第3話
空は黒い雲に覆われ、雲間から茜色の稲光が差し込んでいる。
地上にはにわか雨を伴った生暖かい風が吹いていた。
それはまるで強大な憎悪の渦が、唸りを上げて天地を包み込んでいるようであった。
姿形こそ同じであれ、以前とはまったくの別世界が、そこには広がっていたのだ。
間もなくアリアたちに気付いた化物が、塔を目掛けて走り出した。
「やや、やばいっ! 一旦退くぞ!」
慌てて身を翻したシーナの目の前に、漆黒の霧が渦巻いた。
霧はやがて巨体の鎧騎士となり、二人の前に立ち塞がった。
躊躇なく放たれた斬撃を辛うじて受け止めるシーナ。しかし後ろに弾き飛ばされ、石段を勢いよく転げ落ちた。
「シーナぁッ!」
駆け寄ろうとするより早く、攻撃が迫った。アリアは間一髪、しゃがんで躱して矢を番える。
しかし石段を踏み外し、矢を取りこぼしてしまった。
続けて迫る振りさげろしを、身を投げるように横に跳んで躱す。
必死に立ち上がりながら放った一矢は、敵の腰に突き刺さった――がそれでもまだ、騎士は止まらない。
一方、石段の中腹まで落ちたシーナにも、魔の手が襲い掛かっていた。
「このっ、グール、どもッ! 来るんじゃ、ねえッ!」
グールと呼ばれたその化物たちは、顔立ちこそ人間に似ており肌色の皮膚をしているが、恐ろしく鋭い牙と爪を有し、獣のように四肢を使って移動する。
その速度は正しく獣並みで、ほかの化物を押しのけ真っ先に石段を駆け上がってきた。
シーナは体勢を立て直し、跳びかかってきた一匹を斬り捨てる。
続けて二匹、三匹と倒すが、まるでキリがない。
くわえて、敵はグールだけではない。数え切れないほどの魑魅魍魎どもが、砦に迫りつつあった。
――いよいよマズいな
砦に逃げ込もうと振りかえったシーナ。
しかし視界を上げたとき、騎士に捕らえられたアリアの姿が目に飛び込んできた。
騎士は矢を受けた右腕をだらりとぶら下げているが、残る左腕でアリアの首を絞め上げている。
「ぐ、うっ……」
少女のか細い首が今まさにへし折られようとしたとき、長剣が騎士の頭部を直撃した。
シーナの投げたそれは致命傷にはおよばなかったが、衝撃で怯んだ騎士はアリアを手放した。
解放されたアリアは咳きこみながらも矢を拾い上げ、果敢にも相手に飛びつくと、兜の隙間に矢を突き立てた。
騎士は倒れ、アリアは窮地を脱することに成功する。
しかし今度は、素手となったシーナに敵が襲い掛かる。
シーナも懸命に逃げるが、グールのほうが幾分速い。
その鋭い爪が背中を斬り裂こうとした刹那――グールの身体に矢が突き刺さり、石段を転げ落ちていった。
アリアの援護射撃である。
「シーナ、はやくこっちへ!」
正確無比の射撃により、次々と撃ち落とされていくグールたち。
しかし門まであと僅かというところ、グールの爪がシーナのシャツを捉えて引っ張った。
「しまっ……」
後方に大きくバランスを崩すシーナ。アリアが手を伸ばすが、届かない。
視界がスローモーションになり、ゆっくりとアリアが遠ざかっていく。
しかし次の瞬間、大きな何かが背中を強く突き飛ばし、シーナは前のめりに倒れ込んだ。
続けて背後でグールの断末魔がこだまする。
「今よ! 早く入って!」
いったい何が起こったのかもわからぬまま、アリアに手を引かれ、砦に飛び込んだ。
大急ぎで門を閉め、閂を掛ける。間髪入れずに「ドガァン」と、門に何かがぶつかる音が轟いた。
二人は広間にあるものを片っ端から門にあてがい、不格好なバリケードを築く。しかし木製の門は嫌な音で軋み続け、外からは無数の化物たちの呻き声が届いていた。
「はあ……これじゃ長くは保たないかな」
揺れる門を見ながら弱音を吐くアリア。しかし一度恐怖の底に落ちた反動なのか、さほど恐れている様子はなかった。
一方のシーナは両ひざに手を付いて、大きく息を切らしていた。
「ああ、そうだ。あなたの剣、拾っておいたわ。また、助けられちゃったね」
「またお互い様、の間違いだろ?」
そう言って笑みを作るシーナだが、やがて気まずそうに視線を泳がせ始めた。
「その……なんだ、そんな状況じゃないとは思うんだが……できればこちらの方を、紹介してくれないか?」
彼の言葉どおり、広間にはシーナとアリアのほかにもう一つ、舌を出して小刻みに息を切らす存在があったのだ。
「ああ、そうよね、紹介しなきゃね」
アリアは「おほん」とわざとらしく咳払いして、シーナに彼を紹介した。
「こちら『スコール』、私の家族よ。スコール、こちらシーナ。私の恩人なの」
