第1話
女の悲鳴がこだました。
目を覚ますと、頭上には見知らぬ天井が広がっていた。
身を起こし、自分が古びたベッドで眠っていたことに気付く。薄暗いためはっきりとしないが、ここはどこかの屋根裏部屋のようであった。
するとまた夜闇を裂くような悲鳴が聞こえ、今度は怒号までが響いた。
慌ててベッドを降りて、窓を開く。外の光景から察するに、ここは小さな農村の丘の上に建つ屋敷の一室のように思えた。
すると民家が集まっている辺りを、いくつもの影が通りすぎていった。
続けて背後から、屋根裏へと上ってくる足音が聞こえた。
思わず身構えたが、姿を現したのは十七、八歳くらいの少女。白い寝間着に映える赤毛が印象的で、温厚そうなそばかす顔を焦燥感に強張らせている。
「ほら、早く! 逃げましょう! ――何からって……わかんないけど、何かから!」
そう叫ぶ少女に手を取られ、梯子を降りる。
三階、二階、一階と階段を下り、屋敷の外に飛び出した。村のあちこちから助けを求める声や馬のいななきが聞こえ、騒ぎが大きくなっていることがわかる。
少女はつないだ手を硬くすると、屋敷の裏手の雑木林に回った。
その後を追い、白い息を吐きながら林の中をひた走る。
「大丈夫、大丈夫だよ! 私が、ついてるから!」
たおやかな赤毛を振り乱しながら、息も切れ切れに少女が叫ぶ。
しかし次の瞬間、強烈な衝撃が視界を揺るがした。
ぐらりと前のめりに倒れ、手をつないだままの少女まで引き倒してしまう。
すると木陰から何者かが姿を現した。
少女が果敢に立ちはだかるも、あっけなく殴られて倒れ込む。
彼女に手を伸ばそうとするが、身体がしびれて力が入らなかった。
「――ったく、手間ぁかけやがって」
「少しずつ攫ってこいって言われてたのに、こんな人数、どこに連れていくんです?」
「魚は獲りすぎってこたぁ無えだろ? なぁに、そう遠くねえ。『カルド山』の麓の砦だ」
男たちの野太い声だけが、遠のく意識に焼き付いた。
***
目を覚ますと、夢で見たばかりの見知らぬ天井が広がっていた。
ベッドから身を起こし、ぼんやりとした視界で日の差し込む屋根裏部屋を見回す。
すると梯子を上ってくる足音が聞こえた。
現れたのは赤毛ではなく、黒髪の少女であった。
「目が覚めたのね、本当によかった。あれから丸一日寝てたのよ。体調はどう?」
「え? ああ、悪くない。あのさ、変なこと聞くけど……これって現実だよな?」
「……残念ながらね」
まだ寝ぼけた様子のシーナに、アリアは皮肉っぽく笑って答えた。
「――心配したわ。でも顔色もずいぶんよくなったし、もう大丈夫みたいね」
貯蔵庫から持ち出してきた干し肉と葡萄酒をがっつくシーナを見て、アリアは安堵の表情を浮かべている。
「世話かけたね。他人を治すのはどうも苦手で」
「いいえ。お礼を言うのはこっちよ。本当にありがとう。あなたに治してもらったところ、傷は完全に塞がってたわ。というか、最初から傷なんてなかったみたいに元どおり」
言いながらアリアは、汚れ一つないワンピースの脇腹あたりをつまんで見せつける。
「こんな魔法、初めて見たわ。どこで学んだの? 神秘修道会……なわけないか。ロサードス学院? それともまさかヴィリ・シアン?」
熱っぽく捲し立てるアリアだが、シーナは答えない。
しばし沈黙を続けると、逆に質問を返した。
「なあ、『カルド山』って知ってるか?」
廃村から東へ峠を越えて平原をしばらく進んだ先に、霊峰カルド山はそびえ立っていた。
現在、その麓近くの街道にてアリアとシーナの姿を見ることができる。
「何度も言うけど、わざわざ付いてこなくたってよかったんだぞ」
「いいでしょ、恩返しさせてよ」
アリアは地図を手に、屈託のない笑みを浮かべる。
そんな彼女は弓と矢筒を背負い、作業用の分厚いブーツを履いていた。どれも屋敷から拝借したものである。
ブラウスやワンピースには合いそうにない装いだが、この少女が身に付けると不思議とサマになって見えるのが、シーナには不思議だった。
「恩も何も、お互い様だろ」
「いいからいいから。カルド山の麓ってことは、そろそろ街道を外れたほうがいいみたいね。こっちよ」
アリアの先導で山裾の森へと分け入っていく。
その小さな背中が妙に頼もしく、シーナは思わず笑みを溢した。
晴天で日もまだ高いが、森の中は仄暗くひんやりとした空気が漂っていた。
「それで、どうしてその砦を目指してるの?」
「……記憶がないんだ」
なんとなしに質問したアリアだが、その予想外の答えに思わず歩みが止まる。
振りかえって尋ねるが、シーナはさほど気にもせず森の奥へと進んでいく。
「ちょっと、それってどういう――」
「言葉どおりの意味だよ。だから、記憶の手掛かりを探してるんだ」
「そのために、あの村に?」
「ああ。自分でも変だけど、最近になってふと思い立ったんだ。あの村に行けば何かわかるじゃないかって」
「そんなことって……」
「変だろ? でも確かに、あの村には懐かしい何かを感じたんだ。一切覚えちゃいないけど」
アリアは怪訝な表情を浮かべ、シーナの背中を追いかける。
すると途端に視界が開き、巨大な湿地が姿を現した。
「そ、そっか……それで? あそこに次の手掛かりがあるって、そういうわけね?」
アリアの視線の先――湿地の中央には、石造りの大きな砦が建っている。
「聞いたことがあるわ。その昔、カルド山は化物たちが巣喰っていて、近くの村々から人々を連れ去っていたって。そしてそれを憂いた騎士たちが討伐隊を組んだ。激しい戦いの末に化物たちは退治されたけど、今は代わりに戦死した騎士の魂が彷徨ってる……今する話じゃなかったわね」
ぬかるんだ道を進みながら、アリアが青白い顔で身を震わせる。
話の真偽はともかく、この湿地が異質な空気をまとっていることはシーナにも明らかであった。
「君はもう帰ったほうがいい」
シーナの表情はいたって真剣である。
しかしアリアも引き下がらない。
「興味深い導入を聞かせておいて、ページを捲るなって言うのは意地悪よ」
「事情は知らないが、そっちだってわけありなんだろ? 俺に付き合ってる場合じゃないだろう。家族か仲間が心配してるんじゃないの?」
「大丈夫よ。確かに仲間とははぐれたけど、彼なら必ず、私を見つけてくれるわ」
無理して下手な笑顔を作るアリア。
シーナは反論を口にしかけたが、根負けして言葉を呑み込んだ。
「後悔するなよ?」
「し、心配ご無用よ」
少女の声は、僅かに震えていた。




