時代劇ショートショート【もの忘れ】
シリーズの都合上、タイトルに「ショートショート」と書いていますが、ショートショートにしては長い話になっています。
半吉が屋台の蕎麦屋で昼飯を食べていると、その後ろを二人の男が通って行った。
「公方様の駕籠行列を見たか?」
「ああ、俺も見たぜ。豪勢な籠だったな。なんでも三田の春日明神へに行くらしいぜ」
二人の会話を耳にした半吉は、一カ月ほど前の出来事を思い出した。
半吉は、知り合いで浮世絵師の眠々斎を訪ねて来た幕府役人の密談を盗み聞きし、幕府の謀を知ってしまった。
幕府は、将軍春日明神参詣を狙って将軍を暗殺するという噂を耳にしたため、影武者を立てることにした。そこで白羽の矢が立ったのが将軍に似ていた眠々斎だった。眠々斎を大身旗本の隠し子だったと騙して取り込み、影武者に仕立て上げた上で、あえて影武者を殺させて黒幕をあぶり出す計画を練っていたのだった。
(そうか、今日が将軍参拝の日か。眠々斎はもう死んじまっただろうな。……成仏するように祈ってやるか)
そう思い立った半吉は、 屋台を出て浅草寺に向かった。
浅草寺の門前は相変わらず賑わっていた。
半吉が人を避けながら歩いていると、前から上等な身なりをした二本差しの侍がキョロキョロしながら歩いてくる。よく見れば、眠々斎だった。
半吉は、てっきり死んだものと思っていた眠々斎が呑気に歩いているので驚いた。
(ここに眠々斎がいるってことは、影武者にならなかったんだな。それに、あの身なりからすると、旗本の家からも追い出されなかったみてえだ)
半吉は何だか損した気分になりながらも、一方で安心した。片手を上げて声を掛ける。
「よう、眠々斎。生きていたのか」
侍は半吉の声を無視するかのように、半吉の横を通り過ぎて行った。
「待ってよ、眠々斎」
侍は追いすがって来た半吉に気が付き、立ち止まった。
「お主は誰だ?」
「魚屋の半吉だよ」
「知らぬな。余は新之助と申す」
「新之助? それが今の名か。偉い身分になったからって、知らねえ振りをするなんざ冷てえじゃねえか。それにしてもよ、すっかり侍らしくなってたんで驚いたぜ。長屋暮らしの職人だったなんて思えねえ」
「長屋暮らし?」
「とぼけるねぇ! 眠々斎、お前は九尺二間の裏長屋に住んでたじゃねえか」
新之助は少し考えて半吉に訊く。
「余が眠々斎だと言うのか?」
「何訳のわかんねえこと言ってやがる。今は旗本になって名を変えたかもしれねえが、一カ月前まで、お前は眠々斎と名乗っていたじゃねえか」
新之助は半吉の言っていることを理解したかのようだった。
「そうか、余は町人の眠々斎だったのか。実は剣術の稽古で頭を打って以来、昔のことは忘れてしまったのだ」
半吉はそんなことを聞かされても、にわかには信じられなかった。確かめるように訊いた。
「本当か。本当に忘れちまったのか? 浮世絵師だったことも忘れちまったのか?」
「余は浮世絵師だったのか?」
「そうだよ、版元の甲州屋で浮世絵を書いていたじゃねえか。甲州屋のことも忘れ ちまったのか?」
「済まぬ。思い出せぬのだ。偽りではないのだな」
「疑うならよ、甲州屋に連れてってやるから確かめてみな」
半吉と新之助が甲州屋の前まで来ると、ちょうど女将のお雪が暖簾をくぐって中から出てきた。
「あら、眠々斎じゃないか。旗本の若様になったから、もう会えないと思っていたんだよ。おや、半吉さんも一緒かい。二人揃ってどうしたんだい? まあ、色々聞きたいからさ、母屋の方へ来ておくれ」
お雪はそう言い残して店の中に戻って行った。
半吉は新之助を引き連れて店の裏に回り、裏木戸をくぐった。小さな庭を通って母屋の縁側に座る。暖かな陽射しが心地良い。
間もなく、お雪が女中と共にやって来た。
「二人共、そんな所に座ってないで、座敷に上がりなよ」
「余はここで良い」
お雪は新之助の言葉に困惑した。
「いくら昔馴染みだからといったって、旗本の若様を縁側に座らせておく訳にはいかないよ」
「余は、ここが気持ち良いのだ」
