最終話
「どう? 記憶は戻った?」
土手に腰掛け、田園を眺めていると、少女の声が掛かった。
いつの間にか、赤毛の少女が傍に立っていた。麦わら帽子に、茶のワンピースを身にまとい、パンの入ったバスケットを手に下げている。
「――そっか。あ、でも焦らなくていいからね。身寄りも記憶もない人を追い出すほど、薄情じゃないからさ」
少女は励ますようにポンと肩を叩くと、布を広げて隣に腰掛けた。
「――ベアトリス? 知り合い? 知らないなぁ……あ、でも何か聞き覚えあるかも。何だっけ、確か私の家の伝承に出てくる、遠いご先祖様がそんな名前だったような――って、関係ないか」
可笑しそうに笑いながら、少女がサンドイッチを差し出した。彼女も一つ手に取り、美味しそうに頬張っている。
暖かな陽の光が降り注ぎ、柔らかな風が樹々を愛でる昼時。遠くに見える村人たちも農作業の手を止め、家族の団らんを楽しんでいた。
「それじゃあこの辺りに、その名前の人がいないか探してみようか。私も手伝うからさ――ああでも、探しものが見つかったからって、直ぐに出ていっちゃやだよ? せっかくできたお友達なんだから」
たおやかな赤毛が風に舞い、日差しを浴びて輝いている。
そばかす顔に満面の笑みを浮かべる彼女は、まさしく春の日の太陽そのものだと、シーナは、そう想わずにはいられなかった。
***
目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。
――前にもあったな、こんなこと……
そんな感想を浮かべながら、ゆっくりと身を起こす。全身に鈍い痛みが走った。
身体のあちこちに膏薬が貼られ、とくに額には、幾重にも包帯が巻かれていた。視界に入る頭髪が真っ白だったのには、思わず驚きの声を漏らした。
清潔で質素な石造りの、見知らぬ部屋と見知らぬベッド。窓からは、爽やかな朝日が差し込んでいる。
遠くに家々の屋根が見えることから、どうやらここは高層階のようであった。
しかし、見覚えのないもの揃いの室内にも一人、見覚えしかない者がいた。
ベッド脇の椅子にもたれて、アリアがすうすうと寝息を漏らしている。
「シーナ……」
寝言で自分の名を呼ぶ彼女が愛おしく、つい笑みがこぼれた。
「ああ、俺は……シーナはここだよ。ったく、つくづく変な名前だな」
――お嬢が呼んでくれるんなら、何でもいいけど
すると軽口が聞こえたのか、アリアは寝ぼけ眼で顔を上げた。
「おはよう、お嬢」
翡翠の瞳に、笑顔のシーナを映すと、見る見るうちに涙があふれ出した。
「しぃいなぁああぁ!!!」
「アぁ痛たたたたたた!!!」
勢いよく抱きつかれ、シーナは悲鳴を上げるが、アリアは一向に力を緩めない。
「痛い! 痛いです! 痛いですお嬢様!」
すると、扉が音を立てて開かれた。
悲鳴を聞き付けて現れたのは、スコールとマックスである。
「ジイ様! 先生! 助け――」
「しぃぃい、なぁあああぁぁ!!!!!」
「ちょ、待っ、やめて――」
言葉にならぬ甲高い悲鳴が、青天の空にこだました。
「丸五日寝ていたんだぞ。このまま目覚めず、死んでしまうかと思っていたところだ」
「今しがた、死にかけたけどね」
シーナの嫌味には答えず、マックスは椅子に腰掛け、安堵の涙を拭っている。
「それで、体調は大丈夫なの? その、賢者の石と……融合、したんでしょ?」
恐る恐るといった口調のアリアに、シーナは苦笑を返す。
「ああ、問題ないよ。自分でも不思議だけど……なんというか、なんともない。よくも悪くもね――それで、魔王は消えたのか? 絶界は?」
「ええ。何もかも元どおり、とはいかないけど。絶界は完全に消えたわ」
「魔王も消えた。お前が倒したんだ」
アリアとマックスの言葉に、シーナは素直に喜べずにいた。
「なあ先生。アイツは、魔王は本当に死んだのか? それとも、また眠りに就いただけなのか?」
「それは……わからない。柱の死を目撃した人間など、僕の知る限り、歴史上に唯一人として存在しないからな」
首を横に振るマックスだったが、その表情は決して悲観的ではない。
「でも、とりあえずは安心していい。それは僕が保証する」
マックスはそう言って立ち上がると、よくやったな、とシーナの頭を軽く叩いて部屋を出た。
「――先生は強いな。お嬢とジイ様は大丈夫だったの?」
「私は、ミセス・チェンバースに手当てしてもらったから平気よ」
「姐さんが、ここに?」
シーナが驚きの表情を浮かべる。
「ええ。『戦槌の傭兵団』総出で、駆けつけてくれたの」
「まったく、頼もしい――じゃなかった、騒がしいことこの上ないな」
やれやれと首を振るシーナに、アリアが可笑しそうに笑う。
「スコールも、結構な深手を負っていたんだけど……今じゃこのとおりよ」
その言葉を証明するように、スコールは元気な声を響かせた。
「私は途中で別れたから、スコールとユダの二人だけで、聖王騎士団や邪教徒と戦って絶界を消してくれたの」
