第2話
三階へと辿り着いた少女は今、廊下をひた走っていた。
物置部屋の場所を知っている筈もないのだが、その足取りは不思議と確信に満ちていた。
突き当りの部屋の前に立ち、意気込んで扉を開く。そこは見事、目的の物置部屋であった。
――よぉし! 弓、弓はどこ……
衣類や家具、神具で散らかった部屋を手当たり次第に掻き分けていく。
「弓、弓、弓弓弓ィ~~~弓! あった! いい弓!」
棚の中のケースに収められていた、つややかな黒塗りの短弓を取り上げ、歓喜の声を上げる少女。しかし、その表情は直ぐに曇る。
「――ってあれ? え? あれ? 嘘でしょ?」
部屋中のどこをどう探しても、もう一つの探しものが見当たらない。
「矢は……どこ?」
一階の戦闘は大広間から、隣のダイニングルームへと舞台を替え、激しさをさらに増していた。
その後一体を倒したが、さらに二体が増え、今や計五体の亡者が上がり込んでいた。
息つく暇もない猛攻に、青年は反撃の隙を見出せず防戦一方である。
しかも実際に戦っているのは三体だけで、残り二体は僅かに離れた位置から不気味に様子を伺っていた。
――凌ぎ、切れないッ!
このままではジリ貧だと感じた青年は、思い切って大きく跳び退る。
当然、追撃が走る――がしかし、青年はそれを待っていたと言わんばかりに前に跳び、剣を横に振った。
先頭の一体の首が宙を舞う。それと同時に相手の剣が青年の肩を裂き、鮮血が床に散った。
「ってぇ!」
間髪入れず攻撃が迫り、青年も痛みを堪えて迎え撃つ。
大上段からの振りおろしを、左足を引いて紙一重ですりぬける。もう一体の横薙ぎの斧を、床を滑るようにして掻い潜ると、二体の背後を取った。
そして亡者たちが振りかえったとき、白刃が左右に煌めいた。
床に崩れ落ちる亡者たち。
しかし直後、青年の首に何かが絡みつき、問答無用で引き倒した。
何かの正体は、静観していた亡者の一体が投げた鎖分銅だったのだが、青年がそれを知る由はない。
残るもう一体が青年に跳びかかり、高らかに剣を振りあげる。
咄嗟に防御を取ろうとするが、もはや手遅れであった。
錆びた刃が若肌を引き裂こうとする――その寸前、亡者の体勢がぐらりと崩れた。
青年の視界に映ったのは、倒れ込む亡者の後頭部から生える一本の矢。そして、弓を構える少女の姿であった。
翡翠色の瞳が煌々と、炎のような輝きを湛えていた。
最後の一体が鎖分銅を捨て、腰から剣を引きぬいたころ、少女はすでに二射目を引き絞っていた。
「安らかに」
祈りとともに放たれた矢が眉間を貫き、亡者の倒れる音が部屋に轟いた。
青年は仰向けに倒れたまま、荒れた息を整えている。
開け放たれた玄関から風が吹き込み、血と灰の匂いが鼻を刺した。今や、屋敷のあちこちで亡者たちが灰塵へと還っている。
「あなた、すっごく強いのね。これだけの相手を無傷でやっつけちゃうなんて」
感嘆の表情で少女が手を伸ばす。
「え? ああいや、そうでもないさ」
白く小さな手を取り、身を起こす青年。少女の言葉どおり、斬り裂かれたはずの彼の肩も、またその衣服さえ一つの傷も付いてはいなかった。
「そっちこそ、実戦は初めてとか言ってなかった?」
「はは、それこそマグレというかなんというか……あなたに当たらなくてよかった、いや本当に」
ため息交じりに乾いた笑みを浮かべる少女だったが、「ああ、そうだ」と顔を上げる。
「少し、物置を整理したほうがいいかもね。何で矢だけが屋根裏部屋にあるわけ?」
「……屋根裏部屋?」
三階から梯子を上がった先の屋根裏部屋。そこにはベッドやタンス、机などの家具が置かれており、誰かがここで暮らしていた形跡があった。
「ここも、最近まで使われていたみたいだな」
青年が部屋をしげしげと見回しながら呟く。
「ここ、あなたの家じゃないの?」
「いいや、違う……多分」
「……?」
曖昧な回答に、少女は首を傾げる。すると緊張が解けた所為か、脇腹の傷がまた痛みだした。
「どうした? ……おい、怪我してるじゃないか」
「アレから逃げてるときに転んじゃって。大丈夫、大した傷じゃないから」
「強がってんじゃないよ。ほら、座って」
少女に椅子に座るよう勧め、青年はその前にひざまづく。
「失礼、ちょっと触るよ」
そう言うと、服の上から傷口に手を軽く当てた。
「な、なにしてるの?」
「手当てしてる」
その投げやりな返しに、少女は思わず吹き出した。
「そんなにツボだった?」
「あは、あはは……はあ。ああいえ、その、あんまりくだらなくって。気がぬけちゃった」
「そりゃよかった。さ、手当て終わり。痛みはどう?」
膝に手を突き、年寄りじみた仕草で立ち上がる青年。
「そうね。お蔭ですっかり――」
少女も冗談で返そうとしたが、違和感に気付いて脇腹をさする。
本当に傷も痛みも、それどころか服の破れや血の染みまで消えているのである。
「これって……」
困惑する少女であったが、青年の様子がどうにもおかしい。立つことすらおぼつかずフラフラとよろめいて、ついには派手にぶっ倒れた。
「ちょっと、どうしたの?!」
慌てて抱き起こすと、青白い顔にびっしょりと冷や汗をかいて息を切らしている。
「ああ……やっぱり、他人を治すのは苦手だ」
「あなたは、いったい……」
青年は皮肉めいた笑みを浮かべると、
「シーナ。ただの、シーナ」
うわごとのように呟いた。
「シーナ……?」
「ああ、変わってるだろ……君は?」
名前を尋ねられ、少女は口ごもる。
本名を教えていいものか、この青年を信じていいものか――淡い疑念が胸のうちに湧き起こった。
彼女は今、とある事情から疑り深くならずにはいられなかったのである。
しかし、まるで見知らぬ自分のために戦い、さらには傷を癒してくれ――そして今や腕の中で弱り果てている彼を疑う道理がどこにあるのか。そう自らを戒め、少女は答えた。
「私は……私はアリア。アリア・E・ウォーカー」
「はは、そりゃあいい、名前、だ……」
そう言ってシーナは儚げに笑うと、眠るようにゆっくりと目を閉じた。
かくして王国歴783年、春の終わりのころ。
アリア・E・ウォーカーは、ノルズヴァン王国はサントエア領の廃村の屋敷にて、謎に満ちた青年、シーナと出会うこととなった。
アリアはこの出会いをきっかけに、壮大な旅路の第一歩を踏み出すことになるのだが、彼女自身がそれを知るのは、まだ先の話である。