8.黒狼は番をみつけた(SIDEラスムス)
ラスムスは、北の大国ノルデンフェルト帝国の2番目の皇子として生まれた。
早くに亡くなった母は側室だったが、帝国ではよく知られた家の出であったし、なによりも彼が先祖返りの力を持つ身であることから、皇后や異母兄もラスムスを侮ることはできなかった。
侮れないということは、同時に脅威でもあるということで、勢いラスムスはいつも暗殺の危険と隣り合わせで暮らしている。
そんな中、隣国ヴィシェフラドへの親善訪問が決まったのは、10歳の誕生日を迎えたばかりの頃だった。
往年の勢いは既に失くしているとは言え、女神ヴィシェフラドを戴く隣国の影響力は侮るには大きすぎる。
その隣国の王からの招待とあらば、ラスムスの父も受けずばならなかったろう。
「先方では、おまえに会わせたい姫がいるようだ」
長い脚を組んだ中年の男が、ひじ掛けの上で頬杖をついている。
黒い髪に薄い青の瞳。
たしかにラスムスはこの男の息子だと、誰が見てもわかる。
「妾腹の娘だ。
王女ですらないらしい」
くっと、皇帝が小さく笑う。
「おかしなものだ。
妻以外の女を認めない女神ヴィシェフラドの血を継ぐ王に、妾腹の娘がいるとはな」
そのとおりだとラスムスも思うが、それはここノルデンフェルトも同じだ。
黒狼王の血を継ぐ王家であれば、おのが伴侶は生涯にただ一人のはずなのに、皇后の他に複数の側室や愛妾を持つ皇帝ばかりではないか。
父である現皇帝にも、皇后の他に複数の側室がいた。
建前と本音は違う。
幼い頃から王宮で育ったラスムスには至極当然の理なのに、他人事に限り正論の建前を口にする父こそお笑い種だった。
「先方の希望を無碍にもできまい。
会うだけ会ってやれ。
できるな?」
言いたいことは理解できた。
友好国であるヴィシェフラドに、適当に良い顔をしてこいということだ。
落ちるような落ちないような、曖昧な態度でやりすごせと。
簡単なことだ。だが面倒くさい。
「なかなかの美人らしい。
ほだされるなよ」
だれが!
おまえと一緒にするなと内心で悪態をつきながら、慎重に表情を作って慎み深く頭を下げた。
「かしこまりました」
「殿下、お逃げください」
剣のぶつかる音が響いて、ラスムス付きの護衛騎士が背をむけたままで叫んだ。
来るだろうなとは思っていたが、予想どおりやってきた。
皇后か異母兄か。
どちらか、あるいは両方の差し金だろう刺客だ。
ヴィシェフラドへの道中、来るとすれば国境を越えた辺りだとの予想も当たり。
もう少し裏をかけよと、言ってやりたくなる。
それが慢心だと、気づかされた時には遅かった。
不意を突かれて放たれた毒矢に、ラスムスは肩を射抜かれていた。
毒はおそろしい勢いで回った。
本性の狼の姿に変化した方が良いだろうか。その方が回復が速い。
獣形に変化したラスムスは、全速力で森を駆けた。
できるだけ遠く、水辺まで行けばなんとかなる。じっとおとなしく寝ていれば、毒は抜けてくれるだろう。
それでも追手は案外しつこくて、次々に毒矢を放ってくる。
ふりきるために崖から飛んだ。
右肩を2本目の毒矢がかすめて、ラスムスは湖に落下していた。
濃度の増した毒が、全身を駆け巡る。
普段ならなんということもない水が、身体に重くまとわりつくようだ。
ダメか……。
あきらめかけた時、小さな白い腕がラスムスを抱き寄せた。
ささやかにふくらんだ胸元から、えも言われぬ甘くかぐわしい香りがする。
咲きこぼれる花のような、さわやかで甘いリンゴのような香り。
もっと深く吸い込みたくて、ラスムスは鼻先を押しつけようとするが、身体に力が入らない。
毒はどんどん回っているようで、助け上げられた岸でだれかが「もうだめだ」と言ったのがわかった。
けれど白い光がラスムスを包んだ途端、体内の毒はあっさりと浄化された。
光の中は、あの爽やかなりんごのような香りに満ちていて、ラスムスはとても穏やかな気分で目を閉じる。
気づけば、城の内、軽くはない身分の者が使う寝室の中だった。
寝台の側におかれたふかふかのクッションに、ラスムスは寝かされている。
「おまえ、本当に幸運だったのよ。
姫様がいなければ、死んでいたんだからね」
温かいミルクを持ってきたメイドが、しゃがみこんで話しかける。
「でもおまえのおかげで、姫様の寵力が発現したんだから、お手柄でもあるわね」
人肌に温めたミルクを、ラスムスは少しだけ口にした。
うかつに人型に戻るわけにもゆかないのだから、この姿のまま体力を戻さなくては。
皿のミルクを舐めるなど、人前でさらしたくはない姿だが四の五の言える状況ではない。
冷えた身体が少し温まると、先ほどメイドの言った「寵力」という言葉がひっかかった。
確か女神ヴィシェフラドの癒しの力のこと。
ヴィシェフラドの王族に、稀に発現するという聖なる力のことだ。
けれどここ百年ばかり、発現した王族はいないと聞いている。ただの伝説だとも。
「神官長が間違いないとおっしゃるのだから、姫様は聖女よ。
これでいくら陛下が寵愛なさっても、あの阿婆擦れ親子は姫様に手出しできなくなるわ。
本当に良かった」
なるほど。
国王は愛妾親子を寵愛して、王妃とその娘を疎んじているということか。
ラスムスを助けたのは、父に疎んじられた王妃の娘だと知る。
「おまえも姫様にお目にかかったら、ちゃんとお祝いをおっしゃいね」
ちょんとラスムスの頭をつっついて、メイドは空になった皿と共に部屋を出て行った。
不本意なことに獣形だとミルクでも腹は満たされるらしい。
猛烈な眠気にさからえず、うつらうつらとしていた。
ふ……と鼻先をかすめるあの香り。
リンゴのような、あの甘く爽やかな。
ラスムスに近づいて、その指が彼の背を撫でる。
幸福感に痺れるようだ。
いつまでもそうして撫でていてほしいと、思う。
ラスムスの本能が告げる。
彼女だと。
彼女こそがラスムスの唯一なのだ。