「そっか。ほんっと、ジイ様には助けられっぱなしだな。礼を言っても言い切れないよ」
頭を下げるシーナに、スコールはフンフンと誇らしげに鼻を鳴らして答える。
「それで、クックとオッサンは?」
シーナが尋ねると、アリアは「それが……」と言葉を詰まらせた。
「二人ともかなりの重傷で、ずっと意識を失ったままだったんだけど……」
「どうした? まさか――」
シーナの顔に緊張が走る。
「一昨日、突然姿を消してね。『面倒かけました』って置手紙だけ残して……どこでどうしているのやら……」
アリアは深刻にそう語ったが、逆にシーナは安堵のため息を漏らした。
「大丈夫だよ、きっと」
「そうかしら……」
「傷付いてのびてる姿を、お嬢に見られたくなかっただけさ」
不安げなアリアを他所に、シーナはカラカラと笑っていた。
「お嬢。窓、開けてくれる?」
「ええ」
アリアが窓を開くと、心地のよい風に乗って、人々の活気の声が聞こえてきた。
忙しなく行き交う人の流れ。あんなことがあった後でも、王都の人々は逞しく、復興に向けて歩み出している。
「ありがとう。シーナ」
アリアは振りかえり、つやめく黒髪を風になびかせながら、輝くような笑みを見せた。
シーナもまた、笑って答える。
「お互い様って、いつも言ってるだろ?」
***
数日後、彼は鏡の前に立っていた。
鏡を見ながら、頭の包帯をほどいていく。
すると、左眉の上の、額の大きな傷が露わになった。治りかけだが、まだ完治はしていない。
傷痕と、白い髪とを、なんとも言えぬ眼差しで見つめていた。
やがて目線を下げると、鏡の中の男と目が合った。
――お前は、誰だ
心の中で呟いてみて、鏡から離れる。
身支度をしてコートを羽織り、ドアに手を掛けたとき、
――もう、わかっているだろう?
後ろから声が聞こえた気がして、
「……ああ」
シーナはふっと笑みを溢した。
扉を押し開け、大通りを行く人々の河へ溶け込む。
人々は歓喜の声とともに、色とりどりの紙吹雪を風に舞わせながら、なだらかな坂を登り、王宮へと向かっていた。
晴れ渡る空の下、聖歌隊の軽やかな歌声が響く王宮前の広場にて、盛大な叙勲式が執り行われている。
大勢の市民が取り囲んで見つめる先には、ノルズヴァン国王、ルーカス・E・ヘインズと、ジョニー・ロッシュを含む五名の元老院。それからアリア、スコール、マックスに、モウブレーとフィアメッタたちの姿もあった。
市民の歓声とともに、勲章を受け取るアリアたち。その様子を、近くの屋上からシーナが見守っていた。
「――君も、式に出なくてよかったんですか」
振りむくと、そこにはユダとブルータスの姿があった。
「俺ぁ、ああいうの苦手だから。それはそうと、二人とも元気そうで」
「お前には敵わんよ」
ブルータスの表情はいつもどおり険しいが、その声はいつにも増して穏やかであった。
「その頭、ずいぶん印象が変わりましたね」
「イメチェンだよ。イメチェン」
「案外、悪くないですよ。燃え尽きた灰みたいで、お似合いだ――お隣、いいですか?」
ユダがそう言って笑うと、
「アンタも好きねぇ。俺の隣」
シーナも笑って、二人の肩を軽く叩いた。
三人並んで、ともに叙勲式を見守る。丁度、ルーカス王がスコールの首に、勲章のペンダントを掛けるところであった。
「――陛下の叔父上で、摂政のジェイミー閣下。それから、聖王騎士団を統括していたメレルズ猊下は騒動の後に逮捕され、今は処分を待つ身だそうです」
「ハモンドも逮捕され、取り調べに全面的に協力しているらしい。絶界の恐ろしさが身に染みたんだろう。ラインラントのボケカスは、廃人になっちまったようだが」
「ウォーカー公の冤罪に関しても、白日の下に晒され、売国奴の汚名も濯がれました。陛下自ら、お嬢様に謝罪され、ウォーカー家の再興に尽力すると約束されたそうですよ」
ユダとブルータスの言葉に、シーナは「そっか」とだけ頷く。
「絶界を復活するクソ術式や、クソ石の研究成果も完全に破棄すると、あの若君が決めたそうだ。叔父に似ず、立派なもんじゃないか」
「まったく、耳の早いことで。ベッドぬけ出して何やってたんだか……」
「闇ギルドを舐めるなよ」
自信満々に言うブルータスに、シーナが「はいはい」と苦笑する。
すると、勲章を授かって振りむいたマックスが、こちらに気付いた。
「先生~! あなたのユダはここですよ~!」
その声が届いたのかはわからないが、マックスが呆れ顔で軽く手を上げたので、ユダは大喜びで手を振り続けている。
そんなユダを横目に見ながら、ブルータスが尋ねる。
「……で? お前はこれからどうするんだ?」
「俺か? 俺は、そうだな……」
そう言っていると、アリアもこちらに気付き、笑顔で手を振った。
彼女を微笑んで見つめながら、シーナも手を振りかえす。
「――さて、どんな風を起こそうか」
王国歴783年、夏の始まりのころ。ノルズヴァン王国は首都、紙吹雪舞う青天のミュールにて、一人の男の人生が、その幕を開いた。




