである。
「できるだけ離れてな」
シーナが剣を構え、スコールが怒りの表情で唸り声を上げた。
「さっき斬ったとき、今までにない手応えがあった。奴も傷を負ったはずだ。大丈夫、きっと倒せるさ」
シーナは意気込む。しかしその裾が、弱く引かれた。
「待って二人とも。少しだけ、私の話を聞いて」
アリアがか細い声で二人を止める。
するとそれをかき消さんばかりに、幽鬼が叫び声を上げた。
突如、その身体が発火し、炎に包まれた。
幽鬼は悲鳴のような声を発しながらも燃え続け、その炎は風雨にかき消されることなく、逆に大きく激しくなっていく。
「あ~……できれば、手短にね?」
引きつった笑みを浮かべるシーナに、アリアは真剣な眼差しを返す。
「さっき彼女に触れられたとき……その、上手く説明できないけど、色んな感情が流れ込んできたの。痛みや苦しみ、悲しみに怒り、それに微かだけど確かな喜びも……」
「彼女?」
「その中にね、あなたを感じたの」
「……俺?」
シーナは驚きの表情で、アリアと幽鬼とを見比べる。
幽鬼は苦しみ喘ぐように叫びながら、なおも燃え盛っている。炎はさらに勢いを増し、今や巨大な火柱のようである。
「理由はわからない。けれど彼女はあなたを、シーナを知っている。そう思えてならないの」
アリアの言葉を聞きながら、燃え盛る幽鬼を鋭く見据えるシーナ。
炎と幽鬼。赤と白。
そのコントラストが、心のどこかに引っかかった。
――あいつは、俺を……じゃあ、俺はあいつを……?
そう自分に問いかけたとき、揺らめく炎の隙間から、ひどく懐かしい顔が覗いた気がした。
「シーナ?」
「ここで、ジイ様と待っててくれ」
その横顔は、頑なな決意に強張っていた。
剣をだらりと右手に下げて、一歩、また一歩と火柱に歩み寄っていくシーナ。
そんな彼を、アリアもスコールも固唾を飲んで見守るしかない。
近付くにつれ、飛んできた火の粉が肌を焼いたが、シーナは堪えて歩みを進める。
ついに火柱の前に立ったシーナ。しかしそのとき、新手の声がアリアの耳に届いた。
亡者たちが、アリアたちを追って屋上に駆け付けたのである。
「スコールッ!」
アリアが叫ぶより早く、スコールは亡者に食らい付いた。
アリアも落ちていた最後の矢を拾い上げて撃つ。それから弓をこん棒代わりにして、スコールに加勢した。
――少しは、空気を読んでよねっ!
アリアもスコールも、懸命に亡者たちを食い止める。
そして、意を決したシーナが火柱に向かって足を踏み出そうとした、その刹那――炎をまとった幽鬼が飛び出してきた。
怨嗟の集大成とでも呼ぶべき悲鳴を上げながら、シーナに向かって手を伸ばす。
そのとき、シーナの世界が制止した。
感じられるのは、迫る幽鬼の存在と、右手にかかる剣の重力だけである。
永遠にも等しい一瞬の後、シーナが取った選択は、剣を手放すことであった。
そして両手を開き、幽鬼を胸に迎え入れる。
幽鬼もまた、シーナの首に腕を回し、その身体を強く抱き寄せた。
直後、あらん限りの痛み苦しみが、彼の全身を駆け巡る。
雨降る屋上に、ひときわ輝く雫が落ちた。
それは苦しみではなく、憐みの涙であった。
そのやせ細った身体には到底収まり切れないほどの、身悶え気が狂うほどの負の感情を抱え込んでいたからこそ――この幽鬼は、この少女はあんなにも泣き叫び、感情を吐き出し、救いを求めていたのだ。
燃え移る業火に身を焼かれながら、シーナは泣いた。ほかの誰でもない、腕の中の幽鬼のため、ぼろぼろと涙を流した。
「すまない……すまない」
消え入るように呟いたシーナの唇に、小さく柔らかな唇が重ねられる。
そのとき、振りかえったアリアの瞳に映ったのは、決して恐ろしい化物の姿などではなかった。
そこにはただ、想い人と口づけを交わす、平凡な赤毛の少女の姿があった。
唇を離した少女は、淡い笑みを浮かべていた。慈しむようにシーナの頬を優しく撫で、声にならぬ声を呟いた。
するとやがて、その身がゆっくりと灰と化していく。
必死に引きとめようとするシーナの腕をすりぬけ、やがて少女は、穏やかな風の中へと消えていった。
それと同時に亡者たちも、その身を灰へと還していく。
「絶界が、消えていく……」
信じられないといった口調で、アリアが呟いた。
雲間から差し込む陽光が、立ち尽くすシーナに優しく降り注ぐ。
いつの間にか嵐は止み、炎も消え、辺りはただ静寂だけを湛えていた。
「――何も、思い出せないんだ」
シーナがぽつりと呟いたのは、塔を出た後のことであった。
敷地内の至るところに、灰塵と化した化物たちが転がっている。
最初に入ったときには嫌というほど感じられた瘴気も、今は鳴りを潜め、辺りは完全に静まり返っていた。
そんな中、三人の足音とシーナの声だけが嫌にはっきりと響いていた。
「あの子は俺を知っていたんだろうな。俺もそのはずなんだ。知っているはず……ただ、どうしても思い出せない……」
そう話すシーナの表情は決して明るくはないが、悲観的というわけでもない。
ただ、視線が遠くに向けられており、どこか虚ろな面持ちである。
アリアは掛ける言葉が見つからず、その横顔を見つめて黙り込むしかなかった。
するとスコールが、そんな静寂を打ち破った。突如、険しく吠え始めたのである。
「スコール、どうしたの?」
スコールは砦の正門のほうを向いて、何度も吠えている。
まるで、二人に何かを報せるように。
「何か聞こえる」
「……何か、こっちに近付いてきてる。これは、蹄の音?」
「ああ。それも、結構な数だぞ」
一行に緊張が走る。絶界を辛うじて切りぬけた三人に、もう一戦交える体力はもはや残ってはいない。
しかし正門から入ってきた騎兵の一団を見て、シーナが剣を収めた。
「シーナ?」
「大丈夫。俺の知り合いだよ」
騎兵たちが掲げる軍旗には、大きな槌の紋章が描かれていた。
重装備の者もいれば軽装の者もいたりと、どうやら装備の定められた正規の軍隊ではないようである。
「――探しものは見つかりましたか、シーナ君?」
凛とした高らかな声が、辺りに響き渡った。
声の主は、一団の先頭を率いていた女騎士である。
長身痩躯の麗人で、黒揃えの軽鎧を身にまとい、つややかな長い黒髪を後ろでまとめている。縁なしの丸眼鏡が、彼女の聡明な印象を際立たせていた。
騎乗している黒鹿毛の馬には、これまた漆黒の弓を携えている。
「残念ながら。ただ、美女と狼なら見つけましたよ。俺にしては上出来でしょう?」
軽口を叩くシーナに、呆れたような笑みを返す女騎士。
しかしアリアとスコールに視線を移すと、顔色がにわかに変わった。
彼女は馬を降りてアリアに歩み寄ると、朗らかな笑顔で挨拶する。
「ごきげんよう麗しいお嬢様。わたくし、『戦槌の傭兵団』副団長を務めております――フィアメッタ・チェンバースと申します」




