路上のトランク
午後の熱気が濃く残る、夏の宵。
彼は、疲れた足取りで自宅の最寄り駅の改札を出ると、大きく息をついてネクタイを外した。
自宅まで十分強、歩かなくてはならない。
いつものことだが、今日は特にそれがだるかった。
彼はいわゆる『就活生』。
今日は二社、面接を受けた。
手ごたえはない。
世間では、近年は売り手市場だとか何だとか言われているが、彼自身の感触としてはとてもそんな感じはしない。
大体、自分でも自分が一般企業に就職出来るとは思えない。
『会社』という組織の中でバリバリ働く自分など、彼は未だに想像出来ずにいる。
あからさまに言うのなら、『会社』へ入って仕事を通じてやりたいことも実現したいことも、特にない。
一応それらしいことを面接官の前で言ってきたが、自分で自分の言葉を信じられないのが本音だ。
こんな綺麗事よく言うなぁ、とさえ思う。
自分で信じていない言葉が、相手の心に響くとは思えない。
苦笑いをしながら、彼は外したネクタイを丸めて胸ポケットへ入れた。
久しぶりに、浴びるようにビールでも飲みたい気分だった。
角を曲がり、自宅近くの四ツ辻まで来た瞬間。
彼はギクリと足を止めた。
辻の真ん中に、ポツンとトランクがあった。
古い時代の洋画にでも出てきそうな、ところどころ色褪せた古めかしい、でもそこが何とも言えない味になっているトランク。
暑さの為でない汗が全身を濡らす。
つうっと一筋、背骨にそって冷たい汗が流れ落ちるのを、どこか他人事のように感じながら彼は、その奇妙なトランクを凝視した。
そもそも彼は大学卒業後、就職するつもりではなかった。
院へ進んで研究を続けたいと思っていたし、両親もその道を応援してくれていた。
しかし残念ながら、その夢は諦めなくてはならなくなった。
経済的な事情が出来、就職して自活するしか道がなくなったのだ。
彼は遅ればせながら紳士服の量販店で安いスーツを買い、のたのたと『就活』を始めた。
『就活』ではなく『終活』ではないかと、笑えないブラックジョークがちょくちょく頭に浮かぶ。
が、『就活』だろうが『終活』だろうが彼には続けるしか道はない。
去年の秋、木枯らしの吹く頃に突然、両親……つまり『保護者』がいなくなったのだから。
二十歳を越した大人の男に『保護者』もないが、学生を続けるなら当然学費がかかる。
学費だけならばまだしも、生活費まで自分でまかないながら学び続けるのは、現実問題として不可能だった。
何故両親が突然失踪したのか、彼にはまったくわからない。
失踪と言うよりも、誘拐とか拉致……事件性のある話ではないかと思うし、事件性はないとされた今でも、彼個人としてはそう思わなくもない。
父は勤め先からいつも通りに帰宅した姿を確認されているし、最寄り駅の防犯カメラにも、改札を通る姿が映っていた。
母はパートタイムの勤めを終え、スーパーで夕食用の食材を買っている姿が確認されている。
二人ともいなくなる直前まで、本当に普段通りに暮らしていた。
父は翌日の飲み会に参加すると言っていたそうだし、母は母で、ベランダに干した洗濯物すら取り込んでいなかった。
警察も当初は、あまりにも不審な点が多すぎる『失踪事件』を熱心に捜査してくれたが、三ヶ月も経つ頃には投げやりになった。
事件性をうかがわせるものが一切見つからなかったからだ。
ただ不思議なのは、二人の携帯電話の位置情報が自宅付近のとある地点でかき消えるようになくなっていたことだった。
自宅付近の四ツ辻。
二人の位置情報は、そこで断ち切られたように唐突になくなっている。
原因は不明で、未だに不明なままだ。
この四ツ辻にはもしかして、磁場が乱れ易いなど特殊な事情があるのだろうかという都市伝説めいた推測すら出て調査したが、当然そんな結果は出なかった。
位置情報を信じるのなら、どうやらふたりはその地点で、文字通り蒸発するように消えたことになるが……常識的に言って『そんな訳はない』し『あり得ない』。
異星人に拉致されたのかなどと、更にあやしい都市伝説風の推測すら半笑いの捜査官の口からちょいちょい出て、大人しい彼もさすがに、殴ってやろうかと思うくらい腹が立った。
いなくなったのが小さい子供や若い女性なら、警察ももっと深刻にとらえて捜査したかもしれないし、世間も騒いだかもしれない。
しかし五十がらみの夫婦が成人に達した子供を置いて失踪した程度では、要するに家出ではないかと思われ、深刻に捉えてくれないのが実情だ。
当初は彼もかなり混乱したし、ろくに食事も摂れないほど心配した。
しかし半年ほど経つと、嫌でも現実と向き合わねばならなくなる。
暮らしてゆくには金が要るという当たり前の事を、彼は痛いほど知った。
不幸中の幸いは自宅のローンが終わっていたことだったが、水道光熱費や通信費、食費……ヒト一人ただ生きているだけでこんなにたくさん金が出て行くものなのかと、むしろ彼は感心した。
卒業までは何とかなるだろうが、その後も安穏と学生でいられるほどの蓄えはない、のも知る。
祖父母もそれぞれ八十歳前後と高齢で、自分たちが暮らしてゆくだけで手いっぱいだ。頼るなど考えられない。