「そうかい」
お雪はそれ以上勧めるのを諦めたようで、女中にお茶を置かせて立ち去らわせた。
「眠々斎、立派になっていて見違えたよ。それに、上方言葉がすっかり抜けて、旗本らしくなったね」
新之助は返答に窮している様子だった。半吉が二人の会話に割って入る。
「眠々斎とは浅草の門前で偶然会ったんでやすが、アッシのことを覚えていないと言いやがった。侍の身分になったんで、お高くとまっていると思って問い詰めたら、頭を打って昔のことを忘れちまったって言うんでさ。浮世絵師だったことも忘れたと言うもんで、こちらに連れて来たという訳なんでさ」
「そういうことかい。でも、そんなことがあるのかね」
お雪は半信半疑だ。
「幕府の沼田って人がここに来て、お前さんを連れて行ったことは覚えているかい?」
お雪の問いに、新之助は首を振る。
「それじゃあ、私のことも覚えていないのかい?」
新之助は黙ってうなずく。
お雪は一瞬悲しそうな顔をしたが、直ぐに気を取り直したようだった。
「体で覚えたものは忘れていないんじゃないかい。絵を描かせれば、何か思い出すかもしれないよ」
お雪はそう言って奥の方に消えて行き、戻って来た時には紙と筆を握っていた。
「これで何か描いてみなよ」
新之助はお雪から渡された紙と筆を受け取り、困惑した様子で訊く。
「何を描いたらよかろう?」
「何でもいいけど、動物なんかいいんじゃないかね」
新之助は少し考えてから描き始め、何度か筆を止めながらも完成させた。
半吉とお雪がその絵を覗き込むように見る。
「何だこりゃ、犬か? アッシでも、もう少し上手く描けるぜ」
「半吉さん、これは牛だよ。角があるだろう」
二人のやり取りを聞いていた新之助はうつむいていたが、やがてポツリと発した。
「馬に見えぬか」
半吉とお雪は 顔を見合わせた。そして同時に言った。
「こりゃだめだ」
気まずい雰囲気になったが、半吉がそれを打ち破るかのように喋り始める。
「絵なんか描けなくていいじゃねえか。大身旗本の若様になったんだからよ、銭に不自由しなくなったんだろう。羨ましいぜ、幾ら持ってやがる」
半吉は自由になる金がどのくらいあるのかを訊いたが、新之助は今所持している金額を訊かれたと思ったようだ。
「それ程持ってはおらん」
新之助はそう言うと、懐から巾着袋を出して中を見せた。小判が詰まっていた。二十両以上はありそうだ。
お雪は目を丸くしただけだったが、半吉は目をキラリと光らせた。
「絵を描いて思い出せなくても、昔食っていた物を食べれば何か思い出すんじゃねえか。そうでしょう女将さん」
「そ、そうかもね」
半吉に突然同意を求められたお雪は、半吉の気迫に押されて思わずそう答えた。
「そいうことだ、眠々斎。お前の馴染みの店で何か食べりゃ、きっと記憶が蘇るに違いねえ」
新之助は、そんなことは起こらないという風に首を横に振る。
「今までどんな暮らしをしていたかわからなきゃ、色々と困るだろう。世話になった女将さんに会ってもよ、礼の一つも言えねえじゃねえか。『義理と褌は欠かされぬ』と言うじゃねえか。義理を欠きゃ、侍として、いや男として面目を潰すことになっちまうぜ」
半吉にここまで言われては断れない。
「相わかった。その店に行くとしよう」
「善は急げだ」
半吉は立ち上がり、新之助の手を取って強引に立たせる。
「女将さん、そういうことなんで、これで失礼しやす」
「もう、行っちまうのかい。ゆっくりしていきなよ」
半吉はお雪が止めるのも聞かず頭を下げ、裏木戸に向かって歩いて行った。新之助もお雪に礼をして後に続く。
「あーあ、行っちまった。眠々斎、大丈夫かね」
お雪は寂しそうに二人を見送った。
甲州屋を出た半吉と新之助の二人は、しばらく歩いた後に一軒の店の前で立ち止まった。「居酒屋米椿」という看板が掛かっている。
半吉は「ここだ、ここだ」と言いながら、暖簾をくぐった。
「半吉さん、いらっしゃい」
半吉を迎え入れた女将の椿は、後ろに新之助が立っているのに気が付いた。
