第2話
砦は外壁にぐるりと囲まれているが、正門は開け放たれており、難なく中へ入ることができた。
荒れ果てた広大な敷地には備蓄庫や厩舎と思しき、幾つもの古びた建屋が見受けられる。
そしてそのどれもが、最近まで人の手が入っていたように思われた。
しかし何より目を引くのは、カルド山側の外壁に沿ってそびえ立つ円柱型の塔である。
なかなかに巨大な建造物で、その入口は長く大きな石段を登った先にあった。
幸か不幸か、扉に鍵は掛っていなかった。ギギギと音を立て、瘴気を吐き出しながら扉が開く。
外からでも十二分に感じていたことだが、塔に足を踏み入れると不穏な印象がますます強まる。
無人ではあるがこれまたやはり、あちこちに人の痕跡を残していた。
しかし新しめの寝具や食事の跡などはあっても、目ぼしいものは見当たらない。
「こっちだ。こっちに何かがある」
塔に入って直ぐの広間から、地下へと続く階段をシーナが見つけた。
「ずいぶんと大きな塔だな」
広間で拾った松明で足元を照らしながら、慎重に降りていく。
静寂の中、幾重にも反響する自分の足音。それがアリアには堪らなく不気味であった。
階段を降りた先に現れたのは長い通路である。
地上から微かに光が漏れているが、それでも暗い。
そしてその左右には、錆びた鉄格子の牢屋がずらりと並んでいた。
シーナは檻の中を照らして確かめながら、ゆっくりと歩を進める。
幸いにして牢はどれも空であったが、不可解なことにそのどれもが――というより通路全体が焼け焦げているのである。
「火事でもあったのかしら」
「ああ、それも割と最近らしい。まだ匂いが残ってる」
通路を進むほど、焦げ臭さが増していく。
やがて大きな鉄の扉に突き当たった。
扉を押し開けると、むせ返るような匂いが充満していた。
広々とした部屋を埋めるように散乱しているのは、大量の書類や書物。そして金属製の法具――もとい、それらの残骸である。
「火元はここみたいね?」
咳きこみながら本を拾い上げるアリア。しかしどれも黒焦げで、まるで読めない。
「何か手掛かりが残っていればいいけど」
不安な声を漏らすが、ふと顔を上げた彼女の視界に気になるものが映った。
崩れて壁に倒れ掛かった本棚の背後から、さらなる扉がわずかに覗いていたのである。
――まだ奥に部屋が?
扉にアリアが近付こうとしたそのとき、
「うおっ!」
というシーナの声が響いた。アリアの身体が跳ね上がる。
「な、ななっ、なに?!」
「ああ、悪い悪い。ちょっとビックリして……」
ビックリしたのはこっちだと涙目で抗議する。しかし部屋の一画に転がるそれを見たとき、再び身体が跳ね上がった。
「こ、ここ、これって……ヒト?」
「そうみたいだな」
しゃがみ込むシーナの目の前。灰になった書物に埋もれるように、黒焦げの焼死体が横たわっていた。
全身焼け焦げて顔立ちすらわからないが、身体つきから察するに男性のようである。
「何か……抱え込んでる」
シーナの言うとおり、遺体は赤子のように身を丸めて、胸に何かを抱きかかえていた。
「悪いな。ちょっと見せてくれよ」
シーナはそう言うと、遺体の持ちものを引き剥がそうとする。
アリアはそんな彼に驚いたが、その横顔の必死さに言葉を呑んだ。
硬直した両腕が守っていたものは、焼け焦げた革の手帳であった。
文字を読むのが不得意だというシーナに代わり、内容を確かめるアリア。
「日記かな。最近付け始めたみたい。ところどころ焼け焦げて読めないけど……ここで具体的に何をしていたかは書かれていないわね。愚痴かもしくは故郷の家族のことばかり」
「愚痴?」
「ええ。『信仰も信念もない、雇われの連中に囲まれての仕事は地獄だ』って何度も何度も……」
「『訓練と称して部下を殺そうとする上司との仕事も地獄だ』って書き足しといてくれ」
シーナの愚痴を無視して、アリアが手帳をめくっていく。
すると、あるページで手が止まった。
「これを見て。約一ヶ月前よ――『成果をすべて、中央の連中に持っていかれた。成果といっても大したことはないが、あの検体を持っていかれたのは手痛い。何にせよ看守長が術式を確立したらしい。喜ぶべきだろうが、どうにもアイツは気に入らない』」
「看守長? 中央って?」
「王都ミュールのことでしょうね。そこの看守長というと、王都の囚人が入る『クリーグ監獄島』の看守長のことかしら……ちょっと待って。その翌日、これは――」
「どうした? 何が書いてある?」
言葉を失うアリアに、シーナが怪訝な表情を浮かべる。
「ちょっと待って。よ、読むけど、別に私の頭がおかしくなったわけじゃないからね? いい?」
アリアは念を押し、件の一節を読み上げ始めた。
「『まったくもって信じられない。ああ、心が、魂が満ち満ちていくようだ。なんとなんと素晴らしい。溢れてしまう。綴らなければ。蓋をするために。鍵をかけるために。
守衛共が騒いでいる。どうでもいい。奴らは死に、私も死に、主と一つの行方となる。奴らは拒まれる。奴らは罪の箱、樹の人々。親父もお袋も神父も愛しのユベールも、理解しようとさえしなかった。そうだ、アーネストもそのほかのクズも何もかも偽りだ。