縁起でもない話だが、いっそ両親は死んだとはっきりした方が、まだしも経済的に安定するかもしれないと彼は思った。
さほど多くないが生命保険の保険金も出るし、自宅を処分して安いアパートへ引っ越すことも可能だ。
そんなことを頭の隅で考えているのに気付き、彼は自己嫌悪に陥る。
こんな薄情な息子だから両親に見放されたのだろうか、などと感傷的な自己憐憫に浸りかけ、更に嫌になる。
年が明け、新学年が始まる頃にはさすがに彼も腹をくくった。
いつまでも自分の不幸を嘆き、結論を先延ばしにしてもいられない。
大学はちゃんと卒業するが、その後の院への進学はあきらめ、就職する。
……それしか道はない、とも言えるのだが。
彼は今、宵の薄闇の中、路上に意味ありげに放置されているトランクを凝視している。
心臓がバクバクうるさく鳴っている。
喉が痛いくらいひりつく。
この奇妙なトランクを見たのは初めてではない。
あの日……両親が消えたあの日の宵にも、彼は見た。
大学からの帰宅中だった。
冷たい風に首をすぼめ、彼は歩いていた。
資料や教科書をパンパンに詰め込んだリュックサックが、冷えた肩にズシッと食い込んで痛かったことを、何故か生々しく覚えている。
いつも通りに角を曲がり、彼は、たたらを踏むように立ち止まった。
辻の真ん中に、古めかしいトランクが二つ、意味ありげに放置されていた。
彼は思わず辺りを見回した。
たとえば、旅行へ行こうとトランクに荷物を詰めて出て来たもののうっかり戸締りをし忘れ、道にトランクを置いたまま家へ駆け戻った……とでもいう雰囲気に見えた。
ずいぶん不用心でそそっかしい話だが、この辺は人通りもそう多くない住宅地、そういうこともあり得る気はする。きっとすぐにトランクの持ち主が、息せき切って現れるだろうと彼はぼんやり思った。
予想はそう間違っていなかった。
ほどなく軽い足音が複数、近付いてきたから。
「……へ?」
しかし、そこで思わず間の抜けた声が漏れる。
彼から見て右側から男が一人、左側から女が一人、軽やかな足取りで現われたのだが……それは、彼の両親だった。
いや、両親……だと思う。
実際彼らが身に着けているのは、いつもの、ややくたびれたスーツや普段着だった。が、当の本人たちが信じられないくらい若々しく晴れやかな顔をしていたので、彼は一瞬、自分の両親だとは思えなかった。
二人は辻の真ん中まで来ると立ち止まる。
目が合うと美しくほほ笑み合い、それぞれにトランクを手に取ると、軽く手を振りあって左右に分かれた。
清々しいまでに綺麗な別離の場面。
茫然と彼はそれを見ていた。
実力派の役者たちが演じる、素晴らしい芝居の一場面を見ている気分で。
不意に冷たい風が吹いた。
彼ははっと我に返る。
辻には宵の薄闇がくぐもっているだけで、他に何もなかった。
彼は強く頭をひとつ振り、唇を引き結んで歩き始めた。
訳のわからない幻覚を見た、ここしばらく資料の細かい読み込みを続けているせいで疲れているのだと、彼は強いて思い込む。
自宅に着いた。
いつもならあたたかく灯っている玄関がその日、黒い闇に沈んでいた。
結論を言うのなら、以来、両親は消えた。
もちろん彼はその日、何度もそれぞれの携帯電話へ電話を掛けたがつながらなかった。
まんじりともせずに一晩待ち、彼は警察へ捜索願を出した。
だけどあの芝居の一場面にも似た幻覚……幻覚でないのならアレを何と呼ぶべきか彼にはわからない……については話さなかった。
彼とてアレが現実だったと言い切れないし、言ったところでこちらの頭の中身を疑われるだけだ。
彼としては、現実に消えた両親を警察という現実の組織が探し出し、見付けて欲しかった。
たとえ……死体だったとしても。
無意識で額の汗を、彼はスーツの袖でぬぐう。
この四つ辻に、このトランク。
幻覚であれ何であれ、嫌な予感しかない。
後ろからコツコツと、軽い足音が響いてくる。
振り向くことすら出来ず、彼は息を止めて硬直していた。
紺色の人影が彼の横をすり抜ける。
どこかで見た気がする若い男だった。
不思議な懐かしさと強烈な違和感。
彼は男の背中を凝視する。
男はトランクに手を伸ばす一瞬前、ふと思い出したように振り返った。
「……へ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
男の顔は……彼自身の顔だった。
彼の顔をした男は呆気にとられるほど明るい、爽やかな笑顔をこちらへ向けた。
そして軽々とトランクを持ち上げ、颯爽と歩き始めた。
「……おい!」
一瞬後彼は、自分の顔をしたおかしな男へ声をかけていた。
猛然と腹が立った。
なんだ、その悩みがひとつもなさそうな顔は!
俺は……俺は……お前のせいで……。
「待て!待てよお前、何処へ行くつもりだ!」
頭からつま先までが怒りで満たされた。
両親が消えて以来のあらゆる不幸、挫折、理不尽は、目の前を颯爽と歩く男のせいだ。
理屈はわからないが、本能的にそうだとわかる。
彼はアスファルトを蹴って男に走り寄り、その肩を乱暴につかんだ。
そして彼は消えた。
辻には宵の闇がただ、静かにくぐもっていた。