「あら、珍しいね。今日は、連れがいるのかい。こちらのお武家さんは初めてだね」
椿は二人を座敷の席に案内し、「女将の椿と申します。以後ご贔屓に」と新之助に挨拶した。
半吉は座敷に上がらず、注文を取ろうとする椿を無理やり押して厨に入った。
「何するんだい半吉さん」
「ちょっと事情があってよ。あの侍に余計なことは言わねえでくれ。訳を話すと長くなるからよ、何も聞かずにそうしてくれねえか」
椿は納得できなかったが、半吉が手を合わせて頼むので渋々承知した。
「わかったよ。それで今日はどうするんだい。いつものでいいのかい?」
「酒と肴をじゃんじゃん持って来てくれねえか」
「じゃんじゃんって、随分とツケが溜まっているんだよ」
「金主がいるから大丈夫でえ。現金で払うからよ心配しねえでくれ。そこで相談なんだがよ、溜まっているツケと借りている金の分も今日の勘定に上乗せしてくれねえか」
半吉は侍の記憶が無いことを利用し、ただ飲みした上に、自分の借金まで払わせようと企んでいた。そのため、眠々斎が一度も来たことが無いこの店に侍を連れて来たのだ。椿は半吉の謀を理解したようだった。
「こっちは借金を綺麗にしてくれるなら、文句はないよ。まとめて今日の分の勘定として請求すればいいんだね」
半吉は、椿が承知してくれたので安心した。徳利と猪口を持って席に戻る。
座敷では、新之助が辺りをキョロキョロと見回しながら待っていた。
「女将は、余がこの店に来るのは初めてなようなことを言っていたが、本当に馴染みの店なのか?」
「お前が侍の格好をしてるからわからなかったんだようよ。そんなことよりよ、始めようぜ」
半吉は新之助の猪口に酒を注ぐ。新之助はそれを一気に飲み干した。
「不味いな」
「以前は安酒でも喜んで飲んでたじゃねえか。美味めえ酒ばっかり飲むようになって、口がおごっちまったんじゃねえか」
二人がそんな会話をしていると、椿が膳に色々な肴を載せて持って来て、無言で立ち去って行った。
新之助は小鉢に手を伸ばした。
「美味い! これは何という料理だ」
「芋の煮っころがしがそんなに美味か?」
次に新之助は焼き魚に箸を付けた。
「美味い! こんなに美味い魚は食べたことが無い。何という魚だ」
「大袈裟なことを言うねえ。秋刀魚がそんなに美味え訳ねえだろう。舌がおかしくなっちまったんじゃねえのか」
米椿は安さが売りの店で、酒も肴も特別美味い訳ではない。
「普段は冷めた食べ残ししか食べておらん。またここで食事をしたいが、無理であろうな」
「食いたきゃ、また来りゃいいだろう」
「自由に外出などできんのだ」
「じゃあ、女郎買いもしてねえのか。前は女郎屋通いをしてたっていうのによ」
「女郎屋? 吉原のことか?」
吉原という言葉が出て来たことで、半吉にはある思いが浮かんだ。
(あれだけの金がありゃあ、吉原で豪遊ができるぜ。こんな機会は二度とあるもんじゃねえ。何としても眠々斎を吉原に連れて行かなきゃならねえ)
「吉原のことは覚えているじゃねえか。よし、吉原へ行ってみるか。きっと他のことも思い出すぜ」
「吉原か、一度見てみたいが……。料理もこんなに残っていてしな……」
新之助は煮え切らない。半吉はイライラした。
「迷うことねえだろうよ。ここは奢ってやるから、さあ行こうぜ」
半吉は土間に降りた。
「あら、半吉さん帰るのかい。お代はちょうど一両だよ」
半吉は椿に飲み代を請求され、しくじったのに気が付いた。新之助に代金を払わせるつもりだったのに、焦れて思わず「奢ってやる」と言ってしまった。今更、前言を撤回することもできない。
「女将さん、悪いけどよツケておいてくれ」
「何言ってるんだい! 現金で払うと言っていただろう」
この事態を納める手立ては一つしかない。半吉は新之助に向かって手を合わせた。
「頼む、一両貸してくれ」
新之助はやれやれというような表情をみせ、「仕方がない」と言いながら巾着袋から一両を出して椿に渡した。
半吉は「済まねえ」と一言言うと、肩を落として店を出た。新之助も後に続く。