あれなる方々は明白なる混沌の海原に、『絶界』にこそ御座すのだ。我が心を溶かす三柱の主は痛悔の代弁者、降り注ぐ赦しにして、虚無に仇なす心臓である。
ああ、真実よ! そうだ、真実! 薄暮、遠雷、ユベール、クロウタドリ、蓋棺録、木像、雪の女王。我はジョン・ハリン・ブラムウェル、この世に天秤を残す彼方である』……」
アリアが震える声で日記を読み終えた、まさにそのとき。
彼女は、血が凍ったかのような錯覚を覚えた。
――何かが、いる
アリアも、またシーナも背後に佇む何者かの気配を確信した。恐ろしい何かが、いると。
しかしその悪寒の壮絶なあまり、身体が言うことを聞かない。
唇を噛んで意を決し、二人同時に振りかえった。
そこには、一体の幽鬼がふわりと揺蕩っていた。
骸骨のように痩せこけて、灰色の肌の上に白いドレスと白い長髪をたなびかせている。
シーナが何か、言葉にならぬ嗚咽を漏らしかけたとき、先に幽鬼が口を開いた。
そこから発せられたのは、まるで助けを求めるような、あるいは狂おしく喘ぐような、とにかく悲鳴じみた凄まじい声であった。その声は部屋中はおろか塔全体、砦全体に響き渡った。
二人とも呼吸さえ忘れ、ただ恐怖に震えていた。
アリアの鼻腔びこうから、どろりと鮮血が流れ出る。
まだ年若い少女には、この世のすべての怨念の結晶がそこに浮遊しているかのように思われたのだ。
血が唇から顎をつたい落ち、石畳の床に跳ねたとき。幽鬼は怯えるように姿を消し――入れ代わりに、二体の鎧騎士が、煙の如く現れた。
騎士たちからは、まるでそこに存在しないかのように生気を感じられない。しかし剣を手に、確かな足音を鳴らしながらズカズカと近付いてくる。
騎士の一体が、アリア目掛けて剣を振りあげた。
当のアリアは放心状態のままである。
「うおおぉあっ!!!」
シーナがでたらめな雄叫びを上げ、アリアを勢いよく押しのけた。
彼はとっさに、剣を振りさげろす騎士の手を掴んで止めようとした。しかし勢いを抑えきれず、刃が肩口に食い込んだ。ゆっくりと肉が裂け、血が流れ出る。
なんとか抗うシーナだが、圧し掛かる重圧は易々と押し返せるようなものではなかった。
その間にもう一体が、へたり込んだままのアリアに歩み寄る。
そしてまた同様に、剣が振りあげられた。
「立って……戦えぇっ!!!」
必死の叫びが轟いた。
次の瞬間。振りさげろされた剣が、石畳に食い込んだ。
間一髪、身を転がして剣をかわしたアリア。即座に立ち上がりながら、流れるような所作で矢を弦に番える。
その矢は、シーナを仕留めんとする騎士の首を正確に捉えた。
シーナは崩れ落ちる騎士の手から剣を奪い、もう一体に投げつける。あえなく防がれたがその隙にシーナは、相手の懐に飛び込んでいた。
そしてぬき放たれた剣は、鎧ごと腹を横一文字に斬り裂いた。
騎士たちは倒れたそばから、その身を灰へと化していく。
「ああ、あの、シーナ、ごめんなさい。わたし……その、シーナ、傷が……」
罪悪感やら不甲斐でいっぱいになるアリアだったが、すぐさま言葉を失った。
見る見るうちにシーナの傷が、裂けた衣服までもが、淡い光を発しながら元どおりになっていくのである。
「あ、あの……」
「ほら行こう。今はここを離れたほうが――」
シーナは何事もなかったかのような様子で、アリアの手を取る。
すると再び、悲鳴がこだました。
それも一人や二人ではない。恐らくは何十人もの、身を裂かれるような悲鳴である。
そしてその声たちは、先ほどアリアが見つけた最奥の部屋から発せられていた。
――あそこは、いったい……
立ちすくむアリアだったが、シーナに手を引かれ、悲鳴を背に部屋を出る。
もと来た通路に戻ると、あろうことか悲鳴がさらに増した。
ずらりと並んだ牢屋から響く、数え切れないほどの苦痛の声と、鉄格子を叩く音。
しかし牢屋の中には、一人として人の姿を見ることはできない。
「あ……」
かすかな嗚咽を漏らし、硬直するシーナ。
しかし直ぐに、意を決して一歩踏み出した。
つないだ手からは、恐怖が伝わりすぎるほどに伝わってくる。
割れんばかりの声と音の洪水の中を恐る恐る、それでいて急ぎ足で進んでいく。
誰もいないはずの牢の中に、数え切れないほどの人々の息遣いが感じられた。人々は泣き叫び、救いを求めて二人に手を伸ばす。
それが錯覚だとわかっていながらも二人は、身を縮めながら祈る思いで歩を進めた。
来たときとは比にならないほどの瘴気が充満していた。
永遠に続くとも思えた通路をぬけ、追われるように階段を駆け上がる。
ようやく大広間に辿り着いたが、恐怖は治まらず焦りは増すばかり。
一刻も早くこの場所から逃れたい――その一心で扉を押し開けた。
「――ここは、地獄かい」
「いいえ、これは……『絶界』よ」
塔を飛び出した二人の眼に飛び込んできたのは――砦の敷地を埋め尽くすほどの亡者に屍鬼、小鬼。ありとあらゆる魑魅魍魎の群れであった。