第1話
ある晴れた昼下がり。
日光もさほど届かぬ鬱蒼とした針葉樹の森を、一人の少女がひた走っていた。
無地の白のブラウスに緑のワンピースと、質素な装いである。
しかし腰まで伸びたつややかな黒髪、凛々しくも愛嬌ある顔立ち、とくに翡翠色の大きな瞳は高貴な印象をあたえる。
そんな彼女は今しも、恐怖に目を見開き息を切らしながら、必死に逃げていた。
ちらと振りかえった翡翠の瞳に、追手の姿が映る。その影は確認できるだけで六つ。そしてそのすべてが――『人間』ではなかった。
人の形こそしてはいるものの、それを人間と呼ぶには無理があった。人骨を、腐った肉と土塊とでつなぎ合わせただけの『何者か』が、そこには存在していたのだ。
この何者かの容姿は千差万別で、ほとんど骨だけの者もいれば、身体のところどころが欠損している者、生きた人間に近しい姿の者もいる。
装いも、一糸まとわぬ者や、ボロボロの平民服の者、錆びた甲冑をガシャリガシャリと鳴らしている者など様々であった。
そしてその手にはそれぞれ、青錆の塊のような剣や斧を握りしめている。
少女はそのうちの一体と視線が合った気がして、「ひっ」と恐怖の声を漏らす。
すると次の瞬間、足を樹の根に引っ掛けた。
派手に転んだが、痛みより焦りのほうが大きい。
追手の足取りは決して速くはない。しかし疲れを知らないかのように一定で、傷付き疲弊した少女の背を徐々に捉えつつあった。
慌てて身を起こし走り出す。やがて森をぬけると、急に視界が開けた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、小さな農村である。
小高い丘に木造の小さな家が建ち並び、その前には田園が広がっている。しかし、人影は一切見当たらない。
――廃村……?
そう思ったが奇妙なことに、最近まで人が暮らしていた気配が残っていた。
すると背後から甲冑の音が聞こえ、考えている暇などないと思い出す。村へと駆け出したその息は、すでに絶え絶えである。
匿ってくれる人を求め探すが、やはり村は無人であった。
やむを得ず、民家の影に逃げ込んで身を隠す。
しかし完全に振り切るには、小さな村では限度があった。
背後の足音に怯えつつ当てもなく彷徨ううち、ある一軒の屋敷に辿り着いた。丘の頂上に立つ、村で一番大きな屋敷である。
今のところ、追手はこちらを見失っているらしい。このまま村の外へ逃げてもよかったが、体力の限界が近付いていた。
――少しだけ、ここに隠れていよう
縋るような思いで玄関の戸を引くと、すんなりと開いた。少女は慌てて飛び込み、内側から鍵を掛ける。
へたり込むようにして腰を下ろすと、静かに息を整えた。
ようやく落ち着いた呼吸で屋敷の中を見回し、寂れた村にしては立派な造りだと気付く。
今いるのは玄関から入ってすぐの大広間だが、かなり広い。さらに、ほかにいくつもの部屋があるようであった。
若干荒れてはいるものの、つい最近まで人の手が入っていた雰囲気がある。
――ここの人たちは、どこにいったのかしら
身を休めながらそんなことを考えていると、脇腹に痛みが走った。
先ほど転んだ際に、枝か何かで切ったらしい。痛みは大してないが、服に血が滲んでいた。
「あいたた……」
声を漏らし、脇腹を押さえながら立ち上がる。
止血用の包帯を求めて右隣の部屋の戸を引き開けた――その瞬間。白銀の物体が、目の前で煌めいた。
「う、動くな! って、あれ……」
若く猛々しい男の声が響いた。剣を突き付けられているのだと気付いたときには、その青年はすでに剣を下ろしていた。
短い黒髪で、長身の細身。白シャツに黒のレザーパンツという装いである。
齢は少女より三つか四つ上のようで、二十才すぎに見える。柔和な顔立ちをしており、手には質素な造りの長剣を携えていた。
「ええと、君、泥棒じゃ――」
どこか困惑した表情の青年が口を開いたとき、玄関を強く叩く音が響いた。
突然のことに少女も青年も息を飲み、目を合わせる。するとさらに大きな音が響き、続けて地を這うような低い唸り声が聞こえてきた。