「またいらしてね」
半吉は、上機嫌の椿の声を背中で聞いた。
薄暗い中、半吉と新之助は吉原へ続く日本堤を歩いた。両側に設けられた丸提灯 には既に火が入っている。
半吉は新之助に告げる。
「この見返り柳を曲がれば、もうすぐ吉原だ」
二人は柳の木を曲がった。衣紋坂と呼ばれる下り坂が現れ、その先には田んぼの中に浮かび上がるように光り輝く一画があった。吉原遊郭だ。
「あれが吉原か。まるで不夜城じゃないか」
新之助は初めて見る光景に立ち尽くした。
半吉はそんな新之助に構わず、坂の脇に建っている編笠茶屋に入り、直ぐに戻って来た。手には編み笠があった。
「これを被りな」
「なぜだ」
「遊郭の中を歩くときにゃ、顔を隠すのが粋なのよ。アッシは手拭いを被りゃいいが、その格好じゃ手拭いって訳にもいかねえだろう」
「気遣い痛み入る。半吉がいれば安心だな。頼むぞ」
「任せておけ。吉原は庭みてえもんだからよ」
新之助は胸を張る半吉をすっかり信用したようだが、半吉は滅多に吉原で遊んだことはなかった。吉原の妓楼は高いため、専ら冷やかすばかりだった。
意気揚々と衣紋坂を降った二人は、吉原大門の前に立った。真っ直ぐ伸びる路の両側には、引手茶屋が建ち並び、大勢の人間が行きかっていた。
新之助は立ち尽くした。明るくきらびやかな雰囲気と賑やかさに驚いたのだろう。
「突っ立ってないで行くぜ」
半吉に促され、新之助は雑踏に踏み入れた。辺りを見回しながら半吉に付いて行く。
半吉はどんどん進み、路の脇に設けられた木戸門をくぐった。その先も路で、妓楼が左右に建ち並んでいる。路に面した妓楼の壁には格子が嵌められ、その内側には、めかし込んだ遊女が並んで座っていた。遊女は路を行きかう男達に媚びを売っていた。
二人は遊女達を見ながら歩いていると、特別に着飾った遊女が童女や下男を引き連れてゆっくり向かって来た。
「半吉、あれは何だ?」
「花魁道中だ。真ん中にいるのが花魁で、周りの子供が禿だ。それにしてもいい女だな。一度でいいから相手をしてもらいてえ」
鼻の下を伸ばしている半吉の横で、侍がつぶやいた。
「あれが花魁か」
(しめた、花魁に食い付いた。ここを逃しちゃなんねえ)
半吉は花魁を目で追う新之助に懐かしむように言う。
「お前の姿を見てるとよ、昔のお前を思い出すぜ。あの頃もこういう風に花魁を見てたよなあ。『何時かは花魁と遊んでみたい』って言ってたっけ。その何時かは今じゃねえのか。懐の金を使いや、花魁遊びができるじゃねえか」
「そろそろ帰らねばならぬからなあ……」
「自由に外へ出ることもできねえんだろう。今を逃したら、もう二度と花魁遊びはできねえんじゃねえか。『なぜ、あの時止めたのか』って、一生後悔することになるぜ」
「確かに今を逃せば、そんな経験は二度とできないだろう。……遊んでみるか」
「それでこそ眠々斎だ。楽しんで来いよ」
「お主は一緒に来ないのか?」
「金が無いからよ、花魁遊びなんかできねえ。それに、居酒屋で奢った分の金も返さないとならねえからな。我慢するしかねえのよ。心細いだろうがよ、一人で遊んでくれ」
「居酒屋では半吉に奢ってもらったんだ。今度は、余が奢る番だ。金のことなど心配するな」
「いいのか。なら、遠慮なくゴチになるぜ」
半吉は眠々斎と一緒に吉原に来たことは無かった。咄嗟の作り話で、上手く丸め込んだのだ。半吉は心の中で上手くいったとほくそ笑んだ。
二人は来た路を引き返し、「松屋」と書かれた看板の前に立った。
「半吉、ここに花魁がいるのか?」
「ここは妓楼じゃねえ。引手茶屋だ。花魁遊びをするには、まず引手茶屋に入らなきゃならねえんだ。引手茶屋に花魁を呼び出し、宴会を開いて待ちながら、やって来た花魁をもてなすって訳だ。妓楼へ行くのはその後だ」
「客なのに花魁を供応せねばならんのか。得心できんな」
「野暮なこと言うんじゃねえよ。吉原にゃ、色々と掟があるんだからよ。さあ、入るぜ」
半吉が店に入ると、いかつい奉公人が出迎えた。何しに来たとでも言いたげな表情だった。