「さっきは危ないところをどうも、助かったよ。ええと……大型犬、いや狼か?」
シーナの言葉どおり、アリアの家族こと、スコールは狼であった。
大きな身体に輝く灰色の毛をまとっており、凛々しく威厳のある顔立ちをしている。
そしてその碧い瞳からは、獣とは思えぬほどの知性が感じられた。
「ウォフッ!」
「曾祖父の代から、私の家を守っている騎士狼よ。私は祖父を知らないから実質、彼がおじいちゃんみたいなものね」
「……なるほど? 『そりゃあいったい全体、何歳なのか』とか『そもそも騎士狼ってのは何なのか』とか『狼を祖父と呼ぶ君は何者なのか』とか、聞きたいことは山積みだけど……今はそれどころじゃなさそうだな」
こうして話している間にも、門を叩く音は大きくなっていく。
外の化物たちが、続々と門前へ集結してきているようであった。
「なあ頼む、これだけは教えてくれ。あの日記にも書いてあったな。この地獄……『絶界』ってのはいったい何なんだ」
鬼気迫る表情で尋ねるシーナ。アリアは一つ息をのみ、難しい表情で答えた。
「なんとも説明しづらいけど……見てのとおりよ。魔物と霊魂の領域、生と死がひっくり返る世界」
「……なるほど? それで、どうすりゃそいつをぬけ出せる」
「それは『柱』を――いえ、自分でも何を言っているかわからないんだけど……」
「いいから、頼む」
シーナにせがまれてアリアは、心の底から馬鹿馬鹿しい考えを口にするような、そんな口調で呟いた。
「柱を、倒すの」
「はしら? 柱って?」
「絶界のあるじよ」
「あるじって――」
というシーナの言葉を、女の叫び声が遮った。
この世のすべてを嫌悪し拒絶するかのようなその声を、二人は知っていた。
件の幽鬼の声は、塔の遥か上方から聞こえてきたようである。
「アイツか、あるじは」
天井を睨みながらシーナが呟くと、アリアが頷いて同意した。
幽鬼の声に呼応するように、門を叩く音が激しくなった。今にも門を打ちこわし、雪崩れ込んできそうな勢いである。
「とにかく行こう、上に!」
二人と一匹は、全力で階段に足をかけた。
螺旋階段を二階、三階と駆け上がっていく。
「――つまりだ! あの幽霊ガールをやっつけりゃあ、外の連中も消えるんだな?」
「伝説上はね!」
「伝説!」
聞き捨てならないアリアの言葉に、シーナが素っ頓狂な声を上げる。
やがて一行は、四階に辿り着いた。
「やあ! そこを通してくれないかい?」
シーナの睨む先、そこに立ち塞がるのは亡者の一団である。
どれも軽装だが、十体近くと数が多い。
不運にも上階へと続く階段は、彼らを越えた先にあった。
思わず怯むアリアとシーナに、一斉に襲い掛かる亡者たち。しかし、スコールが機先を制した。
先頭の亡者めがけ、閃光の如き俊敏さで跳びかかり――次の瞬間には、その首を咥えて宙を舞っていた。
先手を取ったはずの亡者たちの足が止まる。
そこへアリアが矢を撃ち込み、シーナが斬り込んだ。
「とんだ騎士ナイト様だな、このジイ様は」
そこら中に散らばった亡者たちの残骸を見回しながら、シーナは感嘆の声を漏らす。
僅か一分足らずの決着であった。
「推定200歳はダテじゃないでしょ?」
アリアは自慢げに笑って、また走り出した。誇らしげに吠えて、その後を追うスコール。
シーナは信じられないものを見る目つきで、狼の背中を追った。
「さっきの話だけど、俺の聞き間違いじゃあなければ! 今起きてるこの事態は、伝説上の出来事だってのか!?」
階段を駆けながら、シーナが大声で尋ねる。
アリアも負けじと大声で答えた。
「そうよ! 絶界も柱も! すべて『アーネスト王伝説』の中の話だと思ってた!」
「アーネスト王?」
「でも……でもね! こんなふうに突然、絶界が現れるなんて話は、どんな伝説でもお伽話でも聞いたことがないの! だから、だからこそ――」
そこまで話したとき、急に視界が開けた。
辿り着いたその場所は、塔の屋上であった。
腰ほどの高さの塀に囲まれただだっ広い屋上に、勢いを増した雨風が打ち付けている。
そしてその中央には、件の幽鬼が。想い人を待ち望む乙女の如く、風に揺られて揺蕩っていた。
「伝説どおりなら、ただの人間が柱に敵うはずはない。でもこの絶界もあの柱も、まるで『例外』。だからきっと、人間が敵わない――なんて道理も『例外』のはずよ」
風に黒髪をたなびかせ、翡翠色の瞳を燃やすアリア。彼女は自分自身に言い聞かせるように力強く、そして丁寧に言葉を紡いだ。
その言葉を聞いたシーナもまた、腹の底から力が湧いてくる想いがした。
「厳しい屁理屈だが――心底、気に入った」