青年が緊張の面持ちで、口に指を当てるジェスチャーをする。少女も同じ表情で頷いた。
青年は少女を部屋に入れ、音を立てないようにゆっくりと扉を閉める。あいにく、鍵は付いていない。
それから二度三度と衝突音が続き、仕舞いには玄関が打ち破られる音が轟いた。
ペタ、コツ、ガシャリ。
多種多様な足音と、地を這うような唸り声が屋敷の中へと入ってきた。少女の心臓は、早鐘のような鼓動を打っている。
青年は剣を逆手に構え、扉のすぐ傍に控えたまま、手招きで少女を呼んだ。
「亡者に追われてるのか?」
顔を寄せた青年が小声で尋ねる。少女は何度も小刻みに頷いた。
「何体いる?」
「わからないけど、六か、それ以上……」
「多いな……」
苦い顔で部屋を見回す青年。ここは客間のようだが、はめ殺しの窓があるだけで退路らしき退路はない。
すると扉のすぐ外から、はっきりとした足音と唸り声が聞こえた。
「お嬢さん、戦える人?」
青年はドアノブを掴み、苦笑を浮かべて問う。少女はその言葉に戸惑いつつも、
「ゆ、弓があればなんとか……でも実戦はまったく……」
たどたどしく答えた。
「上等だ、初陣といこう。いいか、三階の物置に弓があるはずだ。ここは食い止めるから頼んだぜ」
吹っ切れたように笑う青年に、少女は決死の覚悟で頷く。
一瞬の静寂の中、心臓がうるさいほどに鳴り響いていた。
扉が引き開けられそうになった瞬間、青年が扉を思い切り蹴破った。
ドアノブに手をかけていた『亡者』は勢いよく突き飛ばされ、傍にいたもう一体も凄烈な剣を受けて倒れた。
「今だ! 行けっ!」
青年が叫び、亡者たちも叫ぶ。少女は階段に向かって全力で駆け出した。
走る少女に亡者が斬りかかったが、青年が庇ってくれたのを背中で感じた。
跳び着くように手すりを掴み、全力で段差を駆け上がる。
横目に映ったのは、鍔迫り合う青年と亡者。そしてそれを取り囲む、さらに二体の亡者の姿であった。
想像より少ない敵に安堵しつつも、背後の戦闘音に急かされるようにして、少女は階段を強く蹴った。
亡者を押しのけて距離を取ると、青年は辺りに視線を配った。
少女は打ち合わせどおり、上階へと姿を消した。
先ほど斬り付けた亡者は絶命(?)したようで、その身体は早くも土へと還り始めていた。
残る三体は意外にも慎重であった。青年を警戒するように取り囲み、剣や斧を握る手を硬くしている。
幸い、複数を相手に戦うだけのスペースは十分にあった。
広間を静寂が支配する。聞こえるのは樹々のざわめきと鳥のさえずりだけである。
青年と亡者たちとの間には、その張り詰めた空気に似つかわしくない柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
「ヴ、オ……ォオオ……」
低い呻き声を発しながら、向かって左の亡者がじりじりと間合いを詰め始めた。
骨がむき出しの裸足を地面に擦り付けながら、半歩半歩と歩みを進める。ほかの亡者たちも、ゆっくりと後に続く。
青年もまた、緊張に唾を飲んだ。
そして先頭の亡者のつま先に木漏れ日が差した――その瞬間、青年が放たれた矢の如く肉薄した。
「ォアァッ!」
狙われた亡者は悲鳴じみた声を上げ、慌てて斧を振りさげろす。
斧は紙一重、青年の顔の真横をすりぬけた。それと同時に、青年の剣が腐った腹を掻っ捌いた。
間髪入れず二体目が迫る。繰り出された突きを後ろに躱し、三体目の斧を受け止めた。前蹴りで相手の腹を蹴り飛ばし、距離を取る。
続けて迫る大振りの剣を受け流すと、すれ違いざまに横薙ぎの一閃で、相手の胸から脇下を斬り裂いた。
するとさらに、新手が飛び込んできた。
新手が振りおろしを見舞うが、青年はその強烈な剣を下から掬うように弾き返し、がら空きになった胴を斬り払った。
――残り一体……!
そう意気込んで剣を構えた矢先、さらに三体の亡者が広間に現れた。
「はは、いいね。そうこなくっちゃ……」
乾いた笑みを浮かべる青年の頬を、冷や汗が流れ落ちた。