「花魁を呼んでもらいてえんだがよ」
「お前がか?」
奉公人が半笑いで言うので、半吉は編み笠を脱いで後ろに立っていた新之助を指差す。奉公人は品定めするかのように新之助をジロジロ見た。
「眠々斎、金を持ってるか疑ってるようだぜ。懐の金を見せてやれや」
半吉に促されて、新之助は巾着袋を取り出して中を見せた。
奉公人は、小判が詰まっているのを確認すると、「ちょっと待っておくんなせえ」と言って奥に消えて行った。
しばらくして、やって来たのは初老の男だった。
「松屋の主人、宙右衛門でございます」
座礼をした宙右衛門は、新之助の刀を鋭い目つきで見ていたが、上客と判断したしたのか、恵比須顔になった。
「良いお刀でございますね。一見のお客様はお断りしているのですが、特別にお受けいたしましょう。では、お腰の物をお預かりいたします」
「刀を渡さねばならぬのか?」
「決まりでございますから」
「決まりとあれば仕方なし」
新之助が刀を渡すと、宙右衛門は自ら半吉と新之助を座敷に案内した。
「どの花魁をお呼びいたしましょうか?」
宙右衛門に訊かれた新之助は、困り顔になった。
「知っている花魁などいない。任せる」
「芸者衆はいか程お呼びになりますか?」
「全て任せる」
「かしこまりました」
宙右衛門はうやうやしく頭を下げてから出て行った。
半吉と新之助は落ち着かない様子で待つ。しばらくすると、料理が運ばれてきて、芸者達がやって来た。半吉と新之助の隣に一人ずつ芸者が座り、酒を注ぐ。
「半吉、ここの酒は美味いな」
「当たり前でえ。安酒場の酒とは違わあ」
二人の会話を聞いていた芸者は、「魚も美味しゅうございましてよ」と言って刺身を一切れ摘み、新之助に食べさせた。
三味線が鳴り始め、芸者が躍る。次第に宴は盛り上がり、いつの間にか半吉も踊っていた。
「眠々斎、お前も踊らねえか」
新之助は半吉に誘われたが、手を横に振って断った。だが、芸者に煽り立てられ、新之助も踊りに加わった。
「眠々斎、楽しいか?」
「ああ、こんなに楽しいのは久しぶりだ」
二人が上機嫌でいると、花魁の一団が入って来た。座敷が静まる。
花魁は手をついて「妓楼・竜田川から参りました太夫の千波夜でありんす」と挨拶すると、黙って上座に座った。
「ほらほら眠々斎、花魁をもてなさねえか」
半吉に促され、新之助は銚子を持って酒を注ごうとするが、花魁は盃を手に取らない。話し掛けても黙ったままだ。目で半吉に助けを求める。
「祝儀を渡して、早く妓楼へ行こうぜ」
新之助は半吉に言われるままに、花魁の付き人、芸者衆のみならず、茶屋の奉公人にも祝儀を渡し、引手茶屋を出た。
妓楼に戻る花魁道中に半吉と新之助も加わる。見物人らに羨まし気に見られて、半吉は得意気だが、新之助は被る必要がない編み笠を被ったままだった。
妓楼に到着すると、新之助は千波夜太夫の部屋に通され、半吉は別の遊女の部屋に通された。
半吉が部屋に入ると、着飾った遊女が待っていた。唐紅色の着物が、行灯の光を反射して遊女の顔をほんのりと染めている。
「格子の加三代でありんす」
手をついてお辞儀をした加三代が顔を上げた。
(色っぽぺえ。喰らい付きたくなるようないい女だ)
半吉はフラフラと歩み寄り、加三代の手を握る。
「止めておくんなまし。あちきは格子でありんす。初手は顔見せだけでありんす」
加三代に拒否されても、半吉は手を離さない。
初回は顔見せ。裏を返せば、会話ができる。馴染みになって初めて床入り。高級遊女と遊ぶ場合の慣習を、半吉も聞いて、知ってはいた。だが、あと二回通うのはできそうにない。
「そこを曲げて何とか頼む。何でもするからよ」
「なら、あちきの言うことを聞いて欲しいでありんす。離れておくんなまし」
「そりゃねえぜ、」
諦められない半吉は加三代に抱き付いた。加三代は振り払って立ち上がる。
「いいかげんにしな。あたいは格子だよ。切見世女郎と一緒にするな!」
一喝されても、半吉は加三代の脚にすがりつく。その拍子に瓶が倒れて、加三代の着物が水で濡れた。
「安物じゃないんだよ、どうしてくれるんだい。この野暮天が! 一昨日きやがれ!」
加三代が罵声と共に半吉のおでこを蹴飛ばすと、半吉は転がって柱にぶつかってのびてしまった。
朝になって、半吉が起き上がると、部屋には誰もいなかった。額が痛むので、おでこを触るとたん瘤ができていた。
「酷え目に遭ったぜ」
半吉がおでこを押さえながら玄関に降りると、新之助も降りてきた。二人は迎えに来ていた引手茶屋の奉公人に付いて松屋へ向かった。
「半吉、おでこにたん瘤ができているが、何かあったのか?」
「何でもねえ。そんなことよりよ、花魁は良かったか?」
「話し掛けても黙ったままで、ニコリともしない。人形を相手にしてるようだった。馬鹿らしくなって一人で寝た。何が気に食わなかったのかわからないが、余は振られたのだろう」
「初回はそんなもんよ」
二人がそんな会話をしている内に、松屋に着いた。主人の宙右衛門が笑顔で待っていた。
「早速で申し訳ありませんが、お勘定をお願いします」
新之助は懐から巾着袋を取り出し、そのまま宙右衛門に渡した。巾着袋から小判を取り出した宙右衛門の表情が変わった。
「十両足りませんな」
「それで足りぬのか?」
宙右衛門はこれが証拠とばかりに、花魁と格子の揚代、芸者衆の揚代、その他宴会の費用が書き込まれた帳面を見せた。
半吉と新之助が覗き込む。
「眠々斎が祝儀をはずむからよ、足りなくなったんだぜ」
「余のせいにするのか。お主が言ったことに従ったまでだ」
二人の言い争いに、宙右衛門が割って入る。
「まあまあ、それくらいにして。今ここで、足りない分を払っていただなくとも結構ですよ」
新之助はホッとしたようだ。
「それはありがたい。後で家人に代金を持たせて寄こす」
「それはできませんな。付け馬を付けさせていただきます」
「付け馬? それは何だ」
半吉が新之助に教える。
「客の家まで付いて行って、借金を取り立てる奴のことだ」
新之助は慌てた。
「それは困る。屋敷に来られる訳にはいかぬのだ」
宙右衛門から笑みが消え、鬼の形相になった。
「できねえなら、掟通り、桶伏にしやすぜ。吉原は金が全てだ。侍だって容赦しねえ」
「そ、それは勘弁してくれ。桶伏だけは止めてくれ」
青い顔をして懇願する半吉に、新之助が訊く。
「桶伏というのはそんなに酷いことなのか?」
「金を払うまで、逆さにした風呂桶の中に閉じ込められるんだ。顔が出せるほどの穴が開いていて、飯はそこから差し入れられるんだがよ、垂れ流しだ。遊郭の客達に見られて、笑い者にされるんだぜ」
新之助の顔が引きつる。
「知り合いに手紙を書いて金を持って来てもらう。それで手を打ってくれぬか。刀を預けてあるから、逃げはせん」
「わかりやした、桶伏は勘弁しやしょう。その代わり、布団部屋に閉じ込めさせてもらいやすぜ」
宙右衛門は意外とすんなり申し入れを受け入れた。上等な刀なので、売れば足りない分の何倍もなると踏み、取りっぱぐれしないと判断したに違いなかった。
半吉と新之助が布団部屋で寝転がっていると、戸の外から宙右衛門の声がした。
「お武家様、お出ましください。お迎えの方がお越しになりました」
新之助が戸を開けると、宙右衛門が正座して縮こまっていた。先程、「侍だって容赦しねえ」と啖呵を切っていた男とは思えない。
宙右衛門は半吉だけを布団部屋に残し、新之助を恭しく別室に案内した。部屋の前には、若い武士が控えていた。宙右衛門は「若年寄様に、穏便にお取り計らいいただけますよう、お伝えください」と言い、深々とお辞儀をして去って行った。
新之助は、宙右衛門の態度が一変した理由を理解した。宙右衛門は迎えに来た者が若年寄だと知ったのだろう。いくら侍を恐れていないと粋がっていても、相手が若年寄だと分が悪すぎる。
新之助は襖を開ける。初老の男が落ち着かない様子で座っていた。
「沼田、ご苦労」
「おお上様、ご無事で安堵いたしました。しかし、驚きましたぞ。吉原からの使いが、上様の手紙を持参してきたのですから。なぜ、こんなことに?」
「遊び過ぎてな、金が足りなくなった。取り立てのために、借金取りが屋敷まで付いてくると言うではないか。まさか、将軍が借金取りを連れて江戸城に帰る訳にもなるまい。そこで浮かんだのが、沼田、お主だった。お主なら上手く始末を付けるだろうと思ったのだ」
「そういうことなら、上様が借金取りを連れて、当家にお見えになられれば良かったではありませぬか。使いに来た者が、若年寄の屋敷だと知って腰を抜かしておりましたぞ」
「腰を抜かしたか、ワッハッハ」
「笑ってる場合ではありませぬぞ。城では、『上様がいない』と騒ぎになっているに違いませぬ。皆が困っていますぞ!」
沼田の口はへの字に曲がっていた。
「許せ、一度自由に町場を歩いてみたかったのだ。昨日、影武者が春日明神へ参拝に行ったであろう。余が本丸御殿に居て誰かに見られたら、影武者を立てた意味がなくなると思ってな、姿を変えて茶室に隠れていたのだが、ふと『誰にも止められずに城外に出られるのではないか』という考えが頭をよぎった。試してみたら、労せず出られたのだ」
「上様が、城中ばかりに居ては息が詰まると思し召すのも、わからぬではありませぬ。しかし、外泊することはないではありませぬか」
「余も直ぐ戻ろうとは思っていたのだ。ところが、影武者になった眠々斎という男に間違えられてな、新之助という偽名を名乗ったが、知らない振りをしていると思われた。だから、戯れにその男の振りをしたら、かような仕儀になったという訳だ」
将軍は町場で半吉に出会った後のことを詳しく沼田に話して聞かせた。沼田は頭を抱えた。
「上様、長居は無用にございます。勘定を済ませ、帰城いたしましょう」
沼田は襖の外に控えている武士に声を掛け、宙右衛門を呼ばせに行かせた。
宙右衛門の後ろに続いて、半吉が入って来た。
「お前は、甲州屋にいた魚屋! お前だったのか、たぶらかしたのは」
沼田が声を上げると、半吉も応じる。
「その声は! あん時の役人じゃねえか。たぶらかしたなんて言われちゃあ、たまらねえや。眠々斎、何か言ってやれ」
「この方は眠々斎ではない。魚屋の分際で気安く声を掛けるな」
沼田が思わず言った言葉に、半吉は引っ掛かった。
「眠々斎じゃねえって、どういうこった」
口を開きかけた沼田を制し、将軍が話し出す。
「余は眠々斎ではない。眠々斎の腹違いの兄なのだ。お主が眠々斎と思い込んでおるから、戯れに義弟の振りをしたのだ。騙して済まない」
「そういうことかい。でも、謝ることはねえ。そのお陰で楽しい思いができたんだからよ」
半吉は笑った。将軍も笑った。
二人が笑い合っている中、宙右衛門が申し訳なさそうに言う。
「お勘定を済ませていただけないでしょうか」
「忘れておった。沼田、払ってやれ」
沼田が小判を数えて宙右衛門に渡す。
「一両足りませんが」
「そこの魚屋に、居酒屋の飲食代として一両貸してある。残りの一両はその男からもらえ。異議は認めぬぞ」
沼田に厳しく言われ、宙右衛門は「へい」と返事をすると、半吉を引きずって出て行った。
しばらくして、将軍一行が引手茶屋の玄関を出ると、風呂桶が逆さにして置いてあった。半吉が穴から顔を出す。
「眠々斎の兄さん、頼む。あと一両払ってくれ」
「できぬな。居酒屋の代金は半吉の奢りではないか。一両は自分で払うんだな」
「昔のことは忘れたと言ってたじゃねえか。アッシが『奢ってやる』って言ったのも忘れてくれ」
将軍は半吉の声を背中で聞き、笑いながら去って行った。
<終わり>
吉原遊廓は元々日本橋近く(現・人形町)にありましたが、明暦の大火後、浅草の田園地帯(現・千束四丁目)に移転しました。移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼びます。
新吉原の敷地は長方形で、南北約260メートル、東西約350メートルの塀で囲まれていました。敷地面積を東京ドームと比べると、東京ドーム二つ分ほどになります。塀の外側には遊郭を囲む「お歯黒どぶ」と呼ばれた堀があり、塀の内側は六つの区画に分けられていました。それぞれ江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町、京町一丁目、京町二丁目との地名が付けられていたそうです。後に町割りが若干変わり、伏見町などが加わっています。
新吉原へは、日本堤と呼ばれた堤防上を通りました。途中から、脇道にそれて吉原の出入り口である大門へ向かうのですが、この脇道の坂を衣紋坂と言います。衣紋坂は五十間(九十メートルほど)ありました。坂の両側には、茶店が立ち並んでいたそうです。ちなみに、客はこの坂で衣紋、つまり装束を整えたことから衣紋坂と名付けられたとのことです。
吉原の遊女にはランクがあり、時代と共に変遷しました。初めは「太夫」、「端女郎」の二つだけで、花魁との呼び名はありませんでした。ランクが「太夫」、「格子」、「局」、「端女郎」、「切見世女郎」の五つになると、太夫が花魁と呼ばれます。太夫、格子は気位が高く、客を振ることもあったために廃れ、ランクが「散茶女郎」、「端女郎」、「切見世女郎」に変化すると、散茶女郎が花魁と呼ばれました。散茶女郎内も細分化し、「呼出」、「昼三」、「付廻し」などに分かれました。
新吉原の妓楼にも格があり、「大見世」、「中見世」、「小見世」などに分かれていました。
遊郭の客は妓楼の張見世(道に面した格子の中で待機している遊女)を選んだり、知っている遊女であれば直接指名しました。
他の方法としては引手茶屋を利用する方法もありました。引手茶屋にどんな遊びがしたいか伝えれば、引手茶屋が全てを手配してくれました。加えて、引手茶屋が遊女、芸者、料理など遊びに掛かった費用全てを立て替え払いもしてくれたのです。手持ちの現金が無くとも遊べました。ですから、踏み倒されたら、引手茶屋は丸損です。
引手茶屋は客の身元保証人のようなものでした。客が妓楼で問題を起こしたり、手配人だった場合は、引手茶屋が責任を取らされたのです。
リスクの高い商売ですので、引手茶屋は客を吟味しました。原則的に一見さんは断っていたようです。
花魁遊びは時代と共に変遷しました。最初の頃は、引手茶屋が花魁を手配し、客は揚屋で宴会を開いてから妓楼に行くシステムでした。時代が下るにつれ、引手茶屋が揚屋を兼ねるようになり、引手茶屋から妓楼に行くシステムに簡素化したそうです。
宴席を設けるのは、花魁を待つ間の時間潰しでもありましたが、花魁をもてなすためでもありました。ただ、初回の宴席では、花魁は料理に手を付けずほとんど喋りません。二回目は食事をしたり、笑顔を見せたりしたと伝わっています。
花魁は客を迎えに行くために、妓楼と引手茶屋や揚屋の間を往復しました。この道程を花魁道中と言います。花魁道中には、禿(遊女見習の童女)や新造(新米の遊女)、下男が付き従いました。華やかな行列ですので、人々の注目を浴びることになり、同伴した客は鼻が高かったそうです。花魁道中は妓楼の大事な営業活動だったのでしょう。
妓楼では、客は花魁と一緒の時間を過ごすのですが、直ぐに床入できた訳ではありません。初回は会うだけです。二回目は「裏を返す」といって、花魁は少し親しく接しますが、床入はありません。三回目になると「馴染み」になり、花魁は積極的になります。ここで初めて床入りとなります。一般にこのような慣習があったと言われていますが、資料的裏付けは無く、伝説のようなものらしいです。初回から床入する花魁を書いた洒落本や春画があるのだとか。そのような手練手管を使う花魁がいたというだけかもしれません。今風に言うなら「ツンデレ」ですね。
遊郭で支払いができなければ、逆さにした風呂桶に閉じ込められました。これを桶伏と言います。食事は与えられますが、便所に行けないので垂れ流しです。代金が届けられるまで出られなかったそうです。長くても一週間ほどだったらしいですが、過酷なので禁止になったそうです。